2008.04.13.

 

使徒行伝講解説教 第115

 

――18:6-11によって――

 

 

 5節の後半で見たように、パウロはイエスがキリストであることを特にユダヤ人に対して熱心に説得した。「しかし、彼らがこれに反抗して罵り続けたので、パウロは自分の上着を振り払って、彼らに言った。『あなた方の血は、あなた方自身に帰れ。私には責任がない。今から私は異邦人の方に行く』」。

 同じ主旨の言葉は以前ピシデヤのアンテオケでも言われた。1346節で聞いたことだが、「神の言葉は先ずあなた方に語り伝えられねばならなかった。しかし、あなた方はそれを退け、自分自身を永遠の生命に相応しからぬ者にしてしまったから、さあ、私たちはこれから方向を換えて、異邦人たちの方に行くのだ」と言った。

 ユダヤ人が素直に信じなかったのはなぜか。これは考えて見るだけの意味のあることである。イエスがキリストであると信ずることが要点であった。したがって、信じない人たちはイエスはキリストでないと言い張る。この事態を理解する手がかりとして、Iコリント122節の「ユダヤ人は徴しを請う」という言葉がある。イエスがキリストであるなら、その徴しを見せてみよ。これはゴルゴタの丘に集まった人たちが、あなたがもしキリストなら、ここから降りて見よ、と言ったのと同じ考えである。宣言だけでは信じないと言うのである。

 しかし、徴しを求めるユダヤ人に対してパウロの答えたのは、徴しではなかった。十字架の宣教が御霊の力によって、徴しなしで行なわれて、そこに信仰を生むことが答えであった。それでも、信じない者がいた。これだけ言って信じないなら、私は去る。

 パウロが短気を起こしたと見るのは正しくない。キリストが来られるという約束をユダヤ人は長い時代に亙って待っていた。今やそれが成就したと宣べ伝えられる時となっており、その期間は長くない。キリストは来られた、と一回叫べば、聞くべき者は聞く。以後はキリストのことを聞いたこともない異邦人に福音を広めなければならない。

 その切り替えの時が来たのに、長々と反抗するユダヤ人に聞かせるために時間を費やし、冒涜的な言葉を吐かせることはない。聞くに時がある。近くいたもううちに呼び求めよ、とイザヤ書556節は言う。

 それでは、一度聞き落としたなら、機会は永久に来ないのか。これについては機会を改めて学ぶことにする。今は触れないで良い。

 パウロはユダヤ人の前で着ている物の埃を払い落とす。これはイエス・キリストも12弟子たちを遣わされる時、人々が御言葉を聞かないならばこうせよ、と指導したもうたやりかたである。マタイ伝1014節に書かれている。私には責任がない、つまり、すべきことは全部した。あなた方の滅びの日が近いが、滅びの日に塵の一つもあなた方とは共有しない、という証しである。

 「今から私は異邦人の方に行く」と宣言された。このコリントでもすでにかなり多くの異邦人が福音を聞いていたのである。

 こう言ってそこを去ったというのは、シナゴーグを去ったということである。行った先はテテオ・ユストの家で、会堂と隣り合わせであった。テテオ・ユストは会堂の隣りに住んでいて、以前から会堂に出入りし、聖書の教えを聞いていた。パウロがシナゴーグを出るというので、それならわが家を提供するということになった。コリントではアクラの家が何らかの意味での集会所であったが、テテオ・ユストの家が主要な集会所になった。アクラの家からテテオ・ユストの家に住むところも移したという意味があるかも知れない。しかし、主イエスは72人の弟子の派遣の時、「家から家へ移るな」とルカ107で教えておられるから、パウロが住む家を換えたと見ない方が良い。

 テテオ・ユストのテテオは日本語聖書で「テトス」と読まれる綴りである。これはテトス書のテトス、つまりパウロと一緒にエルサレムに上ったとガラテヤ書に書かれているテトスとは別人である。コリントのテテオ・ユストはローマ市民としてここに移住した人であったらしく、したがって家は、来たばかりのアクラの家よりは立派であったのではないか。だからキリスト教の集会所として用いられた。

