2007.12.09.

 

使徒行伝講解説教 第107

 

――16:11-15によって――

 

 

 「そこで私たちはトロアスから船出して、サモトラケに直航し、翌日ネアポリスに着いた。そこからピリピへ行った。これはマケドニヤのこの地方の第一の町で、植民都市であった。私たちはこの町に数日間滞在した」。

 大切なこととは言えないが、使徒行伝の旅行記事はここから一転して、冴えた筆遣いが感じられると言う人がいる。それは10節から「私たちは」という書き方になっていて、これは筆者ルカがこの辺りの時点で一行に加わったからであると説明されるのを聞くことが多い。ルカはここまでは人から聞いたことを書いたが、ここからは自分で見たことを書いたと理解されるのである。だがルカがここから加わったかどうか。むしろ、もう少し早い時期であったのではないかと私は思うが、彼がトロアスからの道程を実際に通った者として書いていることは確かだと思う。

 ルカの筆が旅路を見事に描いたかどうかを論じる必要はないが、我々がパウロたちの行程を実際に出来るだけ近く捉えることが出来れば良いのは確かである。地図の上で足跡を追って行くだけでなく、旅の労苦も喜びも、或る程度共感出来るような読み方が出来なければ、使徒行伝は、そこに働く御霊の力も、使徒たちの栄光と苦難も消し去られた抽象的なお話しに終わる。

 ただし、我々は使徒たちの旅行記を味わい楽しむのでなく、主が地上を去りたもうたのちも、御霊において教会と共にいますことの証しに接しているのであるから、使徒行伝の文章を味読するとしても、旅行文学を楽しむのとは別である。それにしても、今日のところは情景が見えて来るような読み方が出来る書き方である。とにかく、今日のところでは説明が多くなる。

 さて、パウロたちは行く道を示されたので、早速マケドニヤに向かったように思われるが、あるいはトロアスで暫く伝道したかも知れない。206節にピリピから出帆して5日掛かってトロアスに到着したことが書かれている。その時集会が開かれ、夜遅くまで話しが止まず、ユテコという若者が屋上の間の窓べりから落ちて死んだのを甦らせたという事件があった。とにかくトロアスにはかなりの人数の集まる教会があった。また、IIテモテ413節では「トロアスのカルポの所に残して置いた上着と書物を持って来て欲しい」と言うのであるから、トロアスとはかなり関わりが深かったと考えられる。それは次回の伝道の時、エペソを中心としてトロアスにも来ていたということかも知れない。しかし、マケドニヤに渡る前にトロアス伝道が始まったとも考えられる。

 サモトラケというのはエーゲ海の北西部にある小島である。先ずここを目標に進んだのは、船乗りの知恵で、1800メートルの高さで聳え立つから見やすかったのである。そこには港がないので、碇を卸して一晩碇泊し、翌日ネアポリスに着いた。先に触れたところでは、ピリピからトロアスまで逆方向で5日掛かったが、風の具合でこういう違いがある。

 ネアポリスというのはピリピの外港である。後にはクリストポリスと呼ばれるようになった。ピリピまでは15キロほど、山の裾を廻らなければならないが、山に取り囲まれて、ピリピは気候の温暖な地であるということである。この町がこの地方第一の町であることはトロアス出発の前から知っていたと思われる。マケドニヤ最大の市だというのではないが、この辺りで最大であったことは確かである。市としては古いから、劇場、アクロポリス、神殿もあった。

 ピリピという名はマケドニヤ王ピリポス二世、有名なアレクサンドロスの父にちなんで付けられた。ローマの植民都市になる以前からである。植民都市とはローマ市民を植民として受け入れたという意味であろう。前からの市街地の他に、植民の入植地区があったかも知れない。それが門の外にあったかも知れない。

 パウロたちはここに数日滞在した。数日しか滞在しなかった事情は、すぐ続いて読む通りである。伝道地としては期待通り手応えがあったが、猛烈な迫害のために一時脱出しなければならなかった。この地の教会に宛てて書かれた手紙、ピリピ書はパウロとピリピの関係の深さを伝えている。

