2008.06.22.

 

使徒行伝講解説教 第120

 

――19:8-12によって――

 

 

 「それから、パウロは会堂に入って3ヶ月の間、大胆に神の国について論じ、また勧めをした」。

 「それから」という言葉が我々の開いている口語訳聖書にある。だが、これに当たる原語はない。だから、先に見た出来事、すなわち12人ほどの人々が聖霊を受けたその事件があってそれから、という事件との繋がりを考える必要はない。また、先の12人がパウロとともに会堂に入ったとか、その人たちが会堂に集まっていた人と交渉があったかなかったかを考えても意味はない。パウロが会堂に入ったということから学び始めて良いと思う。

 また、先の12人が聖霊を賜ったことが幕開けとなって、次に、会堂に集まる全ての人々も聖霊を受けて、信者になったと見なくて良い。その前だったかも知れない。ただし、エペソで信じる者がこの時から3年足らずの間に急激に増えた事実は、歴史としてシッカリ押さえて置くべきである。信じる人は出たが、信じなかった人たち、信じないどころか、この道を悪しざまに罵る人がいた。そのため、パウロと弟子たちは、遂にユダヤ教の会堂を去ってツラノの講堂に移った。シナゴーグは分裂して、キリスト教徒とユダヤ教徒に分れた。9節で見る通りである。そして、ツラノの講堂に移ってから聴衆がどんどん増えた。

 しかし、分裂に至るまで3ヶ月間、会堂での説教が続いた。それは3ヶ月の終わりになるまでは穏やかに聞かれたということではないであろう。おそらく初めから、反論、妨害、怒号があり、にも拘わらずその人たちに対して忍耐強く福音が語られ、3ヶ月の後、最早これ以上忍耐をもって説教を続けても虚しいと判断されたということである。これは186節で、パウロが上着を振り払って会堂から出て行って、会堂の隣のテテオ・ユストの家に移ったとあるのと、ほぼ同じ事情であったと考えられる。忍耐して説教し続けた時期がコリントにおけるのと比べて長いか短いかは分からない。

 エペソにおけるパウロの宣教、それは集中的な全身全霊を傾けた戦いで、目を瞠る成果を上げたが、宣教内容がこれまでと違っていたとは思えない。ただ、ここでは「神の国」について大胆に論じたと書かれている。

 「神の国」という言葉を聞いて、我々は珍しい言い方だとは感じない。しかし、使徒行伝で用いられた前例は余りなかった。すなわち、主イエスが復活の後、40日に亙って度々現われて「神の国」のことを語りたもうた、と13節に述べられた。812節では、ピリポがサマリヤで、「神の国」とイエス・キリストの名について宣べ伝えたと書かれていた。それ位である。パウロ自身について言えば、2025節に「あなた方の間を歩き廻って「御国」を宣べ伝えたこの私の顔を今後二度と見ることはあるまい」とエペソの長老たちに決別の辞を述べている。エペソにおいては神の国を説いた、と19章でも20章でも言うが、エペソでは他の所と別なことを宣べ伝えて神の国を強調したということではない。

 これらの例で見ることが出来るように、「神の国」という言葉は福音の全内容を総括的に言ったものと取って良いであろう。実際、イエス・キリストは福音宣教を開始したもうた時、マルコ伝115節にあるように「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と言われた。キリストの福音が「神の国」という言葉のうちに凝集している。エペソにおいて神の国を宣べ伝えたことが、これまでの宣教活動と違っていたと考える必要は何もない。

 我々がまた思い起こすのは、16節の言葉であるが、天に上げられたもう直前、弟子たちは「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」と問うたことである。「国」とは「神の国」である。主が復活したもうたからには。神の国の実現の時は迫っていると弟子たちは素朴に感じた。この予感は大事なこととは言えないが、当たっていないのでもない。すなわち、人間的な予感を主イエスは却けて、聖霊が降るのを待て、と言われた。つまり、御言葉の学びによる期待があるが、御霊が降ることによって成就するのが神の国である。

 パウロはIコリント420節で、「神の国は言葉ではなく、力である」といっているように、神の国を言葉で説明することは避けて置く方が良いであろう。神の国は分かり易く解説して心にスーッと入って来るものではなく、大胆に語られ、その力によって不信仰の頑なさが打ち砕かれるのである。

 「神の国」という言葉のうちに凝集している力と広範な意味をこの際、繰り広げて見て置くことは有益であろう。第一に、主イエスが「時は満ちた。神の国は近づいた」と言われたのには、その時になった、約束されていた来たるべき時が到来した、約束されていた事態が成就した、これまでと今とは違う、という含みがある。今、この時が来たことをいうのに、ここで「神の国」という言葉が使われるのは適切である。すなわち、人間が主権をもった王国ではない。この世の王国でない、神の支配になった、という意味である。

 神が支配しておられる、ということでは、昨日も今日も明日も同じであるという面はある。だが、昨日と違う今日がある。「古きは既に過ぎ去り、見よ新しくなりたり」と言われる事態になっている。だから、律法の裁きに対して赦しの福音が力を持っている。絶望に対して希望がある。待っても待っても飢え渇くほかなかったのに対し、祝福に満たされる時が来たという事態の転換がある。だから、何か心が軽くなったような気がするという程度のことでなく、生き方が実際に変化する。神の支配が始まっているのに相応しく行動することになる。

 この変化は、例えば15年間寝たきりになっていた病人が、起きて、床を取り上げて、歩み出すという徴しによって、現実であると示された。おはなしとして聞いているということとは違う。

