2008.09.27.

 

使徒行伝講解説教 第126

 

――20:29-38によって――

 

 

 「私が去った後、狂暴な狼があなた方の中に入り込んで来て、容赦なく群れを荒らすようになることを私は知っている」。――これから先の教会を襲う危険についての予告が与えられる。「私が去った後」と訳される言葉について、別の解釈がある。が、とにかく、彼の去った後のことを言っている。キリストから使徒として立てられた彼がいる間は、感化が残って不都合なことは起こりにくい。が、いなくなった後には良くないことが起こるという意味であろうか。それが彼には分かっているのである。

 狼が羊の群を荒らすことについての警告を、主イエスがしきりに語られたということを弟子たちは知っていた。例えば、ヨハネ伝1012節である。「狼は羊を奪い、また追い散らす」。その狼れは羊の皮を被って入り込む。主イエスはマタイ伝715節で「偽預言者を警戒せよ。彼らは羊の衣を着てあなた方の所に来るが、その内側は強欲な狼である」と言っておられる。狂暴な狼が来たと分かれば、逃げるのであるが、狼が狼らしく見えないように、むしろキリストの羊であるかのように装って入り込む。だから気を付けなければならない。気を付けておれば、擬装を見破ることは出来る。

 これは外から入ってくる偽教師である。教師だと称する遍歴の伝道者が行き来していた。丁度、旧約時代、預言者と名乗る者があちこちに現われ、語ることが食い違った。キリストの教会において、召命を受けたと自称する者が現われた時、それを直ちに疑うことは慎まなければならないと人々は考える。人は知らないが主が立てておられるかも知れない。そこで教会は主がその人を務めに任じたもうた証しを慎重に求めるようにした。その人物が福音を託された者と認められるかどうか。また、その人の説く福音が正しい教えの基準に合っているかどうか。その吟味は重要である。それでも、人間の下す判定に間違いがあるという事実はなくならなかった。この問題は今日に至るまで教会に問われている。

 次の30節には「あなた方の中からも、いろいろ曲がったことを言って、弟子たちを自分の方に引っ張り込もうとする者が起こるであろう」との警告が与えられる。これはあなた方、既に主の名によって、使徒の執行する儀式によって教会の仕え人に立てられた者、その者のうちから、異端や分裂が起こるのだとの警告である。先にあげた外から来る人とは対照的である。

 外から入って来るにせよ、内から起こるにせよ、異なる教えを持ち込むとか、教えは違っていないように聞こえるが、主の教会を建て上げようと忠実に働くのでなく、先に警告されたことだが「あなた自身に気をつけよ」と言われた警告を聞き流して、教会を自分の所有物にしようとしたり、自分の名声のために教会を飾り立てたり、手抜きして仕事を楽をする者が現われて、教会が疲弊し、消滅することが起こるのである。これは主イエスがヨハネ伝10章で、真の羊飼いと、自分の糧のために雇われた羊飼いとを見分けよと教えておられたところで注意を促しておかれた雇い人である。

 ところで、今聞くパウロの警告の中に、迫り来る帝国の迫害が含めていたのかどうか。それは良く分からない。エペソを中心とするアジアの諸教会をこの後いくらか時を経て指導したのは使徒ヨハネである。そして、ヨハネの時代にアジアの教会は皇帝礼拝の強要という試練に遭い、ヨハネがそれに立ち向かって戦うよう人々を励ましたことはヨハネ黙示録に明らかである。さらに、その戦いの中でヨハネが殉教の証しを立てたことも知られている。初期のパウロの指導から次の時期のヨハネの指導へとアジアの教会が一貫した戦いをしていたことを見なければならないが、ヨハネの時代に襲って来る皇帝像礼拝の強制に対する戦いの予兆が、パウロのエペソ教会への警告の中に読み取ることが出来るか。それはハッキリしない。しかし残念がるには及ばない。

 教会の主は一貫して御自身こそ教会の主であることを明らかにしておられる。その主権を危うくするのが、ヨハネの指導する時代のアジア教会では皇帝像礼拝の強制であった。その危険は、パウロがアジアで伝道を始めた時期にはまだ現われてはいなかったようである。

