2005.04.03.

 

使徒行伝講解説教 第12

 

――2:22-24によって――

 

 

 ペテロは先に説教の第一段で、預言の成就、終末の到来ということを宣言した。これは14節で見た通り、「ユダヤの人々とエルサレムの住民」に対して、今、目の前で起こった出来事を解説するという意味も含んでいた。
 今日はその次に移る。22節では、「イスラエルの人たちよ」と呼び掛けるが、ここから新しいことを語り出そうとしているという意味に取る必要はないだろう。しかし、説教の内容は新しい段階に移っている。その段階で述べられていることが誰に向かって語られているかを、ペテロは強調しないではおられなかった。
 ここでは、14節にあった「ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住む全ての方々」という呼び掛けは繰り返されず、「イスラエルの人たちよ」と言われる。呼び掛けの言葉が前と違うことを問題にする必要はない。が、あなた方は自分がイスラエルであるという意識をもって聞かなければならないことが語られているのだ、と示唆されているのである。
 イスラエルとは、キリストを約束されていた民である。しかも、キリストの来臨を己れ自身の救いの完成として、自己中心に、自己目的の意味づけをして評価するのではない。イスラエルはキリストにおいてなされる神の業に仕えるためにある、と自分の存在意味を捉えていなければならない。
 今日聞く説教の段階では、22節から24節までのところで、まだ中途ではあるが、ナザレ人イエス、その死と復活が宣言され、そしてそのあとで纏めが宣言される。すなわち、36節で結論的なことが言われる。「あなた方が十字架につけたこのイエスを、神は主、またキリストとしてお立てになったのである」。
 主イエスの死はエルサレム中で大きい話題になった。ある人はこの処刑をピラトのなした業として捉えた。この人たちの談話は政治談義になって行ったのであろう。また、ある人は祭司長や役人たちの謀略であると解釈した。彼らの話し合いは宗教批判になって行ったであろう。また、主イエスを引き渡したイスカリオテのユダが首つり自殺をしたことも、それに続く衝撃的事件であった。主を裏切る忌まわしいこと、そしてその帰結として自ら首を括る呪いを人々は暗い話題としたであろう。
 人々は事件の大きさについて、本当に分かっていたかどうかはともかく、分かっているつもりで、これを話題にしないではおられなかった。殺した人は別にいると考えていた。だが、ペテロは「あなた方がこのお方を十字架につけ、あなた方がこのお方を殺した」と言明する。説教を聞いた人たちは自分こそが悔い改めなければならないと悟ったのである。
 ナザレのイエスの死について同情的な見方をしている人は少なくなかった。ペテロは23節で、「あなた方は彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した」と言う。こう言われた段階で人々は、殺した本人は別にいる。私はしていない、という気持ちでおられたであろう。しかし、結論的に言えば、殺したのはあなた方である。――これは噂話として論じるべきことではない、ということなのだ。
 しかも、もっと大事なことがある。あなた方が殺してしまったということで終わりでなく、神が彼を甦らせたというところまでを捉えなければならない。これは24節で一度語られたが、36節でもっと十分に、「あなた方が十字架につけたこのイエスを神は、主、またキリストとしてお立てになった」と言う。
 イエス・キリストの甦りはまだ人々の話題にのぼっていなかった、ということに思い至らねばならない。使徒たちはすでに主の復活について確信をもって語ることが出来るようになったが、使徒たちとそれを取り巻く120名ばかりの一団は、これまで復活節の後50日間、閉鎖的な共同生活を営み、専ら祈り、宮で礼拝を捧げ、聖書研究をしていて、このサークルの外に向けて何かを語り掛けるということはしなかった。
 したがって、「主は甦りたもうた」というメッセージは彼らの内部では語り合われていたとしても、聞いたことのない人たちに公けにそれを語ることはこれまではなかった。今までは、待ちの時間、準備の時間である。今その時間が転換した。
 主の復活を見た人が、見たことを語り、聞いた人が信じ、信ずる人が次第に増えて行く、という経過があったと見て、別に間違いではない。単純にそう捉えて良い面はある。しかし、神のなしたもうた御業の実際を詳しく見て行くならば、神は丁寧に御業を進めて行かれたのであって、信じる者が鼠算式にワッと増えたと考えることは余り意味がない。その後の時代でも、信者が爆発的に増える事件はあったし、そのことを否定的に見る必要はない。が、神が細部までキチンと御業をなしたもうことを見ないままで、爆発的な増え方のようなことにばかり目が向くと、結果はむなしい。
