2008.02.03.

 

使徒行伝講解説教 第111

 

――17:10-15によって――

 

 

 10節に「そこで兄弟たちは直ちに、パウロとシラスとを、夜の間にベレヤへ送り出した。二人はベレヤに到着すると、ユダヤ人の会堂に行った」と記される。これはテサロニケにおける迫害から逃れたことと、その続きの記録である。この時、まだ3回の安息日しか経っていないが、信じる者と信じない者との区別はハッキリした。

 信じた者、それがこの節で「兄弟」という教会用語で呼ばれる人たちである。すでに6節にも「兄弟」という呼び方が使われていた。この言い方は信ずる者の間に一つの体としての結び付きが出来ていたことを示す。制度を持った教会とは言えないとしても「二人または三人が、私の名によって集まるところ、そこに私がいる」と主が仰せになった実質的教会があったのである。その兄弟のうちに、「信心深いギリシャ人が多数いた」と4節に書かれていた。前からユダヤ人の会堂に出入りしていたギリシャ人のうち、多くが福音を聞いて「兄弟」としての交わりに加わった。

 では、ユダヤ人の間ではどうだったか。信じたユダヤ人は多数とは言えないが、いることはいる。その代表的人物はヤソンである。が、信じない者、むしろ、キリスト者となった同胞ユダヤ人を迫害する者が多かった。言い方を換えれば、これまで、聖書つまり旧約聖書を受け入れることで、結束していたユダヤ人共同体は、旧約聖書をキリストの福音を通して把握しなおし、ユダヤ人と異邦人との区別を無視する国際人意識を持つグループと、キリストの福音を排除することによって結束を確認する民族主義的グループとに分裂したのである。

 初期のキリスト教迫害は、異邦人の不信者からのものもなくはないが、激烈な迫害はキリストを信じないユダヤ人から、キリスト者になったユダヤ人に対して向けられたものである。ステパノの死以来、使徒時代の迫害はおもにこの種の迫害であることを、我々は既に幾つものケースによって知っている。ここには単なる偶発的な迫害でなく、深い恨みと敵意を籠めた、キリスト教把握の根幹に関わる問題があるということを承知したい。したがって、信仰者に非難が浴びせられ、信仰者が弁明するという余裕も許さない殺意に満ちている。一刻も猶予がない。即刻、逃亡しなければならない。

 兄弟たちはパウロとシラスをベレヤに送り出した。ということは、ルカとテモテがテサロニケに残ったということではないかと思われる。ユダヤ人たちの迫害は、パウロとシラスに集中しており、ユダヤ人たちは同族の中の異端者に対して厳しい態度を取ったが、同族でなければ違いは気にならなかった。だから、ルカもテモテも危害に遭うことなく、暫くこの町で伝道を続けることが出来たらしい。しかし、14節に「シラスとテモテとはベレヤに残った」とあるところを見ると、その時テモテはもう追い付いていたことが分かる。そして、ベレヤでも迫害の的のパウロは急いで逃がさねばならないが、後の人は逃げなくて良かった。そのように、使徒が急いで身を隠した後に、誰かが残って教会を支えたのである。

 「夜の間にベレヤに送り出した」というが、夜の明けぬうちにベレヤに着いたという意味ではない。というのは、ベレヤまでの道のりは一晩で歩き通すには遠すぎるからである。ほぼ中間にペラという町があるので、ここで一泊したのだと思う。闇討ちに遭うかも知れないから、急いで姿を隠さなければならない。そこで夜の闇に覆われつつ町を去ったのである。

 テサロニケの兄弟たちは、使徒たちをベレヤまで届けることを考えたに違いない。「兄弟たちがベレヤに送り出した」という書き方は、難を逃れるためにベレヤまで行きなさい、と方向を指示しただけではなく、そこまで連れて行って、ベレヤのユダヤ人と連絡をつけてくれた、という意味を含むと取るのが適切であると思う。

 そういう事情であったから、パウロたちはベレヤに着いてスグ会堂に行けたのである。そして、直ちに伝道活動を開始した。この後、使徒たちはベレヤでも活動出来なくなって退去するが、そこでも逃げるのでなく、兄弟たちに送り出されて、次の伝道地に向かわせられる。送り出す人たちはパウロをアテネまで連れて行って、そこからベレヤに帰って行ったと書かれている。これは、ベレヤから追われた後のことであるが、ベレヤに行く前も似たようなことだったと考えて支障はないのではないか。