 その危険よりは、教会の伝道者の中に、主の御言葉を正しく語らず、また主の教会を主の教会として正しく建て上げず、牧会せず、指導者の名誉心のために成績を上げることしか考えない教師が出て来る危険があった。ここでもキリストが教会の主でいますことは曖昧にされるのである。だから、教会が惑わされることがないためには、教会におけるキリストの主権が常に鮮明に掲げられなければならない。

 エペソの長老たちに対する注意として、先に28節には「あなた方自身に気をつけなさい」と言われたが、31節では「だから目を覚ましていなさい」と言われる。似た言葉であると見て良いと思うが、要点を己れ自身についての反省と自己訓練という道徳的訓戒に引き下げてはならない。

 「目を覚ましておれ」という警告は、いろいろな社会のなかで日常的に語られるが、初期キリスト教会の中では「合言葉」として互いに呼び掛け合っていたものだということを忘れないようにしよう。頻繁に使われる言葉であったが、例えば、I テサロニケ5:6では「ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まして慎んでいよう」と言う。ほかの人とキリスト者の違い、それは目を覚ましているかどうかにある。すなわち、キリスト者は時を知っている。つまり、今が眠りから覚めるべき時であることを知っているのである。朝が来ているのである。

 「目を覚ましておれ」という言葉が合言葉として広がったのは、主イエス御自身がこの言葉を広めたもうたからであると我々は理解している。すなわち、マルコ伝13章にあるように、終末についての教えの中で、終末的な意味を籠めてこの言葉が用いられているのである。

 「そして私が3年の間、夜も昼も涙をもってあなた方一人一人を絶えず諭して来たことを忘れないで欲しい」。エペソ伝道は198節で言うところにしたがえば、最初シナゴーグを用いて3ヶ月、その後、10節の言うところでは2年間ツラノの講堂を使って行われた。それを合算して2031節では3年と言う。23ヶ月だったのではないかと異論が出るかも知れないが、3年とは足掛け3年のことかも知れないし、ツラノの講堂の2年というのは実際はもっと長かったのかも知れない。

 この期間の実際活動のことについては、この章の18節以下でも触れられた。語る言葉としては同じでないが、語られている内容は同一事実である。パウロはその事実を思い起こさせ、その事実そのものを思い起こすことが実際教育であると言っている。

 ここでは、シナゴーグとツラノ講堂での公けの説教よりも、個別の訓戒や指導を思い起こさせている。ただし、あなた方一人一人というのは、20節にあった「公けにも、また家々でも」という時の「家々」と同じではなく、長老となった人、あるいは長老となるべき人のための、務めに関する特別教育だと思われる。 一人一人の信仰を確立させ、こうして堅固な教会を建て上げて行くことが重要であるが、ただ人数を増やすことに努めたとは思われない。ここには群れの牧者である長老だけが集められている。この人たちが会衆から信任を受けて立てられたという面はある。だが、会衆が人を選ぶ眼識を持つことは必要だし、その能力があると信じなければならないけれども、人々の好むままに指導者を選ばせていては方向を誤る危険がある。イエス・キリストが使徒となるべき弟子を入念に訓練したように、使徒も教会の牧者となるべき人々をシッカリと訓練したのである。それが一人一人に、涙を流して、夜といわず昼と言わず、訓練を施したと語られていることの内実である。

 涙を流して絶えず諭したとは、涙を伴う厳しい訓戒で立ち返らせねばならない失敗を彼らがしばしば繰り返したことを意味するのであろうか。そうかも知れないが、涙というのは悔い改めを迫ることでもあるが、真の悔い改めに導く指導者を育てるために必要な模範であった。すなわち人々を導くうわべのやり方を教えるのでなく、人々を泣きながら指導するような真剣な牧者を育てたのである。

 長老たちが見習って行くことの第一点として、生ける御言葉を語ることが上げられる。32節に「今、私は主とその恵みの言葉とに、あなた方を委ねる。御言葉にはあなた方の徳を建て、聖別された全ての人々と共に、御国を継がせる力がある」と言うのはその意味である。

