2008.05.18.

 

使徒行伝講解説教 第117

 

――18:19-25によって――

 

 

 ケンクレヤは、エペソやシリヤなど東に向かう船の発着するところで、ローマ行きの船は山を一つ越えた港から出たそうである。パウロたちの乗った船はエペソに寄って、カイザリヤに行った。エペソに行くのは以前通ったサモトラケからトロアスに渡って行く航路を逆方向に取るのでなく、ケンクレヤから真っ直ぐエペソに行ったように思われる。そしてエペソに碇泊している時間は短かったようである。

 今日読む部分の記録は、記録として良く整えられていない。あるいは、初め書かれた文書が欠損したのかも知れない。パウロの行動がハッキリとは掴めないのはそのためであろう。記録のないところを想像で補うことも難しいから、文書として伝えられるところにしたがって読んで行く。

 19節「一行がエペソに着くと、パウロは二人をそこに残して置き、自分だけ会堂に入って、ユダヤ人と論じた。人々は、パウロにもっと長い間滞在するように願ったが、彼は聞き入れないで、『神のみこころなら、またあなた方のところに帰って来よう』と言って別れを告げ、エペソから船出した」。

 エペソに着くと、さっそく会堂を訪ねた。「そこでユダヤ人と論じた」とあるが、説教ではなく「対話した」のである。ユダヤ人と語り合ったとは、ギリシャ人はそこにいなかったことを指すのであろう。議論を戦わせたのでもない。人々からもっと滞在するように言われたのに、パウロはすぐに去った。それは、急いでいて、船の碇泊時間が限られていたからではないか。また出航に都合の良い潮時があったかも知れない。

 それからシリヤに直航したらしい。急いだと推測するのは、冬の季節風によって航海出来なくなる前にシリヤに着こうと願っていたからであろう。「シリヤに向けて出帆した」と18節に書かれているが、シリヤのツロにもシドンにも入港せず、実際はユダヤのカイザリヤ港に入った。風向きの加減で、シリヤの港には入り難かったのだと言う人もいる。なお、パウロがエルサレムでの祭りに間に合いたいから急ぐといっていたという写本があるが、どの祭りか。冬の宮潔めの祭りか、春の過ぎ越しか、判断がつかない。また、エルサレムで祭りを守ったようにも思われない。彼のエルサレム滞在は今回は教会に挨拶しただけのように読み取れる。

 エペソは、先に通過した所である。すなわち、166節で「アジアで御言葉を語ることを聖霊に禁じられた」という言葉を読んだが、そのアジアの代表的な大都市がエペソである。当然、パウロは前からエペソ伝道を考えていたに違いない。それを主の御霊が阻止したもうた。何故であるかは我々の立ち入るべきことではない。

 エペソで今回は少し語ることが出来たし、19章ではまたその機会が与えられる。20章には有名なパウロの訣別説教が記録されているが、その時はエペソに船を泊めることが出来ないので、彼らをミレトに呼び寄せて、そこで会った。この時、エペソにはすでに長老たちのいる教会が出来ていた。――エペソには使徒時代の末期、使徒ヨハネが指導する大きい教会があり、エペソを中核とする7つの教会を柱とする大組織が出来ていることがヨハネの黙示録によって知られている。

 前回ここを通り過ぎたので、パウロはこの町について幾らかのことは知っていた。シナゴーグのある場所も知っていて、港からそこに急いで行ったようだ。

 なぜパウロだけが会堂に行ったのか、アクラとプリスキラは一緒に行かなかったのか、この日会堂に行ってユダヤ人に会えたのは、その日が安息日であったからであると言う人がいるが、安息日に彼らを残した意味が分からない。また、シナゴーグに行った時の様子を見ると、安息日ではなかったのでないかとも考えられる。

 エペソのユダヤ人はパウロの説く福音に関心を持ち、もっと聞きたいと願った。パウロはみこころならばまた来ると答える。自分としては来たい。しかし、みこころでなければ来られない。エペソでキリストの福音が説かれたことは、我々に分かる限りではこれが最初であった。しかし、誰かが先に伝えたということはあり得る。

 エペソの人々が好意的であったと我々はここで感じる。パウロが去った後、アポロがエペソに到着し、会堂で説教した。こうしてユダヤ人の中に信者が増えたようであるが、異邦人の神を敬う者らがどうであったかは分からない。ギリシャ人の入信者については、1910節で語られる。これはパウロが来て3ヶ月の会堂での説教の後、会堂を出てツラノの講堂に本拠を移してからのことである。

 「それから、カイザリヤで上陸してエルサレムに上り、教会に挨拶してからアンテオケに下って行った」。

 カイザリヤに教会が建てられたことは10章で読んだが、パウロはそこに寄らないでエルサレムに向かった。

 パウロのエルサレム訪問が何のためであったかと人々はいろいろに考えている。誰かに会って何か相談すべきことがあったと推測することは十分出来るが、滞在は短すぎる。会おうとしていた人が不在だったらしい。会おうとした人が誰であるかは想像するほかないが、ペテロではないか。しかし、ペテロはいなかった。だから、エルサレムでは教会に挨拶するだけで、すぐアンテオケに向かった。

 アンテオケは伝道旅行の出発点である。派遣元である。だから、することはいろいろあった。すなわち、アンテオケの教会の信者たちの信仰の益となることで語るべきことは多かった。パウロが書簡を残している諸教会について、どんなに深い配慮がなされたかを我々は知っている。アンテオケ教会はすでにシッカリしていたから、ここに宛てて手紙を書くことはなかったが、彼の関わりについて思い巡らすことは出来る。

