2008.11.02.

 

使徒行伝講解説教 第130

 

――21:37-22:11によって――

 

 

 千卒長は事情が分からぬままにパウロを捕らえて、逃げないように二重の鎖で縛って兵営に連れて行こうとした。そのパウロに群衆もまた訳が分からぬまま暴行を加えるので、千卒長はパウロを兵卒に担がせて兵営に連れて行こうとした。
 エルサレムにあったローマ軍の兵営は、神殿の北にあるアントニアの塔であろうと思われる。そこまで群衆が追って行ったようである。
 兵営に入ってしまうと民衆と接触できなくなるので、その前に、パウロはこの群衆に語り掛ける機会を得ようとし、先ず千卒長に申し出て、民衆に直接語らせてほしいと頼むのである。民衆に直接語り掛けたいと思ったのは、何も知らないままに騒ぎ立てている彼らに事態の説明をするためである。それは「弁明」と言われるが、落ち度のある人が追及を出来るだけ避けようとするための釈明ではない。堂々と事実を開陳する。その事実の前に人々は平伏さねばならない。
 その機会を作るため、先ず、千卒長に対して発言する許可を求める。それをギリシャ語で語った。千卒長はギリシャ語で語り掛けられて驚いたようである。ユダヤ人の中にギリシャ語を語る者が多数いる実情を知らなかったのであろうか。
 ギリシャ語で話し掛けられた時、千卒長は、「これは、あのエジプト人ではないのか」と思った。この「エジプト人」のことは良く分からない。少し後の時期になるが、ユダヤ人歴史家ヨセフスの書物に、やや似た話しが載っている。エジプトから来て自ら預言者と称した者が、ユダヤで三万もの兵を集め、叛乱を指導し、結局、自分一人エジプトに逃げて行った事件がある。千卒長の言うのはそれと別らしいが、ローマに対する反抗はしばしば試みられていた。例えば、先頃チウダという人が叛乱を起こした。その後ユダという人が叛乱を起こした。そのことを、律法学者ガマリエルが議会で語っているのを5章で読んだ。それらとは違う事件があったらしい。どういう事件か突き止められないが、分からなくても支障はないとして置こう。
 とにかく、千卒長はそのエジプト人を見てはいないようだが、噂はよく聞いており、そのエジプト人がギリシャ語を話したということも掴んでいたので、パウロがその人ではないかと思ったらしい。だから、かなり警戒感を持った。しかし、パウロはその警戒心を解かせるに十分な言葉を直ちに語る。「私はタルソ生まれのユダヤ人で、キリキヤのれっきとした都市の市民です」。
 素性の分からないそのエジプト人のような叛乱者ではなく、粗暴な田舎者でなく、タルソ生まれの「市民」の特権的身分を持っていると言うのである。市民と市民でない人との間には格差がある。「市民」であることが、これ以降パウロの発言の中で何度も強調されるので、好感を持てない人がいるかも知れない。その事情は理解して置きたい。
 「市民」という語は都市が出来た時以来昔からあって、旧約の歴史にも登場する。素朴な意味では田舎に住む人と区別されただけである。町には富が集まるようになるから、市民は富を管理するようになり、大きい町になると市民は自治権を持つようになって行く。市民を制度化したのはローマの法律である。パウロが言う「市民」は、この法律で保障された権利の持ち主である。私は事情に詳しくないので十分な説明は出来ないが、パウロはタルソで生まれた時、親が既に市民であったために、タルソの市民権を持つ者として登録され、その市民権は一生ついてまわる。
 使徒の中で市民権を持っていたのは明確に分かっている限りではパウロだけであったか思われる。ペテロなど、ガリラヤの町にいた人は市民権を持たない。したがって特権として保護を受けることはなかった。教会の中では市民と市民でない者の区別はない。それは自由人と奴隷の区別がないのと同じで、平等である。
 だからパウロは使徒の中で、あるいは教会の中で地位の高いことを誇ることはなかった。「市民」に保障されている人権を福音のために役立つ限り主張しているだけである。千卒長の姿勢には、市民権を持たないユダヤの群衆に対する蔑視があるが、パウロは自分には正当なことを主張する権利があると言っているだけである。
