2008.10.05.

 

使徒行伝講解説教 第128

 

――21:15-26によって――

 

 

 カイザリアからの道はエルサレム行きの最後の行程になる。二日で行ける距離であるのに、出発準備に数日かかった。人数が多く、荷物も多かったので、馬か驢馬を雇ったのではないかと思われる。「旅装を整えて」と訳されているのは準備のことである。
 エルサレムでパウロが囚われ人になるという預言があったから、パウロ以外の人にとってエルサレム行きは意欲を殺ぐものであったかも知れない。カイザリヤから数人の弟子たちが同伴したのは、護衛のためとは言っては言葉が過ぎるが、パウロの身の安全を慮っての措置であろう。
 船で運んで来た荷物が多かったので、馬か驢馬に積み替える手間が掛かったのではないかと言う人もいる。また、その荷物はアカヤやマケドニヤの教会からの援助物資かも知れない。
 カイザリヤを発って、マナソンの家に泊まる手はずが整えられていた。それはパウロ自身が提唱したのか、カイザリヤの教会員が用意したのか、分からないが、パウロもカイザリヤの人たちもマナソンを良く知っていたと思われる。マナソンは「クプロ人」と書かれているが、クプロ人とはクプロに住んでいたユダヤ人という意味である。彼が「古くからの弟子」だというのは、早くからキリスト者になったということか、古い時代から、あるいはパウロの初期伝道によって信者になったということかである。クプロの伝道については、我々の知る限りで最も早いのは、ステパノの殉教をキッカケにエルサレムで始まった迫害の際、逃れた人がピニケに、さらにクプロに行き、最も遠くに行った人たちがアンテオケに落ち着いたということを1119節で読んだ、そのクプロに留まった人である。
 パウロとバルナバのクプロ伝道の時に入信したとすれば、134節以下の記事の機会である。この後、バルナバがマルコを連れてクプロ伝道に行った記事が1539節にある。とにかく、このマナソンはユダヤに帰って来ていた。
 しかし、エルサレムに住んでいたのではないかも知れない。カイザリヤからエルサレムまでの途中のどこかの町にマナソンが住んでいて、ペテロのカイザリヤ伝道の機会に導かれたとも考えられる。とすれば、1032節から11章にかけてのペテロの伝道活動のどこかと結び付く。この人はカイザリヤのキリスト者とは親しく、彼らがパウロの一行をそこに連れて行ったとも考えられる。この大勢では親しい人の家に泊まることも難しい。マナソンの家は適当な大きさであったらしい。
 こうしてエルサレムに到着したのであるが、パウロが「出来ればペンテコステの日にはエルサレムに着いていたい」と願っていたことを我々は聞いている。2016節にそう書かれている。では、願い通りペンテコステ前に着いたのか……。着いたらしい。その後で、祭りが始まったようである。27節にある「7日の期間が終わろうとしていた時」という言い方は五旬節の7日を指したもののようである。ペンテコステに何かの行事を考えていたのかどうかは分からない。個人的なことで誓願を立てていたのではなかろうか。
 「兄弟たちは喜んで迎えてくれた」。危険が待ち構えているのではないかと思っていた人たちにとって、大いなる感謝であった。パウロには1530節で見送られて出発して以来のエルサレムであった。一緒に上ったギリシャ人にとっては最初に見るエルサレムである。エルサレムの兄弟たちが、異邦人キリスト者を交えた一行を歓迎した様子が目に見えるようである。
 18節「翌日パウロは私たちを連れて、ヤコブを訪問しに行った。そこに長老たちがみな集まっていた」。
 到着して、歓迎を受けた場所、そこがエルサレム教会の実際の中心になっていた家で、それはマリヤの家だったかも知れないが、パウロの一行はそこに泊まった。ヤコブのいるところ、また長老たちの会合する場所はそこではなかった。
 エルサレム教会が以前とは違っていたことをパウロは聞いていたと思う。以前はエルサレム教会を代表するのはペテロを議長とする使徒団である。後にはそれに長老たちが加わった会議であった。15章に記された会議では、パウロもその会議で発言して、異邦人の割礼が必要かどうかについて討議し、意見の一致に達した。
