使徒行伝講解説教の開始に当たって。渡辺信夫

 

2004年12月12日から使徒行伝の説教に入りました。これまでのヨハネ伝には210回掛かりましたが、今度もかなりの回数になると思います。その時も、終わるまでは私の寿命がもたないであろうと考えていました。今般はなおさらそうです。現在、月に1回行なっているイザヤ書とともに私の最後の説教となり、完結を見ないことになっても、それはそれなりに「神のなさることは、全て時に適って美しい」という聖句に当てはまった終末でありたいと願っています。

 

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2004.12.12.

 

使徒行伝講解説教 第1

――1:1-5によって――

 

 使徒行伝の初めに、筆者ルカから贈り先のテオピロという人に宛てた献呈の辞が掲げられている。このテオピロについては、ルカの福音書が贈られたのと同じ人という以外、何も分かっていない。本名ではないかも知れない。「神に愛された者」という意味である。本名を明らかにするのを避ける理由があったかも知れない。また、実際は架空の人物であって、高貴な人に贈った書という体裁をとって、この文書を保護しようとする意図があったかも知れない。キリスト教迫害が始まっていたからである。高貴な家柄の人であったのではないかと想像されるが、権力に媚びる言葉は片鱗もない。この人につては今は何も触れずに置こうと思う。

ルカは先にルカ伝福音書を書いた。それがここでは第一巻と言われる。それに続いて今使徒行伝を書こうとしている。ルカ伝の初めには「我らのうちに成就した大いなる出来事について書く」と言われた。その大いなる成就がその続きを書くことを要請した。だが、イエス・キリストが世に来たりたもうたことと、使徒たちがその後の活動をしたことが同一の列に続いていると言えるのか。――この件についてはいろいろなことを論じなければならない。そのことを今ここで論じると時間が掛かるし、差し当たっては必要ない。間もなく、聖書の本文のいろいろな箇所についてそれを学ぶことになっているからである。

なお、ルカが第一巻、第二巻に続いて第三巻の著述を意図していたのではないかと推測する人もある。書く必要のある歴史があった。例えば、ペテロについて使徒行伝では途中から忽然と消えてしまい、専らパウロのことを書いている。別に書こうと考えていたとすれば納得は行く。ただ、想像の拠り所が非常に弱いから、思いつきを主張しても始まらない。

早速、3節から本文に入ろう。2節にも読み落とせない語句があるにはあるが、使徒行伝の本筋ではないし、その主旨は別の機会に取り上げることが十分出来るので、省略することも許されると思う。「イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日に亙って度々彼らに現れて、神の国のことを語られた」。

復活節の後四十日のことが短く纏められている。主イエスがご自身の生きていることを数々の徴しによって示されたのは四十日間であった。主の復活を徴しによって確認出来たのはその日までである。それ以後はない。では、それ以後、復活の主に会う機会はなくなったのか。原則的にそうなのだとハッキリ捉えて置こう。

では、それ以後キリストの福音に触れた人は、肉体を纏っておられた主も、主の復活の徴しも見ることが出来なかったのか。そうなのである。我々の中で、自分は復活の主に会って来たと言う人がいたなら、信仰の仲間も、それが彼個人ことである限りは受け入れてくれるとしても、彼を通じてキリストの新しいお告げがあったと言われるならば、拒絶するのである。御子イエスによる啓示の時は終わったのである。

カイザル・アウグストの治世、クレニオがシリヤの総督であったときに生まれ、ポンテオ・ピラトが総督であった時に世を去りたもうた神の子キリストによる啓示は成就したのである。それ以後、真理の追加はない。このことは今回と次回に使徒行伝から学ぶ重要なことである。我々は拠り所としては、イエス・キリストにおいて成就した啓示に帰って行くだけである。言葉を換えて言えば、イエス・キリストにおいて我々の知るべき真理は悉く啓示されたのであって、我々は啓示されたにも拘らず悟っていないところを、生涯かけて補って行くのである。

さて、3節で語られたことについて、語句の解説の必要はないと思うが、要目を挙げるならば、一つは復活後四十日にわたる顕現であり、一つは神の国のことを語られたことである。

顕現が四十日であったと言うのは使徒行伝だけである。ルカ伝も語っていない。まして、他の福音書は何も言わない。パウロがコリント前書に主イエスの復活と顕現を語ったところにも出ていない。主イエスご自身も言っておられない。弟子たちが後で記憶を辿って、整理をつけた時、あれは四十日間だと気が付き、四十日という数には、なるほど意味があると思い至ったのであろう。だから、これが四十日間であったことに敢えて固執する必要は恐らくない。四十という数で思い起こすのは、モーセに率いられた出エジプトの四十年、ノアの洪水の時の四十日間の天地が覆った大雨、イエス・キリストが宣教をお始めになる前の四十日の断食である。

いずれも、一つの段階から次の段階に移行する合間の時間である。福音書の時代は終わった。神が御子であるナザレのイエスにおいて人と共に歩んで下さった時期は終わった。ただし、次の段階への移行のために、主は四十日の期間を宛てたもうた。彼が去って行かれた後、弟子たちが意気阻喪することがないように、すでに十分教えておられたことを我々は知っている。しかもなお、主は四十日の期間を弟子たちのためにお掛けになった。

