2008.08.03.

 

使徒行伝講解説教 第123

 

――20:1-12によって――

 

 

1節で語られているのはエペソからの出発である。「騒ぎが止んだ後、パウロは弟子たちを呼び集めて激励を与えた上、別れの挨拶を述べ、マケドニヤへ向かって出発した」。

 騒ぎが収まったことについては前回学んだ。騒ぎそれ自体としては取るに足りぬことと言える。人々の物欲、迷信、秩序を作り出す誠意のなさ、軽はずみ、そういうことが複合的に作用すると、大騒動になる。大悲劇にもなる。この場合は流血を見ることはなかったが、例えばエルサレムでステパノの惨殺とそれを契機に爆発したキリスト教迫害のようなことが、他でも起こり得るのである。

 したがって、エペソを去るに当たって、今後の迫害に備えるための注意を与えて置く必要があった。パウロがエペソの長老を呼び寄せて別れの挨拶をするくだりを、しばらく後17節以下で見る。彼が1節で述べた言葉はそれと或る程度重なるものであったから、もう一度聞くことが出来る。

 エペソを出発した時の同行者は誰か。先にテモテとエラストが出発したことは前の章の22節で見た。パウロと一緒に出発したのはルカ、そして204節に名の出ているアジア人テキコとトロピモではないかと思われる。

 2節で言われているのは、エペソ出発後、マケドニヤ到着と滞在、そしてギリシャに向けての出発、そしてギリシャに来たことである。さっと読み通すならば、よく頭に入らないであろう。どういう経路をとったのか。一つ一つ町の名を思い起こして行った方が良いであろう。

 エペソからは、166節から8節にあったのとは別の道だが、最短の陸路をとってトロアスに行ったのか、海路トロアスに行ったのか、二通り考えられる。急ぐので船で行ったであろう。旅行目的がエルサレム教会のための援助金を集めて持って行くことにあったから急いだ。6節にマケドニヤから来た時、トロアスで待ち合わせ、7日間滞在し、集会をしていることから見て、エペソから来た時もトロアスに寄ったと思われる。

 エペソから海路トロアスに出て、そこから1611節に書かれているコースをとってネアポリスに着き、ピリピに入り、テサロニケ、ベレヤを訪ねる。それらの町で「多くの言葉」で人々を励ました。すなわち、各地で多くの説教をして人々の信仰を強めた。しかし、新しく伝道活動をしたのでなく、すでに信者になっていた人々を励ますことが重要であった。それからギリシャに来た。ギリシャとはアカヤのことである。なお、ギリシャに入る前にイルリコに寄ったのではないかと想像している人がいる。ローマ書1519節に書かれているイルリコ行きは、この機会だったのではないかと言われる。この問題には今は触れないで置こう。

 3節に入る。「彼はそこで3ヶ月を過ごした。それからシリヤへ向かって船出しようとしていた矢先、彼に対するユダヤ人の陰謀が起こったので、マケドニヤを経由して帰ることに決した」。

 3ヶ月を過ごした所はコリントである。その間説教をし続けたのであろうが、冬の航海に適しない期間、風を待つためであった。そこからケンクレヤ発シリヤ行きの船に乗るのが最も早いからである。ところが、いよいよ出発という時になって、この企てはユダヤ人の陰謀が分かったので取り止めになった。

 その「ユダヤ人の陰謀」とは何か。 推測だが、コリントからシリヤ行きの船は、エルサレム詣でのユダヤ人の貸し切りの便であって、ユダヤ人だけのいる船中で、パウロを暗殺する、あるいは海に放り込む、という計画があったと推理する人がいる。当たっているように思われるが、確かな証拠はない。陸路行っても危険があることはある。ただ、パウロを殺せという気運が露骨になっていたわけでもない。それでもパウロを殺す策動があったことは理解出来る。人の目の届かない所で悪は活動しやすいから、パウロが慎重を期して危険を避けたということは確かであろう。キリスト者となったユダヤ人を通して秘密情報が分かったということは恐らく事実であろう。

