2008.01.13.
使徒行伝講解説教 第110回
――17:1-9によって――
使徒たちはピリピを立ち退いた次に、テサロニケに行った。そこへ行くのにアムピポリスとアポロニヤを通過した。恐らくこの二つの町で宿泊し、最低3日を費やしたであろうと言われる。これは「エグナティア街道」と呼ばれる本格的な道路である。そこを通り過ぎる時、馬で行ったと想像する人もいるし、また、途中、町々で伝道した、あるいは伝道のための調査をしたとも想像できる。 テサロニケは港を抱えた大きい都市で、人口も多く、活気のある町である。ここにはシナゴーグがあった。すなわち、ピリピよりも大きいユダヤ人共同体があった。さらに、このユダヤ人共同体が、多数の信心深いギリシャ人を引きつけていたことを4節は記している。ギリシャ人の出入りが多いという特色のあるシナゴーグである。なぜ信心深いギリシャ人が多かったか。それは、神がそれを宜しとされたからであるという以外に、確かなこととして言うべきでないが、この町のユダヤ人共同体がギリシャ人を引きつけ・また受け入れるに積極的であったからであると思われる。ただし、その熱心さはユダヤ人自身がキリストの福音を受け入れる素直さと結び付いていなかった。 ここまでの使徒行伝の学びの中で、ユダヤ教の教えがギリシャ語で語られるようになり、ギリシャ人の中の或る人たちが旧約聖書の信仰に入れられたことが、キリスト教の世界伝道の準備となっていた次第を見て来た。その経過は、我々の思いを越えた神の世界救済の計画であると言うことが許されると思う。けれども、ユダヤ人がギリシャ化して行き、その傾向がもっと進んでいった先で、キリスト教になったというような理解をしてはならない。ギリシャ語を用いるユダヤ人と、キリストを信じるギリシャ人は、文化では結び付いていると言えても、混同してはならない。 このテサロニケでパウロたちは「例によって、会堂に入って行って、三つの安息日に亙って、聖書に基づいて彼らと論じた」。 このやり方については、新しく説明するまでもない。これまでに見た異邦人伝道のやり方と同じである。テサロニケにおいては、ユダヤ人の会堂に出入りしていたギリシャ人が他の町の会堂の場合よりも多かったのではないかと思われる。だから、ギリシャ人のキリスト教入信者が多かったのであろう。ところが、それがユダヤ人に、キリストの福音に対する反感を募らせる理由になったと思われる。 「三つの安息日」というのは、三回の土曜日、その日のユダヤ人の礼拝の時に聖書に基づく説教をしたということではあるが、安息日というのは必ずしもその日だけを指すのでなく、一週間を安息日という名で指している場合もある。したがって、三つの安息日にまたがった期間、伝道活動をしたという意味になる。パウロがユダヤ人と論じ合ったのは、安息日だけではないと思う。ユダヤ人と論じ合うことが、安息日に始まって延々と続いたと考えた方が、パウロたちの活動に一歩近寄れたと感じられる。 つまり、ここでは、11節にあるベレヤの会堂の人々との比較を考えさせられるのである。そこには、こう書かれている。「ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教えを受け入れ、果たしてその通りかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた」。――ベレヤのユダヤ人は素直だった、テサロニケのユダヤ人は素直でなかった、と言うのであるが、「素直」と訳されている言葉は、道徳的評価を交えたものでなく、高貴な生まれとか、鷹揚なとか、偏見のない、というような素質を意味する言葉である。ベレヤの人が素直にアッサリと信じたというのでなく、偏見なしに、聖書がそう言っているかどうか、調べて見ようと言って、実際に聖書に当たっていたというのである。 ベレヤの人たちが日々聖書を調べたというのは、説教が連日行なわれ、そこでは旧約聖書がふんだんに引用されて、それによってイエスがキリストであるとの証明とされたので、ベレヤの人たちは十分に理解して確認するように、自分たちで日々聖書を調べたのである。