2008.09.14.

 

使徒行伝講解説教 第127

 

――21:1-14によって――

 

 

 パウロの一行が乗った船はミレトからコスという東西に長い島に直航し、島の東端にある港にその夜は碇泊した。翌日、南下を続けてロドス島の北にある港、町の名も同じロドスまで行って碇泊し、翌日パタラまで行って大きい船に乗り換えた。その町は大きくないので、荷物の積み卸しはないが、パタラの港は深かったので、大型船が出入り出来たようである。――ある写本では、乗換えはパタラからさらに先の、ミラという港であったと書いているが、乗り換えた場所について論じるだけの知識がないので触れない。船を換えたことは確かである。大型船になれば沿岸航路の船のように毎日港に停泊することはなく、昼夜を通じて季節風に乗って東に行くことが出来る。だからここで乗り換えることを初めから計画していたのではないかと思う。乗り換えてからツロに着くまでは5日間だったと言われる。幸い、大型船が直ぐ見つかったらしい。パウロ自身がこの辺りの交通事情に詳しかったとは思われないが、最も良い道を選ぶように情報を集める方法を知っていたのであろう。
 乗り換えるまではエーゲ海の東の端を南下し、大きい船になってからは大海原を行く。行き先はエルサレムである。パウロにとっては、このコースを通るエルサレム行きは初めてである。ユダヤ人にとってはエルサレムへの道は特別に感慨深い物があり、詩篇にある都詣での歌を歌いつつ進んだ。パウロもそうだった。漫然と海を眺めてはいない。
 パタラを出て東南東に針路を取ると、3日目にクプロが水平線上に見えて来る。その島を左に見て進むとやがてシリヤの陸地に達するのである。この船はピニケ、すなわちフェニキヤ行きの船であった。フェニキヤのツロを母港としたのではないか。
 ツロで大部分の積み荷が下ろされる。荷揚げその他の用事で碇泊している間、パウロたちは陸に上がって泊まった。船の運ぶ積み荷がなお残っていて、ツロを出てから途中のトレマイに寄って荷を卸して一晩泊まり、翌日カイザリヤに着いて船を最終的に下船するという計画ではなかったか。
 さて、ツロに着いて後のことは4節から読めば良いと思われる。「私たちは弟子たちを捜し出して、そこに7日間泊まった」と書かれている。ここツロにキリスト者がいることをパウロは知っていたのである。すなわち、使徒行伝の1119節に「ステパノのことで起こった迫害のために散らされた人々は、ピニケ、クプロ、アンテオケまで進んで行った」と書かれている様に、新しい地を求めてずんずん進んだが、ピニケで留まって、定住した人もいたのである。ここにピニケと書かれているところがツロであると見て良い。そこに教会が起こされた。
 そして、153節に、パウロ、バルナバ、その他数人のアンテオケ教会の人々がエルサレムの使徒や長老たちと協議するために、ピニケ、サマリヤの道を通ってエルサレムに上ったことが書かれている。彼らは道すがら、そこにある教会でアンテオケにおける異邦人の改宗の模様を詳しく説明し、人々は非常に喜んだのである。
 11章にあったピニケに留まったキリスト者は、エルサレムから迫害を逃れて来た人たちで、それはギリシャ語を語る系統のユダヤ人であった。パウロとバルナバがここを通ってエルサレムに行った時、少なくとも顔と名前を知り合っていたであろう。だから、パウロがツロの港で船を降り、ツロ市内、あるいはピニケ地方のキリスト者を捜した時、簡単に見つけ出せたはずである。そう大きい群れになってはいなかったが、彼らはそこに根を下ろし、子供も生まれ育っていた。
 ツロ、あるいはピニケのキリスト者の集団がどの程度になっていたかを推定することは出来ないが、この人たちが集会を守り続けていたことは確実に言える。ピニケ地区の教会は、エペソで見られたような、長老が配置された群れが幾つも出来ているというような盛んな有様ではなかった。伝道に専従する者がいたかどうかはハッキリしない。しかし、この一行が泊まることが出来た。それが集会所であった。頻繁に集会を持っていた。その集会は、集まったうちの或る人が聖霊を受けて預言を語るという形の集会ではなかったかと思われる。