 13節、「ある安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思って、川のほとりに行った。そして、そこに座り、集まって来た婦人たちに話しをした」。

 到着して何日か町の中を歩き回ったことであろう。ユダヤ人のシナゴーグは見当たらなかった。そして、福音宣教の働きに必要な肝心の情報はまだ掴めなかった。辛うじて、ユダヤ人が川のほとりの祈り場に集まっているらしいということが分かっただけである。彼らが集まるのは安息日に違いないから、安息日に祈り場らしい場所を捜して、行って待っていた。

 「祈り場」というものについて我々は知らないが、パウロはユダヤ教のラビであったから、海外に出たユダヤ人が、会堂のない状態においてどういう宗教生活をするかを知っていたらしい。ここでは誰かの家でなく、市の門の外、川のほとりの野外であるということは我々には知られていない事情である。ユダヤ人の礼拝が禁じられた場合があるが、ピリピでは禁止ではなく、公けに認められていた。川のほとりを使用することが認められたのであろう。次に行ったテサロニケにはシナゴーグがあるのに、第一の都市ピリピにはまだなかった。

 「川のほとり」ということは水に入る儀式をしていたということであろうか。ユダヤ人は潔めを重んじたが、洗礼という形でそれを行なうことは一般的でなかった。とすれば、バプテスマのヨハネの感化を受けた人たちの集会だと考えられるではないか。ここに近いとは言えないけれども、エペソに伝道に来たアレクサンドリヤのアポロはヨハネのバプテスマを通じてイエス・キリストを宣べ伝えていたのであるから、ピリピにもヨハネの系統の水のバプテスマが齎らされていたかも知れない。

 安息日に祈り場に集まったユダヤ人は全部女性であった。ユダヤ人の男性は来なかった。どうしてかは分からないが、男性が余り好まない傾向の流派が伝道したのかも知れない。ピリピのキリスト教会が建てられて、そこに男性が何人もいたことはピリピ書で分かる。その人たちはユダヤ教からキリスト教に回心したのでなく、異邦人がいきなりキリストの福音に接したのかも知れない。

 実際、ピリピにおける最初の受洗者はユダヤ人ではなく、「神を敬う人、ルデヤ」であった。神を敬う人というのは、異邦人でユダヤ教の交わりに入っていた人であることはもう説明するまでもない。神を敬う人というのがどの程度ユダヤ教に入っていたかについて、説がいろいろあるが、今はユダヤ教に改宗した人と同列に見ておいて良いのではないかと思う。

 ここでパウロが説教を始めた。座って説教したが、座るというのは教えることに結び付くのであって、聞く人も座って聞いたのかどうかは分からない。ピクニックの雰囲気を連想しては間違いかも知れない。連想して良いのはイエス・キリストが山の上で座って教えたもうたことである。しかし、パウロが立って叫んだのでないことは確かだ。

 14-15節に入る。「ところが、テアテラ市の紫布の商人で、神を敬うルデヤという婦人が聞いていた。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた。そして、この婦人もその家族も、共にバプテスマを受けたが、その時、彼女は『もし、私を主を信ずる者とお思いでしたら、どうぞ、私の家に来て泊まって下さい』と懇望し、強いて私たちを連れて行った」。

 ルデヤという女性がピリピの教会の柱になる。似ていると思うのは、9章にあったヨッパのタビタという女性である。ヨッパの教会は教会と呼べないほど小さく、タビタが中心で、彼女の家の屋上の間が集会所となっていたらしく、その他の弟子としては革細工人シモンのような社会的地位の低い人しかいなかったらしい。ピリピの教会も最初は取るに足りぬ小さいものであった。

 教会の柱となったルデヤはピリピ人でなく、アジアから来たテアテラの人であった。紫布とは紫に染めた高価な布で、その染料は地中海に棲むある貝から取る。アジア地方で紫布が生産され、ルデヤはその販売のためにピリピに移った。経済力も行動力もある女性だが、ここでは、神を敬う人、そして主を信ずる人という面だけを捉えるように我々は導かれている。

