「すると全会衆は黙ってしまった」。………論じることはなくなった。では、何が残っているか。主のなさった御業を見ること、そして讃美することだけである。そこで「バルナバとパウロとが、彼らを通して異邦人のあいだに神が行われた数々の徴しと奇跡のことを説明した」。エルサレム教会の使徒と長老の会議であるから、アンテオケ教会に移ったバルナバとパウロはこの会議の正規の議員ではなかったであろう。議員ではないが、発言が許されたのであろう。
バルナバとパウロは、エルサレムに着いてすぐ、異邦人世界での伝道の成果を報告した。それは4節でも聞いたことである。その繰り返しがなされたとも考えられるが、ここには神のなしたもうた「奇跡」について語ったと記されている。つまり、どこに教会が建てられたか、入信者が何人いたか、というような報告ではない。それはもう分かっている。そうでなくて、異邦人世界において、神が生きて働きたもうた事実をハッキリと示す奇跡が今や重要である。
使徒たちが異邦人世界において宣べ伝えたのは福音であり、人々がそれを聞いて信じ、福音を信ずる人が次々と増えて行った。だから、異邦人さえも回心したことだけで、エルサレムの信者たちを納得させるに十分ではなかったか。そうかも知れない。しかし、神を全く知らなかった者が神に立ち返ったのは、奇跡的な事件であることは確かであるとしても、過ぎ行くこの世の事件の一つに過ぎないかも知れない。本人が今は感動しているとしても、必ずしも生涯に亙って持続する新しい命の歩みが始まったわけでない。種蒔きの譬えで、速やかに芽を出したが、スグ枯れてしまう場合があることを主イエスも語られた。本人が信じますと言っただけでは不確かかも知れない。そこで、御霊の働きとしての奇跡が証しとして確かである。
聞いていたユダヤ人たちは、五旬節の日から始まって、御霊の働きが自分たちの間で起こったことを知っていた。2章43節には「多くの徴しと奇跡が使徒たちによって次々に行われた」と記される通りである。つまり、彼らの先祖たちが、聖霊の降臨の約束を望み待ちつつ、律法に従って生きる生活を営んで、来たるべき日を待っていた状況とは違って、今や約束の成就の時代であることを悟っていた。
それでも、エルサレムにいたキリスト者は、外の世界にまで目を開かれていない。キリストが来られたということは、ガリラヤとユダヤでは知られるが、全世界にわたっての新しい出来事であることに目は十分開かれていなかった。バルナバとパウロが聖霊による奇跡を強調する必要があったことを理解しておこう。人々の考え、心構え、生活の方式が変わったというだけではないのである。
それから、ヤコブが語り出す段になる。――このヤコブについては説明しなければならないと先に言っていた。説明なしで、いきなり「ヤコブ」の名が出る。エルサレム教会の中では、説明なしで分かっていたからであるが、今日、この世界の中で聖書を読む人には説明が必要であろう。
主イエスの12人の弟子の中に、ヤコブという名の人が二人いた。ゼベダイの子ヤコブつまりヨハネの兄弟と、アルパヨの子ヤコブである。ゼベダイの子ヤコブは指導力の大きい人物であったが、使徒の中では最初に殺された。これは使徒行伝12章2節に書かれている。だから15章に出て来るヤコブではない。アルパヨの子ヤコブについては我々に分からないところが多い。このヤコブでもないと思われる。
では、12弟子の他にヤコブという名で、しかも有力な者はいたのか。いたのである。その証拠はいろいろあるが、Iコリント15章にある主の復活の目撃証人のリストを思い起こすだけで十分である。「三日目に甦えられた。そしてケパに現われ、次に12人に現れた。そののち500人以上の兄弟に同時に現れた。そののちヤコブに現れた。次に全ての使徒に現れた。最後に月足らずのような私にも現れた」と言う。ここに名前が挙がっている人々は、キリストの復活の証人として重んじられたということが読み取れるのである。