 復活に直面した時、弟子たちは主イエスからかつて教えられたことを思い起こした。それらのことは、聞いたには聞いたが、意味もよく分からず、したがってそこからは何も始まらず、彼らの記憶もそのままでは埋もれ、消えて行くに違いなかった。彼らは思い起こしたことを精神を集中して集めて整理した。
 彼らはまた主が生前、聖書を解き明かして下さったのを思い起こして、自分たちも熱心に聖書研究を始めた。そして、続々と新しい発見をした。主イエスの語られたことと、彼ら自身が聖書から読み取ったことを総合して、自分たちに委ねられている宣教の内容がどういうものであるかを把握した。彼らは単純な奇跡物語りを話して人を喜ばせたのではない。
 ペテロの説教を聞いて、内容が整理されていると感じない人はいないであろう。ある人々は五旬節のペテロの説教は、もとはこういう整ったものでなかったはずだと論じている。つまり、後の時代になってから恰好をつけたのであって、キリスト教会の最初の日に教会の教理が整っていたわけはないと言うのである。そういう理屈を聞かされて、なるほどと頷く人がいるようだが、悲しいことである。こういうことでなくて、どういうことをペテロたちは宣べ伝えたのか。異論のある人はそれを示さなければ我々を納得させることは出来ない。我々だけでなく、あの時に入信した人たちも、初めの日にこういうふうに整った教理を示されたから信じることが出来たのだ。
 確かに、早い時期に使徒たちの間で確認された教理の条項が、細かい点に至るまで後の時代の通りであって、いわば天から説教の原稿が落ちて来たかのようにペテロが説教したと考える必要はない。教会の教えはその後の時代にも、引き続き改訂を加えられたと見て何ら不敬虔なことではないのである。しかし、教えの骨子は最初の五旬節の日には出来ていた。
 ただし、その教理が、イエスの弟子たちの見解として披露されたのではない。そんなことでは「あなた方は救いを得るために、悔い改めてこれを信じなさい」と迫力のある説教を始めることは出来なかった。力がなかったのは聖霊が下っていなかったからである。大声で力んだところで、その場限りのことであった。
 さて、ペテロの説教で第二の項目として語られたのは、ナザレのイエスのお働きである。ペテロはここでイエスがキリストであることを明言して良かったのであるが、もっぱら「イエス」と呼び、「キリスト」という称号は31節で先ず預言されていたお方として語られ、次に36節で堂々と宣言する。
 「あなた方が良く知っている通り、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなた方の中で行なわれた数々の力ある業と奇跡と徴しとにより、神から遣わされた者であることを、あなた方に示された方であった」。
 ナザレのイエスの存在について、人々はかなりの程度に知っていた。ここから話しが始まる。「彼はキリストではなかろうか? 殆どそうだ」と感じている人が多かった。「神から遣わされた」ということについては表向き否定することは困難だと人は感じていた。ちょうどバプテスマのヨハネについて、彼のバプテスマは神からのものか、人からのものか、と問われた時、人からであると答えることを不信仰な人も躊躇せざるを得なかった。それほどヨハネに対する人々の帰依は厚かった。まして、主イエスの奇跡はヨハネに遥かに優っていた。
 それでも、「イエスはキリストである」と言い切る人は少なかったし、そのように言う人がいると、主イエス御自身が口止めされた。まだその時ではないからであるが、時でないとは、そのように言う時になっていないからであるというよりも、キリストがキリストであることの最も重要なポイントは、まだ現われていなかったからである、と我々は受け取りたい。その一番大事な点とは「メシヤの苦難と復活」である。病を癒すくらいのことで、あるいは、とても親切な方だから、イエスはキリストだと信じるのは差し控えた方が良い。
 ここが最も重要なポイントである。我々もその重要性をシッカリ捉えて置きたいのである。主イエスが御自身について教えておられた教えの重要な一つとして、「苦難のメシヤの秘密」とか、「隠されたメシヤ」とか呼ばれているものがある。これは聖書用語でないが、これが重要点だと言われたのを心に留めて見て行くとナザレのイエスの理解がハッキリする。
 病める者を癒し、パンのない者にパンを与え、良き羊飼いのたとえのモデル、良きサマリヤ人のモデルと受け取られる主イエス。それが重要な面であるのは確かである。しかし、そういうお方を慕っているだけでは、善良だけれども何か欠けているクリスチャンしか生まれない。苦難のメシヤを見ていないからである。彼がメシヤであるという秘密を信仰によって見抜いた人が彼を理解するのである。その秘密は苦難の中に置かれている。
 キリストは「必ず苦しみを受け、十字架につけられる」と主は教えておられた。キリストがキリストであることは隠されていた。彼の行ないたもうた奇跡は、彼が神から遣わされたことの証拠にはなるとしても、「キリスト」であることの証拠としては足りない。苦難を受けることがなければならない。その苦難のなかで、キリストがキリストである鍵が見えてくる。
