2008.08.24.

 

使徒行伝講解説教 第125

 

――20:22-28によって――

 

 

 パウロは「御霊に迫られてエルサレムに行く」と言う。これは1921節で「御霊に感じて……エルサレムに行く決心をした」と訳されていたことと大体同じことと見られる。先のところでは、御霊に力点が置かれているように読まれるような訳になっているが、「御霊」と訳されたのはパウロの霊ではないかと見た。今度も自らの霊に強制されたと取ることは出来るが、強制するのは御霊であったと取る方がピッタリする。自分自身の発意とは凡そ無関係に、エルサレムに向かわずにおられないという事情である。

 パウロ自身に旅行計画があったことは確かである。ローマ書152526節に「今の場合、聖徒たちに仕えるために、私たちはエルサレムに行こうとしている。何故ならマケドニヤとアカヤとの人々は、エルサレムにおる聖徒の中の貧しい人々を援助することに賛成したからである」と言う。エルサレム教会の貧しい信徒たちを助ける資金を集めようと思い付き、マケドニヤとアカヤの教会に呼び掛け、自ら出向いて金を受け取ってエルサレムに運んで行く。これは教会間の協力と支援の実例である。長大な隔たりがあるのに、この計画を最初に発案しかつ実行したのは彼であった。自分で言い出した以上自分でやり遂げねばならない。だから、万難を排してもエルサレムに行く。

 しかし、それだけを見ていてはいけない。自分の着想や決意を遥かに越えたものに突き動かされていると彼は言うのである。

 あの時代、人々の生活は土地に結び付けられていたから、旅すること自体が困難を伴っていたが、苦労して行った先でさらに大きい患難に遭わねばならない。止めて置けば良いことが分かっている。それでも行く、というのである。敢えて赴くこの「患難」にパウロは注目している。我々もそこに思いを向けねばならない。

 どういう患難であるかは、いずれ明らかになることで、今ここで説明して置く必要はない。パウロ自身にも予想出来ていたとは思われない。患難がハッキリ見て取れ、それを十分承知の上で前進を止めないというのと少し違うのではないか。我々がシッカリ見て置かねばならないのが、患難が予告されてもされなくてもパウロの決意は変わらなかったということである。

 少し後のこと、21章の4節に記されているが、船がツロに着いて荷揚げの間に教会を探して訪問する。ところがツロのキリスト者らは御霊の示しを受けて、パウロにエルサレムへは行かないようにと忠告する。パウロはそこからまた船に戻ってカイザリヤまで行って下船するが、その地の教会で旧知のアガポという預言者に会う。11節を見るとアガポはパウロの帯を取ってその帯で自分の手を縛り、「聖霊がこうお告げになっている。『この帯の持ち主を、ユダヤ人たちがエルサレムでこのように縛って、異邦人の手に渡すであろう』」と言う。パウロの同行者もカイザリヤ教会の人たちと一緒になって、パウロをエルサレムに行かせないように説得するが、パウロは聞かない。

 ツロとカイザリヤでの出来事は後でその時また学ぶことにして、ミレトで語っている言葉の中にも、23節で見る通り、「聖霊が至る所の町々で私にハッキリ告げているのは、投獄と患難とが私を待ち受けているということだ」という言葉がある。すなわち、ミレトに来るまでの町々で、その町の信仰者たちが聖霊によって患難を預言したということである。患難が待ちもうけていることは分かっているが、エルサレムに行くことを止めないのである。患難は回避すべきものではなく、受けいれるべきものだ、それが主の御旨だという確信がある。

 前途に患難があっても前進しようという決意自体に意義があると見てはならない。24節で「しかし私は自分の行程を走り終え、主イエスから賜わった神の恵みの福音を証しする任務を果たし得さえしたら、この命は自分にとって少しも惜しいとは思わない」と言っている。福音を証する務めを主イエスから賜っているのだから、その務めのために全生涯が用い尽くされねばならない、と言うのである。