このリスト中で他の人より遅れて出て来るヤコブは、12人の中にいた二人のヤコブとは明らかに別のヤコブである。しかも、説明なしで、ただ「ヤコブ」とだけ書かれているし、全ての使徒と同列、あるいはそれよりも上位にあったかも知れないと思われる位置づけになっている。しかも、復活の主と出会ったのは他の人よりも遅かったらしい。それは「主の兄弟ヤコブ」であると多くの人は考えている。これは疑う余地がないのではないかと思われる。このヤコブについては、多くの言い伝えがある。それを取り上げることは今はしないし、必要もない。彼は「イエス・キリストの僕ヤコブ」という名で書簡を残している。キリストの僕、奴隷、それ以外の何者でもないと言うのである。
主イエスの肉親で、彼を主と崇める人々の群れに加わったのは、先ず母マリヤ、そして兄弟たちであったと使徒行伝1章14節に書かれている。マリヤについては主ご自身、十字架の上で、弟子ヨハネに母マリヤの後事を託しておられ、マリヤが最も早い時期から弟子団と行動をともにした。その後で、主の兄弟ヤコブも加わった。そのことを示すのが先に挙げた復活の証人のリストである。ヤコブが信仰に入るに至った事情について、詳しいことは分からない。彼が殉教したことは事実だと思われる。主の兄弟ヤコブは、主の肉親であるからではなく、一個の信仰者として信仰者の群れに加入し、彼自身敬虔な信仰者として教会の中で重んじられるようになった。
12章でヨハネの兄弟ヤコブが斬り殺され、ついでペテロも逮捕され、監獄に置かれたが、天使の導きによって脱獄し、一時身を隠す。その時、マルコの母マリヤの家に寄って「ヤコブや他の兄弟たちに伝えてくれ」と言い残して去って行った。この時すでにヤコブが兄弟たちの筆頭になっているように読まれる。
彼が主の兄弟であるというだけの理由で、教会のうちで重要な地位を占めたのではない。主イエスは肉親の関係以上の信仰の交わりを教えておられたのであるから、ヤコブがイエスの弟、あるいは兄であるから尊敬されたということはない。彼は行ないの潔い人で、「義人ヤコブ」という呼び名もあった。ヤコブがエルサレム教会の中で最高の権威を認められていたという理解は正しくないと思う。イエス・キリストの後に随いて行く集団が、イエスの肉の兄弟を最高指導者に押し上げたというようなことは起こり得ない。肉親という点は除外して、ヤコブが人間として傑出した聖潔な人であったから尊敬されたということは認めなければならないであろう。
ヤコブがパリサイ派から来た人たちのリーダーであったと言えるのかどうかについては、何の手がかりもない。行ないの極めて正しい人であったから、パリサイ派の人からも尊敬されたということはあろう。ヤコブの手紙は、「信仰によって義とされる」という原理を主張する余り、行ないが疎かになる傾向が現われ、それに警告を発するために書かれたものと考えられている。
行ないによってでなく信仰によって義とされると主張したパウロに、ヤコブが対立したことはガラテヤ書に見られるが、今はそのことに立ち入って論じる必要はないと思う。ここで読む限り、パウロとヤコブの対立という事情を考える必要はここでは殆どない。
ここで、13節の本文に入ろう。「二人が語り終えた後、ヤコブはそれに応じて述べた。『兄弟たちよ、私の意見を聞いて頂きたい』」。――これはパウロとバルナバに対する反論として語ったものではない。ペテロの言ったことに対する賛成意見である。
「兄弟たち」というのがパウロとバルナバを指していると取ってもよいし、ここにいる全員への呼び掛けであると取っても支障は全然ない。ヤコブの意見としては19節以下に語られるものであって、それをペテロの発言に対する共鳴として始めている。全ての使徒の発言の仕方がそうであったように、預言者の言葉の引用によって自分の意見を基礎づけるところから始まる。
「神が初めに異邦人たちを顧みて、その中から御名を負う民を選び出された次第は、シメオンがすでに説明した」。――これは、前回学んだペテロの発言への同意である。ペテロのことを「シメオン」と呼ぶところにヤコブの特色が表れているのではないかと思われる。彼のもともとの呼び名が「バルヨナ・シモン」であったとこを我々は福音書によって知っている。主の弟子たちの間で広く使われたのが「ケパ」という名であることも我々には知られている。これは主イエスがおつけになった綽名である。このケパがペテロと言われるように変わって行った。
