2008.08.17.

 

使徒行伝講解説教 第124

 

――20:13-21によって――

 

 

 エルサレムに向けてトロアスを出発した時、パウロだけは陸路を歩き、他の人たちは船に乗り、アソスで落ち合うことになっていた。別々の行き方をした理由はよく分からない。途中の村に用事があったからであろうか。そう大きい用事ではなかったと思われる。……地図で見ると、トロアスを出た船は大きい半島を廻らねばならないから、陸地を行った方がアソスは近い。また、この半島を廻る時の風向きが良くない場合、船は難航するらしい。さらに、パウロが船酔いに弱かったので、歩いて行っても同じ日に着けるなら、歩きたいと願ったという解釈もある。

 その時代、大型の船は陸地を離れて航海するが、小型の船は、陸地の山とか、山と山の重なりの見え具合とか、岬とか、目で見通すことを頼りにして航海していたから、夜は原則として港に碇泊する。まだ灯台がない時代であった。――星の方角と角度を見て位置を決める「天文航法」という航海術もなかった。船乗りたちは陸地の見え具合で自分の船のいる場所を確定していた。

 船からの陸地の見え方にパウロが精通していたとは考えられない。しかし、使徒行伝279節以下でパウロが航海について船長以上の見識と判断力を示したところを読むのである。それを預言者的な霊的能力と取っても良いが、学識と取る方が良いと思う。すなわち、使命の遂行のためには学識も必要なのだ。なお、パウロだけでなく、同行者が船の運航にかなり関心を払っており、特に使徒行伝の著者ルカはこの地方の地理について良く知っていたことを無視しないで置きたい。

 アソスの次にはミテレネに寄ったが、これはレスボス島という島にある港で、古い時代からあった町である。そこに碇泊して、翌日キオス島の沖を通り過ぎる。キオスには泊まらなかった。翌日はサモスに寄って、その次の日には行程を延ばしてミレトに入った。ミレトはエペソを通り越した先にある非常に古くからの港である。16節に、「それはパウロがアジヤで時間を取られないため、エペソには寄らないで続航することに決めていたからである。彼は出来ればペンテコステの日には、エルサレムに着いていたかったので旅を急いだからである」と書かれている通りである。トロアス以後、風の具合が良くて船はどんどん進んだようである。

 17節、「そこでミレトからエペソに使いをやって、教会の長老たちを呼び寄せた」。――ミレトからエペソまで片道65キロある。その道を行って長老を呼び集めてまた連れて来る。どう見ても2日間待たなければならなかった。急いでいたというなら、ミレトに入る一つ前の港サモスから使いを送って、ミレトで落ち合うようにした方が時間の節約になった筈であるが、それをしなかった理由は分からない。あるいは、初めは時間節約のためにエペソの人々と会うのを断念していたが、これが最後の機会であるという思いがいよいよ募ったので、通り越してしまった後で、どうしても会いたいという願いを起こして、ミレトから使いを送ったのであろうか。

 事情の分からない点がいろいろあるが、エペソの長老たちに語ったパウロの言葉はルカによって書き留められていて、それについては憶測を交える必要がない。その言葉をそのまま聞くことに集中しよう。

 ただ、事情として明確に掴めていないが、パウロがこれを最後の機会だと感じていたことは断定出来ると思う。それは22節以下の言葉が示している。「今や私たちは御霊に迫られてエルサレムへ行く。あの都でどんな事が私の身に降り懸かって来るか、私には分からない。ただ、聖霊が至る所の町々で私にハッキリ告げているのは、投獄と患難とが私を待ち受けているということだ」。――この言葉については次回に少し詳しく見るが、前途に患難があり、少なくとも再度エペソの兄弟たちと会うことはもうない、という予想がますます強くなっているということは分かる。

 エペソの教会に長老が立てられたということについては、これまで聞いていなかった。けれども、パウロがエペソを離れてアカヤに行く前、いやその前の比較的早い時期に長老たちが立てられていたことは確かだと思われる。1423節に、これはルステラ、イコニオム、アンテオケなどの町々の伝道のことであるが「教会ごとに彼らのために長老を任命した」とあった。ある程度まで伝道が進んだ段階で長老を立てる、という手順はパウロの創設というよりは、ユダヤ教の中に古くからあったシナゴーグの体制を自然に受け継いだものである。したがって、エペソでは、ユダヤ教の共同体の中で長老であった人がキリスト者の群れの長老になったことは当然であるが、ユダヤ人でなかった人、特に以前から「神を敬う人」となっていたギリシャ人の長老がいたことも確かであると思う。

 この長老たちのことが28節には「監督」と呼ばれている。この言葉については後に触れるが、長老と監督は言葉としては区別されるが、同じ人を指す場合もあったらしい。名称の定義がまだ流動的な時代であったからである。

 その「長老」たちが複数いたのである。ヨハネ黙示録には24人の長老が左右に居並ぶ光景が描かれているが、これが当時のエペソの教会の礼拝の姿を描いたものだと断定するのは無理ではないかと思う。しかし、かなりの数の長老がいたと見るのが正しいように思う。その長老たちが指導する会衆が、ツラノの講堂に集まって礼拝を守ったのかも知れないが、それ以外の場所でも集会を持っていたと思われる。そして、市内と郊外に幾つかある群れが全体としてエペソの教会と呼ばれていた。

 そのエペソの教会を一団の群れとして把握し、それに語り掛けているのが、パウロのエペソ人宛の手紙であり、またヨハネ黙示録の21節から7節までの部分である。これらの箇所を併せて読むことによって、エペソにある主の民の群れを或る程度捉えることが出来る。もっとも、パウロのエペソ書は、信仰についての重要な教えの全体について釣り合いの取れた教えを示すもので、どの教会にも当て嵌るから、これが何時、どういう状況のもとで書かれたかの判定はなかなか難しい。

