2009.02.15.

 

使徒行伝講解説教 第137

 

――25:1-12によって――

 

 

 ポルキオ・フェストという総督は、使徒行伝と前に一度触れたことのあるヨセフスの「ユダヤ古代史」の2つの書にしか名を残していない人物である。すなわち、ローマの歴史では殆ど知られていない。しかし前任者ペリクスと対照的ともいうべき勤勉で実直、そして道理の分かる役人である。前任者が放置していたパウロの問題を解決した。

 彼はカイザリヤに着任して3日の後にはエルサレムに上って、エルサレムで滞っていた前任者の仕事を片付け始めた。これは彼の勤勉を表している。彼の最初のエルサレム訪問を大祭司やユダヤ議会の中心的人物は聞きつけて早速彼の役所に押し掛け、パウロをエルサレム議会で裁かせる手続きを続行するようにと執拗に要請する。これは、裁判に来る途中で拉致し、暗殺するという計画の一部である。

 この「暗殺」をペリクスでさえ受け入れなかった。千卒長ルシヤはパウロの生命の保護が大事だと信じて、パウロの身柄を急遽カイザリヤに移送した。フェストはどうしたか。エルサレムでユダヤ人の訴えを受けた時、彼はパウロの事件が未解決だということは知っていたが、訴訟の内容についてはまだキチンと捉えていなかったようである。暗殺計画については聞いていたのではないかと思うが、とにかく、ユダヤ人の要求通りには事を運ばない。カイザリヤに戻れば直ぐパウロから事情を聞く予定にしているから、ユダヤ人が要求したとしても、先ず自分が調べることにきめてあると答えた。

 フェストは、パウロを訴えることがあるなら、ユダヤ議会の代表者が私と一緒にカイザリヤに行って、カイザリヤの法廷に訴えるが良いと答えた。フェストの言い分は正しいから、ユダヤ人は逆らうことが出来ず、代表者がカイザリヤに下ってフェストの法廷で訴え、エルサレム議会での裁判を行なわせるべく弁論を進めるようにした。

 パウロの暗殺が阻止されたことを先ず見て置く。パウロがコリントを発ってエルサレムに行こうとした時以来、実行の中心人物は次々入れ替わったが、暗殺計画は持続している。暗殺というものは誰が実行したかは分からない。分かったとしても、それは結局、群衆あるいは暴徒の仕業とされ、犯人が特定され、処刑されたとしても、悪の根を断つことにはならない。無名の悪人が切り捨てられても根は残っている。

 この暗殺は重要な問題とは言えないと思う。だから我々の間では大騒ぎしないし、それに対する防衛策も講じない。しかし賢く・注意深くこの危険を避けるべきである。主イエスも受難週は日中は群衆の前で説教されたが、夜のうちに暗殺されることのないよう、夕方になればオリブ山の人の知らない一画に退かれた。暗殺に対抗することを考えるならば、武器を携えることになるが、それはいけない。ただ避けるだけである。

 神の御心なしには一羽の小鳥も地に落ちることはないと教えられている。神の摂理に無知であってはならない。そして神の摂理は我々の無責任や不注意を是認するものではない。パウロがここまで暗殺されずに守られたのは摂理があり、その摂理はルシヤや、ペリクスや、フェストというローマの官憲を用いて働いたからである。この人たちを神の御使いのように崇めるのは行き過ぎだが、彼らの職務によってパウロが暗殺から守られたことは知らなければならない。治安が守られるということを軽視してはならない。

 イエス・キリストが暗殺を避けておられたのは、死すべき時に死ぬためである。偶然に殺されたのではない。我々も殺されることを恐れない、と単純に割り切るのでなく、死ななくてよい時に殺されることにならないように、神の摂理の保護のもとに思慮深く歩む。そして、この世では良民を保護する役割を持つ為政者の職務を重視する。

 このことに関し、もう二点触れて置かねばならない。一つは無名の暴徒による暗殺でなく、王や長官また権威を持つ議会の名による処刑についてである。裁判なしの暗殺と処刑は違う。犯罪なしに、ただ信ずることが裁かれて処刑されるなら、理不尽であるが、それは主の名を言い表す機会になると主イエスは教えたもう。暗殺の犠牲者は同情を買うことにはなるとしても証しにはならない。この区別が分からなくてはならない。