 「そこに暫くいてから、彼はまた出掛け、ガラテヤ及びフルギヤの地方を歴訪して、すべての弟子たちを力づけた」。

 これまで、パウロの外国伝道はいずれもアンテオケを出発点とした。今度もそう考えられる。すなわち、第三次伝道旅行である。ただ、今回は旅がずっと続いているようにも受け取られる。第一次、第二次の時はチームが組まれ、態勢を整えて、教会から送り出されるという形で出発した。今回はそういうことがない。だから、第二次伝道がまだ続くと見る人もいる。

 「ガラテヤおよびフルギヤの地方に行った」。この記事も非常に簡略である。パウロの足跡を地図で辿ろうとしても、なかなか難しい。先に166節に「アジアで御言葉を語ることを聖霊に禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方を通って行った」と書かれていたところと大体重なるようだ。しかし、「フルギヤ・ガラテヤ地方」とあるのと、1823節に「ガラテヤおよびフルギヤの地方」と書かれているのを同一視すべきでないという議論がある。その議論は正しいと思うが、細部に立ち入ることは今は必要ない。「全ての弟子たちを力づけた」という一句で、かつての伝道地を再び訪ねたことが分かる。すなわち、今のトルコの内陸部に東から入ってデルベ、ルステラ、イコニオム、ピシデヤのアンテオケを訪ね、それから北上してフルギヤの山地の村々を伝道したのである。191節に「パウロは奥地を通ってエペソに来た」と書かれている奥地、これがフルギヤである。ガラテヤと書かれている地の教会とガラテヤ書の関係は今は触れないが我々の心の中では結びつけて置こう。

 ここでアポロの記事になる。

 「さて、アレキサンデリヤ生まれで、聖書に精通し、しかも雄弁なアポロというユダヤ人がエペソに来た」。

 アポロの経歴については、アレキサンデリヤ生まれ、そしてユダヤ人、またこのギリシャ風の名から、ギリシャ語を使うユダヤ人だということが分かる。それだけしか分からない。どこでキリスト教信仰を得たかも書かれていない。アレキサンデリヤであろう。この段階で世界伝道の拠点になっていた教会は、エルサレムかシリヤのアンテオケかと先ず考えられるのであるが、アポロはそのどちらでもない。

 使徒行伝の記録にはないが、エジプトのアレキサンデリヤにはキリストの時代以前にすでに多数のユダヤ人が移住し、多数のシナゴーグがあった。イエス・キリストも一時エジプトに難を避けたもうたと、マタイ伝では語られている。そして旧約聖書のギリシャ語訳がこの地で作られた。キリスト教の伝道が旧約聖書を用いており、その聖書はアレキサンデリヤで作られたギリシャ語訳であることを我々はすでに何度か触れて来た。したがって、記録がないことは確かであるが、アレキサンデリヤと世界に広がって行くキリスト教会との関係は確かにあった。

 25節ではアポロがヨハネのバプテスマしか知らなかったと述べている。これは問題だと言うべきである。が、今はヨハネのバプテスマが早い時期にエジプトにまで及んでいたことに注目する方が大事である。最初のキリストの弟子は殆どヨハネの弟子であったことをヨハネ伝は詳しく語っているが、アポロもペテロやゼベダイの子たちと同じく、ヨハネの弟子、あるいは孫弟子であった。

 しばらく後にはアレキサンデリヤ教会はエルサレム、アンテオケ、エペソと並ぶ中心の一つである。最も古い時代がどうであるかは知り得ないのであるが、かなり古い時代に教会は建てられた。アポロはそこの出身ではなかろうか。

 キリストの名によるバプテスマという大事な点でアポロの把握に問題があったが、これは簡単に修正出来る違いであったということが26節で見られる。

 信仰の「道」について若干違うところがあるのをプリスキラとアクラが聞いてそれを補うのを次回に28節で学ぶ。ここにパウロの神学とアポロの神学の違いがあり、後にコリントの教会の中にパウロ派とアポロ派の対立が生じた、あるいはエルサレム派とアレキサンデリヤ派の対立があったと考える人がいるが、取り立てて議論しても余り益はないと思う。アポロのことをパウロはテトス書313節でも触れているが、尊敬して言っていることが分かる。

 基本的に同じであれば、違いはむしろ利点である。彼は「聖書に精通していた」。聖書に精通しているとは、聖書を詳しく調べて知っているということと、聖書の解き明かす力があるということを意味している。キリスト教会は最初の時から聖書に基づいてキリストの福音を説いていた。しかし、信者は誰でも聖書の解き明かしが出来るようになっていた訳ではない。この務めに選ばれ、そして召された人が、召しに相応しくなるための修練を積んで、御霊の力を受けてこの務めを遂行する。

 彼はまた「雄弁であった」。雄弁と訳された言葉は弁が立つという意味にも、「学識が深い」という意味にも取れる。どちらの訳しかたが適切か判断し兼ねる。パウロと比較されて、アポロには深みや重々しさが欠けるように感じている人がいるようであるが、そう考える根拠は弱い。

 「この人は主の道に通じており、また、霊に燃えてイエスのことを詳しく語ったり教えたりしていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった」。

 ヨハネのバプテスマしか知らないとは致命的な欠陥ではないか、と考えられるかも知れない。たしかに問題はあって、以下の節において、また19章に入ってから多くのことを学ばなければならない。しかし、ヨハネがそうであったようにアポロはキリストの証人「主の道」というのは、次の26節に「神の道」とあるのと似たもので、初期のキリスト者の間で教えの骨子を纏め、それを伝える要項をこのように呼んだと捉えれば分かり易い。それは覚えやすい言葉になっていて、諸教会は入信するものに教えていた。

 アポロが巧みに語っただけでなく、霊に燃えて語ったことも無視してはならない。これによって、信ずべき人は信じ、逆らう者は霊の力によってねじ伏せられたのである。


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