2007.10.21.

 

使徒行伝講解説教 第103

 

――15:22-29によって――

 

 

 「そこで、使徒たちや長老たちは、全教会と協議した末、お互いの中から人々を選んで、パウロやバルナバと共に、アンテオケに派遣することに決めた。選ばれたのは、バルサバというユダとシラスとであったが、いずれも兄弟たちの間で重んじられていた人たちであった」。
 エルサレム教会が異邦人教会に手紙を送ることに決めたところまで前回学んだ。その手紙の本文は、23節以下に書き写されている。教会はまたこれを届ける人も選んだ。手紙というものは、書き上げて封をすれば、後、誰が持って行くかは大した問題でない。それでも、エルサレム教会は手紙を持って行く人を選んだ。手紙そのものの大事さ、また手紙を送ることの大事さについての思いが滲み出ているように感じられる。
 ダビデがアブサロムの叛乱によって都を抛棄してマハナイムまで落ち延びた時、アブサロムが既に死んで、叛乱が収まったことをアヒマアズが早駆けで告げに来た。見張りの者が走って来るのはアヒマアズのようだと告げた時、王は「彼は良い人だ。良いおとずれを持って来るであろう」と言ったことがIサムエル1827節にある。おとずれと、運び手は関係があるのだ。
 もともと問題は、アンテオケ教会から、「エルサレム教会の或る人たちが来て、アンテオケで理解されているのと違う主張をしたが、どうなのか」と、照会という形で問うたものであった。エルサレムでは会議を開き、決着をつけた。これは、エルサレムの意見とアンテオケの意見が食い違うので、両方の代表者が出て協定をしたように見られるかも知れない。だが、エルサレム教会の会議であって、アンテオケ側の人はその場にいたが、会議の員外議員で、決議には加わっていない。
 またこの会議は教義を確定して、それを布告するというものでもなかった。二つの教会の間で見解が違っているように見えたことはその通りだが、この会議でのペテロの発言も、ヤコブの発言も、聖書に基づいて教えの筋を明確にしたという点では同じであり、アンテオケとの不一致はなかった。異邦人に割礼をするかしないかの違いがあることは確かだが、それは争点ではなかった。これは基本的教理上の問題ではないと見られた。風習、やり方の違いはあるが、その違いは認め合おうということになったのである。
 ガラテヤ書が、信仰によって義とされるのか、行ないによって義とされるのか、について、立つか倒れるかの、命を賭した凄絶な戦いを展開しており、それとこのエルサレム会議を重ね合わせて理解することが普通になされている。その理解はそれで善いが、エルサレム会議の主題が、信仰の義か、行ないの義かという争いの決着であったとするならば、大きい読み違いである。
 エルサレムからアンテオケに行った人たちが、そのように確定しているからそのように教えよと指示を受けたのでもないのに、エルサレムでやっている通りにやらせようとして、アンテオケ教会を騒がせた。そのことについて、エルサレム側の責任ある人たちは、謝罪と言ってはやや堅すぎるが、落ち度は、それを押しつけようとした人の母体であるエルサレム側にあると認めた。それは24節に書いてある。
 もっとも、アンテオケの仕方の方が正しいから、エルサレムはやり方を改めると言ったわけではない。エルサレムのやり方は変えない。違いを認め合おうということである。言い方を換えれば、この違いは教会を分裂させるような違いではないということである。それでは、エルサレム側は、この後も異邦人の割礼を行ない続けたのか。そうではない。詳しく説明するだけの資料を持たないが、異邦人に割礼を受けさせる前例がエルサレムではあった。けれども、エルサレムでキリスト教に入信した異邦人はごく少数である。大部分はユダヤ人がバプテスマを受けて入信した。主イエスは「福音を宣教してバプテスマを施せ」と命じたもうただけである。そのことが守られているなら違いはない。
 ユダヤ教がユダヤ民族主義と密着し、それ故に反ローマ主義的原理主義となったため、パレスチナの地から追放された時、エルサレムのキリスト者はユダヤ人であったが、ユダヤ離れをしていた。だから、反ローマ主義の戦いにくみせず、パレスチナ地方で生き居続ける。すでに割礼に固執する宗教的風習は失っていたのではないかと思う。