 「会堂司」クリスポは、Iコリント114節にも名を記されているその人で、パウロから洗礼を受けた数少ない人の一人である。パウロが会堂を出たから、クリスポも会堂を離れ、したがって会堂司でなくなった。彼は家族一同とともに教会に入った。会堂司はユダヤ人社会の中で地位が高いと考えられるのであるが、コリントのユダヤ人をキリスト教に入信させるだけのこの世での力はなかった。社会的影響力があるからといって、人を信仰に入れることは出来ない。彼自身と家族とが教会に入っただけである。しかし、会堂司が教会に移ったということはシナゴーグの意味が終わったことを象徴する。

 もう一人、会堂司ソステネという名が17節に出ているので、ここで触れて置かねばならない。会堂司が複数であったとすれば、クリスポとソステネが会堂司であって、二人ともキリストを信じたことになる。複数でなかったかも知れない。とすると、クリスポがキリスト者になったあと会堂司として立てられたソステネが、やはりキリスト者になり、したがって会堂を離れ、ユダヤ人の暴行を受けたのである。このソステネの名は、Iコリントの初めにパウロの名と並んで見ることが出来る。彼はその時、エペソに来ていた。伝道者ではないが、教会の中では重要な人であったと見られる。

 クリスポの洗礼がパウロによってなされたと言われたが、それと並んでガイオという名がある。ガイオはコリント教会の主要人物の一人で、ローマ書の巻末に「家主ガイオ」と書かれる。家主とは教会の家主である。テテオ・ユストのもう一つの名であると推測する人もいるが、その根拠は弱い。それからステパナの家の者たちもパウロによって洗礼を授けられたと述べられている。ステパナの家は「アカヤの初穂」だとIIコリント1615節に書いてあるが、最初期の受洗者である。――この人たちがクリスポと同じユダヤ人であったのかどうかは分からない。我々の観察では、ユダヤ人かギリシャ人か、区別するのが不可能なほどに、二種類の人が入り交じって求道し入信した。「続々とバプテスマを受けた」と書かれているが、「続々と」という原語はなく、それは翻訳の筆が走ったように思われる。ただし、次々と教会が充実して行ったことは感じられる。

 初期のコリント伝道がどのようであったか。伝道活動がどれほどの成果を上げたかの数字は分からない。ルカもそれを記録しようとは思わなかった。我々も数字に関心を持つ必要はない。では、何に関心を持つべきか。人の名前が出ているから、その名の人一人一人に関心を持つのは当然である。そしてその人たちの協力を思い見るならば、そこに生じた実りを考えることが出来、熱気が感じられる。また、その人たちを動かした原動力が聖霊によっていることも見えて来る。

 パウロは自分が洗礼を施した人は僅かしかないと言うが、ここから察せられるのは、同労者シラスの働きである。パウロが説教に専念して、シラスに洗礼を任せたとまでは言わないが、シラスも説教をし、洗礼も行なった。そして、パウロとしては、自分が洗礼に携わることを主張しようと思っていなかったことが、コリント宛の第一の手紙から読み取れるのであるから、シラスによって多くの受洗者が生み出されることを望んだのであろうと考えられる。

 先にアクラとプリスキラによって、エペソで伝道者アポロに対する教理の教育が行われたことに触れたが、教理教育の充実はパウロのコリント伝道に参加した時に受けた影響であろう。アクラとプリスキラが洗礼準備の教理教育をしていたという証拠はないが、そう考えて十分頷ける。

 次にテモテが伝道者の補佐として教育に当たったことは当然である。ルカもそのような働きをした。教会を建てて行くための人材養成が行なわれた。長老たるべき人、執事たるべき人の訓練も行なわれた。

 コリント伝道で大きい意味を持つのは、誰も気付いているように、910節に記される主の言葉である。ある夜、幻のうちに主がパウロに言われた、「恐れるな、語り続けよ、黙っているな。あなたには私がついている。誰もあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には私の民が大勢いる」。

 夜、実際に主が出会われたと取っても、夢で見たと取っても、どちらでも良い。主がパウロに語られたことが大事なのだ。そして、パウロがこれを一緒に働いている人たちに語り、主のお告げを共有し、それを確認したことも確かである。

