2008.03.02.
使徒行伝講解説教 第113回
――17:22-34によって――
使徒パウロのアテネにおける説教として我々の知るのは、アレオパゴスの評議所におけるもの一つだけである。この町のシナゴーグにおいて、また広場において語ったことも17節で見た通りであるが、その内容は記録されていない。しかし、先祖の時以来、来たるべきメシヤの日を待つという務めを持っているユダヤの民に、先ず語らねばならないという原則がパウロにはあった。だから、ユダヤ人の会堂における説教の骨子はすでに見た諸会堂におけるものと同じであった。 それに対し、アレオパゴスにおける説教は、純然たる異邦人に向けてのものであって、ユダヤの民に向けてのものとはかなり違う。すでに我々は気付いているが、パウロはここアテネにおいて、シナゴーグにおける説教のほかに、広場における宣教活動を重視したようである。そしてアレオパゴスの説教は広場の説教の延長線上のものである。 これまでは、まずその町の会堂を謂わば「橋頭堡」として確保し、ユダヤ人と、会堂に出入りしていた異邦人の「信心深い者たち」に、同じように福音を語った。つまり、同族として語った。それに比して、アテネでは同族や兄弟として認めてくれない人々に「アテネの人たちよ」と呼び掛ける。子供の食べるパンが食卓から落ちて、犬が食べるという比喩を思い起こすが、子供のためのパンだけれども食べなさい、と差し出すのでなく、アテネの人の目の前に、彼らのためのパン皿が差し出されたわけである。 観点を換えて言えば、ユダヤ人と異邦人が区別された時代は終わって、同一の「世界市民」に向けて、共通の福音の呼び掛けがなされる時代が来た。その先駈けの説教がアテネで語られたと言ってよいであろう。アテネはギリシャ文化を象徴する都市だが、ここではむしろ世界市民の都市と見て置こう。 先に17節で、パウロが会堂で「信心深い人たち」に説教をしたことを見た。アテネにも会堂に出入りするギリシャ人が或る程度いたのである。この信心深い人々が初穂となってアテネ伝道を進展すべきであった。実際、こののち信心深いギリシャ人が伝道の中核として活躍したのではないかと思われるが、まだ動きにはなっていない。そして、アレオパゴスで証言する機会の方が先に来た。聞く人の中には、福音への手がかりとか、予備知識を持つ人は一人もいない。そこで信じたデオヌシオもそれまで無縁であった。 パウロ以後の伝道者の多くが直面させられる難問がこれである。手がかりなしで、僅かの、共通に通じる言葉を切り口にして切り込むのである。キリストから負わせられた任務があり、教会がその資格を認定してくれる。しかし、聞く人たちにはお義理で聞くいわれもないし、今語られる言葉は聞かなければならないと規定する取り決めもない。語られる話題に興味があって聞きに来たのでもない。そういうところでは、人の心を支配する聖霊が、聞き手の心を開きたもうことを祈りつつ、大胆に語るほかないのであるが、語る者としては知恵の限りを尽くして言葉を聞き手の心に届かせようとする。 パウロの場合が特別であったと言えなくないが、殆ど全ての伝道者は、つねに大なり小なり、似た条件で、無名で聞く人の前に立つ。謂わば裸で、人から見すかされるままの自分として聴衆の前に立つ。 シナゴーグの説教は、語る者も聞く者も、約束の民の共同体の中にいるという連帯感に立って行なわれる。広場ではそうはいかない。アレオパゴスでも同じである。アテネの人々は知識欲旺盛であって、人から聞こうとし、またお喋りをしたがるが、人々の間に連帯感を持ってはいない。それが必要だと言われれば、その通りだと受け入れる人はいたであろうが、進んで連帯感を提唱する人はいなかった。 先ほど「世界市民」という言葉を使ったが、そういう意識やそれを生む母胎となる思想がアテネにあったわけではない。それはむしろこれから作られるのである。キリスト教会が生み出すのである。アレオパゴスのパウロの説教がその手始めであったと見れば、全体の見通しをつける助けになるであろう。 目の前にいる人たちには、これから語ろうとする言葉を受け止める何の結び付きもないことがパウロに分かっている。