2008.11.16.

 

使徒行伝講解説教 第132

 

――22:23-23:11によって――

 

 

 今回学ぶところで示されていることは、1)エルサレムの宮の内で起こった騒乱事件、これを鎮静させねばならないが、パウロの誠意を込めた弁明が、狂気に駆られた民衆には効果がなかったこと。2)そこで千卒長はパウロ本人の弁明では埒が明かないと判断し、群衆がこんなに怒り狂うのはパウロの側に問題があるからではないかと推察した。3)千卒長は、これは鞭で打つに相応しい無頼漢だと考え、パウロを鞭打ちの拷問に掛けて調べる準備を兵士にさせる。4)そこでパウロは、私は市民権を持つのに事情を聞かずに鞭打ちにするのは法令違反だと異議を申し立てる。30節以下、23章に入ってからも続くやり取りは、何故パウロが騒動の原因になったかの取り調べで、これで決着がつかぬままに、5)最後に主の言葉がパウロに臨む。
 パウロが弁明を始めた時人々は静粛に聞いたと21章の終わりに書かれていた。民衆に良く分かるようヘブル語で話したし、話す内容も筋が通っていた。だから、群衆はここまでは静かに聞いた。理解した人も或る程度いたに違いない。その静粛が破られたのは、群衆の中に煽動者がいて、これでは民衆が静まって、パウロの言うことを受け入れてしまい、自分たちの企みが空しくなると恐れたので、声を張り上げて「こんな人間は殺してしまえ」と叫んだからである。そこで、また騒乱状態になったのである。
 事件の本質はパウロ暗殺の陰謀以外の何物でもない。それは隠して置かねばならない悪事である。パウロを殺す目的はハッキリしているが、彼を殺す理由を説明出来る人はいない。チャンとした論理を持たないから裁判にならない。だから、騒動に紛れてパウロが殺されたという事実にしてしまおうというのである。
 特に悪質な者が少数いて、恥知らずに喚き立てると、大衆は操作されてしまう。主イエスを十字架につけた時、多数者はハッキリした意志と計画を持ったわけはなく、むしろ悪しき計画者に煽動された。その後の時代にキリスト者を迫害した大衆も皆これである。だから大衆には責任がないと言っては誤りであって、知らずに犯した罪も神の前では問われる。けれども、我々が人を見る場合、全部を一括して始末に負えない悪人であるとは見ない。我々自身も、無知の理由で犯罪に加担している場合が多いことを弁えなければならない。
 ここでパウロを取り巻く騒乱を見て、キリストを十字架につけよと騒いだ群衆のことを思い起こすのは当然であろう。だが、キリストとパウロや同類の迫害を受けた人々とを同一視してはならない。似たことが繰り返されるのであるが、キリストの受けたもうた苦難と同類のことはそれ以前になく、以後もなく、ただ一回の事件である。そこで決定的なことが起こった。つまり我々も同じ問題を起こす群衆の一人であるが、それだけでなく、我々の負う罪の問題の解決がそこに開き示されたのである。
 次のことに移る。千卒長はパウロを鞭打って取り調べようとした。この千卒長はクラウデオ・ルシアという名であることが2326節で分かる。ローマ市民になった時につけた名前である。彼はエルサレムに駐留するローマ軍部隊の最高指揮官である。軍人であって行政や裁判の任にあるのでないが、総督がエルサレムにいない時にはその代行をしたようである。総督ペリクスは大抵カイザリヤにいたから、重要な案件であればカイザリヤに送るが、エルサレムで決済出来ることは自分で片付けた。今回の騒ぎもここで自分の裁判で片づけようと思った。
 この時、実際は鞭打ちを行なう前に異議申し立てがあって、パウロは鞭で打たれなかった。しかし、この時は打たれなかったというだけで、彼自身IIコリント1124節で「ユダヤ人から401つ足りない鞭を受けたことが5度、ローマ人に鞭で打たれたことが3度」と言っている。使徒行伝で我々が読んだところでも、1622節のピリピに於ける事件がある。その時も異議申し立てをしたが、取り合われなかった。
 秩序がチャンと守られておれば、人権は或る程度尊重されていた。ただし、法令によって定められていても、人権が守られない場合はある。昔もあったし、今もある。したがって、不法な扱いを受けることは今はない、と簡単に考えない方が良いと。現代にも無法地帯は世界のあちこちにあり、この国内にもある。我々がそこに入らざるを得ない場面にないから知らないだけである。別の観点から言えば、我々もそういう場面に立たせられることがあると予想し、覚悟していなければならないということである。すなわち、一つは迫害を忍ぶことが出来るよう修練を積んで置くこと。もう一つ、法律が一応行き渡った社会であるから、法によって我々の安全も、信仰の自由も保障されていることを弁えて、その法令が守られていない時には異議申し立てを怠りなくすることである。
