2007.12.16.

 

使徒行伝講解説教 第108

 

――16:16-24によって――

 

 

「ある時、私たちが祈り場に行く途中、占いの霊に憑かれた女奴隷に出会った。彼女は占いをして、その主人たちに多くの利益を得させていた者である。この女がパウロや私たちのあとを追って来ては、『この人たちは、いと高き神の僕たちで、あなた方に救いの道を伝える方だ』と叫び出すのであった、そして、そんなことを幾日間も続けていた。パウロは困り果てて、その霊に向かい『イエス・キリストの名によって命じる。その女から出て行け』と言った。すると、その瞬間に霊が女から出て行った」。

 ピリピ伝道の最初の記事は、この町において御言葉を聞いて来た民との出会いの場面であった。すなわち、それは安息日のユダヤ教の集りに向かっての宣教であった。それらの人が福音を聞くべく最も良く整えられていたとは言えないかも知れない。しかし、神は福音を聞かせる準備を手抜きなく整えておられた。もっとも、そこで福音に回心したのは異邦人ルデヤであって、ユダヤ人は少なくともこの日には回心しなかった。それでも、この集団は聖書を聞いて来た民である。福音を聞いた民は福音の到来の予告を聞いて来た人たちであった。

 ピリピにおける二番目の出来事が今日学ぶところであるが、これは完全に異教世界のこと、そこは悪霊が跋扈している世界である。しかし、イエスの御名によって汚れた霊は追放されるという出来事が起こった。それは突然に起こったことのようであるが、福音を最初に齎らした人が来た時、それが「いと高き神の僕」、「救いの道を伝える働き人」であると言い当てる人がいた。異邦人の町であっても、ここはキリストの御名の支配の範囲であった。

 ここで我々が思い起こすのは福音書の或る場面である。すなわち、イエス・キリストがガリラヤとユダヤまた海の向こうのゲラサ人の地で、悪霊を追い出された場面である。前回学んだところでは、主の弟子が伝道に遣わされて、最初に受け入れてくれた家に泊まって、その地を立ち去るまではその家に留まる、という方式で伝道した場面を思い起こしたが、ここでも福音書の世界の伝道方式の継続である。

 ピリピで、パウロたちは安息日以外にも祈り場での集会をしていたということのようである。占い女に会うことが何度もあった。あるいは初日からそうであったのかも知れない。安息日以外の日の集会がどういう集会であったかについては何とも言えない。パウロたちがルデヤの家に泊まっていて、この町で信ずる者はルデヤとその家族だけだったのに、ルデヤの家でなく、町の門を出て、川の辺の祈り場に行って集会した時、ルデヤたち以外の人々も参加した。

 この女占いが使徒の集会に参加したのではない。かつてガリラヤのマグダラで、七つの悪霊を追い出されたマリヤという女性が、その後ずっと主のみあとに随いて行ったことと同じではない。ピリピの女占いは市内の一定個所にほぼ毎日出ていて、依頼人の求めを聞いて金銭を取って占いをしていたのであろう。それが祈り場に行くパウロたちの通り道に当たっていたということのようである。彼女は初めからパウロがただ者でないと直観した。ただし、マグダラのマリヤが主イエスに随いて行ったようには使徒たちに随いて行かなかった。こういうことは福音書に屡々見られることである。総括的にはマルコ伝134節に、「また、悪霊どもに物言うことをお許しにならなかった。彼らがイエスを知っていたからである」と書かれている。悪霊が言ったというのは、悪霊に憑かれた人が言ったという意味である。普通の人には、パウロがどういう人か分からないが、悪霊を持つ者にはパウロがいと高き神から遣わされて来た貴い人であり、救いの道を教えてくれる人であることはハッキリしていた。

 この占い女は若い女奴隷であったと思われる。すなわち、主人に買い取られて、その後占いの異能があると分かり、それ以来、占いの仕事をし、働きの収益は全て主人のものになった。