人々はパウロの語る福音が自分の存在や運命に関わる重大事だとは予想もしていない。そこで、人々の思いを先ずこちらに向けさせなければならない。――ここでパウロの語る言い方が苦心して考え抜いた金字塔だと言うのではないが、その場の思い付きで間に合わせに語った枕言葉でもない。人に教えてはいなかったが普段考えていた思想である。こういう思想を深めながら伝道していたのである。 この思想を語れば人々は或る程度分かってくれるであろうと予想した。今日読むところでは、人々に余り受けなかったように見える。人々には堅すぎたかも知れない。しかし、通例、話しを聞いてそれにスグ反応が起こるというものではない。スグ反応が起こるのは軽薄な煽動演説である。パウロのこの思想が多数の人に受け入れられるまでには時間が掛かった。そして時間は掛かっても確実に人々の心に浸透した。 22節から31節に書かれている説教の肝心の点は30節の「悔い改め」、31節の「審判」そして「審判者の死と復活」であって、前の方に興味深い言葉が並んでいるが本論でなく序論である。序論とは言うが省略して良いという意味はない。この部分も聖書の教えである。聖書固有の教えだが、ここではそのことを特に説くためでなく、本論への導入として用いられるという区別を見て置かねばならない。 本論部分は聞く人にとって分からなくても聞かねばならない宣言である。導入部は聞いて、人並みに考えれば一応分かるようになっている。だからまた分かるように話さなければならない。導入部にも一つの要点があり、そこから次の要点に高められて行くという構造になっている。パウロの論法は一人の神というとこらから始まって、一つなる人類というところに及ぶが、さらに理解しやすくするために、一つなる人類ということに先ず目を向ける方がスッキリするのではないか。 「人類は一つ」という人間理解が確立していたとは言えない。太古民族は別々の世界を持ち、神を別々に考え、人間の起源も別々に考えていた。これが入り交じって一つの世界になって行くようにしたのがアレクサンドロスであるが、地中海世界はその交流が最も進んでいた。かつてこの区域にあった国々は一つのローマ帝国に統合されて行き、人々はカルタゴ人イタリヤ人というふうに分かれているのでなく世界市民の方向に移って行く。ただし、ローマ帝国は市民を一つに統合しようとしたけれども、結局失敗し、「公同の教会」によって世界市民の統一が出来た。それが出来たのは教会が聖書に教えられて、一人の神が一人の人を創造したもうたという原理を知っていたからである。 人間は一つというという理解と、神は一つという理解は、人々のかつて知らなかった原理であるが、当時の世界では、そう考えないことにはうまく考えが纏まらないと思わせられる状況が徐々に広まったし、人間が一つであることと神が一人でいますこととは、比較的容易に調和することが出来た。 ここが非常に重要だと力説する必要はない。こういう言い方が当時、流行だったというわけでもない。だが、人々に受け入れられて行った事実は認めなければならない。 話しの切り出しの部分は、パウロの感受性の表われである。先ず16節、彼が偶像の多さに「憤激した」ことが書かれていた。「偶像を刻んではならない」との戒めを教えられている者は、戒めの言葉を覚えているだけでなく、偶像を刻む感覚を寄せ付けない潔白さを保っている。だから、偶像を見ると憤激するのである。そして、これと対決する姿勢で、一つ一つつぶさに見て行く。 そこで発見したのは「知られざる神に」と刻まれた祭壇であった。「アテナに」、「ゼウスに」、「アポロに」等々の祭壇がある中にこういう奇妙なものがあった。「知られざる神」という概念がギリシャにあったか。多分まだ誰も考えてはいなかったであろう。しかし、そういう言葉を作り出すことなら容易に出来る。祭壇を作った人は戯れに考え出したのかも知れない。次々作って種が尽きたが、なお何かを、という未知の何かへの憧れを籠めたのかも知れない。しかし、偶像にすることの出来るものでないと神にならない。だから知られざる神は偶像にならない。祭壇だけしか出来なかった。 この言葉を取り上げて、「その知られざる神を知らせよう」と答えるのは実に適切な応答であった。