2008.05.04.

 

使徒行伝講解説教 第116

 

――18:12-18によって――

 

 

 パウロの16ヶ月に亙るコリント伝道の具体的な活動について、使徒行伝は触れていないが、この町を去る直前の出来事だけはかなり詳しい。これを読み違えて、ユダヤ人からの反感が募って行くのに、町の治安を維持すべきアカヤ総督が無能であって、これ以上滞在して伝道するのは無理だから立ち去らざるを得なかったと読み取る人がいるが、正しくない。12節から17節までに書かれている事件の後、パウロは幾日か活動して、それからここを去ったと18節に記されている。

 パウロは追い出されたのではない。もっと留まることは出来たのである。彼はケンクレアの港に行って、シリヤ行きの船に乗った。コリントにおける迫害でやむなく逃れるということではない。コリントに働き人は残って伝道を続けている。パウロとしては思い残すところがないほど十分に働いた、と言っては少し言葉が過ぎかもしれない。だが心ならずも去ったのでないし、教会員との関係がまずくなったのでもない。この後、彼はコリントの教会のことを心配して、何度も手紙を送っている。それほど深い関わりは続いたのである。

 「ガリオがアカヤの総督であった時、ユダヤ人たちは一緒になってパウロを襲い、彼を法廷に引っ張って行って訴えた、『この人は、律法にそむいて神を拝むように、人々を唆しています」』。

 非常に重要な事件が記録されているととっては思い過ごしである。事柄としては小さいのである。だが、詳しく書いてあるので、書かれていることはキチンと読んで置くべきである。

 降って湧いたように新しい事件が起こったと思われるかも知れない。それは間違いではないが、大事件と言えるかどうか。伝道の初めの日以来、こういう抗争が続いていたのではない。ユダヤ人の会堂がクリスチャンに乗っ取られたという争いがあったのでなく、クリスチャンはそこを明け渡して出て行ったのである。シナゴーグはユダヤ人によって運営されていた。シナゴーグは衰頽したけれども、維持されていたと考えなければならない。会堂に集まるユダヤ人と、その隣りのテテオ・ユストの家その他に集まるキリスト者は、精神的には決裂状態にあるが、荒々しく争い合うことはなかったのである。ところが、新しい総督の着任の機会に、争いを起こすことによって、勢力を挽回しようとユダヤ人は企んだ。

 ガリオという名は聖書の読者に馴染みがないが、ローマでは名門の生まれで、教養もあった人である。「ガリオがアカヤの総督であった時」――この時は、正確に記録に残る日付をもとにして割り出せると言われる。紀元52年夏頃である。

 ユダヤ人たちは新しい総督が、自分たちにとって都合の良い裁判をしてくれるのではないかと期待して、パウロの盛んな伝道を訴えようとしたのではないかと思われる。暴力的に襲って無理矢理連れて行ったことは事実であろうが、彼らの言い分を考えて見るとユダヤ人社会の秩序を破壊する者を裁いてもらいたいというにあった。

 「この人は律法に背いて神を拝むように、人々を唆す」と訴えた。ここで言われる「律法」とは何であろうか。ローマの法であろうか。モーセの律法か。

 かつてピリピで町の人たちによってパウロとシラスが長官の前に引き出されたことがある。1620節で読んだ通りである。「この人たちはユダヤ人であって、私たちの町を掻き乱し、私たちローマ人が、採用も実行もしてはならない風習を宣伝している」と訴えた。この時、長官は、取り調べもせずに、鞭打ちの刑を言い渡して、二人を獄に入れた。――これは裁判官が法を逸脱しているから、問題にならないのであるが、訴えの名目は、パウロたちが、この地では慣習になっている宗教行為である占いが出来ないようにしている、というにあった。結局、裁判としては成り立っていないものであるが、この地でこれまで行われていた宗教行為が出来ないようにしたのは犯罪であったと言いたいようである。彼らの慣習が社会の秩序を保つための法であって、慣習を守ることを妨げるのは犯罪である、と言いたかったらしい。

 話しが逸れてしまうが、慣習的な宗教が法的に権威付けらねばならないという風潮は我々の周囲に盛んである。それが少数者の良心宗教を蹂躙し、妨害している。これは今日の聖句に関連した事項ではないから、これ以上は立ち入らないで置くが、今日の学びと全然無関係でもないことである。