 今度はペテロはいない。他の使徒たちも名前が出ないから、いなかったと思われる。すなわち、使徒のうち或る人は殺された。或る人々は当時存命であったが、別の地に行って伝道していた。彼らが世界伝道に出掛けていたのだと見る人はいるが、使徒全員が世界に出掛けていたと考える根拠は弱い。
 使徒たちがどこへ行ったか、穿鑿することは今日はしない。それよりも、エルサレムが全教会を代表していた体制から、地方地方の自立した相互に同格の教会の連合体という体制に変わって行ったことを示すと取るべきである。発展という言葉が適切であるかどうか分からないが、教会の制度はそういう段階に移っていた。
 すなわち、エルサレム教会は主の兄弟ヤコブと長老たちとによって指導される体制になっていた。ヤコブについては、パウロは前回来た時に話し合っている。その時はヤコブの発言力はかなり強かったが、まだペテロがいて、代表はペテロであった。
 ヨハネの兄弟ヤコブ、つまりゼベダイの子ヤコブが殺されたのに続くヘロデの迫害に際して、ペテロは逮捕され、投獄され、死刑の準備が進められていたが、奇跡的に脱獄する。脱獄後マルコの母マリヤの家に別れを告げに来て、主が解放して下さった次第を語り、ヤコブや他の兄弟たちへの伝言を託して、闇の中に消えて行った。1217節が記すところである。今度パウロが上京した時、ペテロの消息は依然として分かっていなかった。暫く後、パウロがローマ入りするのと前後してローマに入ったらしいことが分かっている。
 ゼベダイの子である使徒ヨハネも、この時点でどこにいたかは把握できていない。しかし、ペテロが教会の基礎を開いたエペソで、アジア州の教会を指導することにやがてなる事情は広く知られている通りである。
 エルサレム教会は、パウロが知っていた嘗ての状態から変わっていて、その違いにパウロはもう気付いたと思う。すなわち、20節にあるように、「ユダヤ人の中で信者になった者が数万にも上っている」という現状であった。「数万」と訳されるのは数千かも知れないが、夥しい人であることを言っている。最初の五旬節に三千人であったクリスチャンが数万人に増えていたということは不思議ではない。ただ、ユダヤ人の多くがキリスト者になったため、ユダヤ人社会がキリスト教社会に近づいたとは言わない方が良いであろう。むしろ、キリスト教がユダヤ主義化する危険が大きくなったと取るべきであろう。つまり、ユダヤ教的な慣習と儀式と律法主義が大幅に入って来て、ユダヤ教と一線を画するキリスト教の特質は不鮮明になる恐れが出て来た。
 15章の記事で見たように、異邦人でキリスト教信仰を受け入れる者に、先ず割礼を施すべきかどうかという問題は、決着がついたのであるが、再燃しそうな気配はずっとあったらしい。パウロがエルサレム行きの計画を真剣に考えた理由は、これまで明確に示されていないが、律法主義の問題が絡んでいるようである。ただ、ことを荒立てるないように扱っていたため、露な対決を口にすることを避けていた。それでも律法主義との対決になることは覚悟していた。そうなれば命を捨てて福音の真理を守らねばならないとの覚悟をしていたらしい。
 律法主義の代表はヤコブである。ヤコブの立場は「ヤコブ書」に表明されていて、パウロのそれとは違う。すなわち、その書の214節以下で言うように、ヤコブは行ないなき信仰を糾弾する。これはパウロの信仰のみによる義を意識したものであることは広く知られている通りである。しかし、この対立を強調し過ぎては事柄の把握に失敗する。
 両者は補完し合うことが出来る。すなわち、義とされるのは信仰のみによるのであるが、信仰の証しは行ないである。この事情がパウロとヤコブとの間で十分語り合われ、一致が確認されるに至ったということではないが、両者の激突があったわけではないし、教会内で律法主義と福音主義の決裂があったという理解は成り立たない。ヤコブとパウロは衝突していない。肚の探り合いをしたのでもない。パウロに対して激烈に対立したのは、教会の外に留まるユダヤ主義的ユダヤ人、また教会に加わったがまだ日の浅い人々である。パウロは最悪の事態を想定して、死を覚悟したのだが、実際はもう少し良く分かり合える関係であった。