 「占いの霊に憑かれた」というのは、聞き慣れない言い方である。しかし、我々の身辺でも気を付けておれば、特に生活が都会化・近代化していない地域なら、見ることの出来る民間宗教の現象である。ルカもそういうもののことはかなり知っていたようである。憑き物というが、これは通俗の、昔からの言い方で、ある人に或る物が乗り移る。その時その人は別人挌になる。ゲラサ人の地で主イエスと出会った人は、悪霊一軍団が乗り移っていると信じ込み、そのように振る舞い、自分の名をレギオン、すなわち一軍団と呼んでいた。

 「狐が憑く」とか、「死者の霊が憑く」とか、各種の物が憑く。先天的に憑き物が憑き易い気質の人がそうなる場合が多いようだが、特別に修業を積んでモノに憑かれるようになることもあるらしい。これを一種の精神病であると片付けた時代があるが、医学で治療できる病気ではないと考える人は多い。そして、何かの機会に、あるいは何かのより大きい力の働きで、あるいは魔術によって、憑き物が追い出される。これを「憑きが落ちる」と言う。そうすると正常の状態になる。どの民族にも共通に見られる。キリスト教のなかにも悪霊払いを教会の行事として行なうところもある。

 この奴隷女の場合は「占いの霊」が憑いたと書かれている。「占い」と訳されているが、日本の盛り場で見ることが出来るような中国伝来の算木や筮竹を使って易を行なう占いではない。日本では古来「口寄せ」とか「神憑り」と呼んでいるものである。つまり、死人の霊を呼び出し、それがこの奴隷女に乗り移って、この人の口を借りて死人が語る。そう信じられている。死人からの答えを聞きたい依頼人が求めると、占い女は死人の霊を呼び出し、伺いを立て、自らは脱魂状態になり、死人はこの人の口を借りて言葉を与える。

 こういうものが旧約聖書でハッキリ禁じられていることを我々は知っている。レビ記1921節ほか多くの箇所に「あなた方は口寄せ、または占い師のもとに赴いてはならない。彼らに問うて汚されてはならない」とある。すなわち、神の言葉にこそ教えられなければならないし、神の言葉はイカガワシイ人物を通じてでなく、神の立てたもうた器である祭司や預言者を通じて聞くべきだという主旨である。またこの戒めは、口寄せの類はどの民族の中にも蔓延った迷信であるから、神の民は特に気を付けなければならないという意味を含んでいると聞き取らねばならない。

 だから我々はこういう怪しげな現象に興味を持ち過ぎてはいけない。ただし、こういう迷信的なものは昔の無知な人による不適切な捉え方であって、今では無視され、無関心になるべきだと思ったなら、聖書の読み方として支障がある。これが迷信であることは確かであるとしても、今なおこのような迷信に囚われている人が多いことは事実であって、そのことについて或る程度の知識を持つことが、我々の周囲にいる人の問題を理解し、彼らの心に語り掛ける際には必要であろう。

 我々は神を信じ、キリストを信じ、御霊を信じ、神から来た御言葉を信じる。それ以外のものを信じることはない。しかし、信じはしないが、目に見えないもの、所謂「霊的なもの」があることは知っている。それは我々にとっては無視すべきものであるが、それを無視するだけの自由さを持たない隣人がいるということは弁えて置きたい。教会の中にモノに憑かれた人が入って来ることは通常はないと思われているが、全く無縁だと考えない方が良い。

 さらに我々自身の問題として、無視すべきであると頭では分かっているけれども、それによって自分が惑わされることがあるという事実を弁えて置きたい。例えば、ヨハネは第一の手紙の第41節に「兄弟たちよ、全ての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、試しなさい。多くの偽預言者が世に出て来ているからである」と言っている。キリストの霊以外は信じない、と言い切ることは正しい。けれども、信じてならない霊的なものが、この世の至る所を飛び駆けっている現実を無視して、自分は惑わされていないと安心することは危険である。悪霊的なものが我々に挑戦することは始終ある。無視しているつもりでいながら、そこに巻き込まれて、しかも気付かないということもある。悪霊と対面してこれを追い出す課題が、我々に課せられることがないと思ってはならない。

