2008.10.19.

 

使徒行伝講解説教 第129

 

――21:27-40によって――

 

 

 今日聞く箇所はエルサレム神殿内外における混乱の記事である。そこから何も学ぶことが出来ないのではないか。いや、そうではない。我々は人間の起こす騒動の中から神の計画とその実現を読み取ることが出来る。
 27節は「7日の期間が終わろうとしていた時」という書き方で始まる。前から話しの続きで7日目になった、と言っているように受け取る人がいるであろう。つまり、エルサレムの教会の4人の信者で、ユダヤ風の誓願を立てたいと願う人がいるので、誓願の日が満ち、潔めの儀式を受け、髪を剃ることになれば、その費用をパウロが持つことにした。その誓願の期間が終わろうとしていた、と受け取る人がいると思う。しかし、前の話しの続きではない。この前の話しで、パウロとヤコブの間で懸案になっていた問題は解決した。エルサレムのキリスト者にあったパウロへの誤解は消えた。
 ユダヤ風の誓願を立てたいと願っていた4人のキリスト者は貧しかった。そのことを考えれば、事情が少し見えて来る。パウロが今回届けに来たのは、ユダヤ地方で特にひどかった飢饉のため、エルサレム教会が甚しく窮乏したので、その重荷を共に担うための募金であった。すでに、6章の段階で見たように、教会は多くの貧しい寡婦たちを抱え、彼女らは教会の支援によって日々の食事が出来るという状況であった。
 今回のパウロのエルサレム滞在の記事の中に、支援金を手渡したところは書かれていないが、18節の記事の中からそれを読み取るべきである。海の彼方から運んで来た金は渡したが、これからローマに行く計画であるから、その費用は別にあった。その一部を誓願を立てる貧しい兄弟の潔めの儀式の費用にする。それは果たしたのだ。
 では、「7日の期間が終わろうとしていた」とは何のことか。誓願を立てていた人たちの誓願の期間が7日であったということではない。民数記6章にナジル人の誓願についての規定があり、それによれば誓願期間は7日である。誓願を立てている間は汚れたものに近づかず、葡萄酒も飲まず、葡萄の実も食べず、髪の毛を剃らず、ひたすら聖なる者として主に身を捧げる。が、その7日の期間が明けようとしていたというのではない。
 ここでは、祭りの7日が終わろうとしていたことだと考えるべきである。何の祭りか。五旬節である。パウロはペンテコステまでにエルサレムに着きたいと願っていたが、願い通り間に合った。この五旬節の祭りは、律法の2つの箇所に書かれているが、期間が7日と規定されていない。それでも、他の大きい祭りの型にならって、7日間行なわれたと考えてよい。7日目は祭りの終わりの日であるから、人出も多かった。騒ぎを起こしたい人にとっては恰好の日である。
 日付について細かい議論は煩わしいだけであるが、キチンと数えることは出来るので、少しだけ触れて置く。2411節で、パウロは総督ペリクスに弁明して「私が礼拝をしにエルサレムに上ってから、まだ12日そこそこにしかなりません。そして宮の内でも、会堂内でも、あるいは市内でも、私が誰かと争論したり、群衆を煽動したりするのを見た者はありません」と言う。
 このように言った12日目、それは24章の初めに書かれているように、大祭司アナニヤが長老と弁護人を伴ってカイザリヤに下って来てパウロを総督に告発した日である。これはエルサレムで騒動が起こって、千卒長はパウロを捕らえて兵営の中に隔離し、パウロが裁判を要求するので、その身柄をカイザリヤに移した。それから5日経ったということである。5日の後であるということは24章の初めに書かれている。それが今読んでいる出来事の起こった日である。
 パウロがヤコブに会ったのは到着の2日目である。そして12日目にはカイザリヤの法廷に立っていた。だから、7日の期間が終わろうとしていた時というのを、ヤコブと会った翌日に始まった誓願の期間が終わろうとしていた第7日、と取ることも出来なくない。しかし、誓願はすでに始まっていたとすれば終わりまでは直ぐである。ヤコブと会ってから誓願に入ったとすれば、まだ終わっていないから、そ潔めの儀式は出来なかったことになる。だから、その計画を済ませた後と見る方が良いのではないかと思われる。エルサレム教会の側に蟠りが残って騒動の火種になったと考える必要はない。