 行く先、行く先、御言葉を聞く人が起こされたかと思うと、すぐに恐るべき破壊が始まる。これを惨憺たる結果と見る人はあろうが、兄弟たちはそのようには見ていなかった。むしろ、新しい進展が迫害の度に起こっていると見る。火を叩き消そうとしたところ、ますます燃え広がったのに似ている。ベレヤの兄弟がアテネまで連れて行ったのだが、そのようにテサロニケの兄弟がベレヤまで連れて行ったと考えられるのである。

 11節の「ここにいるユダヤ人はテサロニケの者よりも素直であって、心から教えを受け入れ、果たしてその通りかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた」ということについて、前回やや詳しく触れた。テサロニケとベレヤのユダヤ人の比較が描かれる。比較して素直だから、素直に福音を受け入れたというふうに読むべきではない。素直だから聖書を調べた、というふうに読むべきである。これまでの自分たちの聖書理解と違うというので反発を感じたのでなく、先ず聖書を調べて、パウロの解釈が正しいかどうか吟味した。その結果、受け入れたのである。聖書を調べることが大きい意味を持つ。

 聖書を調べるということはキリスト者の間で必ずしも定着していない。使徒の時代にもユダヤ人の会堂には聖書が保管されていたが、自分で聖書を所持して調べることの出来る人は少なかった。後の時代にも少なかった。聖書を調べるという方法が普及したのは、印刷した書物が出回るようになってからである。今では聖書を持たない人はいないが、これを調べることは風習になっていない。

 聖書を調べるという言い方も聖書には稀である。昔は聖書が読まれ・語られて聞くのが主たる受け方であった。今日も同じである。また調べるというのは真偽の程を確かめることで、裁判官が事件を調べまた法律を調べるように調べることである。厳密に、客観的に聖書を調べるのであって、そこから力を得るというのではない。この場合、聖書を調べるとは聖書が正しいかどうかを調べるのではなく、パウロの聖書解釈が正しいかどうか、あるいはこの説教者の引用聖句がそこにあるかどうか、調べるのである。研究という言葉を使う方が適当かも知れない。

 聖書の読み方について触れなければならない。我々の間では信じて聖書を読むのが本当の読み方である。が、ベレヤのユダヤ人は信じて読んだのでなく、読んで信じた。それが調べるということである。聖書を読む時、知的な関心で調べていては命の書を読むことに結局ならないではないか、と言われる。しかし、ベレヤのユダヤ人は聖書を調べて、その多くが信じた。それは聖書が証拠物件という意味を持ったからである。特にユダヤ人にとっては先祖以来教えられて来たのはこのことだから、これは証拠物件である。我々にとっても同じ意味のものとなっている。だから、聖書を調べて信仰が堅くされる。

 「そういうわけで、彼らのうちの多くの者が信者になった。また、ギリシャの貴婦人や男子で信じた者も、少なくなかった」と次に記される。――ユダヤ人が信じたのと、ギリシャ人が信じたのと、信仰に入る経路が違うと考えた方が事柄がスッキリすると思う人は、そのように考えた方が良いであろう。

 違うと言ったのは、ユダヤ人は聖書を調べて、パウロたちの説く福音はまさしく旧約聖書に一致し、旧約が指し示していたことの成就だと確認して信じた。ギリシャ人は、この場合、前からユダヤ人の会堂に出入りしていたから、旧約聖書についての教育を受けたという点でユダヤ人と区別する必要はない。が、以後のギリシャ人入信者は、我々も含めた異邦人一般について言えることだが、旧約聖書の予備教育を受けた上でないとキリストの福音を聞くことが出来なかったという前段階があったのではない。いきなり呼び込まれて、そして信じるのである。

 ちょうど、旧約の民が割礼を受けていて、その割礼の徴しの意味するところが真実であったと確認して洗礼を受けたが、そのように我々も先ず割礼を受けるという道を通らなければ、洗礼に与れないのか、というと、そうではない。主イエスは使徒たちに「全世界に出て行って、全ての人を弟子として、父と子と聖霊の御名によってバプテスマを施せ」という務めを委ねたもうた。先ず、割礼から始めよ、とは言われなかった。福音があって、信仰がある。