そして、テサロニケにおいては、聖書を丁寧に読み直して確認するという人は少なかった。 説教は本来、一回一回、信仰と悔い改めを与える完結したものである。テサロニケでもそうであったが、全体を通じても一つの主題に纏めることの出来るものであった。その論点は、これまでの所と同じであるが、その要点が書き記されている。すなわち「キリストは必ず苦難を受け、そして死人の中から甦るべきこと」、また「私があなた方に伝えているこのイエスこそ、キリストである」というこの二点であった。 この教えについて、新しく耳にする項目は一つもない。「イエスがキリストである」ことは、もう幾度も聞いて来た。例えば、パウロがまだ回心して早々に、ダマスコで説教した時のテーマであることを思い起こす。このことは使徒行伝9章20節で読んだことである。さらに我々は間もなく18章の終わりに近い所で、アレキサンデリヤ生まれの伝道者アポロが、エペソに来て、28節で「イエスがキリストであることを聖書に基づいて論じた」と書かれている。 「イエスがキリストである」という定式が、キリスト教会の最も古い信仰箇条、また信仰告白だということを我々は知っているが、パウロがダマスコで回心した時、ダマスコ教会は、恐らくアナニヤによってパウロにこの告白を授けたのである。パウロは一生涯この告白を唱え、また人々に伝えた。 エペソに来たアポロが、どこでキリスト教に回心したかを我々は知らないのであるが、出身地、エジプトのアレキサンデリヤであると考えても良いであろう。詳しいことは分かっていないし、分からなくても良いが、この町には古くからユダヤ人の居留民が多く、ユダヤ教神学が思想として深められていた。彼らはユダヤ人以外の民族にも聖書を教えていたので、その集団の中からキリストの福音に回心した人が多かった。アポロはそこで信仰の最も基本的箇条を教えられたのではないか。つまり、ダマスコとかアレキサンデリヤとか、そういう外地の教会も、すでに初期段階に、このような共通の信仰の基準を持っていて、それによって伝道していたことが分かる。 順序が逆になったが、「キリストは必ず苦難を受け、そして死人の中から甦るべきこと」。これは先に上げた初代教会的項目より、もっと古い時代からの言葉であって、もっと重要視しなければならない。この言葉が三つの福音書の中にあることを我々は知っている。マタイ伝で言えば、16章21節であるが、こう書かれている。「この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者から多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目に甦るべきことを弟子たちに示し始められた」。「必ず」とか「べき」という単語が鍵になっている言葉である。 この言葉は福音書の中で、主が弟子たちに「あなた方は私を誰と言うか」と問われ、ペテロが「あなたはキリストです」という告白を捧げたその続きに出てくる。即ち、もともと「イエスはキリスト」という告白と結び付いている。「イエスはキリスト」という告白は、ペテロが捧げた言葉であるが、「キリストは必ず苦しめられ、殺され、甦るべきである」というのは、キリストの口から出ている。こちらの方が優先する。 「この時から、このことを教え始めたもうた」というのであるから、主キリスト御自身が、この教えを最後の時期になったので、弟子教育の纏めとして、頻りに教えたもうたのである。我々が福音書を読んでいる限りでは、この教えは弟子たちのうちになかなか浸透して行かなかったように思われる。しかし、やはり浸透せずにはおかなかった。それは彼らが主の死と復活の事実に触れたからである。 「キリストは必ず苦しめられ、殺され、甦るべきである」というのは、預言されていたことであるから、「必ず」成就しなければならない、という意味である。旧約の預言者の多くは、その預言の窮極の目標であるメシヤの来臨を語っているが、その来臨は人々が単純に求めていたような、イスラエルの民の理想の王国である、地上天国の実現というようなものでない。主の民は苦しみを味わわなければならない。旧約の教えの中では苦難というものの意味が深められる。