2008.02.10.
使徒行伝講解説教 第112回
――17:16-21によって――
「パウロはアテネで彼らを待っている間に、市内に偶像が夥しくあるのを見て、心に憤りを感じた」と16節は言う。 ベレヤから送って来た人たちは間もなく帰って行った。彼らが帰って、テモテとシラスに「なるべく早く来るように」とのパウロの伝言を伝える。テモテとシラスはその言葉に従って、なるべく早くアテネに着くであろう。それを待たねばならない。つまりアテネ=ベレヤの往復の日数だけ待たねばならなかった。待ったのはパウロ一人であったように読まれるが、ルカもいたと見る方が正しいであろう。しかし、アテネで待っている間には彼らは到着しない。パウロがコリントに移ってから、彼らは追い付いた。18章4節にシラスとテモテがマケドニヤから到着したと書かれている。したがってアテネの記事はルカの観察をもとにしたものであろう。 シラスとテモテが到着すれば、本格的な活動をしようと考えていたのではないかと察せられる。すでに見た通り、使徒たちは思い思いのばらばらな働きかけをするのでなく、チームワークをした。すなわち、説教を中核とするのであるが、その効果を確実にするための個別的信仰指導をしていた。そこで、彼らが到着するまでに、ジックリとアテネの町を観察しようとしたのである。 彼は早々にアテネを去ったが、とても手に負えないと見て、この地を見放したのではなく、出直すことにして、一まずコリントに行ったのである。そして、アテネにはもう一度来ている。というのは、I テサロニケ3章1節に「私たちだけアテネに留まることに定め、私たちの兄弟で、キリストの福音における神の同労者テモテを遣わした」と書いているからである。これは今見ているアテネ滞在と別の第二回アテネ伝道であって、その時はテモテが一緒であったと考えられる。テモテを遣わすのは痛いことであったが、問題が重大なので、彼に行って貰うほかなかった。その時期がいつであるかは良く分からないが、テモテが間もなくアテネに来て、直ぐまたテサロニケに行くというのは理解出来ない。 アテネはこのアッティカ地方の守り神である女神アテナに捧げられた町である。ここは彼がこれまで見たどの町よりも偶像が多いので、それに衝撃を受け、憤りを感じていた。アテナは学問、芸術、技術、知恵の女神であるから、この町では学問や芸術が尊重されていた。それに圧倒されることはなかったが、街々に染み着いている偶像的な汚らわしさに憤激を感じていた。 アテネにその頃あった大きい建造物で今も残っている物は幾つもあるようである。そういう雰囲気の中でパウロが何を感じたかについて推測することは出来なくないが、それで聖書の讀みが深くなるということはない。だか、彼が何も感じなかったと割り切るのは正しくないであろう。「市内に偶像が夥しくあるのを見て、心に憤りを感じた」と書かれているのは、偶像と神話の文化に対するパウロの反発、何としてでもこれと戦わねばならないという意欲が湧いたのである。 17節に入るが、「そこで彼は、会堂ではユダヤ人や信心深い人たちと論じ、広場では毎日そこで出会う人々を相手に論じた」と記される。 安息日には会堂に行った。当然の習わしである。ユダヤ人と信心深いギリシャ人とに福音を説いたが、それ以外の日、毎日「広場」に行って偶像宗教を信じる人や哲学者たちと議論することになった。 アテネには他の町よりも古くからユダヤ人が住むようになったので、会堂も早い時期に建てられていたようである。すでに立派な建築物のある文化都市であるから、シナゴーグも見劣りしない建築であったと想像される。会堂での宣教の仕方は、従来と基本的に同じであったと思われるが、毎日会堂に行ったとは書かれていない。広場には毎日行ったという。安息日にしか会堂に行かなかったと断定すると、それも無理のある推論だが、広場での活動の占める意味が増した。しかし、広場を重んじ過ぎてはならない。会堂と広場の両極が働きの場であったと主張するのも軽率である。 町には「広場」という場所があった。