2009.03.01.

 

使徒行伝講解説教 第138

 

――25:13-27によって――

 

 前回学んだのは、総督フェストがパウロに対するユダヤ教の中心勢力の告訴と、パウロの弁明を聞いて、これはユダヤ人の論法に巻き込まれないで、ローマの法律によって裁判すべきであると判断した経過である。今日読む13節以下の記事においても同じことが扱われている。前回のおさらいが、14節以下に、フェストによるアグリッパへの説明という形で纏められる。ただし、問題の難しさがフェストには以前より良く見えて来たらしい。
 前回と同じことを繰り返すとしても、同じ事を扱い、同じ論法で考えるのであるが、扱うのは別人だというところにある。今回はアグリッパ王が関わって来る。さらに、ここで決定権は持たないが、アグリッパの妹であるベルニケという女性が加わっている。
 アグリッパ「王」と記されているのは、ヘロデ・アグリッパ二世である。ベツレヘムの嬰児虐殺を命じたヘロデ大王の曾孫である。次に、使徒行伝12章には、ヘロデ王による教会迫害が記され、ヨハネの兄弟ヤコブが剣で殺され、ヘロデはさらにペテロをも殺そうとして、過ぎ越しの祭りの前に、逮捕して、投獄し、祭りが明けてから殺すことに決めていたが、ペテロは御使いによって脱獄したことが記されていた。その後、ヘロデ王は虫に噛まれて、息絶えた記事が続く。ここに語られている「ヘロデ王」はヘロデ・アグリッパ一世である。我々が今日25章で見るアグリッパ二世はその子である。教会迫害者の家系に属する人であるということは、ここでは考えても殆ど意味がないと見ておこう。
 アグリッパは幼い時からユダヤを離れてローマで教育を受け、その後もローマに長年留まった。ローマ皇帝になった人たちとも親しかったようである。ヘロデ家がそういう方針で育てたから、ユダヤ人とは別の生き方、考え方を身に着けていた。ローマ的なものを重要視する。やがてユダヤ人が結束してローマに反抗して戦って全滅した時、アグリッパはローマ側についたから生き残った。彼については王と特に書かれているから我々も王として読んで行く。ローマ皇帝は、若いアグリッパに王という称号を与えなかったが、やがてそれを得た。
 ベルニケについても説明が必要である。彼女についてはいろいろなことが分かっている。だが、それらを綜合しても彼女の人物像が描けない。結婚して子供を二人産んだが、夫が死んだ後、兄アグリッパの家に住むことになり、兄と妹は親密であった。その後の結婚歴も分かっているが、詳しく語っても、意味があるとは思われない。一つ知りたいのは、彼女にはパウロの話に興味があったらしいのだが、なぜキリスト教に興味を持ったのか。そこが分からない。
 このベルニケは、先にペリクスのユダヤ人の妻と書かれていたドルシラの姉である。この二人ともキリスト教の関心を持った点、またその生活の複雑で奇妙な点が似ているが、どうして似ているのか良く分からない。――全く別の話であるが、キリスト伝説の一つに、ヴェロニカという女性が十字架を負ってゴルゴタへの道を行かれる主イエスにハンカチーフを差し出して汗を拭わせたところ、そのハンカチーフにキリストの御顔が残ったという作り話がある。事実の裏付けのない空想話しであるが、ヴェロニカはベルニケのローマ式の呼び名である。ベルニケも作り話の種になれたかも知れない。
 13節は、アグリッパがフェストに敬意を表するために来たと言うが、総督フェストの方が地位が上なのであろうか。そうではないが、王は独立国の王ではなく、ローマ皇帝によって王にして貰っただけであるから、地位は安定していない。だから、ローマから派遣された総督との関係を円満に保とうとしたのであろうと思う。フェストもアグリッパを立てている。
 フェストがパウロのことをアグリッパに話したのは、二度に亙っている。第一回は14節から21節までに書かれた言葉である。第二回目は翌日のことで、翌日、別の行事の中でパウロについて論じている。24節から27節に亙って述べていることである。
 この裁判が厄介な問題であるから、フェストはアグリッパと語り合って解決の方向を見出して置こうと考えたのであろう。厄介というのは、先ずユダヤ人を相手にしなければならないという点である。フェストがイエス・キリストの裁判について聞いていたかどうかは分からないが、あの時、ユダヤ人は自分たちの訴えを何としてでも通そうとして全く強引であったことを我々は知っている。ユダヤ人にそういう性格があることにフェストも気付いていたと思われる。