 ヤコブと長老たちが配慮したのは、教会内のユダヤ人の躓きである。21節に書かれているが「彼らが伝え聞いているところによれば、あなたは異邦人の中にいるユダヤ人一同に対して、子供に割礼を施すな、またユダヤの慣習に従うな、と言って、モーセに背くことを教えている」と言う。異邦人教会の中にいるユダヤ人キリスト者について、事実と若干違うことがエルサレムで語られていた。15章で見たように異邦人伝道を使命とする者と、ユダヤ人伝道をする者との領分は分けられた。そのことを考え直そうというのではない。
 ユダヤ人が先祖以来守って来た割礼は、すでに意味の全うされた、したがって用の終わったものと理解するのは間違いではない。実際、クリスチャンになったユダヤ人が二代目三代目まで割礼の儀式を踏襲することはなかった。それは当然廃れた。敢えて廃止せよと言う必要もなかった。神によって制定された儀式であるから、廃止された後でも守り続けることに意味がある、というならば、それは確かにおかしい。意味のない儀式を宗教的意味のあることのように続けるのは迷信である。
 ただし、先祖が守って来た慣例が、十分な理解なしに強圧的に破棄されることは躓きの原因になる。小さい石に躓く人がいるが、躓かせる点では大きい石で躓かせるのと違わない。ヤコブはエルサレムにいるユダヤ人キリスト者を小さいことで躓かせないための提案をする。
 教会の中に現在誓願を立てている者が4人いた。その人たちの誓願の期間が終わろうとしている。その機会に彼らと一緒に潔めの儀式を受け、儀式の費用をパウロが負担すれば、彼が律法の儀式を軽んじていないことがハッキリするから、誤解する者はなくなるという助言である。パウロは素直にその助言を受け入れた。
 少し分かり難いかも知れない。先ず確認して置かねば鳴らないのは、主イエスがマタイ伝534節以下で「一切誓うな。あなた方の言葉はただ然り、然り、否、否であるべきだ」と教えたもうた。誓願も誓約も要らなくなった。キリストにおいて然りは然りになった。だが、キリスト以後でも誓願が許されていた。二つの点を考察しよう。第一に、1818節で見たことであるが、パウロもかねて誓願を立てていて、ケンクレアで髪を剃った。この誓願の内容は記されていないから我々に分からないのだが、パウロ自身この誓願のことを人に語ることはなかった。誓願は隠れたことを知りたもう神に立てるのであって、それは良心の事柄であり、他の人の関与すべきことでなかったから人に詳しく話さなかった。
 今、エルサレムで4人のクリスチャンが誓願をして、その期日が明けようとしている。この4人の誓願内容にパウロは立ち入ろうと思わない。しかし、自分自身も誓願を立てることをしたから、4人のことは理解できる。そして、その誓願がつつがなく終わるように協力する。
 もう一点考えたいことがある。長老たちはパウロも潔めの儀式を受けるように勧める。これは受けても受けなくても良いものだとパウロは知っている。長老たちも同じ認識であったと見て良いが、とにかく潔めの儀式を受けて、律法の儀式を軽んじているのではないかと疑って躓く人が出ないようにしようと考えたのである。
 それは余計な配慮であろうか。あるいは迷信への妥協であろうか。そうではない。パウロ自身、コリントの人から問われて、Iコリント8章で答えていることがある。偶像に供えた物を食べて良いかどうかという問題である。偶像なるものは実際はないのであるから、それに供えたことがあっても本質が変化したわけではない。だから、食べて良い。けれども、偶像に供えられた物をキリスト者が食べて、それを見て躓く人がいるとすれば、躓かせる罪を免れることは出来ない。だからその躓きは避けなければならない。この点で、パウロとヤコブは妥協でなしに一致しているのである。


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