2007.10.14.

 

使徒行伝講解説教 第102

 

――15:19-21によって――

 

 

 我々が使徒行伝15章で学んでいるのは、最初の教会会議の開催のことである。異邦人教会とユダヤ人教会とが、別々の道を行くことになるかも知れない割れ目が出来た。このまま手を拱いておれば、エルサレムを中心とする教会と、アンテオケを中心とする教会とが、互いに干渉も交流もないまま、別々の流れ、別々の宗教になったかも知れない。しかし、イエス・キリストの教会であるという自己確認が教会の中にあったので、キリストの教会が一つであり、一つでなければならない、という思いから彼らは会議を開いた。前例のないことである。しかし、人間の独創的な発想から、集まって会議を開くことを発案したのでないということに我々は気付いている。
 彼らは自分たちが今置かれている局面、自分たちの中に今起こっている事件が、神の世界救済のご計画の中で起こったものであると読み取ることが出来た。だから、そのようなものとして、御心に従った処置をして行かねばならないと感じ、それを実行すべく模索し、努力し、そして道を切り開いて行った。それを我々は今学んでいるのである。
 会議の初め、相対立する見解が衝突し合ったが、その衝突は論じ合うほどに次第に歩み寄ることになる。次に、基本的なことがペテロの発言に従って確認された。その後、ヤコブが実際的な結論を提案する。今日学ぶのはそのところである。
 ヤコブは先にペテロの言ったことに賛成し、彼自身もペテロのしたのと同じように預言者の書を引用して、教会が今ここでなすべき確認をし、それから実際的な決定を提案する。
 「私の意見はこうである」。――「意見」と訳されているのは、判断とか決定という意味である。そこで、ヤコブがみんなに発言させた上で決定を下した、と取れなくはない。また、順序から見て、ヤコブの発言が最終結論であると取ることは出来る。だから、ヤコブの決定権の方が上にある、ヤコブがこの時すでにエルサレム教会の代表者であったと見る人もいるが、そのような結論を下すことは前回見た通り困難であるし、意味もない。決定をしたのは教会である。教会の決定権を行使するのは使徒と長老たち、またその会議であった。ヤコブは自分の判断を示している。そういう判断を示すことが出来、人々から受け入れられたのは、彼が長老であったか、あるいは12使徒ではないが後日使徒の一人に加えられていたからであると思われる。ただ、この事情は我々には分かっていない。
 ヤコブの意見は、つまるところは手紙を送ろうということなのだが、その原理になるのは、「異邦人の中から神に帰依している人たちに煩いを掛けてはいけない」ということであった。
 「異邦人の信仰者に煩いを掛けない」。……ユダヤ人でエルサレムで入信した信仰者としては、異邦人でキリスト者になった者が、どう感じているかを考える機会もなかった。いや、それどころか、異邦人世界においてキリスト教会に加わって来る人たちがどんどんいるという事実も、つい最近聞いたばかりである。したがって、実態を知らないことに基く誤解や偏見があることを我々は容易に気付く。ヤコブもそれを感じていたのである。ヤコブは非常に早く気付いたとは言えないが、遅すぎたわけでもない。また、異邦人キリスト者が感じた問題を非常に敏感に感じたとも言えないが、特に鈍感で、何も分からなかった訳ではない。バルナバほど早くはないが、パリサイ派から入った人たちよりは早い。だから「彼らに煩いを掛けてはならない」ということは直ちに考えた。
 異邦人にとっては、ユダヤ人には当たり前のこと、問題にならないことも、大事件である。例えば、我々自身のこととして、割礼を受けるということになれば、簡単に行かないことが分かる。それが本当に意味のあるものだということになれば、信仰の事柄であるから、自分自身を説得して、割礼を受けるであろうし、信仰の先輩たちも説得して受けさせるであろうが、それもスンナリとは行かない。
 そういうことを、これまでに考える機会もなかったのであるが、ヤコブには今や十分分かったのである。まして、割礼が不可欠のことであると教える聖書の規定は、今や固守すべきことでない。つまり、それが示していた約束は成就したという核心部に関して、ヤコブには良く分かっていた。だから、割礼のことについては問題はなくなったのである。
 この理解、この思い遣りがヤコブにあったということは、彼の人間性の豊かさというようなことで理解されてはならない。ヤコブはイエス・キリストによる罪の贖いを、単なる理解や知識としてでなく、自分自身の体験した事実として捉えている。律法の行ないを遂行することについて抜きん出ていたということ、またそれ故に「義人ヤコブ」と呼ばれたことに以前触れたが、行いが立派であるというだけでは、イエスは主であるという確信には至らないであろう。
 彼がなお拘るところがあって、ユダヤ主義に基く抵抗をしていると勘ぐる人がいるとすれば、それも一つの解釈だと認められるとしても、結局、偏見を読み込んだ想像で、意味のない解釈になる。むしろ、別の理解をした方がスッキリする。
 偶像に供えた物と、不品行と、絞め殺したものと、血とを避けさせるということについては、ゆっくり考えて見たい。
 これはどういう種類の規定なのか。律法と同じなのか。律法ほど拘束力はないものを持って来て、代替物として或る意味で拘束したのか。――こういう種類の規定は、教会でどういう意味を持つのか。また、この規定が一旦エルサレム会議で決まったのに、それが何時廃止されたのか。現在の教会は守らなくて良いのか。
