2007.11.04.

 

使徒行伝講解説教 第104

 

――15:30-41によって――

 

 

 エルサレム教会の手紙はアンテオケの人々に手渡され、読み上げられ、人々は喜んだ。喜んだのは、会議の成り行きを心配していたからである。異邦人にとって、割礼を受けねばならないとすれば重荷であったから、それが課せられないと決まったのを知って喜んだということはあろう。しかし、主たる喜びの理由は、エルサレムとアンテオケが、決裂ではなく、単なる妥協でもなく、一致の確認の努力がなされて、実を結んでいることを知ったからである。教会はさまざまな機会を用いて、主にある一致を確認していなければならない。
 読み上げた後で、ユダとシラスが手紙の解説をした。それは手紙の文面の説明であるだけでなく、信仰の勧め、むしろ説教という方が相応しいものであった。この二人は単なる文書持ち運び人でなく、預言者、御言葉を語る器だからである、と説明が加えられたのはそのことを表すためである。以前から、バルナバを初めとして、エルサレムから下って来てアンテオケ教会を励ます説教者また預言者がいた。教会と教会の間には御言葉を語り合う交流があるべきである。
 この報告と説明の集会が開かれている時、パウロとバルナバは、ユダとシラスと一緒に帰って来たのに、説明の時にはいなかったのではないかと思われる。35節に書かれているのは、彼らがアンテオケを中心としたこの地方の伝道に取りかかっていたということである。なぜ報告会に出なかったのか。エルサレムの会議について報告するよりも、もっと大事なことがあると思っていたらしい。それは、どうなのか………、と詮索し始めると、迷宮入りになってしまう。材料不足で、事実関係が良く分かっていないから、延々と実りのない議論をしなければならなくなるのである。
 分からないこととして、例えば、その頃、エルサレム会議の後、ペテロがアンテオケに来ていたことがガラテヤ書2章で分かる。その時、ペテロが異邦人キリスト者と食卓を共にしないことがあって、パウロから詰問されている。同じ機会にバルナバまでもペテロの妥協の道を共にしている。そういう記録が使徒行伝ならこの辺り、パウロとバルナバが出発する以前になければならないのに、ないのである。そういう事件があったとすると、簡単な言葉の挿入で事情が理解出来る訳でないから、今日としては、この頃のことを詳しく論じるのは差し控え、分からないことが多いと認めるほかない。
 なお、エルサレムからの手紙には、不品行や、避けねばならない食物の事項が書いてあるのに、二人の勧めには、その項目の解説がなされたとは読み取れないのはどうしてか、と問題にする人がいる。手紙は読んだが、説明はしなかった、ということであろうか。だから、アンテオケでは食物に関する規定は守られなかったのではないか、と見る人も出て来る。そういうことがあって、先ほど触れたペテロがアンテオケに来た時、これはガラテヤ書211節以下に書かれている事件であるが、初めは異邦人と一緒に食事をしたのに、うるさいことを言うユダヤ人が来てからは、一緒に食事をしなくなったという事情になったのではないかという憶測まで行われる。――我々はそこまでは立ち入らない。
 さて、ユダとシラスは、23節で読むように、アンテオケ、シリヤ、キリキヤの教会宛の手紙を携えたのであるから、アンテオケで報告しただけで用が済んだとは思われない。その周辺も廻ったことは確かであろう。それでも、シリヤ、キリキヤまで行けば多くの日数が必要である。そこまでは出来なかったが、何日か付近の伝道活動をしたに違いない。そして、ユダとシラスの伝道活動は、35節で読まれるパウロ、およびバルナバの活動と別であったらしい。手分けして働かねばならない忙しさがあった。
 前回にも触れたが、33節では、シラスがユダと一緒にエルサレムに帰ったことになっているのに、34節にはシラスだけはアンテオケに留まったと記す。そしてシラスはパウロの伝道旅行に同行している。ここにはどういう事実があるか。良く分からない。今としては分かることだけを読み取っておく他ない。
 36節からの第二回伝道旅行に入って行こう。「幾日かの後、パウロはバルナバに言った、『さあ、前に主の言葉を伝えた全ての町々にいる兄弟たちをまた訪問して、みんながどうしているかを見て来ようではないか』」。