 福音を証しすることが重要であるなら、患難が前途に待ち受けているのが分かっているのにエルサレムに行く、ということは避け、福音を証し出来る場所は幾らでもあるのだから、エルサレム以外の地を選ぶべきではないかということが考えられる。パウロの同行者も、通過した各地のキリスト者もそう考えた。それが間違っていたと言うべきではない。ただ、我々は主の計画以上に賢いと考えてはならない。そして、主の計画はパウロ本人に伝えられていた。

 もう一つ考うべきは、主の計画が伝道者の生涯全体に亙っているものであって、一時的な良き成果や失敗に左右されないという点である。

 いろいろなことを見たけれども、今エペソの長老たちに語っているのは、次の点である。25-27節、「私は今信じている、あなた方の間を歩き回って御国を宣べ伝えたこの私の顔を、みんなが今後二度と見ることはあるまい。だから今日、この日にあなた方に断言して置く。私は全ての人の血について何ら責任がない。神の恵みを、皆余すところなくあなた方に伝えて置いたからである」。

 エペソに来ることはもう決してないと言う。それは、これからエルサレムに行って、そこで患難に遭うからであるが、ということはそこで殺されるという意味なのかどうかは分からない。パウロ自身のうちには、この後ローマに行き、さらに西の果てイスパニアにまで福音を行き渡らせようとの熱意があったが、あなた方ともう会うことはないと言うのはそのことなのか。パウロの言葉は殉教の死を覚悟しているように読めるし、エペソの人々が別れを惜しんでいるのもパウロの死を予感したからであると解釈するのが自然である。しかし、パウロの決別の説教が死を前にして語ったものだとの解釈を讀み込み過ぎてはならないのではないか。

 福音を語るということ、そして聞くということには、ただこの時だけ、という覚悟がある。数字的には必ずしも最終回でないのだが、まだ修正の余地があると思ってはならない、最終的な機会、この一回、ここで決まりがつくという確認を伴うのである。そういう意味が、この機会にハッキリわかったということこそ重要なのである。だから、「私は全ての人の血について何ら責任がない」という確信の断言があった。

 この断言がパウロのこの時の気持ちを表わすものと理解しては正しくない。これは主イエスが弟子たちを伝道に遣わされた時に教えられた姿勢である。マタイ伝1014節で言われた、「もしあなた方を迎えもせず、またあなた方の言葉を聞きもしない人があれば、その家や町を立ち去る時に、足の塵を払い落としなさい」。すなわち、この町の滅びについては私には責任がないという表明である。言い換えれば、「私は神の御旨を皆あますところなくあなた方に伝えた。だから責任を果たした」という証言である。

 信仰は聞くことによって立ち上がり、その信仰によって救いが与えられる。だから、聞くべきことを余すところなく聞くように、余すところなく伝えねばならない。もし、伝えるところに欠けがあったなら、その信仰は近くまで行ったとしても救いに届かない。この場合、伝えた人に責任が問われる。だが私は余すところなく御言葉を伝えたから、滅びの責任を負わねばならぬことにはならない。これが伝道者の受けている保証であり、同時に課題である。したがって、パウロは自分のためにこう言ったのではなく、御言葉を語り伝える全ての人のことを語ったのである。そして、今語り掛けている相手は、単に福音の聞き手であるだけでなく、福音の語り手である。

 そこで次に言う、「どうか、あなた方自身に気をつけ、また全ての群れに気を配って頂きたい」。

 先ず自分自身に気をつけねばならない。御言葉を語る者は自分の言葉を語るのでなく、神の言葉を語る。そして神の言葉は聖書のうちに書き留められている。だから何を語ろうかと苦心しつつ自分の言葉を生み出すのではない。作家が作品を生み出すような創作活動をするのではない。語るべき言葉はその都度授けられる。では、授けられる託宣を右から左に流せば良いのか。語られる言葉に間違いがないなら、語る器は誰であっても良いのか。確かにそうなのである。しかし、水を右から左に流す水道管と同じだと言い抜けるなら問題である。

