2008.12.07.

 

使徒行伝講解説教 第133

 

――23:1-35によって――

 

 

 議会の前にパウロが立って先ず「神の前に良心に従って行動した」と表明する。大祭司はそういうパウロの口を打てと命じ、パウロはそれは律法の禁じるところではないかと反論する。打つことを禁じる律法はあるのか。その通りの規定はないが、そう解釈すべき禁止はある。つまり、打つとは刑罰で、裁判をせずに刑罰を課してはならないということが律法から引き出される。パウロは律法学者であったからそういう勉強をした。

 大祭司に対する叱責を咎められてパウロはこの人が大祭司だとは知らなかったと素直に詫びる。が、発言が間違っていたと認めたのではない。「こういう男が大祭司であるとは思わなかった」と辛辣に言っていると受け取られる。アナニヤについて知られていることがある。評判の悪い人物である。パウロは律法学者だった時からアナニヤの実際を知っていたのではないか。

 この時代には大祭司が議会の議長をすることになっていたが、初めそうでなかった。70人から成る議会はモーセの時代に始まる。彼が一人で全民衆の裁判をし、手が回りきれないのを見て、舅のエテロが補佐役を全氏族から選んで立てよと助言した。それが70人の長老であって、議会とは呼んでいなかった。これはモーセの補佐なのだ。だから、律法を解釈して適用する。アナニヤはまるで方向違いのことを言っているではないか。

 次にパウロが重要な発言をし、このため議場は混乱し、収拾がつかなくなる。その責任は一部パウロにあると思う人がいるかも知れない。すなわち彼は議場に並ぶ人たちの顔を知っていて、どの人が何派に属し、どう反応するかを承知の上で、「私は死人の復活の望みを抱いている事で、裁判を受けている!」とセンセーショナルな発言したから、意図的に議場を混乱させたのである。

 この問題は議論されていない。パウロに対する憎しみが高じたのは、割礼無視と見られたことからである。異邦人のキリスト教入信に際しての割礼は不要と言った。こうエルサレム会議で決まった。ユダヤ人キリスト教の伝道範囲と異邦人キリスト教の伝道範囲も決まった。教会外のユダヤ教の者がそれを問題にする謂われはない。だからパウロが弁明するならば、そのことだけを持ち出せば良い。自分が裁判に掛けられないようにするために、人騒がせをするのではないのか?

 イエス・キリストも議会の裁判に掛けられた時、議会の構成はパウロの裁判の時とほぼ同じでパリサイ派とサドカイ派がいた。だが、議会の意見を分裂させるような言い方はされなかった。またマタイ伝では2223節以下、他の福音書にも平行箇所があるが、パリサイ派とサドカイ派の争いを御自身との論争に利用して相手を封じ込めた前例はある。しかし、会議を紛糾させて採決出来なくすることはなかった。――こう言ってパウロの弁明を批判する人がいるかも知れない。

 しかし、それは間違いだ。この夜主が言われた言葉を確認しよう。「あなたはエルサレムで私のことを証しした」と言われたではないか。

 「私は死人の復活の希望のことで裁かれている」とは、その場逃れの思い付きの言葉ではない。これはパリサイ派の律法学者だった時代からズッと考えていたテーマである。

 彼の回心はダマスコへの道で起こった。これは百八十度の転換である。キリストと出会って打ちのめされ、このお方に逆らうことは決して出来ないと悟った。それまでの生き方と全く違うキリストの者としての生き方が始まる。しかし、見方を変えるならば、彼は昔ガマリエルの弟子であった時から、死人の復活の希望を一貫して追い続けていた。サドカイ派が死人の復活という教理は聖書にない、と反論したことも知っていたが、聖書全体を通して、聖書を徹底的に深く読むならば、父祖アブラハム以来の信仰は、死者の甦りを信じて待つことにあると確信するほかない。この確信をもって、彼はステパノたちの見解を異端と決め付け、その信者を殺すことが正しいと信じた。

 ダマスコ門外における体験は、死人の復活を本当の意味で信じさせる転機となった。すなわち、死人の復活が彼方にあるという期待や理念でなく、すでに始まっている現実である。ナザレのイエスの復活から始まった。それに彼は出会った。すなわち、ダマスコで出会った方は死んで甦っておられるイエス・キリストである。死人の復活について自分が間違った考えをしていたのを悟らされ、砕かれたという面が確かにあるが、死人の復活を待ち望んでいたからこそ、復活者キリストに出会えたという一面もある。