 時期はいつであったか。いつであっても良い、と言うことは出来る。実際、この御言葉は普遍的にいろいろな時に適用出来る。だから、後の時代の人もこの言葉を自分に宛てられた言葉として聞き取ることが出来たし、それで正しい。だから、我々もパウロに宛ててのこの御言葉を、自分のために語られたと聞き取って、間違いではないと言うべきであろう。

 しかし、恐らく、時期はパウロがシナゴーグと訣別した直後であろう。そのように読み取った方がシッカリ聞ける。では、その時にパウロが恐れていたのか。それは我々には分からない。パウロ自身に聞いても分からない。恐れというものは自分で恐れと気付いている場合だけでないと知っておくことは必要である。恐れている状況を前提として理解しては、御言葉の理解が歪むかも知れない。

 「語り続ける」とは「黙る」の反対の意味である。「続けよ」という動詞があるわけではない。語れ!である。続けることに意味があると説くことをけなす必要はないと思うが、ここでは、続けておれば語った実りがある、と言おうとしているのではない。語るべき言葉を持っている者が、語るのを止めて沈黙し、状況を観察する者、あるいは評論する者となってはならないのである。

 これまでは、どの町に行っても、先ずユダヤ人の会堂に行って、そこに来ている人々、すなわちユダヤ人と、ユダヤ人ではないが神を敬う人に向けて語った。彼らは神の言葉を聞こうとして集まっている民であった。

 アテネに行った時、会堂でも語ったが、そこから一歩踏み出して、町の広場に行って、誰彼構わず説得した。そのため裁判所に連れて行かれて語らせられることにもなった。それを聞いてくれる人は全然なかったわけではないが、少なかった。今度は同じギリシャのアカヤの町であるが、コリントは商売の町である。アテネならば真の知恵とはどういうものかを説けば、町の広場においても、とにかく聞いてくれる人はいた。コリントでもシナゴーグの中なら、そういう話しを聞いてくれる人はいる。しかし、そこを出てしまった。出たことを悔いているわけではないが、これから先どうすべきか。しばらくは黙って考えるべきではないか。

 そうではない!語るのだ!と主は言われる。十字架の福音を語るのだ。これまで、お前が語って来たように、キリストの福音を語るのだ!そう主は言われる。

 聞く人がいないと思ってはならない。この町には私に属する民が大勢いる。大勢ということを、呼び掛ければスグに集まる人の人数という意味に取らなくて良い。コリントの教会がアカヤ地方の中心としての大教会になったことは事実である。また、この教会に宛ててのパウロの手紙が示すように問題だらけの教会であるから、やはり大勢の教会ということには疑問がある、と論じても、それはここでは無意味なのだ。

 シナゴーグで語るという手がかりはなくなったが、会堂の中の民でなく、町の中の民に語るようになったのだ、と主は言われる。教会の集会の場所はテテオ・ユストの家に移って続けられて行く。それはシナゴーグに集まる群れというのとは別の意味のものになっている。実際、キリスト教会は初めのうちユダヤ教の会堂で集会をしていて、やがてそこから別れ、独自の活動を展開するようになったのであるが、その別れた時の状況をここで読むのである。

 ユダヤ人にとって「会堂」がどういう意味を持っていたかを我々はこれまでの学びで大体掴んだ。会堂は律法によって規定されたものではない。神が建てよと言われたものではない。しかし、ユダヤ人は神が命じて建てさせたもうた荒野の幕屋、それを引き継ぐものとして建てられたエルサレムの宮、それに準ずるものとして町々の会堂を重んじ、会堂が信仰生活の中心になるように用いて来た。――エルサレムの宮が70年にローマ軍によって破壊され、ユダヤ人はユダヤの地に立ち入ることが出来なくなったが、それでもユダヤ教が消滅しなかったのは、彼らの信仰生活の中心が事実上町々の会堂に移されていたからである。これをキリスト教が引き継ぐことになる。

 パウロにとって、またパウロから福音を聞く人たちにとって、会堂の偶像化も迷信的依存もなかったが、それが町々に前もって配置されていて、そこで伝道することは神の摂理であり、したがって、ここには安心感があった。

 会堂を出たなら主の保護がなくなると思った訳では決してないが、一抹の不安のようなものがあったことは理解できる。その時に主は「私がついている」と言われる。インマヌエルである。我々の礼拝する場所、そこはインマヌエルである。

 


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