 マケドニヤを通って行くのは、船でエルサレムに行く計画の差し替えである。だから、もっと早くコリントを出発しているべきであった。急がなければならないが、マケドニヤの教会に挨拶もせず通り過ぎることは出来ない。「除酵祭が終わって後ピリピを出帆した」と6節に書かれているのは、除酵祭をピリピで守ったということ、もっと分かり易く言えば、受難週と復活節をピリピ教会で守ったということである。その前に先発隊はピリピを出発してトロアスで待っていた。この先の道を行ってくれる船を見つけるためであったと思われる。とにかく急いでいたのである。16節に「出来ればペンテコステの日にはエルサレムに着いていたかった」とある通りである。

 先発した人々の名が4節にあがっている。「プロの子であるベレヤ人ソパテロ」、ベレヤ伝道については1710節以下で読んだ。テサロニケの次に行った所で、ベレヤのユダヤ人はテサロニケのユダヤ人よりも育ちが良いとルカが言うように、ソパテロはそのような人物であったらしい。誰々の子誰々という呼び方はユダヤ人の流儀である。名前はギリシャ風であるが、ソパテロはユダヤ人であろう。次に「テサロニケ人アリスタルコとセクンド」。初めのテサロニケ伝道以来信者になって、今回パウロについてエルサレムに行こうとした。ユダヤ人かどうか分からない。エルサレムに関心があったから連れて行った。「デルベ人ガイオ」。デルベ伝道は14章に少し触れられたが、ガイオがその時からパウロに随いて行ったということではないだろう。

 「それからテモテ」。彼が最も信任されていたことは何度も見た。「アジア人テキコとトロピモ」。アジア人とはアジア州の人、エペソ人と呼んでも良いであろう。実際、トロピモは2129節で「エペソ人トロピモ」と呼ばれている。IIテモテ420節にも名前が出る。テキコもパウロの手紙のあちこちに名を記される同労者である。この2人はエペソ伝道の時からパウロの伝道補助者であった。トロピモはユダヤ人でなく、異邦人であったらしい。それはエルサレムに行ったところで触れることにする。

 このような人たちをエルサレムに連れて行くのは、エルサレムにおける活動の補助者としてではない。エルサレム教会との交流を考えていたからであろう。

 56節「この人たちは先発して、トロアスで私たちを待っていた。私たちは除酵祭が終わって後にピリピから出帆し、5日かかってトロアスに到着して、彼らと落ち合い、そこに7日滞在した」。

 エルサレムに早く着きたいので、都合の良い船を見つけて置かねばならないから、先発隊が必要であった。しかし、パウロは除酵祭が済むまではピリピに留まりたいと思った。除酵祭は過ぎ越しに始まる一週間に亙るユダヤの祭りであるが、教会がその祭りを守っていたわけではない。だが、ユダヤの暦によってその季節を特別な時として覚えており、その季節のキリスト教的名称がないので、ユダヤ教の除酵祭を転用していた。

 今日の教会用語で言えば受難週と復活節である。教会はキリストの死と復活を覚えていた。それは年に一度の祭りという形で守られるものではない。信仰者が集まる時、毎回、いや集まらない時でも毎日、主の死と復活は覚えられていた。そして、特に週の第一日は、当時まだ「主の日」という呼び方は始まっていなかったが、間もなく、旧約聖書で特別な響きを持っていた「主の日」という呼び名が週の第一日に適用されるようになる。そのことはヨハネ黙示録110節に出て来る。パウロの時代にはまだ主日という呼び方は始まっておらず、週の第一日と呼ばれた。7節に見られる通りである。

 教会用語はまだなかったが、ユダヤ暦での過ぎ越しの夜は、教会では「主イエスの渡されたもうた夜」として記念された。この習慣が我々の間にも守られていて、聖金曜日とか受難日と呼ばれている。日を重んじるだけでは迷信である。ない方が良い。しかし、特定の日に記念されることは重要である。それは信仰の根幹に関わる。

 ピリピの教会では除酵祭がユダヤ教の守り方とは全く別な形で守られていたに違いない。すなわち、主を記念することが行なわれた。それはパン割きという礼典である。パン割きについては、7節でトロアスの教会におけるその執行を見ることが出来るが、こういうことはピリピでも週の初めの日に行われていた。まして、除酵祭には行われていたに違いない。パウロは愛するピリピの人たちとともに主の晩餐、パン割きに与りたいと願って出発を遅らせた。