 しかし、この世では依然として悪や不幸や悲しみが満ちているではないか。神の国ではなく、悪魔の支配が続いているではないか、と問われる。そうなのだ。まだ世の終わりではない。だが、約束のキリストは来られたのである。不幸の中にいた病人に「あなたの罪は赦された」と言われ、その病人はその瞬間に癒されて、その癒しを徴しとして、罪からの救いが明らかとなり、確かなものとなった。だから、神の国などというものはない、と主張する人に対して、我々は神の国はすでに来ていると断言する。

 その事を口で言い張るとか、巧みに説明して分からせるだけでなく、赦しの王国が始まっていることの徴しとして、我々は自分に向けられた人々の悪意に対して、赦しを実行することが出来る。このことはローマ書1417節に、「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊に於ける喜びである」と言い切っているように、自由に飲食して満腹感に耽ることは神の国とは関係がなく、相互の義と平和と霊的喜びの交わりのなかに示されるのである。

 神の国が端的に教会に象られて示されると言うのはやや問題であるが、或る意味で教会が神の国を示していることは確かである。パウロが神の国のことを説いたということの中には、教会が何であるか、如何にあるべきかの教えもあったと理解するのが正しいであろう。

 「ところが、ある人たちは心を頑なにして、信じようとせず、会衆の前でこの道を悪しざまに言ったので、彼は弟子たちを引き連れて、その人たちから離れ、ツラノの講堂で毎日論じた。それが二年間も続いたので、アジアに住んでいる者は、ユダヤ人もギリシャ人も皆、主の言葉を聞いた」。

 この或る人たちというのはユダヤ人である。この道を悪し様に罵ったとは、自分たちの奉じる道、ユダヤ教の信仰に固執したのである。例えば、律法を守ることによる救いを信じたのである。彼らはユダヤ人の会堂で我が物顔に振る舞う勢力を持っていた人であろう。ツラノの講堂に移って後、彼らはそこまでは妨害しに来なかったらしい。

 「ツラノの講堂」というのはツラノという人が建てた、また所有していた講堂である。この時代には自分の学説を人々に講義して、聞く人々から聴講料を受け取る人がいた。エペソほどの都市にはそのような講堂があってもおかしくなかった。ツラノという人物については分かっていない。自分が講演をするために建てたのかも知れない。彼自身はもう死んで、講堂が開いていたということかも知れない。毎日、朝から晩まで使うことが出来た。

 この講堂はシナゴーグより大きく、収容人員は多かったらしい。だから、2年の間にアジアの人、すなわちエペソとその周辺に住む人は皆、御言葉を聞くことが出来た。

 「皆、御言葉を聞いた」ということは、全員が信じたということではない。信じなかった者もいたのは当然である。だが、信じなかった者は聞かなかったから信じなかった、ということでなく、聞いたのに信じなかった。あるいは聞いたけれども拒否したのである。

 アジアに住む者の全員が聞くとは想像もつかない大がかりな出来事である。しかし、想像を絶する事実が起こった。我々には人を納得させるだけの説明は出来ないが、この時、2年の間に多くの人に福音を語ることがなされた事実を見たい。かつてここを通り過ぎる時、語ることを禁じたもうた主の御霊が、今度は語れ、と言われたのである。それには、ツラノの講堂という大きな講堂が用いられた。パウロは熱弁を振るった。毎日ここで語った。さらに、この毎日という言い方は、朝から晩までという意味もある。御霊の働きがあったのだが、パウロも渾身の力を振り絞って働いたのである。パウロ一人でなく同労者がいた。

 それが2年に亙った。いや、ここには2年と書いてあるが、2031節には「3年の間、夜も昼も涙をもって、あなた方一人一人を絶えず諭して来た」と言っている。さらに、すぐ後に見るように奇跡的なことが起こったのである。――これらの理由を並べてそれでまだ得心が出来ないとしても、驚くべきことが起こったのである。例えば、Iコリント1532節で、「もし私が人間の考えによってエペソで獣と戦ったとすれば、それは何の役に立つのか」と言う、その事件が何であるかは分からないが、獣と戦って倒すような奇跡があったと考えねばならない。

 エペソには大きい教会が出来たのである。大きいというのは建物の大きさではない。建物としては大きくないが、人々の集まる会堂、集会所があちこちに出来たということである。それらを包含したものがエペソ教会である。パウロがエペソの長老たちに決別する場面のことは次の章で読むが、それは小さき群れを牧する少数の長老たちであると考えねばならぬことはない。かなりの数の説教者がすでにいたのである。

 ヨハネの黙示録においても、エペソ教会に向けての言葉が語られるが、我々が平生、何々教会と言っている時に捉えている小さいスケールの教会を思い浮かべていては間違いかも知れないのである。

 「神はパウロの手によって、異常な力ある業を次々になされた。例えば、人々が、彼の身に着けている手拭いや前掛けを取って病人に当てると、その病気が除かれ、悪霊が出て行くのであった」と記されている。

ここに記されている奇跡的な出来事について、説明を求められて、それに答えても意味がないと思う。これはこういう事だと説明するのも簡単ではないし、たっぷり説明しても、それで聞く人が何かの益を受けるわけではないからである。要するに、神は特別な時期に、特別な御業を行いたもうた。それによって、アジアの諸教会が奇跡的に立ち上がった。この奇跡は、先にパウロがアジアで御言葉を語ることを禁じられて、この地方をただ空しく通り過ぎて行かざるを得なかった奇跡と裏腹の関係にある奇跡だと見ることによって、一歩踏み込んだ理解に達することが出来よう。こういうことは我々の見聞する範囲では余り起こらないが、神の御力の発動として、神が宜しとしたもう時には起こるのである。

 


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