 これこそが「死人の復活」についてのパウロの理解であることは、Iコリント15章を読めば分かる。「死人の甦りがなければ、キリストも甦りたまわなかった」と言っている。キリストの甦りに接したから、死人の甦りというあり得ないことが信じられるようになった、という人がいるが、それとは逆の言い方である。

 議会の混乱を見ているだけでは、パウロの意図も分からないし、ただ議会を紛糾させることだけを考えていたように思われるが、Iコリント15章を読めば、パウロが議会で言いたかったことが何であるかは明らかになる。

 12節以下に移る。前日パウロのことで騒動を起こしたのはエペソから来たユダヤ人であるが、一晩すると同調者は約40名に増えていた。大勢と言えば大勢であるが、何も分からぬままに騒いでいた群衆の一部が確信犯になった。他の人々は冷静に戻った。狂信派はさらに硬化して、パウロを殺すまでは何も食べないと誓願を立てるに至った。どういう信仰的主張を持っていたかは分からない。というよりは、主張として掲げる原理は何もない。エペソにいた時からパウロに対する嫉みがあって、憎しみに凝り固まった。

 この一団は、祭司長と一部の長老、すなわち議会の中枢部をなす人々に掛け合って、「パウロを明日もう一度議会に喚問する必要があるから、兵営から出して議会に連れて来てほしい」と千卒長に議会の方から頼んで貰いたいと申し入れたのである。兵営から議会までの間で、我々が待ち伏せし、パウロを拉致して、どこかで殺してしまうことにすると説明した。

 パウロを殺すまでは飲み食いしないと誓ったのは本気であったと思う。しかし本気であっても、計画は達成できなかった。パウロはカイザリヤに連れて行かれ、カイザリヤからさらに船に乗せられて彼らの手の届かぬ所に行ってしまった。だから、彼らは何日も飲み食い出来なかった。その後どうなったかについては憶測しても無意味である。

 悪辣な、また空しい計画であることは説明するまでもない。こういうことが神の許したまわぬ不正であることも明らかである。この陰謀者は、誰が実行したか分からないように仕組んで、議会としても、千卒長側でも、予期しない事件であるからパウロの身を守るために何も出来なかったと言えるようにしておく。

 この相談には、誓約を立てた40人と議会中枢部しか関与しなかったが、議員と議会関係者には漏れた。パウロの姉妹の子がこれを知ったのは、議会関係者だからであろう。パリサイ派の議員の家族、あるいは親戚と考えられる。この青年がパウロの顔を知っていた。パウロの甥でパウロはエルサレム到着も、宮のうちで騒ぎに巻き込まれて、兵営に連れ込まれたことも、知っていたのである。どういう繋がりがあってパウロの情報を得たのかは分からない。教会を通じてかも知れない。

 この青年は千卒長と折り入った話が出来たのだから、ギリシャ語を自由に話せるユダヤ人であったことは確かである。パウロの姉妹の息子であると言われるのだから、パウロの姉妹が結婚した相手は富裕層の家柄、あるいはパウロと同じパリサイ派もしくはそれに近い傾向を持っていたのではないかと考えて良いであろう。

 この若者がキリスト者であったかどうかは推測も出来ないが、キリスト者として教会の重要人物のために尽くそうとするのでなくても、このような陰険で卑劣な企みに憤慨するだけの正義感と知性を持つ人はいたであろう。彼は物怖じせずに兵営に行ってパウロに面会し、耳にした陰謀を伝えた。パウロは百卒長の一人を呼んで、この青年を千卒長のもとに案内させる。エルサレムにいる千卒長は一人であるが、百卒長は10人ばかりいたようである。

 パウロの願いを聞き入れた百卒長と、千卒長はパウロに好意的であったと言って良い。特に千卒長がパウロに味方し過ぎると大祭司は言うが、この人たちは官憲、つまり公務員であるから、その職務上、ことを公平に扱ったまでであって、人を善人と悪人に区別したときの善人の部類に入ると思う必要はない。このような人が今も数多くいることを期待して当然であって、期待通りでない実情があれば、市民としては異議申し立てが出来る。現実問題として、異議申し立てをしなくてはならない公務員が多数いるという事実があるが、その問題は今日の聖書の学びと切り離しても許されると思う。