 ピリピから出帆したとは、ピリピの外港ネアポリスから出たという意味である。かつてトロアスで幻に接し、直ちに海を越えてマケドニヤに渡った、そのコースを逆に行ったのである。あの時は先ずサモトラケを目標に1日航海し、サモトラケの島陰で夜を過ごして翌日ネアポリスに入った。2日の行程であった。今回は5日掛かってトロアスに着いた。風が逆風であったからであろう。

 そこで7日待ったとは、シリヤまで行ってくれる次の船を捜すのに日数が掛かったという意味である。いつでも便があるわけではない。この時もツロあるいはその他のシリヤの港に行く便を見つけることは結局出来なかった。ロドス島のパタラまで行って、そこでツロに荷を運ぶ船を見つけて乗り換えたことが21章の初めに書かれている。トロアスからロドス島までの船は小さく、ロドス島からツロまでの船は大型で、もっと西の方から来たと思われる。

 エルサレムに行くことが主たる目的であるから、エルサレム行きの便が得られるかどうかで旅行の計画は大きく左右された。宣教活動が二の次になったと見られるようであるが、角度を変えて見れば、残った時間、寸暇を惜しんで福音のために働いたのである。その実情が7節から12節に見ることが出来る。

 「週の初めの日、パンを割くために集まった時、パウロは翌朝出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語り続けた」。――今で言うと日曜日、トロアス教会の日曜礼拝は夜になってから始まったのであろうか。日曜日の朝集まるという風習はまだなかったのである。その日は朝から働いて、夜礼拝に集まった。この夜は夜通し語り合って、パウロたちは朝旅立った。超人的な活動であったと言う必要はないと思う。時間を目一杯用いる必要があって、そのためには知恵を用いて体力を維持したのである。

 日の守り方について少し触れて置く。ユダヤ人は安息日にキチンと休み、会堂に行って御言葉を聞く。この規定はクリスチャンになっても続いた。またユダヤ教の会堂に出入りしていた異邦人で、クリスチャンになった人も同じであった。さて、安息日が明けた時どうしたか、週の初めの日は安息日と違った意味、いや遥かに重要な意味を持ったから、人々はもう一度集まる場所に集まって礼拝を捧げた。そこではキリストを記念するパン割きが重要な要素になっていた。コリント人への第一の手紙162節が言うようにその日献金を集めた。ただし、その日に仕事を休む習慣も規定もなかった。だから、ユテコ青年のように、昼間の労働に疲れて、説教の間に眠ってしまって三階の窓から落ちるというようなことがあった。その後、教会は説教の時に眠らなくて良いように、週の初めの日は働かないように慣習を切り替えた。すでに安息日はキリストによって意味を失った、むしろもっと的確に言えば意味を全うした。だから、旧約的な意味において週の第7日を守る意味はなくなったのである。

 集会の守り方についても一言して置きたい。トロアスで日曜日の集会を守っていた建物がどういう物であったかは、見当が付かない。シナゴーグではない。三階に広間がある建物だ。三階建てであった。明かりが沢山灯された。暗くても、明かりが一つだけでも集会は出来る。この夜は特別に明るくしたのではないか。

 夜中まで語り続けた。それは説教であったのかどうか。多分、説教であったと思うが確かではない。シナゴーグを用いた集会ならば、ユダヤ教の集会の形式が踏襲されたようであるが、ここではそうではないらしい。明かりを一杯灯した集会は、儀式というよりも祝宴であったのではないかと思われるが、確かなことは分からない。このあとパン割きが行なわれた。

 パン割きは、聖晩餐と言われる礼典であったとも、会食であったとも考えられるが、礼典を守ってそれから会食したのではないか。教会にはまだ儀式の形式は出来ていなかった。だが、「私の記念としてこれを行なえ」という御言葉が語られた。ユテコも起き上がってそこに加わっていた。ここでは大きい驚きがあったのでなく、大いなる慰めがあった。――ここに描かれる集会は我々の守る礼拝とは何もかも違うではないか、というのも一つの見方であろう。しかし、同じだと捉えるのが生けるキリストと共にいることを信ずる信仰である。

 


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