 では、違いを認め合うことが出来る範囲のこととは何なのか。風習という言葉で言い表されるもの、と言っても良いかも知れない。文化の違いを認め合うと言いたい人はそう言って良いが、その種の議論に立ち入ることは今は差し控える。
 確かに、エルサレムとアンテオケの間には、ヘブル的な傾向とギリシャ的傾向の違いがある。しかし、我々はそういう問題に触れる必要はないと思っている。事実、教会はギリシャ語を使うか、ヘブル語を使うかで分裂することはなかった。教会は言語の上でも違いを認め合う。
 そういうことがあって、エルサレム側からは、然るべく鄭重に会議の結論をアンテオケに知らせようとしたと見られる。だから、エルサレム教会を代表していると言えるほどの立派な人を選んだ。アンテオケからはパウロとバルナバとがエルサレムに行ったので、エルサレムからも、その二人に見合うだけの立派な人を選んだのである。そのことが25節で読み取れる。「そこで私たちは人々を選んで、愛するバルナバ、およびパウロと共に、あなた方のもとに派遣することに衆議一決した。この二人は、我らの主イエス・キリストの名のために、その命を投げ出した人々であるが、彼らと共に、ユダとシラスを派遣する次第である」。ユダとシラスを推薦すると共に、バルナバとパウロをキリストの名のために命を投げ出した人であると確認している。その確認がこの二人がこの件でエルサレムに登ったその姿勢にも感じられるという意味であろう。
 選ばれたのは先ず、バルサバと言われるユダ。しかし、どちらが筆頭かということは問題でない。律法にある「二人の証人によって確かめられる」という主旨から、二人が立てられたのである。彼らについては32節にルカの筆で「ユダとシラスは共に預言者であったので、多くの言葉をもって兄弟たちを励まし、また力づけた」と書かれている。「預言者」であったというのは、エルサレムまたその近辺で説教をしていたことを意味するのであろう。力ある説教をした。
 バルサバはこの後、エルサレムに帰り、そのまま留まるシラスと分かれたように思われるが、このことではハッキリしない点がある。35節は括弧に入れられているが、この部分は旧い写本にはなく、したがって後の時代の加筆かも知れないと思われている部分である。
 彼らに託された手紙は、アンテオケ、シリヤ、キリキヤの教会宛であることは23節から明らかである。アンテオケ教会だけに手紙を渡して、それで用が済んだと思って帰った、とは受け取りにくい。もっと伝道活動をしたことが32節から明らかである。その範囲はアンテオケ市内に留まらないと感じられる。しかし、彼らがキリキヤ地方まで行ったと主張する根拠もない。
 バルサバは生まれながらのユダヤの人で、ヘブル語を用いるグループのキリスト者だったと思われる。ギリシャ風の名は持たず、バルサバ・ユダと呼ばれた。それ以上のことは分からない。バルサバと呼ばれる人が使徒行伝にもう一人いる。「バルサバと呼ばれ、またの名をユストというヨセフ」のことが123節にある。バルサバ・ユダはバルサバ・ヨセフの兄弟であったかも知れない。ヨセフは「ユスト」というローマ風の名を持っていたから、ギリシャ語を使うユダヤ人であったと考えられる。それならユダはその弟か。
 次はシラス。彼はこの後エルサレムに帰らず、パウロの同労者になって、異邦人伝道に赴く。シルワノとも書く。シルワノという名はラテン語である。ローマ人でなくてユダヤ人だと思うが、シラスというユダヤ名に音が似ているシルワノというローマ式の名を当てたのであろう。彼はローマの市民権を持っていた。というのは、ピリピでパウロとシラスが投獄され、鞭打ち刑を受けた時、この二人がローマ市民であることが分かって、警察が大いに恐縮するという場面が16章の終わりの方に書いてあるからである。シラスはローマの市民権を持つユダヤ人であった。シラスについて触れる機会はこの後もあるから、今は省略しておく。彼もエルサレム教会の働き人、預言者であった。また、バルサバと同じように人望があった。
 バルサバがヘブル語を用いるユダヤ人であったのに対し、シラスはシルワノという名が示すように、ギリシャ語を使うユダヤ人であった。エルサレムにおいて以前からそのグループであったと思われるが、バルサバと別傾向の人であったことを強調する必要はないと思う。
 23節からの手紙の内容に入って行く。
 「あなた方の兄弟である使徒および長老たちから、アンテオケ、シリヤ、キリキヤにいる異邦人の兄弟がたに挨拶を送る」。