 コリントのユダヤ人たちは、世俗のローマ法でなく、モーセの律法に訴えようとしたと私には考えられる。ガリオの答えも、彼がそのように受け取った上での判断であると見た方が自然である。ユダヤの律法をユダヤ人に守らせるよう命じる権威は、ローマの裁判官にないではないかと反論できる。だが、ユダヤ人の意見は、ローマ帝国の中でユダヤ人が父祖の守った律法によって共同体を維持し・育成することが許されているのであるから、異なる律法を唱えてユダヤ人共同体を混乱させ、分裂させることは、引いては社会全体の秩序破壊に繋がるのではないか、という主旨のように思われる。

 もっとも、ユダヤ人の訴えが、ローマの法による訴えであって、パウロの説教がローマへの反逆を煽動するものだと言ったように取ることは全然出来ないとも言えない。ただし、パウロがローマ的秩序に反抗せよと説教したとは考えられない。それでも、イエス・キリストがカイザルに対する反逆者だと偽って告発された事実から考えて、そのような偽りの訴えはここでもあったと解釈することは不可能ではない。

 「パウロが口を開こうとすると、ガリオはユダヤ人たちに言った、『ユダヤ人諸君、何か不法行為とか、悪質の犯罪とかのことなら、私は当然、諸君の訴えを取り上げもしようが、これは諸君の言葉や名称や律法に関する問題なのだから、諸君自ら始末するが良かろう。私はそんな事の裁判人にはなりたくない』」。

 ガリオの発想は世俗的である。聖なる事柄について物を言う資格はない。彼の言葉にはユダヤ人とユダヤ教に対する侮蔑があるように感じられる。しかし、ここでガリオの世俗性についてどんなに厳しく論じても的外れである。「あなた方の訴えを私は受け付けない」とガリオが言っていることは正しい。もしこの時、ユダヤ教が敗訴し、キリスト教が勝訴したならば、良かったのか。いや、そういうことになれば、新しい弊害が始まったであろう。

 パウロが口を開く前に、ガリオがユダヤ人の訴えを却下した。パウロは発言の機会を与えなかったことについて異議申し立てをする余地もなかった。だがキリスト教側にとって何ら損失ではなかった。実際、キリスト者に対して有ること無いこと述べ立てて非難されるのに、いちいち反論する必要はない。真実でない言葉は意味もないのだから、聞くことも、答えることもないと見てよいであろう。聞いていることは苦痛であっても、その苦痛には耐えて黙っていなければならない。

 「これは諸君の言葉や名称や律法に関する問題なのだから、諸君自ら始末するが良かろう。私はそんな事の裁判人にはなりたくない。こう言って、彼らを法廷から追い払った」。ガリオが事柄を正しく理解しているかどうかは、どちらでも良いのであって、ここでは謂わば宗教の法と世俗の法は別だと言っているのである。

 「そこで、みんなの者は会堂司ソステネを引き捕らえ、法廷の前で打ち叩いた。ガリオはそれに対して、素知らぬ顔をしていた」。これも取り上げるに価しない。

 ここでいう「みんなの者」とは誰なのか? パウロを引き立てて法廷に連れて行ったユダヤ人のことではないか、と思われるのであるが、これはギリシャ人であると見る人もかなりいる。ユダヤ人だとすれば、訴えても相手にされなかったし、法廷から追い出された、その腹いせに、ソステネに乱暴したのであって、それはソステネがこの訴訟を起こす指導者であったから、無駄なことに人々の労を費やさせたことについて、報復した、ととるのが一つである。あるいは、ソステネはコリント前書の冒頭にパウロとともに名前を連ねているのと同一人と思われるから、すでにキリスト教に傾いていた彼に制裁を加えたと取るかである。

 「みんなの者」がギリシャ人であったと見るならば、それは裁判の傍聴人であり、訴えられたパウロを支援するためについて来たキリスト者では恐らくないであろう。すなわち、まだパウロがこの場にいたのであるから、彼はキリスト者に乱暴を禁じたに違いないのである。どちらでも良いことであるが、先の会堂司クリスポがキリスト教に入信したのに引き続き、その後継者としての会堂司ソステネもキリスト信者になったか、あるいはそうなり掛けていることに、ユダヤ人たちが苛立って乱暴をしたと見る方が自然ではないか。それとも、信仰の問題に無関心な人がソステネを打ったかである。