 問題そのものはフェストに十分飲み込めなかったようである。ユダヤ人の訴えとパウロの弁明とを聞いた。パウロの弁明は良くわかった。だが、ユダヤ人がパウロを訴える理由は飲み込めない。
 そこでフェストは、これまで得たユダヤ教についての知識を動員して、ユダヤ人らがパウロを攻撃する理由を推定したであろう。そこで、パウロの信仰が一般のユダヤ人の信仰から懸け離れていて、ユダヤ人の宗教としては異端として扱われるもので、それ故に殺さなければならないとされているらしいと考えたのであろう。そして、さらにその要点は、ユダヤ人にとって信じられないことであるが、イエス・キリストが殺されて後甦ったとパウロが信じ、それが彼らの信仰の最大要点になっており、これを巡ってユダヤ人が分裂したということらしいと推測した。しかし、ユダヤの宗教の問題について、自分たちには判断が出来かねる、とアグリッパの同意を求めるようである。
 もう一つの難問は、25章の記事にはないが、2225節で出ていたことで、これもまだ未解決のままになっている。それはパウロが生まれた時からローマ市民権を持っているのに、裁判に掛けないで鞭打ちの刑を受けたことについて、釈明を求めたことである。前任者が放置して置いた問題を、自分が解決しなければならないのは苦労だと同情を求めたと思われる。
 さらに、翌日付け足して言われたことだが、パウロが自分はカイザルの法廷で裁かれるべきであるから、エルサレムに行って裁判を受けることは拒否すると明言し、フェストはそれに同意したのであるが、パウロをローマに送るについては、その手続きが必要であると証明する書類がなければならない。それが難しいということを26節で言っている。その証明の書類は今日のパウロの発言を纏めればよいと考えたようである。
 アグリッパはフェストの話しを聞いて、彼にはこの問題に関与する責任はないのであるが、個人として興味を感じ、自分も直接にパウロの話を聞いて見たいと思った。アグリッパは王であるとはいえ、ユダヤ地方を治めるだけの権限しかなく、キリキヤ人のパウロは管轄外の人になるから、裁くことは出来ない。が、ユダヤの領内の問題について関与は出来たと思われる。
 思い起こして良いのは、ルカ福音書の受難記事で、主イエスの裁判が、先ずユダヤ人の議会による裁判、次にピラトによる裁判、しかしピラトは主イエスがガリラヤ人であると知ったので、丁度ガリラヤの国主ヘロデ・アンテパスがエルサレム滞在中であったから、ヘロデのところに送って裁判させ、自分は裁判をする責任を逃れようとしたことである。あの時、主イエスはヘロデが何を聞いてもお答えにならなかったので、ヘロデは主イエスをもう一度ピラトのもとに返した。この時のヘロデは王ではないが、王に準ずるものと看做され、領民裁判をすることが出来た。アグリッパの場合、王であるからユダヤ人パウロの裁判、またパウロがエルサレムに来ていた時に起こった騒動についての裁判であるから、これを扱って良いと思われたのであろう。
 また、26章を見れば、パウロ自身、アグリッパを王として扱い、法廷における弁明として語っているのだから、アグリッパによって裁かれていると受け取っており、それに不服はなかったらしいと見られる。なお、アグリッパはエルサレムの大祭司の服装について高圧的な指示を与えたことが歴史の書にある。
 23節からの、翌日パウロが登場する場面に移ろう。ここで今日の学びの核心に入る。
 前日、アグリッパとベルニケがフェストを訪ねたのは、新しく着任した総督への表敬訪問であった。今日は王としてカイザリヤを訪問した公的行事で、儀式的な事が執り行われた。「引見所」と訳されているのは謁見の宮殿のようなものであって、そこまできらびやかな行列を整えて行進したのであろう。カイザリヤの町の人々が引見所に集まっていて、そこにアグリッパの行列が繰り込んで市民と対面するという形の式典が行なわれた。カイザリヤはカイザルの支配の威光を示す町であるから、アグリッパの謁見式はローマ風の式典であった。この町には千卒長の率いる軍隊、すなわち、コホルス隊という部隊が五つ駐留していたというから、千卒長は5人揃ってアグリッパの行進に随行したのであろう。町の代表的市民も行列に加わった。