 事情を聞いて、千卒長はすぐに決断して、カイザリヤにいる総督ペリクスに手紙を書いて、パウロをカイザリヤに急遽移送する。

 その手紙の内容は、26節から30節までに書かれているが、解説を交えて語るならば、こういうことである。「ローマ市民であるパウロを殺そうとするユダヤ人の暴動が起こったので、取りあえず保護したこと。その殺す理由を調べた所、ユダヤ人の律法に基づいて殺さねばならないと彼らは言うが、自分の判断では、これはローマの法の埒外のことで、裁判にならないし、死刑に処することもない。ただ、ユダヤ人の間にはパウロを何としても殺すという陰謀が巡らされているので、保護しなければならない。それで、エルサレムにおいて保護しているが、カイザリヤに移送しなければ安全でないから、この手紙と共に送る。いずれユダヤ人からの訴えがあるだろうから、そちらで裁判してもらいたい」。そのような手紙であった。

 千卒長ルシヤの処置は適切であったと言うほかない。繰り返し言うが、これは公務員として当然の処置で、美談のように扱うと聖書の言葉を読み違える恐れがある。当然のことが出来ない公務員が多いので、当たり前のことをする人がいればこれを讃美したくなるのは理解出来るとしても、これを褒めていたのでは政府の規律は改まらない。

 クラウデオ・ルシヤは、一市民パウロの身柄の保護のために髄分な人数の兵員を出動させた。すなわち、百卒長2人を呼んで命令したのであるから、百人隊2個分の動員を命じた。百人隊といっても定員は百人以上の編成になっていたようである。歩兵200名、騎兵70名、槍兵200名という。エルサレム駐留兵力の半ば近くをパウロのために割いたと思われる。――そういうことがあり得たであろうかと疑う人がいるだろう。主イエスがピラトの法廷からゴルゴタの丘まで送られ時、百卒長が何名かの兵士を率いて行ったのと比べて、ルシヤの判断は大袈裟すぎたのではないか? そうかも知れないが、我々が考えたところで何も分からない。パウロがダマスコの城壁の上から篭で吊り卸されて脱出した時は一人であったが、カイザリヤに脱出した時には470人の護衛がついた。この違いを問題にしても何も実りはない。とにかく、パウロは人の意向でなく、彼自らの努力によってでもなく、主の御旨によってエルサレムからローマに送られて行く。

 カイザリヤへの途中に、アンテパトリスという町がある。輓馬の交換のために作られた宿場で、エルサレムからここまでは下り坂を主とする道である。アンテパトリスからカイザリヤはほぼ平坦な道である。

 「歩兵」と書かれているのは最も有り触れた装備の兵士で、完全装備をした。敵軍と衝突して征服出来る力である。槍兵と訳されているのは軽装備の兵士のことらしい。新共同訳では「補助兵」と訳すが、そう訳した理由はよく分からない。聖書の中にここにしか出て来ない言葉である。古い時代から「槍兵」と訳されて来た。

 9時過ぎにエルサレムを出て、パウロを馬に乗せ、騎兵が取り巻き、そのまわりを歩兵と槍兵が守って、夜のうちにアンテパトリスに着き、騎兵以外はここからエルサレムに引き返して、騎兵がパウロをカイザリヤまで送ったと考えられるような記述になっている。しかし、一晩でアンテパトリスに着くのは無理ではないかと言う人もいる。書物によって距離を見れば100キロ余である。馬に乗って下り坂を行くようにすれば行けなくはない。通常エルサレムからカイザリヤまでは2日と言われていたようである。

 ペリクスはルシヤの手紙を読んでから、パウロに会い、先ずどの州の者かと尋ね、キリキヤの出だと知った。これは面倒だと思ったようである。別の人が総督をしている区域の者の裁判に携わりたくないのである。職務怠慢と言う方が正しいようであるが、管区が違うことは処理を先に延ばす口実になる。ルシヤが忠実な公務員であったのと比べ、ペリクスはそうでなかった。これ以後もずっと勤勉でない、ただし賢い官僚であった。

 「ヘロデの官邸」にパウロが送られたが、これはカイザリヤにおける拘置所である。「囚人」という名で呼ばれるが、犯罪人として扱われたのではない。ヘロデ宮殿はヘロデ大王が建てたからそう呼ばれたのであろう。2513節にアグリッパ王とベルニケがカイザリヤに来たと書かれている。そのアグリッパについてはその箇所でやや詳しく述べるが、これがヘロデ大王の孫であり、ベルニケという娘を連れて来た。

 パウロはカイザリヤでも拘束されていたが、虐待はされていない。語るべきことを語れるように保護されていた。こうして、主の御旨によってローマで御言葉を語るように備えられていたのである。 


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