 今主に委ねるとは、これまでは私がいろいろ世話をしていたが、今からは主にお任せするという意味であるが、これまで主とその言葉が働いていなかったということではない。これまでは何かにつけてパウロを頼りにしていたが、これからはもう会えないのであるから、ひたすらに主と向き合って、主から支えられよ、ということである。「御国を継がせる力がある」のは、主なのか、主の言葉なのかということで議論が起こることがある。これは「み言葉において働きたもう主にあなた方は委ねられるのだから、ひたすら主の言葉に密着してあなた方の務めを全うせよ。御言葉があなた方を建て上げ、御国を継がせる」という意味である。あなた方の「徳を建てる」と訳されるが、「徳」という言葉が使われているわけではない。あなた方が建て上げられるというのであり、建てられるとは教会が建て上げられるという意味で用いられる言葉である。個人が信仰的にシッカリした者になって行くと取られる場合があるが、教会が建てられて行くという意味で語られたと読みたい。こうしてこそ御国に入って行くのである。

 見習って行くべき第二点は、具体的な金銭問題である。この問題についてハッキリ留意を促している使徒はパウロだけである。しかし、彼がそれを注意していたので、使徒の中で最も広い範囲で働き、また自立性を持つ教会を建てて行けたのである。

 使徒は主から派遣されたが、必要な費用を添えて派遣されたのではない。主イエスも弟子たちを伝道に派遣する時、財布を持つな、と言われた。必要なものは主が備えたもう。自分の財布は空であるからといって、人の財布をあてにしてはいけない。好意に甘えてはならない。では、どうなのか。伝道する者の生きるための食物は同じ信仰にある者の提供か、自ら人一倍働いて手に入れるかせよというのである。 旧約の祭司は務めを遂行するために民から費用を徴収することが律法で定められ、制度的に保障されていた。異邦人世界では知者であると自称する者が知識を与えて謝礼を取ることが慣習になっていた。それなら、キリスト教の伝道者も伝道して生活費を得て良い。しかし、素性の分からない外来の教師が人に教えて謝金を受けることを胡散臭いと見る人もいた。その価値の分からない教えを伝えて、謝金を受け取るのは詐欺行為ではないかと見ることが出来る。異邦人世界における伝道はそのように見られるかも知れなかった。それが福音の躓きになる恐れが大いにあった。

 そこで伝道者たちは、報酬を受けて福音を与えるのでなく、無代価で福音を与える。教会が建ち上がって経済的に自立した後はまた別であるが、何もないところから始める時には、無代価で宝物を配るのと同じやり方であった。そんな事では食べて行けないと心配するなら、その人は伝道を止めた方が良い。しかし、福音を伝えるのは生身の人間で、食べなくても生きて行く保障があるのではない。だから食べて生きる。食べるために天からマナが降って来る訳ではない。奇跡を演じて食物を得るのではない。自分で労して食べ物を得るのである。自分が食べる分だけ働くのではなく、一緒にいる人に食べさせるために働いた。テント職人としての技術、材料の入手のための知識、製品を販売する知識があった。

 こういうことが伝道者の生き方として定着したわけではない。パウロ自身もコリントでテント造りの仕事をしなくて良くなった時には専ら伝道に励んだ。しかし、エペソに来て、初めはまたテント造りをした。今でも伝道の使命を受けている者は必要な時には自分で働いて食べるのである。

 では、先ず自分で食べて行けるだけの仕事が身についていなければ、伝道してはならないのか。それは違う。そんなことなら年金を受けるようになってから伝道を始めるのが最も合理的だということになろう。それも一つの道であるが、原則は福音伝達の支障になることは迷わず捨てて行けるという姿勢である。あるいは、キリストのためには何でもするという姿勢である。

 パウロがここに「受けるよりは与える方が幸いである」という主の御言葉を引いていることに我々は注意を促される。この言葉は福音書にはないが、それ以外に主の言葉として伝承されたものはある。受けることも幸いなのだ。だから受けることしか出来ない時、人から受けることを拒んではならない。しかし、与えることにもっと大きい幸いがあるから、与えることの幸いを求めるのである。これはディアコニアの教会の知恵である。

 


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