 使徒と長老が発信人である。それが会議を構成していた。彼らは異邦人信徒に対して、上の立場から物を言おうとしていない、ということに先ず注目して置きたい。次の節で、「こちらから行った或る者たちが、私たちからの指示もないのに、いろいろな事を言って、あなた方を騒がせ、あなた方の心を乱したと聞いた」と言うことに続くのであるが、エルサレム側は自分たちの中から行った者が高姿勢で異邦人教会を指導しようとしたことの引き起こした問題について、恐縮している。
 事柄は信仰に関する問題、教理の問題、聖書解釈の問題と見て良いとも言えるが、エルサレム側では、一つの教会が他の教会に対して優位の立場に立つかのような思い込みをする思慮の浅さ、不敬虔を問題として捉えていることは、卓見である。
 水が高い所から低い方に流れて行くようにして、福音の真理が水準の高い所から低い所に伝わるように、エルサレムから異邦人世界に伝播して行く、という考え方は、分かり易いかも知れない。しかし、イエス・キリストの教会のうちにはもともとない。そういう考え方をする者がいたとすれば、ことの分かっている人は、その誤りを正さなければならない。
 なぜ、このような平等という意識が根付いていたか。言うまでもないことだが、唯一の神が絶対であられる所で、他は全て相対化され、平等になるほかないからである。イエス・キリストの時代、ユダヤ人の絶対多数は、選民と異邦人の格差が当然あると信じていた。主イエスはその思い上がりが如何に空しいものであるかを教えたもうた。
 次に、手紙の宛先の異邦人教会の地域、アンテオケ、シリヤ、キリキヤの名が上がる。この地域が当時のエルサレム教会に知られた、エルサレムの管轄外の教会のある地ということであろう。ガラテヤ書2章にはパウロがバルナバと共にエルサレムに上って、エルサレム教会の主立った人たち、主の兄弟ヤコブ、ケパ、ヨハネと語り合って、パウロたちは割礼のない人たちに伝道し、エルサレムの人たちは割礼ある人たちに伝道するという取り決めがなされたと書かれている。その時の区分で、パウロとバルナバが受け持った区域が、アンテオケ、シリヤ、キリキヤという地名で表されていると思う。――ここは我々の知識不足によるのであるが、それぞれの名で示される地域が地図上のどこからどこまでか正確には掴めない。つまり、時代によって行政区画が変わるということがある。一つの地名を取り上げても、いろいろに取られる。
 この時、地域協定がなされたと解釈できるから、境界線がどこにあるかがうるさく問われることがあり得た。それならば、どこまでがどちらの区域であるかをハッキリさせて置かねばならない。しかし、キチンと線を引くことは困難である。パウロはこのエルサレム行きの14年前、シリヤとキリキヤの地方に行ったと言う。それがパウロのどの時点のことなのかも確認しにくい。シリヤとキリキヤで伝道したということであろうが、キリキヤに行ったというのは故郷タルソに帰っていたことかも知れないし、タルソではバルナバに引き出される前、伝道していたかも知れない。また、キリキヤと言ったことの中には、キリキヤの地続きであるが第一次伝道で行ったルカオニヤやピシデヤも含めているかも知れない。
 アンテオケというのは、13章にあった異邦人伝道の始まった地、シリヤのアンテオケである。聖霊によってその働きは始まった。だが、アンテオケの町の中にある教会だけでなく、周辺の町々村々も包んでいる教会が力ある業をしたのであり、教会はなお広がりつつあった。
 シリヤはどうか。アンテオケが当時の首都で、その辺りを言うのであろうか。しかし、パウロにとってはシリヤのダマスコも重要な働きの場であった。大まかに言えば、パレスチナの北と北東に広がる地域がシリヤである。
 結局、エルサレムの人たちがアンテオケ、シリヤ、キリキヤと呼んでいる地域は、パウロたちが活動した区域と見てよいのではないか。実際、エルサレム教会から直接派遣された伝道以外の伝道地の区域全体を覆っていると考えるほかないではないか。
 残るのは必要事項で、これ以上のことはあなた方に負わせない。その条項の主旨は、主の民が、全地において主の民としての聖潔を守ることである。

 


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