 彼はまた三日目に復活したもうのであるから、そちらの方をシッカリ見れば、彼の痛ましいお姿を熟視する苦しさを味わわなくて済むではないか、と言う人もいる。だが、考え直してもらいたい。彼が苦難を受けたもうところは見たくないから、チャンと見ないでおいて、復活の栄光だけはシッカリ見る、と言っても、そういう人には苦難はもとより、復活の栄光は何も見えていないのである。苦難は分かっているから良い、と言って飛び越していては、何も見ていないことになる。
 確かに、主の苦難の場面にいた弟子たちも、悲しみの余り寝入ってしまって、見ていない。人がこれに付き合うのは容易なことではない。だから、キリストを深く理解する者は少ないのである。弟子たちはあの夜、ゲツセマネで、「目を覚ましておれ」と命じられたにも拘わらず、眠ってしまって、主の御苦難を見ていないことを悔いたに違いない。そのように想像して、大きい的外れではないと思う。彼らは目を覚ましていることが出来なかった時間の損失を補うために、あの夜の主の苦難を、後で一心に思い巡らした。このような思い巡らしによって、彼らのキリスト理解は本格的なものにまで深められた。
 「このイエスが渡されたのは、神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなた方は彼を不法の人の手で十字架につけて殺した」。
 御自身の苦難と死について、主は十分語っておられたが、弟子たちはその時になって、肝心のことを殆ど忘れてしまった。彼らの思いにあるのは、ただ挫折であった。その週の初めにはロバに乗ってエルサレムに入りたもうたではないか。人々は「主の名によって来たる者に祝福あれ」と讃美したではないか。
 その方が、裏切り者によって悪の計画を進める者たちの手に引き渡された。これは神の御計画の破綻ではないかと彼らはガッカリした。しかし、三日目に彼らの考えはまた逆転する。復活の主の教えを聞いて、それから彼らは事実を読み直す。主が言われる通り、主は敗北されたのでなく、十字架においてすでに勝利があったのだ。それが、「神の計画と予知による」と言われた意味である。
 「不法の人」という言葉は非常に調子の強い言葉である。主御自身は十字架の上で「父よ彼らを赦したまえ。その為すところを知らざればなり」と祈っておられる。これは根っからの悪人でないという含みである。不法の人という言葉はずっとキツイように感じられる。それが決して赦されないかどうかは別として、彼らのしたことは、結果的には、神の計画を実現しているとはいえ、彼らの意図そのものは明らかにキリストの抹殺であった。
 神の計画通りであったという表の面と、人間の悪が思い通りのことをしたという裏の面が両方ある。この裏面は、神が全てにおいて全てとなられる終わりの日には、全くなくなってしまうものであるが、その日までは、我々に見ることが出来る。裏が表に勝っているように見える場合は少なからず起こる。しかし、常に主の計画が勝利する。そして、これが主を信じている者の確信である。
 「神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、甦らせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである」。
 人は逆らったけれども、神は勝利したもうた。その勝利宣言、勝利が明白になったという宣言がある。
 この言葉はすぐ後に続く詩篇の引用によって明らかなように、詩篇16篇の預言の成就として起こったと確認されている。この詩篇については次回に学ぶことにして、今日は24節を学ぶに留めるが、「死の苦しみ」という言葉が用いられる。この言葉は無視されているわけではないが、軽く考えられているのではないかと思われる。だから、シッカリと直視して置こう。使徒たちは一度はこの死の苦しみを好い加減にあしらった。だから、主の苦しみの時、眠ってしまった。
 主が味わいたもうた死の苦しみを追体験することは容易ではない。と言うよりは出来ないと言った方が正しいようである。それでも、それが深い苦しみであることは分からなければならない。死の苦しみとは、死そのもののことである。主が真に死にたもうたことが捉えられていないならば、救いの確認は出来ない。彼は死を仮のものとして通り抜けたもうたのでなく、現実に死の中に陥り、死者の一人となり、そこから「死人の甦り」を実現したもうたのである。主の死を捉えなければ、救い、救い、と言っていてもお題目を唱えるだけと同じである。
 主は「己が十字架を負いて我に従え」と言われた。彼の負いたもうた十字架を我々が負うことは不可能である。だから、「私の十字架を負え」とは言われなかった。それと実質のかなり違うものであるが、「あなた自身の十字架」、十字架の名に価しないけれども、「十字架」と呼ぶことが許されるもの、これを負って、私について来なさい、と言われた。この修練によって、私は空疎な言葉ではない主の死を体得出来るのである。 


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