 難しく考えると、本筋が見えなくなるから注意しよう。ヤコブがここに上げている条項が律法の戒めに関連したものであることは確かである。だから、旧約時代の律法解釈との関連を調べようとする人もいる。それが全く無駄であるとは言えないかも知れないが、随分苦労したあげく、得るところは少ないであろう。むしろ、ヤコブが異邦人キリスト者のためを思って、こういう助言を提案したと見るならば、この方がスッキリするのではないか。ただし、旧約との結び付きを度外視して良いと言うのではない。このことは21節にハッキリ示されるから、そこで詳しく見ることが出来る。
 実際の問題に当たって見ることにしよう。
 「偶像に供えた物」について、異邦人教会でどのような指導がなされたかの実際例をIコリント8章で見ることが出来る。そこで詳しく把握出来る。パウロがそこで先ず言うように、「偶像なる物が実際は世に存在しないことを我々は知っている」。だから、偶像を承認するとか、偶像に供えた物が市場で売られていることについて、その是非を議論しても意味はない。意味のないことが機縁となって起こる躓きに注意させられる。
 問題は信仰者が市場で売られている肉を、買って帰って、料理して食べて、それを見た信仰の弱い人が躓く場合、その躓きを躓いた人の弱さに基づくことは事実あるのであるが、だからといって躓かせた人の無神経さに責任がないとは言えないのである。
 ヤコブが異邦人世界の事情をどれほど知っていたかについて、我々には何も言えないが、彼がこういう場合を想定することが出来なかったと我々が決めつけることは思い上がりではないか。
 ヤコブも異教徒社会の偶像礼拝について考えることは出来たであろう。その世界にキリストの福音が広がって行こうとしている時、キリスト者が「偶像に供えて汚れた物」だと聞いただけで、それと絶縁するほどの潔癖さを持っていることが、教会外に対しても、教会内に対しても有意義であり、むしろ必要であると見たのである。
 「不品行」についてはもう少し一般的で、分かり易いであろうか。これはどの世界でも、どの時代にも跋扈している悪徳である。すなわち、ユダヤ人社会にもあったし、異邦人社会にもあった。そして、当時、異邦人社会ではこの悪徳が、ユダヤ人社会よりも格段に大目に見られていた。そういう社会の中に主の民が入って行く時、聖き民としての徴しが示される必要は確かに大きかったと理解出来るではないか。
 「絞め殺した物と血」。――これの禁止は確かに律法によるものであって、律法の規定以外にこれが宗教的な意味から禁止されている例を私は知らない。動物の生き血をすすることは狩猟民族の間では行き渡っていたのではないかと思う。
 だが聖書ではこれはかなり重要である。モーセの時代よりも遥かに古く、この禁止令が発せられた。ノアの洪水の後、神は創世記93節に「全て生きて動くものは、あなた方の食物となるであろう。先に青草をあなた方に与えたように、私はこれらの物を皆あなた方に与える。しかし、肉を、その命である血のままで食べてはならない」と言われる。洪水の前から人は肉食を好んでいたに違いない。エデンの園でも美味に感じられる実を禁を犯しても食べた人間である。青草だけ、と言われても、肉食を好んだ。洪水の後、神は肉食を許可された。
 これは創世記の中でもかなり大事な箇所である。ノアの洪水は昔のお伽話のように思われていることが多いが、例えば、I ペテロ3章で、洪水と箱舟はバプテスマを象徴すると説いているように、ノアの洪水は旧き世界はかつて一たび滅び、今見る世界も一たび再生したものであって、再度、滅亡に遭うことを弁えねばならないけれども、それ以外では守られていることの契約があると教える。その契約に対応する人間の側からの契約条項は、動物の肉を血のままでは食べないこと、すなわち、動物の肉を食物として食べることは許されているが、その生命は神に属するのであって、人間の欲しいままに扱ってはならないこと、人の血を流さぬことである。この契約が人間によっては最早守られなくなり、人々は隣り人の血を流しても、何とも感じなくなっていることについて厳粛に考えなければならない。
 ヤコブが絞め殺した動物について語り、異邦人世界にある教会においても旧約聖書の語る動物の血とそれの象徴する生命そのものが、信仰的に覚えられねばならないと示唆したことは、生命の意味がキリストの教会の中で一層重視されねばならないという意味を我々に思い起こさせる。
 以上のことを異邦人教会に文書で伝えるという決定になった。異邦人教会に規制を課したという意味はどこにもない。これは命令ではなく励ましである。異邦人世界においてキリスト者は聖なる民として、その徴しを掲げて生きるのだということが、ここに示されている。
 「旧い時代から、どの町にもモーセの律法を宣べ伝える者がいて、安息日ごとにそれを諸会堂で朗読するならわしであるから」。……だからどうだと言うのか、その点、必ずしも明らかではない。割礼を受けなくて良い代わりに何か負い目を負うべきだ、と言っているように思われる、と感じる人がいるが、彼らの煩いを負わせてはならないことから全ての取り決めが考え出されたのである。
 ヤコブの語るこの言葉を聞く時、我々はパウロが似たような言い方でピシデヤのアンテオケの会堂で初めての安息日に語ったことを思い起こす。すなわち、1327節である。「エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めずに刑に処し、それによって、安息日ごとに読む預言者の言葉が成就した」。
 安息日ごとに諸会堂で旧約聖書が読まれたということは、約束の成就を待つ神の民の継続の姿勢そのものだということに気付かせられるのである。それとともに、このヤコブの言葉には、安息日ごとに聖書を読みかつ聞く主の民の営みが、旧約時代から新約時代へと引き継がれて行くことと、彼らの生活は聖き神の民の地上における証しであることを指し示そうとしたものであることを悟らせる力がある。

 


目次へ