 もう一点は地上の国を統治する者には罪なき者を保護し、あるいは治安を守る義務があることである。統治する者は武力を持っていて、その武力を用いて欲望を満たす、という理解が昔から持たれている。その種の実例が多いからそういう理解が生まれたのは当然だが、そのような統治者、支配者、権力者が結局は必ず滅びるということも全く確かである。だから、よく観察すれば権力というものは本来過ちを是正し、悪しき暴力を抑制して治安を保つためにある。本来の道を踏み外す場合を本来と見てはならない。

 ローマ帝国はキリスト教を迫害し、多くの殉教者を殺したから、悪しき権力だという理解がかなり広がっている。それには当たっている面がある。しかし、ローマ帝国が平和を守ろうとしており、ある程度それを達成したことは認めなければならない。

 フェストの職務を見る時、彼が一応よい支配を行なっていたことを認めなければ、使徒行伝のこの所を正しくは読めなくなる。

 さて、今日学ぶ大事なことは6節以下である。「フェストは彼らの間に8日か10日ほど滞在した後、カイザリヤに下って行き、その翌日、裁判の席についてパウロを引き出すように命じた」。法廷が開かれた。フェストが裁判長である。ほかに12節にあるように陪席の裁判官もいた。原告は7節にある通り、エルサレムから下って来たユダヤ人である。彼らは様々のパウロの罪状を述べ立てた。それに対して裁判長から証拠の提出が求められたと見られる。そして、7節にあるように、どの事項についても証拠を添えることは出来なかった。つまり、証人がいなかった。だから、彼らの告発は成り立たないことになる。それは正規の法廷で明らかになったはずである。

 主イエスがユダヤの議会で裁判を受けたもうた記事を思い起こす人は多いであろう。マルコ伝1455節にこう書いてある。「祭司長と全議会とは、イエスを死刑にするために、イエスに不利な証拠を見つけようとしたが、得られなかった。多くの者がイエスに対して偽証を立てたが、その証拠が合わなかったからである」。ここでは主イエスの裁判を思い起こさせることが次々ある。大祭司の裁判とピラトの裁判の二重の裁判。

 次に被告パウロが弁明する。「私はユダヤ人の律法に対しても、宮に対しても、またカイザルに対しても、何ら罪を犯したことはない」。これで弁明は尽きていると言って良い。フェストにもそのことは分かったはずである。ユダヤ人の起こした裁判はここで実質的には決着がついた。裁判の実質について言うならば、ここからはパウロの起こした裁判だと見るべきであろう。そのことは後で見るとして、パウロが、「ユダヤ人の律法にも、宮に対しても、カイザルに対しても、何ら罪を犯していない」と明言したことは、多分説明なしで分かるであろう。

 パウロは三つの側面から自分に罪があるかどうかを論じる。先ず「ユダヤ人の律法」に対して罪を犯していない。これは神の律法に対して何の罪も犯していないという意味ではない。ローマ書319節の言うように、「すべて律法の言うところは、律法のもとにある者に対して語られている。それは、すべての口が塞がれ、全世界が神の裁きに服するためである」。神の律法の前に万人に罪があることは明らかである。しかし、神の律法とユダヤ人の律法は違う。

 ユダヤ人の律法とは、ユダヤ人によって運営されている律法という意味である。法自体は旧約聖書の律法だが、それは本来の律法とは違っているという含みで言っている。疑問を持つ人がいるかも知れない。神の律法はモーセによって公布され、モーセはこれを用いて民を裁いた。そのように神の与えたもうた律法は、人間によって運営されるのは当然ではないか。今ではエルサレムの議会が、負わせられた職務として裁判を執行するのではないか。――パウロはそれは違うと言う。露骨に言い換えれば、ユダヤ人たちは律法を私物化して、それを神の定めとしているではないか、と言う。律法を用いて自己主張をし、反対派を却ける。これはイエス・キリストが己れを義とするユダヤ人を裁きたもうた論法そのものである。もっとも、彼らが律法を自己主張のために用いるとしても、私はその律法を犯すことは何もしていない。まさに、その通りである。

 「ユダヤ人の律法」という言い方をパウロがしたので、そこから我々はキリストの言葉を思い起こさずにおられなくされ、さらに踏み込んで、かつてユダヤ人がしていたような律法の「私物化」、律法を自己防衛と他者追及のためにのみ熱心に用いる悪弊に、陥っていないか、また律法の私物化によって、福音が見えなくなることが起こっていないか、と自らを省みることになるが、その議論は今はここまでで留める。