では、その知られざる神がどういう神であるかの説明があったのか、なかったのか。どちらとも取れるが、それは差し置き今は神の裁きに移る。知ろうとしない民ら、悔い改めをしない民らを、神はこれまで見過ごしにしておられたが、今や見過ごしの時を打ち切りたもう。裁きが始まる。日は定められている。その日は始まった。キリストの十字架がその始まりであり、キリストの復活がその始まりの進展である。 この時の説教はアテネの文化環境を意識した知的な内容で、そのため人々を感動させなかったし、パウロも失意のうちに早々にここを去ったと考える人がいるが、偏見ではないか。福音の内容が骨抜きにされたとは言えない。人々の反応がなかったと取る人もいるが、一回の説教で二人の回心者が起こされ、その名も残る。手応えある説教だ。 名の残るうちの一人、アレオパゴスの裁判人デオヌシオ、アテネにおいては名士である。アレオパゴスの評議所と呼ばれるのは裁判所ではないかと前回に学んだ時に触れて置いた。パウロが裁判に掛けられたということでは確かにないのだが、広場での議論では収拾がつかないので、人々は分からぬことに決着をつけるために裁判、あるいは裁判に準ずるものに掛けるため、パウロをアレオパゴスの裁判所に引き込んで、裁判長にデオヌシオを立て、その他の裁判官も立ててパウロの意見を公的な場で陳述させたと考えることは無理なく出来る。 500年以上前の話しであるから、この頃もそうだったとは言えないが、アテネで哲学者ソクラテスが訴えられ、裁判を受け、有罪判決に従って毒を仰いで死んだ事件は有名である。訴えられた理由は、今日の常識では考えられないものである。これまでこの町で語られ、信じられて来たことと別のことをソクラテスが人々に説いて、若い者を惑わしているという理由によって訴えられた。判決が下り、ソクラテスは自分が罪に当たるとは思っていなかったが、判決には従った。 そういう裁判があったことを考えれば、パウロがこの時裁判に掛けられたと考えることは出来る。ソクラテスの時代にはそういうことで裁判になったが、ここではもっと整ったローマの法律が施行されているから、裁判を始めるところまでは行けたとしても、判決は出せなかったであろう。裁判によって決着をつけるのとは別次元の問題だということに人々は気が付いたようである。 裁判として黒白をつけることとは筋が違う。聞いた人がこれを受け入れて信じるか。受け入れるのを拒んで信じないか。あるいは受け入れも拒否もしないか。デオヌシオは裁判官として決定を下すのではなかった。だが、個人として自分の命をキリストに捧げる決断をしたのである。 このデオヌシオはアテネの教会の初代監督となったと言われている。それは4世紀になってから書かれた書物にあることで、それ以前の記録はない。記録がなくても言い伝えはあったとは考えられる。それでも、その言い伝えは細部にまで及んでいないから、初期のアテネの教会がどのようにして建設されたかを推定することは至難である。デオヌシオはパウロの指導を受け、早い時期に裁判官を辞めて教会の監督になったのかも知れない。だが、そうなったのはもっと遅い時期かも知れない。 デオヌシオについてはもう一つ伝説がある。アレオパゴスのデオヌシオが書いたと称する書物が現われ、中世には神秘思想の傾向の人々の間でもてはやされたのである。これがずっと遅い時代に、アテネともデオヌシオとも全く繋がりを持たない人によって書かれたことは内容から明らかである。この書物については今これ以上触れる必要はないが、デオヌシオという人物に関心を引かれる人がいるという事実はある。 こういう関心はこの時のパウロの説教が残した影響と考えて良い。この説教には今日僅かに触れるに留まったが、パウロの説教としては他の場合のものと若干違った雰囲気を感じさせるものをもっている。パウロがギリシャ哲学の本場というべきアテネに来たからには、時代の哲学と渡り合える議論をしようと構えたことは、ごく当然のことで、これを本筋から迷い出たように思うべきではない。常に必要なことではなかったが、ここでは必要であった。福音は世のもろもろの思想と対決し、必要ならば指導しなければならない。 |