2008.04.06.

 

使徒行伝講解説教 第114

 

――18:1-4によって――

 

 

 1節に書かれているように、使徒はアテネからコリントに移った。ここに16ヶ月、腰を据えて伝道したことが11節に記されている。一つの町の滞在としては長い。共に働く伝道者も揃った。共に働く人として先ず2節に名が挙がるのは、アクラとプリスキラである。次にマケドニヤから、つまりピリピ、テサロニケ、ベレヤから来てくれたシラスとテモテである。この他、ルカがいた。ルカは自分のことを書かなかったが、伝道者の群れの一人であることは疑いない。

 16ヶ月に亙る滞在と関連すると強調すべきでは必ずしもないが、そのことを書いている11節の前に、910節の御言葉がある。主がパウロに言われた。「恐れるな、語り続けよ、黙っているな。あなたには私がついている。誰もあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には私の民が大勢いる」。この言葉がパウロを捉えた。

 どういう伝道がなされたかの記録はない。だが、すでにこれまで観察したような手分けした共同作業としての伝道の手法が全て用いられた。彼らが勤勉な働き手であったことは分かっている。それぞれがフルに活動した。

 アクラとプリスキラという夫婦は、伝道者と呼ばない方が良いとしても、伝道的なキリスト者であった。アクラとプリスキラは、「近頃イタリヤから出て来た」と2節にある。パウロとは初対面であったどころか、その名も聞いていなかったと思われる。しかし、出会って直ちに信仰的な一致の確認が出来たと想像される。

 アクラとプリスキラがローマを追い出された事情について少し述べて置く。クラウデオ帝の時代、ユダヤ人は全員ローマから強制退去させられた。49年頃のことである。それはユダヤ人による叛乱があったからである。その叛乱がクレスティアヌスという指導者に率いられたものだという記録がある。それはクリスチャンの関与していたものではなかったかと見る人がいるが、あり得ないと思う。ただし、クリスチャンに罪を帰せようとする中傷ならあったかも知れない。追い出されたユダヤ人の中にキリスト者がいたということはあり得る。ローマにおける伝道は早い時期に始まったらしい。

 この二人がローマですでにキリストを信じていたかどうかについて、確かなことは言えないが、信仰の理解の深さから見て、以前からの入信者ではないかと私には思われる。アクラはポントの生まれのユダヤ人と書かれているから、親の代にそこに移った。ポントというのは今のトルコの黒海沿岸になる。ユダヤ人の居留地があった。ポントの教会はしばらく後には有力になっているが、アクラがそこで入信したと見るのは早すぎる。ローマに移ってから入信したのであろう。

 こののちアクラ夫妻は18節に見られるが、パウロがコリントを去る時、一緒に出発して、エペソに行っている。パウロはそのまま船旅を続けてカイザリヤに行くが、アクラたちはエペソに留まる。その後アポロという雄弁な伝道者がエペソに来て説教した時、プリスキラとアクラがそれを聞いて、アポロを招き入れ、さらに詳しく神の道を解き聞かせたと26節にある。これはアポロの説教の不十分な点を指摘して、もっと詳しく教理を教えたという意味である。つまり、伝道者ではないが、教理をシッカリ把握していた。そして今触れた所では、プリスキラとアクラという順序になっているところから考えて、神学的なことについては、アクラよりもプリスキラの方が良く教える力を持っていたと推測しても良いのではないか。

 彼らはその後ローマに戻って、ローマ教会の重要人物になっている。そのことはローマ書の終わりの章から分かる。

 シラスとテモテについては説明を省略して良いであろう。すでにパウロから厚く信任されている伝道者であった。

 パウロがアクラとプリスキラに会った事情については分からない。先ず会堂に行ってそこで会ったのか。テント作りの仕事を捜して、それで先ず出会ったのか。紹介状があったかどうか。そういう事情についてはいろいろに考えられる。

 3節に「パウロは彼らの所に行った」とあるが、コリントに来て早々アクラの家に落ち着くことになった。パウロがコリントに来て最初の説教で回心したのがアクラとプリスキラで、この二人がパウロを迎え入れたと考えることは出来なくないが、彼らの回心はそれ以前と見たほうが良いのではないか。ただ、出会って早速、福音と信仰と伝道の志について語り合い、一緒に生活することに決まったことは間違いなかろう。「住み込んだ」と次に言われるのは、同じ家に住んだことを言うだけでなく、普段の生活が礼拝生活であり、聖書の共同研究であったことを示している。

 時にパウロには生活費が尽きていた。ピリピとテサロニケとベレヤの教会はパウロの当座の生活費を提供してくれた。その金はアテネにいる間、毎日広場に行って福音を広めている間に尽きて、しかもアテネではまだ伝道者の生活を支えるだけの教会は育っていない。だから、コリントに来て直ぐに生活費を稼ぎ出さねばならなかった。これはパウロがコリントに着く前から考えていたことである。テント作りの労働で生活を支え、人の世話にならないことが彼の伝道方針であった。これはコリント人への第一の手紙9章、第二の手紙11章で述べていることである。

 福音は宣べ伝えられることによって、すなわち説教の力によって弘まって行く。しかしこのことは、言葉を語っておれば福音が伝わって行くという意味ではない。コリント人への第一の手紙416節その他で、パウロは私に倣う者になりなさい、つまり私の生活の仕方に倣いなさいと言う。

 ユダヤ教では、ラビになる資格の一つとして、自分の生活を支えるだけの働きをする技術の修得が要求されていた。これがキリスト教の教師になった時にも役立った。これまで、パウロが仕事をしながら伝道をした記録はないが、記録がないということは重要でないと思う。テント作りの腕が落ちないように、何らかの作業が続いていたと想像して良い。この生き方についてパウロには確かに強い主張がある。キリスト教が大きくなって、伝道を専業とするのが普通になったが、大きい教会を建てるキリスト教はだんだん下火になっている。伝道者がテント造りをする時代がまた来るかも知れない。