 第二に、「宮に対して何の罪も犯していない」。これは宮を汚し、神礼拝を冒涜するようなことは何もしていないことである。もともと、今回の騒ぎが起こったのは、パウロが宮の内に異邦人を連れ込んだと勘違いしたエペソのユダヤ人の軽率な叫びからであった。あらゆる意味で非難に当たることはしていない。全くその通りである。

 第三に、「カイザルに対して何の罪も犯していない」。これは国法を犯していないということである。しかし、キリスト者がカイザルの命令に逆らうことは、間もなく起こったではないか。確かに起こった。すなわち、皇帝像を礼拝せよとの皇帝命令が発せられた。そして多くのキリスト者がその命令に違反した。パウロも生きていたなら違反者になった。このことはどうなのか。

 ローマ書13章には「全ての人は上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、全て神によって立てられたものだからである。したがって権威に逆らう者は神の定めに背く者である」と記されている。これはこの通りである。法廷で述べたのもこのことである。 しかし、神によって立てられたはずの権威が、自ら神に逆らい、人民を駆り立てて神に反抗させるということが実際例としてある。これは上にある権威が、あってはならない在り方をしたからであって、その場合、その権威に従ってはならない。信仰者はすでに神の御心が何であるかを御言葉によって教えられているから、本来あってはならない在り方をする権威に、その間違いを教え、その権威に良心をもって抵抗しなければならない。この抵抗権、あるいは抵抗責任は神の民にとって重要な課題である。

 ただし、抵抗が必要とされるのは、上にある権威が、してはならない命令を下す例外的な場合であって、抵抗するのが本来の有りようだと考えるのは全くの間違いである。不幸にして今日の邪な社会において、例外的なことが通例になってしまった。抵抗責任の発動の機会は多い。それは上にある権威が、権威の源泉である神を認めていない所から起こる逸脱である。謂わば機関車が脱線したまま突進しているようなものであって、そのような権威を認めてはならない。是正すべきである。この「抵抗権」について、もっと詳しく説くことが必要であるが、今日の聖書の学びがまだ残っているから、この件は省略しなければならない。

 皇帝の権威に逆らわなければならない場合が現実に起こるが、パウロがここで言おうとするのはそのことでない。カイザルの名によって行なわれている秩序、すなわち裁判によって保たれている秩序、それは我々も守らねばならないということについてである。

 パウロの重要な陳述が残っている。9節でフェストは「お前はエルサレムに上り、この事件に関し、私からそこで裁判を受けることを承知するか」と問う。パウロは答える。「私は今カイザルの法廷に立っています。私はこの法廷で裁判されるべきです。よくご存じの通り私はユダヤ人たちに何の悪いこともしていません。もし私が悪いことをし、死に当たるような事をしているのなら、死を免れようとはしません。しかし、もし彼らの訴えることに何の根拠もないとすれば、誰も私を彼らに引き渡す権利はありません。私はカイザルに上訴します」。この「上訴」が今回の結論である。

 「フェストがユダヤ人の歓心を買おうとした」という余計な言葉が入ったため、読み違いをする人がいるが、その言葉は無視して良い。フェストはエルサレムに行って裁判を受けたいかどうか、とパウロに尋ねた。それも「私による裁判」と聞こえるように言っている。ユダヤ人がユダヤ流の裁判を欲しているのを制して、「私が裁判する」と言う。ここで、ユダヤの裁判と暗殺とが閉め出された。ユダヤの裁判とローマの裁判、この二つを主イエスが受けられたことを思い起こしたい。

 パウロもユダヤ流儀の裁判は受けるべきでないから受けないと言う。エルサレムでルシヤのもとで始まり、ペリクスに引き継がれ、さらにフェストに引き継がれた裁判の結論が殆ど出かかっている。が、判決を出してしまうことに対する抵抗がユダヤ人にはある。そこで、決着をつけるために「カイザルの法廷」に上訴するとパウロは結論する。

 「私は今カイザルの法廷に立っている。私はこの法廷で裁かるべきである」。つまり、ユダヤの法廷は私には意味がない。カイザルの法廷で決着が着くことだけが残っているという意味である。「カイザルの法廷」という言葉に二重の意味がある。今いるカイザリヤの法廷もカイザルの法によって審くカイザルの法廷である。上訴してローマで開かれる上級の法廷も「カイザルの法廷」と呼ばれる。ユダヤの法廷でなく、カイザルの法廷でことが明らかにされなければならない。ユダヤの法廷の方が尊いということはない。正義に適うならば、名義が何であるかは問題にならないのである。 

 


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