 市民として持っている権利を福音のために利用したと言ったが、市民権がいつでも利用出来るわけではない。もしパウロが私は市民権を持つから、この身分を持たない人より伝道の働きを有利に進めることが出来る、と考えたとすれば、全く意味のないことであった。彼が使徒の中では飛び抜けて良く働いたことは認められるが、それは彼の持つ身分的特権の故ではない。市民身分という制度が確立したため、人間には本来誰にも認められるべき権利を、ローマ帝国においては、市民に認めたというだけのことである。パウロがあの時に主張していた権利、それは2225節で、「ローマの市民たる者を、裁判に掛けもしないで鞭打って良いのか」と主張する権利は、今では万人が持っている。だから、我々普通の人民は自分の人権を十分に行使すべきである。パウロの特別なことと考えて自らの人権について考えないのは褒められることではない。
 さて、パウロが千卒長にギリシャ語で話し掛けたのは、ギリシャ語でないと通じないからであるが、パウロのギリシャ語は意味が通じさえすれば良いという程度のものでなく、立派なギリシャ語であった。こういう言葉で話し掛けて、信用させ、同意を得ようとしたのであろう。――ギリシャ語で千卒長に語り、次にはヘブル語で民衆に語る。二つの言語を使い分ける能力は我々には羨ましいが、使徒行伝の時代にはこれは少しも珍しいことでなかった。土地の言葉と、共通語としてのギリシャ語を自由に語る人がかなり多い、そのような国際的な時代であった。我々もそうならねばならないと言う必要はない。しかし、生まれた国の言葉を大事にすることは良いが、お国言葉だけを大事にする国民感情に凝り固まるのは良くない。
 ただし、パウロはヘブル語でユダヤの民衆に語る。「ヘブル語」とここで言うのはユダヤ人が普通に使っていた言語、ユダヤだけでなく、シリヤから広がって来たもので、正確にはアラム語である。それは千卒長に分からなくて良かった。パウロはここで、ユダヤの同族の者に証しを立てようとする。エルサレムではヘブル語であった。
 アンテオケの教会がシリヤにあっても、ユダヤ人に対してギリシャ語で語っていた。パウロはバルナバによって連れて行かれたアンテオケではギリシャ語を用いた。またアンテオケを出発点として世界伝道に出掛けた時は、相手がユダヤ人であってもギリシャ語で説教していた。こういう事情は使徒行伝ですでに見ている。
 ユダヤ、サマリヤ、ガリラヤのキリスト教会にはアラム語を用いる人が多かったと思うが、その他の地域のクリスチャンは、ユダヤ人を含めて、ギリシャ語だけで伝道活動をし、また集会を守っていた。しかし、エルサレムでは、ギリシャ語を用いるユダヤ人と、ヘブル語を用いるユダヤ人の二つのグループがあって、ギリシャ語を使うグループの方が大きかったらしいことは6章で読んだ。
 もっとも、ステパノの死とともに開始されたキリスト教迫害によって、ギリシャ語を用いるユダヤ人キリスト者の多くは、エルサレムから追放されて、ピニケ、クプロ、シリヤのアンテオケに散らされたのではないかと想像される。今回パウロがギリシャ人のキリスト者と共にエルサレムに来た時、エルサレム教会の人は殆どヘブル語を使うユダヤ人であったと思われる。そしてクリスチャンでないエルサレムの住民の殆どは、ヘブル語しか使わないユダヤ人である。
 エルサレムで騒いでいた人たちの内には、事情が分からぬ侭に騒いでいるだけの者もいるが、或る者は明確な敵意を抱いてパウロを殺そうとし、殺人が行なわれてもおかしくない騒乱状態を作り出そうとしていた。こういう人には語り掛けても聞いてくれないであろう。それでも、聞くか聞かぬかは別として、語らねばならない。これまでもそうであったように、約束の民、メシヤの到来を約束され、それ故、約束の成就を待っているべきユダヤ人に、パウロは語り掛けねばならない。「兄弟たち、父たちよ、今申し上げる私の弁明を聞いて頂きたい」。これは、宣教として語られた。