 ピリピにいた女占いのような存在は、今の時代にはむしろ増えている。昔の人が無知なままに信じ込んだだけで、そんな物は今はないと看做すべきだと割り切っては危険である。憑き物というようなものに我々自身は何の影響も受けていないとしても、それに実際に煩わされている隣人は多い。占いの霊などというものはないのだ、と言うことは正しいとしても、それを信じている人には役に立たないから、そういうものに恐れるな、そういうものを遥かに越える力がある。その力は単なる力であるのでなく、真実と慈愛を差し向けるお方だと示すべきである。

 さて、ピリピの街中に話しが戻る。「この女はパウロと私たちのあとを追って来た」。――妨害するために追って来たのか。善意でこの人たちがどういう人かを宣伝するために追って来たのか。どちらとも取れる。思い起こされるのは主イエスがゲラサ人の地に行かれた時、汚れた霊に憑かれた人が墓場から出て来て主イエスに出会い、「いと高き神の子イエスよ、あなたは私と何の関わりがあるのですか。神に誓ってお願いします。どうぞ私を苦しめないで下さい」と言った事件である。

 ピリピの女占いには、パウロが「いと高き神」の僕であることが分かった。しかし、敬意を表するために随いて来たのかどうか。それは分からない。そして、たとい敬意を払って呼ばわっていたとしても、悪しき霊に憑かれた者の奉仕によって伝道の道が備えられることは、神の言葉の伝達に相応しいことではない。ナザレのイエスが何者であるかを最も良く知っていたのは悪霊であったが、主イエスは悪霊を利用して御自身を知らせようとはされなかった。だから、パウロがこの女の付き纏うのを疎ましく思ったのは当然である。

 では、ここで悪しき霊に向かって叱責したのは、妨げの排除のためであったのか。そういう面があったと考えるのは当然であるが、もっと大事な面は、悪霊に憑かれている隣人を、主の名による解放という面である。悪霊に憑かれている者を解放するためにキリストの御名によって悪霊を追放した。それはまた同時に、悪霊に憑かれている人を利用して利益を貪る人たちから、この哀れな若い女を解放することであった。

 この結果、占い女の主人たちはパウロの行為を当然得られるべき利益を得られなくした犯罪として訴えた。こうして、法律に従った裁判でなく、パウロとシラスを市民権のない野蛮人と看做し、鞭打ちの刑に処し、投獄した。主の命令と信じて始めたマケドニヤ伝道が、最初のピリピで挫折するに至ったではないか。だから、こういうことには触れないで、つまり、悪霊からの解放とか、悪霊に憑かれた人を利用するこの世の資産家の悪徳からの解放というような主張は差し控えて、ひたすら福音の宣教だけをしているべきではなかったのか。パウロたちは思慮が足りなかったのではないか。――そういう意見の人が今日の教会の中には多いかも知れない。

 確かに、こういう現象に関わったためにパウロとシラスは酷い目に遭ったし、この問題に関わるべきかどうかで議論を始めると、無駄な論争になってしまう。しかし、この世の反発を呼び起こすようなことを賢く避けて行くのが福音の道なのか。悪霊が我が物顔に振る舞い、喚き散らしている時、見て見ないフリをしているのがキリストの道なのか。主がそうされなかったことは確かなのである。

 今日、いと高き神の僕の行動について、悪霊からのいろいろな妨害がある。悪霊の妨害というのは、我々の宣教と教会形成に都合の悪いものをみな悪霊の業と決め付けてしまえという意味ではない。我々はもっと慎重にまた冷静に議論すべきだ。しかし、悪しき霊の働きと言わねばならないような種類の禍いに対して、見て見ないフリ、聞いて聞かないフリをして、ひたすら福音を説くという言い方は、主の道ではないし、使徒の道でもない。


目次へ