 語られている言葉はまともであるけれども、聞き手には、一向に悔い改めを生み出す言葉として心に響かないということがあるとする。それは聞き手がちゃんと聞いていないから、言葉が命の言葉として心に届かないということかも知れない。こういうことは多かれ少なかれ多くの場合にある。一方、ちゃんと聞いていても、一向に響かないこともある。それは語る器の側の欠陥で、聞き手によって、いや御霊によってその欠けが補われるよう祈ることこそ重要であって、全ての説教者は大なり小なり欠けた器であると言わねばならない面がある。

 この理論は正しいと思う。しかし、それで万事片付いたと思うならば問題であろう。「自分自身に気を付けなさい」との忠告は御言葉の仕え人にとって特に大切である。自分自身は空っぽで良い、というふうに問題をすり抜けてはならない。譬えるならば、声楽家が音楽堂の隅々に響き渡る声を出すよう訓練される。それは要するに自分の声を自分の肉体で共鳴させる修練である。体一つで、拡声器なしで声が響きわたる。説教者の説教も、その人の肉体の共鳴によって他の人の胸に響くものとなる。

 自分自身に気を付けるとはそういうことだ。自分が人から見られて恥ずかしくないような行ないをするという程度に受け取っては、見た目には立派でも律法主義的偽善者になるだけであって、依然として肉体の共鳴を伴わない響きである。器は粗末な材料で出来ているが、とにかく十分響くものでなければ空虚なままである。

 「自分自身」とはどういうものか。福音を語っている自分は、先ず福音を聞かせられている私である。私自身が福音を受け入れるよう己れを空しくしているか。私自身の奥底に福音の声が届いているか、自分の存在に福音の喜びが浸透し溢れ共鳴しているか。その検討が第一である。 次に群れの上に目が及ばなければならない。群れが全体として、主の群れとして整っているというだけでなく、群れの中の一つ一つに心を配っていなければならない。

 「聖霊は神が御子の血で贖い取られた神の教会を牧させるために、あなた方をその群れの監督者にお立てになったのである」。――口語訳聖書では「神が御子の血で贖い取られた教会」と訳すが、あまり前例のない訳である。神が御自身の血で買い取られたというふうに訳すと、神御自身が血を流されたことになって、霊的存在である神を可視的なものに引き下げるし、また仲保者キリストの地位が不明確になることを心配して、このように意訳したようであるが、ここは神が血を流されたと言うのが確かな本文である。

 この言い方は穏当ではないが、神が教会を如何に価高きものとして御自身に帰属させたもうたかを強調するものである。したがって、その群れを託された者が尊いものとして一生懸命に守らねばならないことを諭したのである。

 教会を「群れ」というのは、旧約において神の民を羊の群に譬えた慣例的な呼び方の継続である。キリストもこの譬えを引き継がれて、ヨハネ伝10章で御自身を羊飼いになぞらえ、またヨハネ伝21章でペテロに対して「私の羊を飼え」と命じておられる。羊を飼うとはペットとして飼うのではない。育てるのである。十分に霊的な糧を提供するのである。

 パウロは長老たちに、あなた方は群れの監督であると言う。パウロが任命者でないことは言うまでもない。使徒が牧者の牧者なのではない。使徒も長老も同じ僕仲間である。監督という言葉は「上に立って見ている者」という意味であるが、支配しているという意味ではない。見るとは面倒を見るの意味である。主は御自身の体をもって羊を買い取り、かつ養いたもうが、羊飼いは自分を与えるほどに羊を愛するのではあるが、自分の体を裂いても羊を養うことは出来ない。羊飼いは牧草のある所に羊を連れて行って食べさせる。羊飼いは群れの全体を把握して、牧草を十分食べていない羊がないように、病気の羊がないように、気を付ける。こうして、主の教会が建て上げられる。 

 


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