2008.11.09.

 

使徒行伝講解説教 第131

 

――22:12-22によって――

 

 

 パウロは熱狂的に騒ぎ立つ群衆の前で、ローマ兵に警護されながら証しを立てるのである。人々は殆ど聞き流したようであるが、我々は主が語らしめた言葉を聞く。その証しは神に熱心であった自分が、その熱心の故に、己れに定められていると信じた道を突き進み、これこそ神の御旨に適っている道であるとの確信に凝り固まって突進して行ったが、実は神の御旨と真っ向から対立していたため、船が岩に衝突して砕けるようにキリストと激突し、打ちのめされてボロボロになり、目も見えなくなるという破局に至った。しかし、破滅して無に帰したのではなく、再生の道を歩ませられた。その証言である。
 それまでの道が全面的に否定されたという面が一方でハッキリ捉えられる。この点に関して、パウロ本人はひたすらに己れを低くし、空しくし、自己否定しなければならない。しかし、神の計画に思いを致すならば、選び置かれた器を、神が徹底的に砕くことを通してであるが、この同一人物を用いて目的を遂行したもう面を見落とせない。
 パウロは人々の前で自分の回心についての証しを立てる。――この回心については、9章に書かれていた。また26章にはアグリッパに対する弁明としても語られる。細かい点については一致していなくても、今はそれを無視して良いであろう。――それを聞いた人が感動したかどうかは別問題として、我々は、礼拝の中でこの証しを聞く時、パウロの語っていることを心に深く聞き取らずにはおられない。それは信仰のチャンピオンとしてのパウロの見事な活躍に心奪われて聞き入る、というよりも、パウロの歩みと照らし合わせて、自分自身の歩みを検討し直し、自分自身の召しについて見落としていた点に気付かせられる衝撃である。
 我々とパウロが同列だと見るのは、思い上がりだという面はあるであろう。だから、思い上がりを捨てよ、という教訓は繰り返し聞かねばならない。であるとしても、神の選び、神の計画、その備えについて、受け入れて置くべきことまで否定し・放棄し、なかった事にして、それで良いと思っていてはならない。パウロにおいて神のなしたもうたことが見られたならば、次にはそれを私自身に適用し、自分の使命をシッカリ把握することを学ぼう。
 言い換えれば、神のなしたもうことを「廃物の再利用」というような譬えで納得させてしまう簡単な説明で済ませてはならない。神は人間を使い捨てにするお方でない。だから、信じていなかった時代の生き方は全面否定され、しかしそれをまた拾い上げて再利用される、というふうに捉えることは出来る。しかし、パリサイ派の先頭を切って突進していたパウロが、壊滅したことは事実であり、これまでそれを宜しとしており、自己満足によって増長していた罪を、彼自身徹底的に深く認め、懺悔しなければならない。ピリピ書3章で「熱心の点では教会の迫害者であった」と論じるくだりで、「益であったものが損になる」、「全てを失ったが、それらを糞土のように思う」と断言するのであるが、自分自身は出直しであっても、主がそこで一からやり直しをなさるのではない。主の計画が一貫していることは確認しなければならない。
 言うならば、これまでは準備期間、ここからを本格的活動期と理解するのが適切である。実際、主の召命はこの時点で与えられたのであって、ここまでは神の御旨に忠実であると自分で思っていたとしても、そう思えば思うほど、実は独りよがりの思い込みであって、反抗であり、マイナスの累積に過ぎず、召された務めはこれまではなかったと認めなければならない。だから、転換点までの間になしたことが、後々も生かされると思ってはならない。これまでやって来たことは全て罪の負債の積み上げに過ぎなかった。その罪責を忘れて、自分の走って来た道での過ちを自分で美化するような、おぞましいことをしてはならない。しかし、神の計画は正しかったのである。
 さて、破産してしまって「私は何をしたら良いでしょうか」と問うパウロに、主は「起き上がってダマスコに行きなさい。そうすれば、あなたがするように決めてある事が、全てそこで告げられるであろう」と答えたもう。先ず、起きよ、と言われる。ダマスコへ行け。と言われる。新しい道を探せ、というのでなく、道は決まっている。