 これを「階段の上から」語り掛けた。階段というのはアントニアの塔に入る入り口の階段であろうか。人々はそこまでは押し迫ることが出来ない。ユダヤ人はローマ兵の駐留する所は汚らわしいと思って、普段は近づこうともしないが、この時は今日は調子に乗ってここまで来てしまった。
 さて、人々は覚えていたかどうか。同じ言葉を語った人がいた。7章の初めに書かれていたが、最初の殉教者ステパノの第一声がこれと同じである。群衆は記憶に留めなかったであろうが、パウロは最も鮮かに覚えていたであろう。ステパノを殺した責任者は自分である、と彼は意識していた。かつてのステパノの位置に今度は自分が立っていると思わずにおられない。ステパノの真似をするということさらな考えはなかったとしても、同じ言葉が口からでた。
 確かに、ステパノもパウロも、同族、すなわち兄弟に語った。同族の年長者に対しては「父たちよ」と尊敬をもって呼び掛けた。同族、すなわち共通にアブラハムの子である者たち、信仰の民。ステパノにとって、またパウロ自身にとって聞くべき信仰の言葉を、兄弟たるあなた方に語り掛けるから、あなた方は聞きなさいと呼び掛ける。
 「私はキリキヤのタルソで生まれたユダヤ人であるが、この都で育てられ、ガマリエルの膝もとで先祖伝来の律法について厳しい薫陶を受け、今日の皆さんと同じく神に対して熱心な者であった」。
 タルソで生まれ、エルサレムで教育を受けた。エルサレムでの教育は小さい時に始まったようにも取れるが、タルソで初歩的教育を終わって、かなり大きくなってからエルサレムに来たと考える人もいる。というのは、パウロにはギリシャ哲学の素養があると見られ、それはタルソにあった哲学の学校で学んだものと推定されるからである。
 律法学者ガマリエルの名をこの時の群衆が皆知っていたかどうかは分からない。しかし、律法学者というだけで尊敬されており、パリサイ派のガマリエルの名は特に有名であったと思われる。この名を出しただけでかなり信用された筈であった。
 ところが、パウロの話が一区切り付いた時、22節で読むことが出来るように、民衆の敵意は少しも収まってはいなかった。それでも、効果がなかったから話しても意味がなかったと考えてはいけない。人々が聞こうと聞くまいと、この言葉が語られることには意味があった。先ず、「今日の皆さんと同じく神に対して熱心な者であった」と言う。あなた方と同じ道を来たのだと言う。
 次に4節、「この道を迫害し、男であれ女であれ、縛り上げて獄に投じ、彼らを死に至らせた」。ここまでは、皆さんの今と同じだと言う。
 しかし、その先で転機が来た。別の道を行くことになった。――6-9節「旅を続けてダマスコの近くに来た時に、真昼頃、突然、強い光りが天から私を巡り照らした。私は地に倒れた。そして『サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか』と呼び掛ける声を聞いた。これに対して私は『主よ、あなたはどなたですか』と言った。すると、その声が『私はあなたが迫害しているナザレ人イエスである』と答えた」。 
 群衆は聞いても聞かなかった。聞き流した。しかし、我々にとっては何度も繰り返し聞いた言葉であるが、聞き飽きることはなかった。パウロと同じとは必ずしも言えないとしても、初めの熱心さ、いや熱心と思うだけの自己満足、自己義認、殺人を犯して何とも思わない自己陶酔、そして主イエスとの激突による自己の崩壊、そしてキリストによる再生、これは私そのものの道ではないかと我々は読むのである。
 この後「主よ私は何をしたら良いでしょうか」と尋ねたところ「起き上がってダマスコに行きなさい。そうすれば、あなたがするように決めてある事が、全てそこで告げられるであろう」と示された。
 ここは使徒行伝9章で学んだことである。だが、繰り返し学んで、聞き飽きて、時間の無駄遣いを感じることはない。我々自身の生まれ変わりの学習が重ねられ、確信はさらに深められるであろう。 


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