 召された異邦人は、通常、旧約聖書の予備教育なしで、いきなり福音の呼び掛けに接し、それを聞いて信じるのである。これを略式のやり方、正式ではないが大目に見て貰っているやり方であると卑下する必要はない。キリストが来られたため、キリストによって一挙に救いの本番に入ることが出来たのである。ただ、福音に接した後、キリストに至るまでの歴史を教えられて、そこでこそキリストの救いの確かさ深さが本当に分かる。言い方を換えれば、これは伝道説教でなくカテキズムの道である。

 ユダヤ人の入り方とギリシャ人の入り方と二つあるという面倒な話しを聞かせられていると感じる人があるかも知れないが、戸惑う必要はない。いつか、このことがスッキリと分かる日が来るから、待てば良い。

 さて、ベレヤでは、ユダヤ人の多くがキリストの福音を受け入れ、それと関連してギリシャ人の入信者も多かったが、それは「貴婦人」であったと言う。貴婦人についてはテサロニケの記事の中でも触れていたが、ギリシャ人の中では初めは貴婦人が多かった。ベレヤのユダヤ人が裕福な上流の人だったらしいことを前回も今回も触れたが、そういうユダヤ人の接触するギリシャ人には、上流の人が多かったということであろう。そのギリシャ人が貴婦人であったというのは、ユダヤ人の商人が高価な服飾品の商いをしていたから、上流階級との接触が多く、そのような関係を通じてユダヤの宗教に接するギリシャ人は上流の人たちであったという事情であろうか。そして、ギリシャ人の中では上流の婦人が先ず入信し、次にその家庭の男子が信じたということである。人間と人間との関わりの中で信仰の感化は及ぶのであるから、或る場合には下層の人たちの間に先ず広がることもあり、上流の人の間に先ず広がることもある。

 その伝道の成果で、ユダヤ人の反動が起こる。ただし、それはテサロニケのユダヤ人の間に起こった反動で、彼らはベレヤまで押し掛けて来てキリスト教迫害をした。

 それは8節でも見た群衆を煽動して騒がせるという手法であった。キリスト教の導入によってこのように社会の混乱が起こるから、キリスト教は危険なのだという論法である。自分たちが騒ぎを持ち込んで、キリスト教のせいにする。これでは話しにならない。

 「そこで、兄弟たちは、直ちにパウロを送り出して、海辺まで行かせ、シラスとテモテはベレヤに居残った。パウロを案内した人たちは、彼をアテネまで連れて行き、テモテとシラスとになるべく早く来るようにとのパウロの伝言を受けて、帰った」。

 ベレヤの次はアテネである。今度の道程は長い。そこに着くまでには幾つも町がある。それらを訪ねて、ついにアテネに行ったというのではないらしい。ベレヤから少し東に行けば海辺に出るので、そこから舟で行ったのではないかと推測する人がいる。また陸路行ったと考える人もいる。どちらの解釈でも構わないが、ベレヤの兄弟はアテネまで送って行った。ベレヤの人たちはアテネ往復の経験もある、その町の事情に詳しかったのであろう。

 パウロは、ピリピ、テサロニケ、ベレヤ、と大きい町々を訪ねている。ユダヤ人の会堂があるのはそういう町であった。つまり、散らされたユダヤ人は土地を持たないから、農民や漁民になれない。商人か公務員か手仕事の職人、あるいは学者や知識人になって、そのような大きい町にしか定着しなかったからである。そういう町の会堂に行って、安息日に、あなた方がこれまで聞いていた約束は成就したのだ、と宣言する使命があった。ベレヤの次にはアテネに行くのが自然であった。ベレヤから先には会堂のある町はないのか、私の調べた限りでは見当たらない。アテネの会堂があることは17節で読む通りである。

 ローマ書1519節で、パウロが「私はエルサレムから始まり、巡り巡ってイルリコに至るまで、キリストの福音を満たして来た」と言っていることは良く知られている。それならば、ベレヤからアテネまでの町々をどうして飛び越えたのか、と疑問を呈するのは軽率である。それらの町々はその次に訪れるのである。最初は拠点となる所だけを廻ったのである。拠点となるのは都市であった。そこに主の起こしたもう民がいた。アテネが文化都市であったのでそれを意識して優先させたと見るのは人間的解釈に過ぎる。ここには神の計画の実施のための奉仕がある。


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