 幾日かの後というのは、そのままに読めば数日であろう。エルサレムから戻り、アンテオケで早速活動を始め、そして数日である。そのように受け取って支障はないし、彼らがエルサレムから帰って、すぐに次の旅に出たと見る方が伝道の意欲をありありと感じさせる。しかし、いろいろなことがあったらしい。だから、しっかり考えて伝道旅行に出たと推測する方が適切だとも言える。
 旅行はパウロが提案したように書かれている。しかし、バルナバがそれに随いて行ったということではない。この二人は先の伝道旅行においても一緒であったし、今回のエルサレム往復も一緒であったから、多くのことを語り合っていたのは確かである。つまり、第二次旅行の話しは前から進んでいた。同意も出来ていた。
 確かに、マルコを連れて行くかどうかで決裂したことに見られる通り、話し合いの不足はあったのであろう。しかし、また出発するという計画は自明のことであった。さらに、今回のエルサレム会議の決定事項を、シリヤ、キリキヤの教会に伝えなければならないと考えていたことも確かであろう。
 パウロの提案は、先に行った諸教会を再び訪ねることであった。先の伝道は13章で見たように、ピシデヤのアンテオケ、イコニオム、ルステラ、デルベの町々に教会を建設する働きであった。そこへ行く前にクプロでの働きがあった。そして、クプロでのことは詳細には把握出来ないが、島全体を巡回したと書かれているし、総督セルギオ・パウロに会っているし、そこから急いでピシデヤのアンテオケに向かったらしいと読み取れる。道が開けたと感じる何かがあったのである。だから、クプロに再度行くことを初めから考えていたであろう。初めの計画では、第一回の時と同じく、先ずクプロに行って、それからキリキヤに行くことになっていたのかも知れない。
 パウロ自身、ローマ書1520節で言うように、「キリストの名がまだ唱えられていない所に福音を宣べ伝える」という方針で、広くキリストの福音を語って来た。伝道の処女地ばかりを廻ることに固執していたと取る必要はないが、教会の基礎がまだ据えられていない所に行くことに自分の使命があると考えていたことは確かである。
 同じ町にまた行くのは、彼の方針と違うではないかと言う人がいるかも知れない。だが、教会の基礎が据えられた後は、主に委ねて、教会自身の知恵と知識と活力で成長させる、というようなものでないことを思い起こしたい。すでに自立した教会として建設され、そのために長老が立てられたが、自立した組織が出来たということでなく、長老は第一に御言葉の教えと規律のために立てられたのである。また近隣の教会同士が協力し合えるようにされたことを我々は承知しているが、これで十分とは言えない。特に教会はまだ幼い。時に水を注ぎ、手入れし、霊的に成長させ、危急の際には助けなければならない。使徒にはその務めがある。生みの苦しみは一回で済んだのでなく、最後まで繰り返されるのである。ガラテヤ書419節に、「ああ、私の幼な子たちよ。あなた方の内にキリストの形が出来るまでは、私は、またもやあなた方のために産みの苦しみをする」と言うが、後日、こういうことを書かなければならなくなる事情があるのは、これから行こうとしている地方である。それだけの予想はしなければならない。
 エルサレム会議で問題は決着したように我々は読んだ。決着したことは一面では確かであるが、ガラテヤ書に書かれているような苦悩がその後にあったことも事実である。パウロがそれを読み取っていたことは十分考えられるのである。今回、我々が触れないでいることがいろいろあるが、主が羊の群になぞらえたもうた教会を見据えるなら、いろいろなことが洞察される。それを考えれば、讀みを深めることが出来る。
 もう一つ出掛ける必要が感じられたのは、先にも触れたが、エルサレム会議の決定を、関係ある教会に知らせることである。エルサレム教会が送った手紙は、キリキヤの教会にも宛てられていた。キリキヤというのは、実際はピシデヤのアンテオケ、イコニオム、ルステラ、デルベを含むものであろう。そして、エルサレム教会は手紙を運ぶ人を選んだが、先まで届けることを委託したかどうか分からない。パウロ自身が持って行かなければならないことは初めから分かっていたのではないか。