 したがって、これは法廷を開いたということではない。会合自体はアグリッパの謁見式である。そこにパウロがフェストによって呼び入れられた。しかし、この日の行事の中心は26章に記されているパウロの弁明である。「弁明」と呼ばれるのはこれが裁判であるという意味を表している。しかし、パウロの話は弁明と言えなくないが、むしろ説教であった。
 一体、この日の会合は何だったのか。それは26章に入って読み進むうちにハッキリするが、実質を言えば、パウロの説教のためにあった。それはアグリッパによって「お前自身のことを話して良い」と言われて、公けに語った説教なのである。かなり詳しく記録されている。その説教の聴衆は大部分ローマ人ないしギリシャ人である。ユダヤ人もいたであろうが、カイザリヤ市民としてのユダヤ人である。
 カイザリヤでは1024節以下で聞いたように、ペテロによる伝道が始まった。ユダヤ人による伝道であるが異邦人教会の建設である。218節で見た通り、パウロは船でこの港に着いて上陸し、この町のキリスト者と会っている。エルサレムに上る時、カイザリヤの教会の兄弟たちが数人同行した。この教会は異邦人教会の性格を持つ教会である。
 パウロはエルサレムで監禁され、カイザリヤに運ばれて、獄中に置かれたが、比較的よい待遇を受け、外に出て活動することは出来なかったけれども、人が訪ねて来ることは許され、外部との連絡に支障はなかった。この時期ルカが演じた役割が大きかったと思われる。この日の引見所における会合にカイザリヤ教会から何人かは参加している。この日の説教の記録は、そのようにして聞いた人の記憶をもとに、ルカによって纏めたものである。
 さて、24節に戻る。この場にパウロが引き出されて、フェストによって接見の全員に紹介されている。これは一体何なのか。フェストは何を考えて事をこのように運んだのであろうか。前日の話しでは、アグリッパがパウロに直接聞いて見たいと言ったことからこうなったのであるが、アグリッパの求めたのは、24章の24節でペリクスとドルシラがしたような、せいぜい事情聴取であったはずだ。
 それがこのような大がかりな、全ての人が聞くものになったのは、よく分からないが、思いも寄らずこのようになってしまったという奇跡ではない。この日アグリッパが謁見式をすることは行事予定に入れられていた。フェストとアグリッパはその日程を忘れていたということはあるとしても、役所の日程表には書かれていた。こういうことになるのをフェストもアグリッパも知っていたと見るほかない。彼らがカイザリヤにおけるパウロの説教を多くの人が聞く、そういう行事を意識し、予定して企画したとは言えないであろう。むしろ、我々はここに神の摂理が働いたということの確認に留めるべきであろう。とにかく、パウロの伝道の生涯における大きい出来事であった。
 この出来事はどういう意味を持つのか。これまでズッとユダヤ人がパウロ暗殺を企て、その機会を作るためにカイザリヤからエルサレムまで連れて来させ、途中で拉致して殺すことに決め、エルサレムに連れて来る理由として、エルサレム議会、あるいは一歩譲ってエルサレムにおける総督の裁判を考えていた。この考えは2年も経つ間にいよいよ悪質になって、パウロを異端者として裁いて殺すという方向に進んで行った。ユダヤ人内部の事件としてエルサレムで行われ、事件はユダヤ人内部のことで終わった。ところが、カイザリヤにおけるパウロの説教は、ユダヤ人のたくらみを断ち切る結果を生んだ。ユダヤ的な特殊な問題として限定されて終わるのでなく、市民的・公共的な場に持ち出された。信じない人も多くいるが、公共の場である。
 すなわち、事柄が大勢の人の前にさらけ出されて、パウロを暗殺することは出来なくなった。ユダヤ人は引き下がるほかないことになった。そして、パウロはローマに送られることになる。パウロの今度の説教で、信仰に入った人がいたかどうか、それは分からないが、少なくとも聞いた人は、信じていなくても、26章の31節に書かれている通り、「あの人は、死や投獄に当たるようなことはしていない」と得心したのである

 


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