 エルサレム行きを急いでいたということを前に見た。急ぐならツロに何日も滞在しないで、陸路エルサレムに行けば良かった。ここに泊まったのは、一つは航海が順調に行って余裕が出来たからであり、もう一つ大事なことはこの地の伝道を押し進める必要があったからである。それが7日間だったとは書かれていない。
 パウロの一行については204節に名前が上がっていたが、ソパテロ、アリスタルコ、セクンド、ガイオ、テモテ、テキコ、トロピモ、それとルカであった。この一行がツロを訪ねたのであるから、教会にとっては初めての大集会になった。連日集会が持たれたと想像して良い。おもな説教者はパウロであるが、同行者たちは協力し、この地の人々も御霊を受けた時には発言していた。
 4節の続きには「ところが、彼らは聖霊の示しを受けて、エルサレムには上って行かないようにと、しきりにパウロに注意した」と書かれている。これは、今言ったように集会を守っているうちに、或る人々が御霊の示しを受けて預言を語り出したということであろう。こういう預言については、9節でも伝道者ピリポの娘たちについて、また預言者アガボとの再会の際にも見ることが出来るのであるが、この地方の諸教会には盛んな傾向であった。
 御霊の示しは、パウロがエルサレムにおいて捕らえられるというものであった。だから、人々はパウロをエルサレムに行かせないのが神の御旨であると信じたのであるが、パウロはエルサレムに行くことが御旨であると信じ、人々が強いて止めさせようとしても、勧めを聞かない。それは御旨に反することを敢えて行おうとしたという意味ではない。エルサレムで捕らえられ、異邦人に引きずられて、運ばれて行く。それが御旨であると受け取っていたからである。このことについては後ほどまた考えることにする。後でハッキリする。
 ツロを出港する時間になったのでパウロたちは船に戻る。ツロの教会員は女子供も一緒になって岸辺まで行って。祈って別れる。
 次にトレマイに寄る。これはギリシャ風の名前になっているが、古くからのフェニキヤの港であって、フェニキヤの名はアッコと言った。ここに教会があることをパウロが前から知っていたのかも知れないが、ツロにいる間にそのことを聞いたので訪ねたのかも知れない。トレマイの伝道については記録がないから、1119節のピニケ伝道に続く発展であったと考えられる。「私たちはツロからの航行を終わってトレマイに着き、そこの兄弟たちに挨拶をし、彼らのところに一日滞在した」。トレマイで船旅は終わったとも考えられるし、翌日、ついにカイザリヤに着いて船を降りたとも取ることが出来る。
 89節「翌日そこを発って、カイザリヤに行き、かの七人の一人である伝道者ピリポの家へ行き、そこに泊まった。この人に四人の娘があったが、いずれも処女であって預言をしていた」。
 カイザリヤに数日滞在することになると10節に書かれている。予定していたのでもないらしいが、重要なことがあったと思われる。それはピリポの家、そこにいる四人の娘との関係があったからであると見る人がいる。それは当たっていると考えられる。どういうことかと言えば、この四人が初期キリスト教の伝承を蒐集して記憶しており、それをルカが聞き取って記録したということが、パピアスという人のかなり古い記録が残るからである。
 カイザリヤは古代教会の歴史記述の中心地である。4世紀にエウセビオスという監督がこの町にいてキリスト教教会史の基礎付けをしたことは広く知られている。そうなって行く基盤があったのである。
 カイザリヤの伝道がペテロによって始められたことを我々は10章で教えられた。それは932節から続いて述べられているペテロのユダヤ西部伝道の続きである。カイザリヤでは百卒長コルネリオとその部下を初穂とする。多くの異邦人の回心が起こった。
 その回心の後にペテロが去って、それからピリポがカイザリヤに来たらしいのであるが、これはピリポがエチオピヤ宦官を回心させた後、アゾトに姿を現わし、至る所で福音を宣べ伝えたと記す8章の終わりで言われたことである。使徒行伝の書かれた順序では、その後10章にペテロのカイザリヤ伝道があるが、ピリポがカイザリヤに来たという8章の最後に書かれた出来事はその後であろう。