 ダマスコに行くとは、その地の教会に行くことである。その教会にアナニヤという指導者がいた。このアナニヤがパウロの転向後の面倒を見、指導をするように選ばれていた器である。主はパウロをアナニヤの手に託したもうた。アナニヤがこの後パウロをどのように指導したかについては何も分からないが、方向付けは決まった。
 ダマスコにキリスト教会があったことについては9章でも見た。ダマスコに何時誰が伝道したかについても、またダマスコ教会とエルサレム教会の関係についても、我々に分からないことばかりである。それは我々には分かっていないけれども、主が備えておられたことは確かである。
 かつてパウロは、エルサレムにおける神の敵であるキリスト者を根絶やしにしなければならぬという使命感に燃えていた。こうしてステパノを殺し、その同類の男女を殺し、この害悪が飛び火した第二の拠点ダマスコの粛正に向かう。ダマスコのキリスト者をその場で殺すことは他国であるから無理であるので、拉致してエルサレムに運び、エルサレムで裁判に掛けて殺そうと計画した。
 ダマスコのユダヤ教集団とエルサレム神殿とは密接な関係を持っていたと考えられるが、ダマスコ教会とエルサレム教会の関係は殆ど分からない。エルサレムで殺されたステパノとダマスコ教会と似た点があったから、第二の迫害対象としてダマスコが選ばれたのではないかと考えられるが、想像出来るという以上の何物も掴めない。
 そのダマスコ教会が、パウロの再生の拠点になった。信仰は教会によって育てられるということを我々は知っているが、主と出会って、一旦何も見えなくされたパウロが、再び見ることを得て、経験し始めたのは、ダマスコ教会における生活、信仰の交わりである。全ては新しかった。パウロはどんどん吸収して、成長した。
 アナニヤが来て傍に立ち「兄弟サウロよ、見えるようになりなさい」と言う。これまで何も知らなかった人が来て、「兄弟よ」と呼び掛け、「見えるようになれ」と呼び掛け、目が見えるようになって初めて見たのがアナニヤの顔であった。その顔がパウロにとってどんなに印象深かったかは推察出来るが、どんな顔であったかまでは我々には描けない。大事なこと、そして分かることは、アナニヤの告げた言葉である。
 「私たちの先祖の神が、あなたを選んで御旨を知らせ、かの義人を見させ、その口から声をお聞かせになった。それはあなたが、その見聞きした事につき、全ての人に対して彼の証人になるためである。そこで何のためらうことがあろうか。直ぐ立って、御名を唱えてバプテスマを受け、あなたの罪を洗い落としなさい」。――これはアナニヤからパウロに、当時まだサウロと呼ばれていたその人に告げられた言葉である。その言葉を今度はパウロがユダヤ人に差し向け、彼らに聞かせ、考えさせようとしている。
 「先祖の神」という言葉は我々にとって旧約以来馴染みある呼び方で、「創造者なる神」という以上に親しい呼び方である。神については、聖書の冒頭から天と地の創造が語られているのであるから、「創造者なる神」と呼ぶのは最も適切であろう。しかし、聖書を通しで読んで行くと、聖書の神は、御自身の民とされた者らに御言葉を語り掛けておられる神であることが分かる。何もない無から世界を造ったのは神である、と言われると理解出来るが、神があるということが分かるというだけである。
 つまり、何もないところから有を作り出された永遠で全能なるお方がおられることは確かであるが、それに止まらず、その神が「あなたの神」、「あなたの父の神」として語り掛け、一人の人の全生涯に亙ってのみならず、その子孫代々にも、契約を守るという言い方で知られることを喜びたもうのである。旧約時代も新約時代も、敬虔な人々は神をこのように言い表わすことを喜ぶ。
 「先祖の神」という呼び方は、先祖以来の約束を成就させようとして働きたもうという意味を含む。したがって、このイスラエルの神を受け入れる者は、神が来たるべき者として約束しておられたお方を待ち望まなければならない。そのお方がキリストである。だからイスラエルとは来たるべき者に向かって進む群れである。