 さて、ペンテコステの祭りの終わりの日、パウロが礼拝しに神殿の庭に入った時、アジアから来たユダヤ人たちがパウロを捕らえた。彼らの一団はこれを計画していたのではないかと推測される。パウロの逮捕と暗殺を一人で実行しようとしても逃げられる。だから、失敗のないように予め計画した。それは29節に書かれていることから明らかである。「彼らは前にエペソ人トロピモがパウロと一緒に町を歩いていたのを見掛けて、その人をパウロが宮の内に連れ込んだと思ったのである」。
 トロピモがパウロの同行者の一人であることは20章の初めで読んでいる。トロピモはトロアス以来同じ船に乗り、パタラで一緒に船を乗り換え、カイザリヤ以来同じ道を進んでエルサレムに着いたことは確かである。エルサレムでも同じ所に泊まったと思われる。そのように同行していることを敵意あるユダヤ人は多分知っていない。彼らはエルサレムの下町でパウロとトロピモが一緒に歩いているのを見たのである。それから彼らの悪しき企みが始まった。これは悪辣で執拗な計画で、失敗を重ねつつ繰り返される。しかし、人間の悪しき企てを神は良き目的に用いたもう。
 「アジアから来たユダヤ人」というのは「エペソから来たユダヤ人」と言い換えて間違いない。エペソのユダヤ人とは、熱烈なユダヤ主義者という意味である。今の人には「原理主義の暗殺者」という言い方をすれば、分かり易いかも知れない。エペソのユダヤ人共同体はパウロによる福音の伝道によって分裂し、その半ばは会堂を離れてツラノの講堂で福音的な集会を守るようになった。キリスト者となったユダヤ人は異邦人の交わりに加わり、ユダヤ的な生き方から離れて行く。しかも、キリスト教の伝道は非常に盛んである。シナゴーグに残った人たちは、キリスト教会に対して悪意を抱くが乱暴を働くことは出来なかった。パウロに対する憎しみはますます募っていた。彼らがエルサレムに来たのは祭りのためである。
 彼らは勿論パウロの顔を知っているが、エペソ市民トロピモの顔も知っている。パウロの伝道の始まる以前から、ギリシャ人でユダヤ人の会堂に出入りしていた人はいたであろう。トロピモがその一人であったかも知れない。とすると、ユダヤ人たちがトロピモを知っていたのは当然であろう。トロピモと名を連ねて204節に書かれているアジア人テキコのことをユダヤ人らが知らなかったのか、エルサレムの下町で会わなかったのか、それについては何も言えない。パウロとトロピモの二人が町で一緒に歩いているのを彼らは見た。
 異邦人であるトロピモがエルサレムに来ていることは、別に驚くほどのことではない。キリスト教の伝道が始まる以前から、異邦人の改宗者が礼拝のためにエルサレムに上ることは稀ではあるが、皆無ではなかった。それは2章に記された最初のペンテコステの聖霊降臨の際に物音に驚いて駆けつけた人々の中に異邦人の改宗者がいたことに示される。エペソにもそういう人がいたかどうかについて我々には分からない。もしそうであったら、その時ユダヤ人たちは異邦人が自分たちの宗教に改宗したと見て歓迎したであろう。ところが、トロピモがエルサレムに来たのは異邦人の改宗の結果ではない。エペソのユダヤ人集団が切り崩されて、この切り崩しの張本人のパウロが、ギリシャ人トロピモと共にエルサレムに乗り込んで来たと受け取ったのである。
 トロピモがエルサレムに来ているとは、聖なる宮を汚すためであり、それをパウロが連れ込んだのだとユダヤ人たちは判断した。つまり、彼らの判断ではトロピモは汚れた異邦人なのだ。異邦人であっても割礼を受けたならば、汚れた者とは看做されないが、パウロのエペソ伝道は、異邦人に割礼を受けさせないで洗礼を授けるやり方だということを彼らは知っていた。彼らがエルサレムに来て、21節で読むようなことを悪宣伝したのかどうか。多分、エルサレムの教会員にまでそのような悪意の宣伝をしたのでないと思うが、エルサレム教会の内部にあった反パウロの感情にエペソのユダヤ主義者が何らかの関係を持つことは考えられる。