これは古代都市における不可欠の公共施設である。市役所や法廷や神殿や劇場、競技場なども都市の不可欠な要素であったが、それらにまして広場は重要で、市民の生活の中心であった。広場とは何も建物のない空き地ではなく、重要な建物が周囲を取り巻いている空間で、人々は毎日のようにそこに出掛けて、新しい情報を仕入れるのである。広場に行って新しい情報を得ることが生き甲斐であるかのような生活が営まれていたと考えて良いであろう。21節にはそのことが記されている。 プラトンの書物に、哲学者ソクラテスが広場に行って人々と論じたことが書かれているのは有名である。パウロもそうするのである。直ぐ次にアレオパゴスの評議所、すなわちアレオパゴスという丘にある裁判所のことが出て来るが、広場はその北にあった。 アテネの「広場」は、これまでのパウロの生活にはなかった活動の場となる。ただし、以後アテネ以外の町でも広場が重要視されたとは思われない。町々には広場があったのだが、広場で論じ合うということは他の町については書かれていない。ここは偶像の満ちた町であるから、偶像宗教、神話宗教との戦いを始めなければならない、と心を決めていたのである。その戦いは偶像破壊の直接行動でなく、広場で語って、理論で相手を凌駕するやり方である。すなわち、旧約聖書に書かれているように、人の手が偶像を作って、それを人が拝むという愚かさを破って、真理への信仰を広めるのである。 パウロを苛立たせたのは、巷に溢れている偶像や祭壇だけではない。アテネにおいては神話が溢れていた。神話の神々がさながら生きている人間のように出没すると考えられていた。ギリシャのアテネではないが、ルカオニヤのルステラの一つの出来事を思い起こす。生まれた時から足の利かない人がいて、パウロの説教を聞いていた。その人に信仰があるのを見て、パウロは大声で「自分の足で真っ直ぐに立ちなさい!」と語り掛ける。すると彼は躍り上がって歩き出す。こういうことがユダヤ人の間で起こったなら、彼らは神を讃美する。ところが、ルステラでは人々は「神々が人間の姿をとって私たちの所にお降りになった」叫んだ。そしてバルナバがゼウスであり、パウロがヘルメスであると信じて、この二人に犠牲と花輪を捧げようとした。 田舎のルステラで起こるよりもっと洗練した形で、アテネにおいては起こり得たと我々でも思うであろう。パウロはその危険がアテネでもっと濃厚なのを見て取った。だから、ここでは力ある業は行なわない。専ら理論で説得しようとしている。 ここは哲学の町であるから、各地から訪れるいろいろな流派の哲学者たちと討論しなければならない。そこから逃げるわけには行かないとパウロは覚悟した。エジプトのアレキサンデリヤでは、キリスト紀元前から、ユダヤ人の神学者とギリシャ哲学者の交渉があったことが知られているが、アテネでもそうであったかどうか分かっていない。しかし、一般的傾向として宗教に対する関心は高まり、それ故、ギリシャ人の中に信心深い人たちはいた。パウロはまことの神を信じていない哲学者たちとの論争を避けてはならないと感じた。 会堂においても、広場においても「論じた」と書かれているのは、議論や討論ではなく、他の場所で使われているこの言葉と同じく、主に説教である。また、理論的に語って反対論を論じ伏せるというものではなく、説得である。 パウロにとって初めての哲学者との論争が18節以下に記されている。特に重要であったと考える必要はないが、無視して通るわけには行かない。事実は事実として捉えて置こう。こう書いてある。 「エピクロス派やストア派の哲学者数人も、パウロと議論を戦わせていたが、その中の或る者たちが言った、『このお喋りは、いったい、何を言おうとしているのか』。また、他の者たちは、『あれは異国の神々を伝えようとしているらしい』と言った。パウロがイエスと復活とを宣べ伝えていたからであった」。 この時、エピクロス派とストア派の者が、パウロに対してどのように論争を挑んだかについては、推測することがかなり面倒である。