 ヨハネ黙示録の方はエペソの教会に差し迫った迫害と試練を生々しく示している。勧めを与える人としてパウロとヨハネの違いがあっても、共通な面が多い。黙示録の時代、アジア州にはエペソを中核とする七つの教会が建てられていた。そして皇帝礼拝と対決していた。エペソ教会が指導的な位置を持ったとは言えないが、先ずここがシッカリ立たなければならなかった。

 先ず1819節、「私がアジヤの地に足を踏み入れた最初の日以来、いつもあなた方とどんな風に過ごして来たかは良くご存じである。すなわち、謙遜の限りを尽くし、涙を流し、ユダヤ人の陰謀によって私の身に及んだ数々の試練の中にあって、主に仕えて来た」。

 一ことで纏めるならば、「主に仕えた」ということである。全力を傾けて努力したのは確かであるが、充足感とか自己実現という目標を満たすためではない。自己充足を追い求めることとは凡そ無縁な「謙遜」という要素がここに入っている。そこでは自分を捨てることが目標になる。顧客を獲得しようとする腕利きのセールスマンが極度に腰を低くして成績を伸ばして行くのと、伝道の実りを上げるのとは別である。自らを低くするのは主のためであり、主の栄光を顕すためである。すなわち、主の御旨に逆らう要素を一つ一つ潰して行くことである。

 具体的な問題として「ユダヤ人の策謀」との対決があるという。ここで言うユダヤ人の陰謀とは、良くは分からないが、キリストの恵みを低めて、人間の功績、努力、人間の栄光を高めようとすることと言えば、かなりハッキリして来る。

 ユダヤ人の策謀と対決するのは、彼らの栄光に優る栄光、彼らの知恵を凌駕する知恵、彼らを圧倒する力量、迫力、そういうものを身に着けることではなく、謙遜の極みと、涙である。すなわち、ユダヤ主義者の策略に対抗して、福音に立つ者ももっと抜け目のない策略を巡らし、多数派工作をして主導権を獲得するというのではない。ユダヤ人の策謀によって福音から連れ去られそうになっている者、信仰の確かさの揺らいだ者を、キリストの恵みの内に再び勝ち取るためには、心を尽くしての個人的説諭、勧告、霊的指導しかない。それが涙をもってなされるのである。

 「私の身に及ぶ数々の試練」とは、身の危険をも伴うのである。19章にはアルテミスの信者による騒動のほかには身の危険に関することは書かれていないが、いちいち書くことが出来ない事件があったわけである。

 次に、2021節には、「あなた方の益になることは、公衆の前でも、また家々でも、全て余すところなく話して聞かせ、また教え、ユダヤ人にもギリシャ人にも、神に対する悔い改めと私たちの主イエスに対する信仰とを、強く勧めて来たのである」と言う。

 「益になることは余すところなく伝えた」。「余すところなく」伝えたという言い方は、27節でも用いられる。余すところなくとは、救いの真理を省略なく悉く与えたことを指すのであって、或る部分は示さず、その部分についてはズッと先生に頼らなければならないようにして置くのではない。

 「益になること」とは救いの益である。救いは信仰により、信仰は御言葉によるが、その御言葉を手抜きなしに、心の隅に行き届くように教えたのである。ただし、益にならないことまで教え、教えられた人はあれもこれも知っているが、それが救いの益になっていないというようなことがあってはならない。

 それは「公衆の面前でも、家々でも」教えたのであるが、「公衆の面前」という訳語は公衆の面前で個人を叱る場合を連想させられる。これは適切でない。これは「公けの場で」という意味であって、教会の説教という形で教えることである。「家々で」というのも適切でない訳語である。家という言葉はない。家々を訪れて家庭集会で、一軒一軒訪ねて、という意味に聞き取った人があるかと思うが、それはかなりズレている。これは「私的に」、「個人的に」という意味である。公けの説教とは違って、個別的に語ることである。

 原則を言えば御言葉は公けの説教で聞き取られる筈である。密室で教えられるのではない。すなわち、公けの礼拝における説教は、全ての人に届くように語るべきである。が、公けに語ることでは伝わらない場合がある。主イエスは種蒔きの譬えで、播かれたけれども地に落ちなかった種や、落ちたけれども茨で塞がれる種を語りたもうたが、必ずしも聞く人の頑なさの故だけではない。例えば、特別に大きい悲しみに打ちひしがれたり、特別な試みにあって、恵みの御言葉が魂に届かない場合がある。その時には個別の配慮を必要とするから、説教者が家を訪ねて個別的に勧告するのである。教会用語で「牧会」という業である。羊飼いが羊の群について、主に対して責任を持つが、群れという一団を見守るだけでなく、個々の羊を見守るのである。

 個別的な配慮とは、優しい思い遣りではない。誠心誠意の思い遣りに感じて、人々が伝道者を慕ってついてくるということはあるが、伝道者の熱意にほだされ、人間としての立派さを尊敬するだけで、キリストの民、神の家の家族になり切れないで、キリスト教の同調者、あるいはパウロの同調者に留まっているという場合もある。これを神の家を建てる人として立たせなければならない。そこで、「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰を強く勧めて来た」と言う。打ちひしがれてはいるが悔い改めに至らない場合がある。それを神に対する悔い改めへと向け変えさせ、励まさねばならない。また、教会、教会、感謝、感謝、奉仕、奉仕、と信仰的なスローガンを熱心に語っているが、イエス・キリストへの信仰に向いていない場合もあるので、大事なことはキリストへの信仰なのだということをハッキリ教えなければならない。

 

 

 


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