預言者は例外なく苦難を受けた。詩篇でも苦難が歌われ、文学でもヨブ記が重んじられた。メシヤも、いやメシヤこそ苦しみを通して全うされる。先ず、メシヤの苦難、死、そして死に対する勝利、つまり復活が要点となる。 旧約の中にこれだけの内容を持つメッセージが含められていると読み取ることは、必ずしも容易ではない。だから、このようなメシヤの来臨を旧約の中で最も鮮明に描いたイザヤ書53章では、「誰が我々の聞いたことを信じ得たか。主の腕は誰に現れたか」と言っているのである。聞いても、なかなか分からない。意味が説明されても、それを信ずることにはなかなか達せられない。そういう内容の教えが旧約聖書に収められていたが、この預言は神の約束であるから、神は聖霊によって聞く者の耳を開き、また御言葉の解釈者である預言者を起こして、その言葉を解き明かしたもう。だから、旧約の信仰者の中にも、これが分かって信じた人はいた。その信仰は途切れてしまわず、時々浮かび上がるのでなく、細々とではあるが伝えられ、信仰の継承が行なわれたのである。これは思想が発展し、だんだん高度化し、キリスト教へと発達したというようなものではない。神が代々に亙って御言葉を語り、その信仰を継承させ、ヘブル書11章で言うように、代々に亙る信仰の証し人の大群衆を配置しておられたのである。 こうしてイエス・キリストが来られ、全てを明らかにされた時、預言者の語っていた言葉はこれまでにまして明確に語られるようになった。弟子たちはそれを教えられた。ただし、上に述べた通り、彼らは主の口から解き明かしを聞いていても、なかなか分からず、まだ信じられなかった。それが、キリストの死と復活、それに続く聖霊降臨によって、教会の確信となり、それが全世界に宣べ伝えられるに至った。 今、その言葉が、預言者の時代、預言者後の時代、キリストの時代、使徒教会の時代に亙ってどのように解き明かされて来たかを、一気に語ったのが、17章3節に内容が圧縮されているパウロの説教であった。それが聞いた人たちに、スラスラと分かったとは考えない方が良い。パウロが弁舌に優れた神学者であったから、彼の説教で良く分かったと言っても間違いではない。けれども、パウロの説教は、御霊の導きのもとで聞かれたから、聞いた人の信仰の目が開かれた、と言っておこう。あるいはまた、このような言葉が凝縮されて力強く語られる時、そこに信じる者が起こされ、信じる民の継続が行われずにおられない。今もそうである。先ず信じ、それから理解させられたのである。 そういうことであるから、信じる人もいたが、信じない人もいたのである。信じる人のうちには、御言葉を聞き始めて日のまだ浅いギリシャ人の信心深い人たちが、割合としてはユダヤ人より多かったようである。また、ギリシャの貴婦人も多くいた。 こうして大量の入信者が異邦人の中から生まれ、大量の迫害者がユダヤ人の中から生じて、神の約束のうちに育てられて来たユダヤ人が、神の民としての地位を失い、異邦人が選びの民になるという逆転が起こった。その原因について考えても殆ど意味はない。神がそれを宜しとしたもうたからという以上の理由付けは出来ない。 しかし、選ばれた民と思っていた者の逆転的な破棄が行なわれた事実は良く考えて置きたい。また、この事に伴って起こった迫害も、偶然のことと見ないようにしたい。迫害は起こらなくて良かったのではないか。ユダヤ人がならず者を唆して暴動を起こさせるようなことは必然のこととも言えないではないか。そうかも知れないが、神の意志なしには何も起こらないのである。そして、キリストの民が起こされる時、神がしばしば迫害を起こしたもうた事実があることを我々は無視してはならない。 迫害者が7節にあるように、「キリスト者は、カイザルの詔勅に背いて、イエスという別の王がいる」と唱えているとの非難も偽りの中傷に過ぎない。こういう中傷は主イエスも受けたもうた。世々のキリスト者はこの中傷による迫害を受けた。我々にも十分起こり得ることである。 迫害のことは今後も続くので、今は詳しく論じることを省略しても許されるのではないかと思う。我々は静かに、また穏やかに、迫害に対処する備えを考えて置こう。 |