 「町々にいる兄弟たちをまた訪問して……」と訳されているが、「そこへ還って行って」、あるいは「戻って行って」という意味の言葉であることに注意したい。シリヤのアンテオケが根拠地でキリキヤが出先であると見ているなら、こういうふうには言わなかったであろう。第一回の時は確かにアンテオケから派遣されアンテオケに帰った。その意識が使徒側にもあった。このことは大事なことで、エルサレムからの派遣でなく、アンテオケからの派遣である点を強調することには意味がある。
 今回もそれを意識して良い。しかし、それと違う面が出て来ていることを読み取りたい。アンテオケ教会が異邦人伝道の先駆的役目を演じたことは事実であり、末永く記念されることは良いが、永久的根拠地と定められたとか、異邦人教会の母教会となったという認識は差し控えたい。
 ただし、アンテオケ教会に対して不信感を抱くようなことがあったから、パウロが距離を置くように変わった、と解釈することには大して意味があるとは思わない。伝道者がかつての伝道地に還って行くことに、故郷に帰るような懐かしさを覚えるのは極く自然なことである。
 パウロが旅行の出発を提言したのに対し、バルナバは具体案を出し、マルコというヨハネを連れて行こうと言う。ここで激論が起こる。パウロは前にパンフリヤで勝手に帰ってしまったマルコは信頼出来ないと言う。それは伝道の困難にたじろぐ者を前線に立たすべきでないという意味に思われる。この判断はあながち峻厳すぎると言うべきではない。困難な地の伝道者には誰でもなれると言えるか。神の助けがあれば誰も召命を果たすことは出来るか。いや、召命を本当は受けていないのに、受けたと思い込んでいるだけという実例が現にある。耐え忍ぶことが出来ないのに、召しを受けたと思い込んでいる。現在、伝道者の職務抛棄の事実が、残念ながら数多く見られるようになった。
 パウロが先にあった事実を挙げたのに対し、バルナバは今後はそれと違うと主張した。結果から見ればバルナバが正しい。パウロもそれを後日認めている。
 パウロの懸念はマルコの素質だけでなく、神学的なことにも関係するのではないかと思われる節がある。先ほども触れたが、ガラテヤ書で、バルナバにも曖昧なところがあるというパウロの危惧があった。それとマルコの弱さの結び付くことの危険が察知されたのである。激論になったのはその辺りの事情ではないかと思う。
 結局、パウロとバルナバは別の道を行く。ただし、決裂と取ることは正しくない。バルナバはクプロ生まれであったから、クプロ伝道に特別な思い入れがあって当然であった。前回、クプロでは殆ど素通りのようなことになり、クプロにおける教会建設には至らなかった。彼が今度はクプロに力を入れると言うのに、パウロが賛成したのは当然のことである。そこで、バルナバがマルコを連れて行くなら、パウロの同行者は誰になるか。ここでシラスが候補にあがる。バルナバも勿論賛成した。ハッキリしたことは言えないが、シラスは一旦エルサレムに戻って、それからまた呼ばれたのかも知れない。
 シラスについては22節を学ぶ時に触れた。エルサレムではすでに預言者としての働きが認められていた。長老の会議に出ていたから、長老であった。マルコよりは年輩も格式も上である。シルワノというローマの名を持ち、ローマ市民権も持っていた。海外で生活した経験があったらしい。
 「パウロは、シリヤ、キリキヤの地方を通って。諸教会を力づけた」。彼らが以前に建てた教会に行ったのは、161節のデルベである。その前にシリヤ、キリキヤの諸教会を力づけて行ったというから、アンテオケからデルベまでの道にすでに教会があったのか。そうかも知れない。例えば、キリキヤではタルソが首都であるが、教会があったかも知れない。パウロはバルナバによって捜し出されてアンテオケに連れて来られるまではタルソにいた。タルソで伝道していたと考えられる節がある。ガラテヤ書1章を見ると、ダマスコで回心し、アラビヤに行き、ダマスコに帰って伝道し、3年経ってからエルサレムに行き、その後シリヤとキリキヤの地方に行ったと言う。それがアンテオケに呼ばれたことまで含むと思うが、その期間、伝道と関係のない生活をしていたとは思われない。正式の、制度の整った教会建設まで果たすことはなかったとしても、福音の宣教はあったであろう。それが教会に育っていたと考えて差し支えはない。「諸教会を力づけた」というのは、そこに諸教会が生まれていたことを示すのである。

 


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