 パウロが、市民権を持つのにその人権が保障されていない、という異議申し立てを熱心にしているのを見て、意外に感じ、そこまでするのは自己主張の遣り過ぎではないかと言う人があるう。権利を出来るだけ守ろうと言い張るよりは、当然の権利であっても譲歩する方が信仰者に相応しいのではないか。権利の主張が躓きを起こすよりは、権利侵害に黙って耐えて置くべきではないか。そういう意見が教会の中ではむしろ優勢ではないかと思う。
 確かに、権利を放棄する自由がある。放棄することによって人との対立や摩擦を生じさせることもなく、人に不快感を与えることもない。特にイエス・キリストがマタイ伝5章で「あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。……もし誰かが、あなたを強いて1マイル行かせようとするなら、その人と共に2マイル行きなさい」と教え、当然の権利が侵害されても対抗処置を取ってはならない、と定めておられるのである。これがキリスト者の道だということは良く知られている。
 すなわち、権利は「闘争」によらずには獲得できないという考えが近代社会では強力であり、それを実証する事実と理論がある。それを知っているから、クリスチャンの多くは権利の主張をためらうのである。言うべきことも控えてしまう。
 しかし、自分のための権利主張と、人の権利を擁護することとの意味の違いを理解しなければならない。自分の権利を断念して自分だけが不利益に甘んじることは良い。しかし、他の人に権利を放棄せよと説得することはどうであろうか。その説得が常に悪を助長するとは必ずしも言えない。闘争によって不正の力が抑制される場合は確かにある。貧しい人に我慢せよ我慢せよ、と勧めることによって、権力の悪がいよいよのさばることは多い。「ノー」と言う勇気がないために社会全体が誤った方向に突っ走ってしまう痛ましい実例が多い。勿論、貧しい人に「権利のために闘争せよ」とけしかけて、弱い人をいよいよ窮地に陥れることはあるから、単純ではない。けれども、一般的に言って、自分のための権利の主張の場合は、そこに自我の欲望、貪りが入り易いが、他方、他の人の権利を擁護する場合には、それほど直接的な危険はない。
 パウロのようにローマ市民としての権利を頑固に主張している例は聖書にない。だからパウロのこの面は信仰者に相応しい慎ましさを欠いているのではないかと疑問を起こす人がいる。そこで、彼がローマ市民としての自分個人の権利の主張のためにカイザルに訴えると言って、大いなる不便を忍んでローマに行った物語りを評価せず、なるべく取り上げないで置こうとする傾向が我々のうちにある。だから、これから先の旅行についても、航海中のパウロの見識や判断や決断を模範として持ち上げ、あるいはローマに伝道のために行こうという熱意だけに注目して、カイザルに上訴するためという目的は無視されやすい。
 先に触れたように、自分の私的な利害のために争いを起こすことは、理由がなり立つとしても、確かに慎まねばならない。しかし、慎みということを人に押し付け、権力による弱い者イジメや、公けの機関の職務怠慢を助長してはならない。また、福音のため、教会のため、これは公けのことであるから、主張すべきであるのに、私的なこととして引き下げたり・見落としたり、異議申し立ての機会を失してはならない。パウロのこの場合の主張は、私的利益のためではなかった。福音宣教に携わる者が特権を持ってはならないが、公平に扱われなければならないところで、不当に権利が侵されて、それで良いとは言えない。なぜなら、この世の秩序は公平でなければならないからである。人間の持つ公民権は伝道者においても保護されなければならない。具体的な問題を言えば、信教の自由が侵害されるとき、手をこまねいていてはならない。
 さて、30節、「翌日、彼は、すなわち千卒長は、ユダヤ人がなぜパウロを訴え出たのか、その真相を知ろうと思って彼を解いてやり、同時に祭司長たちと全議会とを召集させ、そこに彼を引き出して、彼らの前に立たせた」。