 テアテラの人と聞いて、我々がすぐに思い浮かべるのは、黙示録218節以下のテアテラの教会への言葉である。ルデヤとテアテラの関係としては、テアテラに教会が建ったということだけであろう。ルデヤが神を敬う人となったのは、テアテラにいた時であろうか。ピリピに来てからであろうか。それについては何とも言えないから触れないが、福音の進展のなかで幾筋もの関係が重ね合わされる。ルデヤは少なくともこの後にテアテラの教会との関係を保ったであろう。

 紫布は上流階級の間で売れたようである。ルデヤはそういう階層と関係があったのではないか。そして富裕な階級のユダヤ人の顧客がいた。そしてその富裕なユダヤ人女性が異邦人のルデヤに聖書の信仰を伝えたと考えられる。当日、安息日の集会に男性の信者が一人もいなかったことは常にそうであったことには必ずしもならないが、ユダヤ人女性の間に、異邦人伝道の先駆けとも言うべき人たちがいたことを考えないではおられない。

 ユダヤ人女性の或る意味での働きを考えないわけには行かないが、彼女たちがピリピで最初の回心者になったのではない。マケドニヤで福音を熱心に聞いて信じた最初の人は、テアテラから移ってきたルデヤとその家族である。それは使徒行伝において軽視されて良いことではない。

 これまでのキリスト教の福音伝道のパターンは、ユダヤ人である使徒がユダヤ人の会堂において、ユダヤ人が先祖以来守って来た安息日の集会の中で、キリストによる約束の成就を宣言し、ユダヤ教の信仰に最も忠実な人たちが、その集会に加わっていた異邦人と共に信じて、キリストの民の群れが出来る。そして、ユダヤ人の内でキリストを受け入れない群れと分離して行く、というものであった。

 ピリピでもそれに近いと言えなくないが、違うところは、シナゴーグの中での説教ではない。最初に信じた群れの中にはユダヤ人はいなかった。そして最初に信じたのは女性ばかりであった。これまでのパターンと根本的に違うとは言えないが、これまでのパターンを多くの点で崩して、しかもキリストの福音を正しく伝えるという道を貫いたのである。これまではユダヤ人が一緒に回心して異邦人の回心が起こったが、ここからは異邦人だけでも聞く人は聞く、というふうになって行く。

 それはルデヤが特に進んだ女性だったということであろうか。そう考える余地はあるが、聖書はそのように教えていないというところに我々は目を向けよう。聖書は「主が彼女の心を開いた」と言う。それがなければ何もなかった。

 ルデヤは家族と共に洗礼を受けた。その日、家族とともに集まりに来ていた。その家族がどういう顔ぶれであるかは分からない。子供たちだったかも知れない。身内の従業員であったかも知れない。彼女はそれらの人を引き連れてキリストの民に加わり、その人たちと祝福を共有した。それが家族ということの意味だと知っていたからである。

 もう一つ見て置かねばならぬことがある。彼女は「私たちを主を信じる者とお思いでしたら、どうぞ、私の家に来て泊まって下さい」と懇望した。彼女は使徒たち一行を自分の家に泊め、そこをピリピ伝道の拠点にしようとした。所謂「家の教会」である。ここから我々の思いを膨らませて、初期の教会がそのような或る程度の広さと、資力を持つ献身的な人たちの家から始まったと言うことは出来るが、むしろ、主イエスによって示された原型があることに思いを向けるべきであろう。主は12人の弟子を遣わし、また72人を遣わして言われた。「どこへ行っても、家に入ったなら、そこを祝福し、その土地を去るまでは、そこに留まっていなさい」。

 使徒たちは行った町で最初に受け入れてくれた家を祝福し、その町を去るまではその家に留まる。逗留の場としてもっと快適な家が提供されても、伝道のためにもっと好都合と思われる場所が他にあっても動いてはならないと命じられた。ルデヤはそのことを知らないであろうが、福音を携えている使徒は弁えていなければならない。それを知らないならその人の齎らす福音は祝福にならないのである。

 


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