 218節ではピリポを「かの七人の一人」と呼ぶ。6章で述べられた貧しい寡婦の食事の面倒を見るためにステパノを筆頭に選ばれた人の内の一人である。殉教者ステパノと同一系統の神学を奉じるヘレニストであり、エチオピヤ人の回心を指導した。だから、ペテロがカイザリヤで始めたコルネリオたち異邦人の改宗者を引き続き教育して、ユダヤにある異邦人教会としてのカイザリヤ教会を育て上げたのである。
 かの七人は6章で見た限りでは貧しい寡婦の食卓の世話をする執事であったが、カイザリヤでは伝道者と呼ばれていた。福音を宣べ伝える務めを遂行していた。カイザリヤでは監督だったと思われる。娘の4人はカイザリヤに来てから生まれたのではないかと思う。彼女たちは結婚せずに教会に仕えた。「預言をしていた」とはそういう意味である。預言ということでは、スグ続いてアガボという預言者が登場するが、ピリポの娘たちがアガポのしていたような預言をしていたと見るのは困難である。彼女たちの語った預言は福音だったのではないか。それをルカが書き留めて、ルカ伝の資料とした。その聞き取りのためにパウロもカイザリヤに足を留めなければならなかった。
 ルカが福音書を書く用意のために留められたとしても、パウロはそのことには関係していなかったから、彼が滞在したのは伝道のためであった。エルサレムに比較的近い所に強力な異邦人教会を建て上げて置くことは全体教会のためにも、将来の教会のためにも必要であった。
 ここで話題が転じる。「幾日か滞在している間に、アガポという預言者がユダヤから下って来た。そして私たちの所に来て、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って言った『聖霊がこうお告げになっている「この帯の持ち主を、ユダヤ人たちがエルサレムでこのように縛って、異邦人の手に渡すであろう」』。私たちはこれを聞いて、土地の人たちと一緒になって、エルサレムには上って行かないようにと、パウロに願い続けた。その時パウロは答えた、『あなた方は、泣いたり、私の心を挫いたりして、一体どうしようとするのか。私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことをも覚悟しているのだ』。こうして、パウロが勧告を聞き入れてくれないので、私たちは『主の御心が行なわれますように』と言っただけで、それ以上、何も言わなかった」。
 アガポについては1128節で見たことを覚えている。エルサレムからアンテオケに何人かの預言者が下って来たが、その中の一人にアガポがいて、世界中に大飢饉が起こると預言した。その預言が成就したのであるが、そのアガポである。かなり有名になっていたようである。今回も遍歴してカイザリヤに来た。
 彼はパウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って、「聖霊がこうお告げになっている」うんぬんと言った。これは旧約の預言者の仕草を髣髴とさせる行為である。このアガポがいるところで、ルカやパウロの同行者、そしてカイザリヤのキリスト者たちが、パウロにエルサレム行きを思い留まらせようとしたのか、アガポが去ってから言い始めたのか、そこはよく分からない。これまで各地で聞いた預言が非常にハッキリした身振りを伴って語られる。
 パウロは死ぬことをも覚悟していると言う。主イエスが死を覚悟してエルサレムに上って行かれたことを我々は思い起こすのだが、主イエスがエルサレムに上りたもうたことと、パウロが断固としてエルサレムに上ったこととを同じと見てはならない。主イエスの場合、エルサレムに上って十字架につけられることは永遠に定められていた一回限りのことで、その決定を主イエスも知っておられた。
 パウロの場合、縛られて、異邦人に渡され、異邦人たるローマ兵に引かれて行くのであるが、刑場に行くのではない。むしろ彼自身の願っているローマ行きが、こうして実現するのである。囚人として連れられていったのは事実であるが、犯罪人としてではなく、皇帝の裁判を受け、こうして法廷で証しを立てるためである。
 エルサレムに行って殺されるかも知れないのに、パウロが毅然として行ったことは確かであるが、我々が悲壮な思いになって、美談に感心し過ぎてはいけない。我々は彼が確信を持っていた点だけに注目すれば良いのである。

 


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