 それを見ながら、ガリオは素知らぬ顔をしていた。これは不法な乱暴行為であるが、下々の野蛮なもの、あるいはユダヤ人同士の小競り合いの件で、ローマから赴任した高貴な身分の者には取り合う必要がない、という判断をしているのであろう。

 次に「兄弟たちに別れを告げた」というのは、再来の約束を籠めた別れであろう。離れた理由はどこにあったのか。迫害でもないし、この町の伝道に意欲をなくしたということでもない。IIコリント131節に「今、三度目にあなた方の所に行こうとしている」と書かれているように、コリントでの活動を一度で終わらせるつもりはなかった。シリヤ行きの船に乗ったのであるから、エルサレムに行く必要を感じたのであろう。また、18節に誓願を立てていたとあることから推測される何かの企ての実行があった。

 それにプリスキラとアクラが同行した。この二人はパウロがコリントに来る少し前に来た人で、パウロに同行したのはエペソまでであって、彼らはその後またローマに行っている。彼らがどうしてコリントを去ったかは良く分からない。

 コリント市内で別れを告げて、パウロとアクラ夫妻だけがケンクレアに行ったのかも知れないが、ケンクレアまでコリントの人たちが皆ついて行ったと見て、おかしくはない。11キロ離れた隣りの町に、すでに教会が出来ていたと思われる。ケンクレアの執事フィベという働き手がその時すでに執事の働きを始めていたかどうかについては断定しないが、パウロたちはケンクレア教会の集会場に行ってシリヤ行きの船を待ったのであろう。そして、そこで頭を剃ったのだと思う。

 「かねてから、ある誓願を立てていたので、ケンクレアで頭を剃った」という一文は分かり難く、そのために誤解が起きる。誤解した人を責めるのも気の毒だが、誓願を立てて頭を剃るということを大事な行事と見て、聖職者は頭を剃らなければならないという規定を設けた教会がある。さらにそれは時代にそぐわないから、剃刀を当てるだけの儀式に置き換えているが、そもそもこの儀式が何であったかを読み違えたまま、儀式を立てた愚かさを我々は真似してはならない。誓願は真剣なことだが、規定でなく風習である。これはパウロが立てた誓願であると読んでいる人が多いが、誓願を立てていたのはアクラかも知れない。そのように読むことが間違いだとは思えないのである。

 さらに、誓願を立てていたから頭を剃ったということについて勘違いがある。律法で規定された誓願として我々の知るのは民数記6章にある「ナジル人」になる誓願だけである。ここでもナジル人の誓願である。規定外の自由な誓願はあった。例えば、創世記28章にあるが、そうでない誓いとして有名なものに、ヤコブが家を離れてハランに向かった最初の夜が明けた時、枕としていた石を立てて誓願した例がある。これはヤコブの生涯において最も重要な事件であるが、自発的な決断の行為である。誓願は願いをし、その願いに対応するものを自発的に誓ったものである。これが頻発され、果たせなくて窮地に陥ることを主は喜びたまわない。むしろ「誓うな」とマタイ534節で言われた。キリスト者の間でも誓願があることが2123節に出ている。

 パウロあるいはアクラは何を誓願したのか? それは書かれていないから分からない。だから触れないことにして置こう。書かなくても良いことだったのだ。ここで大事なのはその誓願が明けたことなのだ。ナジル人の誓願は通常30日間だった。その間、禁酒や節食して祈る。頭も髭も剃らない。その期間が明けたから髪に剃刀を当てたのである。頭を丸坊主にしたということではない。その30日間集中的に祈ったことが何かは分からないのであるが、教会と伝道に関することであったのは確かである。おそらく、その祈りの間に示されたことがあって、エルサレムに行こうとしたのである。

 どういう誓願であったか分からないが、我々は知らなくて良いと思う。誓願の期間が終わって晴れ晴れとした気持ちで旅立ったのである。

 

 

 


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