それぞれの学派がどういう主張を持っていたかなら、簡単に調べることが出来るが、その特色が顕著に出ているやり取りがどういうふうに交わされたかを書き表して見ようとしても、空想によるしかなく、事実と無関係な創作に過ぎない。 ストア派の哲学なら、パウロは生まれ育ったキリキヤのタルソで学んでいたし、彼の書いたものの中にストアの学説を引いたと思われるところはあるので、手応えのある議論が出来たのではないかと想像されるが、実のある議論を読み取ることは全く困難である。むしろ、話しがまるで噛み合わなかったと読むのが正しいのではないか。この地の人たちは、哲学と神話と宗教が混在して、神々と人間の交流の神話を現実のように思っていた。だから、イエス・キリストについて語られても、イエスという名の、彼らがこれまで聞いたこともなかった男神が登場する神話を聞いているのだと思い込む。また「よみがえり」というのも女神の名前であると受け取ってしまったらしい、と割り切った方が全体が良く見えて来るのではないか。 アテネの人たちにはパウロの言うことを単なる「お喋り」と受け取られた。「お喋り」と訳されている語はアテネのアッティカ方言らしく、こう訳して良いと思うが、彼らはパウロの説教の意味を聞き取ることが出来なかった。今言ったような事情を考えれば、こういう結論が下されたことは分かる。それはパウロの方に欠陥があったからではなく、アテネ人の思い上がりと、偏見によると見るべきであろう。 イエスと復活とを宣べ伝えたから、こういう聞き間違いが起こったとルカは説明する。「イエス」というのも、「復活」というのも別の語と聞き間違って、そう思い込んだのだと解釈する人もいる。 どう解釈されたかは別として、パウロ自身はイエスと復活を語ったのである。アテネにおいてパウロがギリシャの知恵に圧倒されまいとして、信仰者に賜っている知恵を一生懸命に語ったが、それでは実りがなかったことを反省して、コリントに移ってからは、知恵を語らず、イエス・キリストと、その十字架につきたもうたこと以外は何も語るまいとした、とIコリント2章の初めで言ったのだと解釈する人がいる。考えさせられる解釈ではある。しかし、パウロはアテネでもイエスと復活を語ったのであり、知恵を重んじて十字架に固着することを疎かにしたと考えるのは行き過ぎではないか。 19-20節に「そこで彼らはパウロをアレオパゴスの評議所に連れて行って、『君の語っている新しい教えがどんなものか、知らせて貰えまいか。君が何だか珍しいことを我々に聞かせているので、それが何の事なのか、知りたいと思うのだ』と言った」と記される。 アレオパゴスに連れて行かれたパウロが論じた言葉は次回に学ぶことになるが、この事情は使徒行伝を学ぶ我々に、まだ呑み込めていない。アレオパゴスに連れて行ったとは、どういう事なのか。 広場で論じているだけでは埒が明かない。評議所で正式に語らせて判定しようということだが、評議所とは裁判所の意味かも知れない。そのように取れば、かなりハッキリする。荒っぽい言い方だが、「広場で延々と議論するのはもう我慢ならない。法廷に訴えて決着をつけよう」といきり立った、というふうに取れないものか。確かに、裁判に訴えたと見るには無理がある。訴える理由はハッキリしない。訴えられた者の答弁だけはハッキリしているが、この訴えがどのように審理されたかも、判決がどうであったかも分からない。だから、裁判沙汰になったとは言い切れない。それでも、後で見るが、裁判人デオヌシオという人はおり、彼はパウロの言うことを受け入れたのである。デオヌシオは彼個人として信者になったと受け取られるように書かれているが、彼が裁判所の判事という役割を持ちつつ、パウロの語る言葉を受け入れたとの意味を汲み取ることは出来なくない。 広場で論じても、そこで決着をつけられない。裁判所に持ち込んでも、事柄の判定は裁判所の機能を超えている。しかし、真に判定する者には分かる。そういうことが、アテネにおいて示されたのである。 |