 アカヤ、マケドニヤ、アジアにおいて、ユダヤ教に踏みとどまるユダヤ人の間に、反キリスト教、あるいはむしろ反パウロの気運が特に濃厚であったことに我々は気付いている。具体的に言えばパウロ暗殺である。それに気付かせられたのは203節であった。すなわち3ヶ月過ごして、そこからシリヤに向かって船出しようとしていた矢先、ユダヤ人の陰謀が分かったので、予約していた船旅を急遽変更して、陸路ピリピまで行き、そこからトロアスまで船で行き、トロアスでパタラ行きの船に乗り、パタラで乗換てカイザリヤに着いた。このパウロ暗殺の計画者と同一の陰謀を企てた人がエルサレムで騒ぎを起こしたユダヤ人であったとは言えないが、通じ合う反パウロの悪意があったということが確かに推察出来る。
 彼らがどれほど入念に計画をしたかは我々には読み取れないが、騒ぎを起こし、騒ぎに紛れてパウロを殺すという手筈であったと見て間違いない。一部の人しかこの計画に関与していないが、パウロを捕まえる人、騒ぎ立てる人々、宮を汚すことがないように、外に連れ出して殺すため、先ず宮の扉を閉める人、パウロを刺し殺す刃物を持って行く人、と役割が決まっていたと考えられる。
 3031節には、宮の中だけでなく市全体が大混乱したこと、そのため町の治安を守ろうとローマ軍の守備隊が行動を起こしたことが書かれている。ローマ軍がここで介入して悪いことを始めたと見ては誤りである。確かに、彼らが町の治安を守り、パウロの身を保護したのは、人権とか人命の尊重というよりはローマの支配を維持することを第一に考えた処置である。それでも、千卒長の命令があったから、パウロは暗殺されなくて済んだ。千卒長とその部下たちが事柄を理解していたとはとても言えないのであるが、曲がりなりにも彼らは治安を確保する役割は果たした。さらに、パウロはことの不当さをカイザルに訴えると主張し、ローマの法廷に出るために身柄を拘束されたまま海を渡って行くことになる。
 パウロの身に及んだ非常な不幸というふうにこの一連の事件を考えることは正しくない。騒ぎが起こらないよう権力が発動し、裁判が行われることは、なくて済むならば結構であるが、必要な時にこれが行なわれないとすれば不幸である。パウロ暗殺の企ては何度もなされ、しかしそれは遂に果たされなかったのである。パウロ自身は治安のための権力の行使と裁判が行なわれることを求めている。ここ以後の使徒行伝の記事を理解して行くためには、ここをシッカリ読み取って置く必要がある。
 もう一つ考えて見なければならないのは、この騒ぎの時にエルサレムのキリスト者たちは何をしていたかである。それについては何も語られていない。語られていないとは何もなかったということか。パウロの身辺が危険であるのにキリスト者は知らぬ振りをしていたのか。そうではない。彼らが手を出すことの出来る範囲の問題でなかったのである。教会の中の世間的にも有力な人が乗り出して、ユダヤ人社会での影響力の大きい人物と話し合うとか、官憲の上層部と話し合うとかが出来れば、それも一つの道であろう。しかし、この段階では教会側にそのような有力者はいなかったのである。
 パウロはコリントの教会に対して、「あなた方が召された時のことを考えて見るが良い。人間的には知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない」と言った。コリントではそうであったが、それでも市の収入役が回心している。エルサレムではもっとそうであった。エルサレム教会は貧民の教会であった。しかし、彼らにも出来る事はあった。125節で読んだことだが、ペテロがヘロデによって捕らえられた時、教会では彼のために熱心な祈りが捧げられた。同じ事が今度もパウロのためになされた。
 それだけか。教会は貧しくまた無力であったが、愚かではなく、教会同士の連絡は積極的に維持していた。パウロはエルサレムで軍に拘束され、カイザリヤでも幽閉されて、ずっと外部の人と触れることが出来なかったが、ローマに送られる時、護衛の責任者百卒長ユリアスはシドンに寄港した際、パウロに友人訪問を許したことが273節に書かれている。シドンに教会が出来ていて、パウロとは知り合った人がいた。それは先般ツロに寄って7日碇泊しパウロたちが上陸した機会、あるいはもっと前からの知り合いであったが、ツロの人たちはエルサレムからの連絡でパウロの動静を知っていたと思われる。無力な教会であっても、隣の教会のことを知っている。それは力である。主の与えたもう賜物である。



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