我々が今聞いているエルサレム教会においても、ペテロという名で通っていたように書かれている。が、「ケパ」でなくて「ペテロ」と言っていたかどうかについてハッキリしたことは分からない。とにかく、ここではヤコブがペテロのことをシメオンと呼んでいるのを我々は聞く。「シメオン」とはシモンのヘブル語での正式の呼び方である。ヤコブは人の呼び方でも古風な呼び方をする保守的な人であったことは分かる。
さて、ヤコブの引用した言葉であるが、これはアモス書9章11-12節である。だが、12節に当たる部分が我々の持つ旧約聖書とかなり違うことに気付かない人はいないであろう。しかし、ここはギリシャ語訳旧約聖書によっていると説明される。
それで問題は片付くと考えることは出来るが、教会の中でヘブル的伝統を重視していた代表者ヤコブが、ギリシャ語訳聖書を引用するということがあるだろうか、という疑問は起こるであろう。この問題を短時間で片付けることは出来ないが、ヤコブの引用とされている本文で大きい支障があるとは言えない。だから、ヤコブが語ったことを後にルカが書き留めたまでの間に何人かの人が文章に触ったということは考えて良いであろうが、だからといって解釈は変わらない。だから、細かい聖書研究ならば別であろうが、使徒行伝15章16-17節をアモス書9章11-12節として読んでも不都合はない。
アモスは言う、「『その日には、私はダビデの倒れた幕屋を興し、その破損を繕い、その崩れた所を興し、これを昔のように建てる。これは彼らがエドムの残った者、及び我が名をもって呼ばれる全ての国民を所有するためである』と、この事をなされる主は言われる」。
アモスはユダの王ウジヤの世、またイスラエルの王ヤラベアムの世に、イスラエルについて示された預言をした。その時代、ユダもイスラエルもまだ亡びていなかった。アモスはユダのテコアの出身で、イスラエルに行って預言したので、ユダについては多くを語っていないが、2章4節以下ではユダに対する裁きを語っている。これはエルサレムの破壊、バビロンへの捕囚によって成就した。
そして、預言全体の結びに近い所で、終わりの日にはユダ、エルサレムが回復することを語る。アモスはイスラエルの中で預言したが、預言の内容はユダ・エルサレム中心の立場に偏っていて、ダビデ王朝寄りであったので、イスラエル人からはユダに行って預言せよと排斥されたが、イスラエルにおいて預言することが使命であったから、その持ち場を離れなかった。
それでも彼の預言の中で終わりの日のエルサレムの回復は重要なポイントであった。アモスの時代、まだユダは健在でイスラエルよりはずっとまともであったが、これが亡びることが予告された。そして、その破滅ののち主が来たってダビデの幕屋を建て直したもうことが予告される。イスラエルのヤラベアム王朝の再建は語られない。ダビデ王朝から離れたイスラエルは、ダビデの子がメシヤとして来臨する時、エルサレムは建て直され、ユダと併合されるという意味である。
その日に異邦人エドム人とおよそ主の名によって呼ばれる民の悔い改めが起こるという点をアモスは強調したいのである。それをヤコブは読み取った。
18節の「世の初めからこれらの事を知らせておられる主がこう仰せになった」という句はアモス書のヘブル語のテキストはない。
このアモス書がキリスト教会の中で引かれ、その預言が成就したと説教されたことがあったかどうか分からない。ヤコブが最近それを読み取って、ペテロやバルナバやパウロの言うことに符合していると確信したのであろう。聖書の成就は教会で初めからズッとテーマであったが、そのテーマをもう少し絞って、異邦人の悔い改めに重点を置くようになったと思われるのである。
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