 この「来たるべき者」について、当時人々の間に到来を待ち受ける気運が高まっていたとは言えないかも知れない。だが、その姿勢で生きる人が幾らかいた。例えば、ルカ伝2章にあるが、エルサレムにシメオンがいた。アセル族のアンナがいた。ザカリヤの子ヨハネがいた。ダマスコのアナニヤもそういう人の一人であった。その人たちがイエスをキリストとして確認したということを、我々は福音書の中で読み取っている。それが使徒行伝の時代にも繋がっている。このキリストまた来たるべき者、それと同義語であるのが義人という言葉である。
 アナニヤは「かの義人」という呼び方を14節でしているが、パウロには通じた。この呼び方については以前3章と7章で見た。314節には「あなた方はこの聖なる義しい方を拒んで、人殺しを許すように要求し、命の君を殺してしまった」とあり、752節に「あなた方の先祖が迫害しなかった預言者が一人でもいたか。彼らは義しい方の来ることを予告した人たちを殺し、今やあなた方はその義しい方を裏切る者、また殺す者となった」と書かれている。この「義しい方」とは「義人」と同じ言葉である。「義人イエス」という呼び名がエルサレムにもダマスコにも広がっていたのではないか。したがって、キリストの福音がエルサレムからダマスコに伝えられた事は確かであるが、スグに火のつく状態の燃料があるところに火の粉が飛んで来て直ちに燃え上がったと言えるかも知れない。ダマスコのユダヤ人の一部はそのような群れであった。だから非常に早い時期に火がついて、キリスト教会が立ち上がったのではないかと思われる。
 神が準備しておられたキリストの民は、謂わば発火点に近い状態でキリストを待っていた。そのようにして、ダマスコの群れは早くキリスト教会になったが、パウロ自身も自覚は欠けていたと言うほかないが、時の満ちる時刻に差し掛かっていた。彼が全く素直にアナニヤに従ったのは、準備の出来た状態になっていたからである。
 「神はあなたを選んで御旨を知らせ」と言う。出来事として先でなくて良いと思うが、総括的な意味として神の意志を把握させるよう、パウロに御旨を知らせたもう。 
 「かの義人を見させた」という点も不可欠な要点である。すなわち、キリストの証し人は、観念としての救い主を捉えて説明するのでなく、現実としてのキリストを見て告げなければならない。12人の使徒が選ばれた時も、バプテスマのヨハネの時から一緒で、肉体をもって来たりたもうた彼を見ていることが必須の条件であった。
 では、パウロがイエスを見たのは何時か。ダマスコに入る直前、彼を打ちのめす強烈な光りとして見たことは確かであるが、パウロが肉の日のナザレのイエスを見たことも当然ある。だから、主は「私はナザレのイエスである」と言われた。
 「その口から声をお聞かせになった」というのは、倒れて後、主イエスと会話したこと、またその後の直接の語り掛けを指している。
 この後、「スグ御名を唱えてバプテスマを受けよ」とパウロは言われた。これはキリストの証し人として立てられた事を表したものであり、聞いている群衆に向かってそのことを示す明言であり、彼の罪は洗い落とされた。イエス・キリストの名によってバプテスマが行なわれたのである。それはダマスコにおいて行なわれた。
 それからパウロはエルサレムに帰ったと言う。926節以下の記事とやや食い違っているが、パウロはエルサレムの教会に行かないでエルサレムを去ったと述べられる。宮で祈る時、恍惚状態になって主にまみえたが、「エルサレムを出て行きなさい」と言われる主の言葉に従った。それは「急いで、直ぐにエルサレムを出て行きなさい。私についてのあなたの証しを人々が受け入れないから」と主が言われたからとなっている。これがどの時点のものかは分かり難い。また、「人々が私についてのあなたの証しを受け入れないから」と言われる時の「人々」がエルサレムの人々であることは確かであるが、エルサレムのクリスチャンなのか、エルサレムのユダヤ主義者なのかハッキリさせられない。が、とにかく、パウロがエルサレムのクリスチャンの仲間入りして活動するのでなく、異邦人伝道に赴けと言われている、と読むのが結論として事実に最も良く合致している。パウロを異邦人世界で活動させようとするのが神の御旨であったことを分からせようとしたのである。
 そのように異邦人世界を巡って伝道活動をしていた私が、今回エルサレムに帰って来て、エルサレムの皆さんの前で証しを立てるようになったのは主の計画であった、この主の計画にあなた方も従いなさいと言ったのである。


目次へ