 ルシヤというこの軍人はここでは行政官として働く。彼の判断は2327節から30節までに記されているが、正しい判断である。パウロはユダヤ人から訴えられているが、それはユダヤ教内部の律法解釈の問題に関することであって、政治的権威が介入すべきことでなく、何ら罪に当たらない。ただ、人々が彼を殺そうとしているので、その生命を保護しなければならない。そこで、カイザリヤに護送する、というのである。
 今、ルシヤはパウロの拘束を解き、彼を訴える者と対等の立場に立たせた。彼を訴える者は、ここまではハッキリしなかった。これまでは群衆の声であった。それはエペソのあたりのユダヤ人の或る者が企んだパウロ謀殺である。騒ぎを起こし、その騒ぎに紛れてパウロを殺せばよいという策動である。これは犯罪である。
 その策動をユダヤ議会が進めたということではない。議会の召集が千卒長から命じられ、議員たちは困惑したのではないかと思う。しかし千卒長としては、裁判を開くためには、訴える側と訴えられる側の言い分がハッキリしなければならないので、パウロに対立する側としては、70人議会を集めさせるほかないと判断した。陰謀の当事者を尋ね出して、パウロを告発する議論をさせることは考えになかった。その判断は正しい。
 千卒長ルシヤがどこまで正しい見識を持っていたかは何とも言えないが、このようなことは議会が決めるべきであり、個人の見解を言わせて置けば、収拾がつかないと見たとこは尤もなのだ。では、議会はどういう結論を出したか。――何も結論は出なかったのである。
 議会の中で大祭司アナニヤはパウロに対して悪意を持ったらしい。そのことは24章の初めにアナニヤがパウロを訴えたと書かれてところで明確になるが、23章の段階ではアナニヤ自身も分かっていなかったと思われる。9節には「パリサイ派の或る律法学者たちが立って、『我々はこの人には何も悪いことがないと思う』と言ったと書かれている。少数意見であったかも知れないが、パウロを訴えることは成り立たないと判断する人はいた。結局、この日の裁判は成り立たなかった。しかし、暗殺の危険があるので、その夜のうちに、ルシヤがパウロをカイザリヤに送り出した。カイザリヤで総督ペリクスの裁判を開かせようとしたのである。しかし、カイザリヤでの裁判も結局、裁判としては形をなすものとならず、パウロはローマに運ばれてカイザルの裁判を受けることになる。
 6節以下に入る。議会の中でパウロが、昔の律法学者仲間として、パリサイ派とサドカイ派の顔を見分けることが出来、その知識を用いて議会を混乱させた。これは巧みな戦術であるとしても、混乱を起こすだけの処置で、無内容なことではなかったのかと疑う人があろう。それはそうであるが、彼らの無内容さを明るみに出したのである。
 我々として不慣れな裁判の記事に長々と付き合わせられるのは不本意だが、パウロが裁判に引き回され、その裁判が本来裁判にならないことを扱うのだから、なかなか収拾がつかない。本来は法的手続きで訴訟を起こすことではなく、共謀と暗殺の犯罪だが、初めの内はルシヤに事情が分からなかった。
 ポンテオ・ピラトの裁判のことをここで思い起こして良いであろう。ピラトも祭司長たちがイエスを訴えたのは嫉みによると見抜いて「この人に罪があることを私は認めない」と言った。その限りではピラトの裁判は正しかった。にも拘わらず、ピラトは民衆の圧力に屈して、判決を曲げた。千卒長ルシヤは、ピラトと比べて地位は低いが、パウロが訴えられていることは不当だと見抜き、その不当な要求を入れてパウロを殺すことがないようにした。ただし、ルシヤの処置が立派であったと持ち上げる必要はない。当然のことがなされただけである。
 「その夜、主がパウロに臨んで言われた」。ここまでは無内容な議論を見て来た。最後に内容のある言葉を聞き取らねばならない。エルサレムで証しがなされた。ローマでも証しがなされる、と主は言われる。
 全く無内容な騒音を聞いて来たが、それが空しく終わったのでなく、キリストの証しがあったと主は認めたもう。世界の中に騒動が起こって我々を取り囲むのは、あの時も今の時も同じではないか。だが、今も世界的な騒動の中でキリストの証しを立てることが我々には出来る。さらに、主はパウロに、「エルサレムで立てたようにローマでも私の証しを立てるのだ」と言われた。我々にもそう言われているのではないか。今ここで証しが立てられるが、次には彼方に行って、そこでも証しを立てるのだと我々を押し出しておられるのである。


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