 テント作りの仕事について、正確なことは分からないが、黒山羊の毛織物で造ったという説明がもっともらしい。羊や山羊の皮で造るという説もあるが、雨と天日に強いとは考えられない。キリキヤ地方の毛織物を用いたものが有名だという説があるが、キリキヤ生まれのパウロがそこでこの技術を身に付けたかどうかは何ともいえない。ユダヤ人はもともと荒野の遊牧民であったから、テント技術は持っていたはずである。パウロが造っていたテントがどういう種類の物かも知り得ない。またテントを造るだけなのか、造った物を売ることもしていたのか、これも分からない。

 アクラの家に住み込んで一緒に仕事をし、安息日には仕事をやめて会堂に行き、ユダヤ人とギリシャ人の説得に努めた。コリントの会堂のことは4節で初めて出て来る。これまでは、大抵、先ず会堂を訪ねたということが分かっている。今回は、アクラとプリスキラに出会うことの方が先に書かれる。勿論、コリントでも最初の日に会堂を確認したであろう。

 コリントは大きい商業都市でユダヤ人町があったし、シナゴーグもあった。安息日にパウロはユダヤ人として当然シナゴーグに行ったが、ピシデヤのアンテオケの時のように、会堂司から説教を依頼されたかどうか分からない。すでに団体はシッカリしていて、新しく来たパウロには、説教する機会がなかなか来なかったのではないかとも考えられる。それでも、会堂に集まった機会を捕らえて、キリストの福音を語っていたと考える方が事実に合っている。

 コリントの会堂にはギリシャ人で神を敬う人がかなりいたようである。最初の日からパウロはユダヤ人とギリシャ人の説得に努めていた。

 5節に「シラスとテモテがマケドニヤから下って来た」と書かれている。彼らがベレヤに居残ったことは1714節で読んだ。ベレヤからアテネに着いて、送ってくれたベレヤの教会員はすぐ帰ったが、シラスとテモテになるべく早く来るようにとのパウロの伝言を持って行ったが、二人はなかなか来なかった。というのは、ベレヤだけでなくマケドニヤ地区における伝道が手を放せない大事な段階にあったからであろう。

 テサロニケ前書の31節に「私たちだけがアテネに留まることに定め、私たちの兄弟でキリストの福音における同労者テモテを遣わした」という言葉がある。これがコリントに来る前にアテネにいた時なのか、別の時にアテネに行っていたことについてなのか、分からない。とにかく、そこで書かれている限りではテモテだけがマケドニヤ地方に行ったことになる。複雑になるので、今はシラスとテモテがマケドニヤから下って来たということだけを見ておく。二人一緒に来たと見るべきであろうと思われる。下って来たと書くのはマケドニヤ地方に山が多いからだと言われている。

 二人が来たことで変わった一つのことは、マケドニヤの諸教会からの伝道資金が来たということではないかと思われる。マケドニヤの人たちはいつもそうしてくれていたらしい。

 こうしてスタッフが揃った。伝道活動は本格的になった。どういうふうにかと言うなら、「パウロは御言葉を伝えることに専念した」と書かれている。「専念した」ということは、勿論、テント作りの仕事をしなくて良くなったという程度のことではない。御言葉を語ることに集中して生きたのである。

 それは説教だけしていたということではない。また、説教しない時は説教の準備をしていたということでもない。全生活、全存在が説教であったということである。

 Iコリント24節で「私の言葉も私の宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によった」と言っている。言葉と宣教、と二通りの言い方をしているが、宣教は我々が普通に説教と呼ぶものであり、言葉というのは説教以外の教え、勧め、解説であったと考えられる。

 説教については当時まだ説教の型が決まっていなかったと思う人がいるかも知れないが、使徒行伝ですでに幾つも実例を見たように、型は決まっていた。すなわち、旧約聖書が引かれて、それはキリストにおいて成就したと宣言される。もう一点付け加えるならば、御霊によって大胆に語るという特徴を持っていた。

 コリントにおける説教について思い起こして置かねばならないのはIコリント2章の初めの言葉である。「兄弟たちよ。私もまたあなた方の所に行った時、神の証しを宣べ伝えるのに、優れた言葉や知恵を用いなかった。なぜなら、私はイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなた方の間では何も知るまいと決心したからである」。

 この説教はみんなの集まるところで行なわれる。安息日に行なわれるのが基本になるが、それに限らない。

 パウロ以外の人に目を向けなければならない。シラスはバルナバと共にエルサレム教会からアンテオケに派遣された以前から使徒に次ぐ権威を認められていたので、説教をしていたようである。コリントでもパウロに次ぐ説教者であった。

 これまで見た幾つかの町で、礼拝の場所は一箇所だけでなかったように、コリントでもシナゴーグを出た後、人が増えて、一箇所では入りきれない場合があって、複数の場所で礼拝を守るということになったのではないか。

 さらにコリント市の港のあるケンクレアの伝道も始めたに違いない。そこに教会が出来たことは18節で触れる。アクラとプリスキラが伝道の務めを負ったとは記されていないが、エペソでアポロに教えを説いたことを見ると、教理を教えることが出来たと見なければならない。

 5節の終わりに「イエスがキリストであることをユダヤ人たちに力強く証しした」と書かれているが、これは次の節で「今から私は異邦人の方に行く」と宣言する時まで続いた。そしてユダヤ人と決裂してから、異邦人を対象とする伝道はいよいよ盛んになって行った。

 

 


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