その四十日とは、主が弟子たちを引き連れてガリラヤやユダヤを歩いておられた日々の延長ではなかった。一旦途切れたのである。「度々彼らに顕われた」というのは一回だけでないという意味があるとともに、常時ともにいたもうたということでもないのを表わしている。触って見ることも出来たが、いちいち触らせるために顕われたもうたのではない。これまでは、ナザレのイエスを見、その言葉を聞き、その大いなる業を見て信じるに至るのであったが、今や「見ずして信ずる者」にならなければならないことになった。

大きい切り替えとして、もう一つ言わねばならないのは、イエス・キリストが直々に現われ、ともに生活し、ともに歩み、面と向かって語られた段階は終わって、これまで主が直接に接して下さることによって得られていた確かさは、御霊の直接の証しに変わったということである。イエス・キリストの時代から御霊の時代に移ったという言い方では、説明不足かも知れないが、その不足は追い追い補わねばならないとして、「主はここにいまさない」と言われるとともに、「主はともにいます」、「主は御霊なり」という時代に入ったのである。早速、この後5節で聖霊のバプテスマについて学ぶが、これは適切な順序である。

イエス・キリストの時代が過去の時代になった、とは我々が彼の現実の支配と言葉から離れてしまったということではない。我々世の終わりまで主とともにいる。ただし、主の現臨は、終わりの日が来るまでは、つねに御霊による現臨である。これを忘れてはならない。だから御霊のいましたまわぬ所で、キリストのお言葉が語られても、それは単なるオハナシ、乃至は本当のように聞かせられただけのオハナシである。

主は度々彼らに顕われて「神の国のことを語られた」とあるが、「神の国」のことを語られたとはどういう教えであったのか。伝えられた言葉は殆どない。復活後の主イエスが語りたもうた言葉は、比較的短い言葉であった。これは教理の箇条というような教えではなかったのではないか。以前から「時は満ちた。神の国は近づいた」と言っておられたのである。今や、語りたもう言葉のすべても、その端々も、取り巻く雰囲気も、神の国の到来と前進を確認させる証言であったという意味であったということであろう。

「そして、食事を共にしている時、彼らにお命じになった、『エルサレムから離れないで、かねて私から聞いていた父の約束を待っているが良い。すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなた方は間もなく聖霊によってバプテスマを授けられるであろう』」。

復活の主がこの食事を弟子たちと共に摂りたもうたのは、何時、何処においてであったかは書かれていない。エルサレムであったか、ガリラヤにおいてであったか、それは詮索しないで置く。どういう食事であったか。ご自分が幽霊でないことを示すために干魚の一切れを弟子たちの目の前で食べられたことはある。ガリラヤの海辺では捕った魚を炭火で焼いて、弟子たちと一緒に召し上がった。これは食事というよりは、交わりを持ちたもうたことを意味する。すでに復活者であられるから、空腹を感じることもなく、食事の必要もご自身としてはなかった。今度の食事は一同の結集であった。そういう食事としてふさわしいのは、主が渡されたもう夜、パンを取り、祝してこれを割いて弟子たちに分かちたまい、また葡萄酒の杯をも同じようになさったあの食事の形ではないかと思われる。1章の終わりでは最も早い時代に信者たちがパン割きをしていたという記録を読むことが出来る。しかし、この説に拘る必要はない。

「エルサレムから離れるな」と命じたもうた。彼らを終生エルサレムに縛り付けて置こうとするものでないことは言うまでもない。マタイ伝の終わりでは、「あなた方は行って、すべての国民を弟子とせよ」と命じておられる。マルコ伝では「全世界に出て行って、全ての造られたものに福音を宣べ伝えよ」と命じておられる。しかし、全世界に拡大させる前に、出発点への結集がなければならない。

エルサレムに成立する教会は、世界宣教の発信元になる。勿論、発信元というのは象徴的な意味においてである。旧約の時から預言の中で来たるべきエルサレムは、屡々世界の中心のように描かれていた。新約聖書でも新しい世界は新しいエルサレムが小羊の花嫁として天から降って来て、地上の中心になることが黙示録の結びとして書かれている。

常識的にも知られているところであるが、エルサレムは必ずしも世界宣教の中心地にはならなかった。アンテオケ教会の方が世界伝道に熱心であったことはいずれ読むことである。しかし、ルカ伝24章44節以下にある主イエスの言葉は真実であることを止めない。こういう御言葉である。「私が以前あなた方と一緒にいた時分に話して聞かせた言葉はこうであった。すなわち、モーセの律法と預言者と詩篇とに私について書いてあることは必ず悉く成就する」。そこで主は聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた、「こう記してある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中から甦る。そして、その名によって罪の赦しを得させる悔い改めがエルサレムから始まって、もろもろの国民に宣べ伝えられる」。

「エルサレムで待っておれ、離れてはいけない」とは、待機命令である。聖霊を受ける備えをして待っておれ、と命じられたのである。主は私が去った後に聖霊を派遣すると言われた。主がエルサレムに関して言っておられることは、皆キリストによる成就である。エルサレムからの福音の発信はキリストに関わる約束の成就の一環として捉えねばならない。

エルサレムについての旧約の約束は、これがまだ無名の、それどころか荒れ果てた、人々の侮蔑を受けている町である時に与えられた。エルサレムの栄光の実現は未だ見ないのであるが、福音の発信地という名誉は使徒たちの働きによって、すでに獲得したと言って良いであろう。福音の働きに参与するとは、単に教えに感動して、自分もその教えを伝達しないではおられなくなったというようなことではない。個人的な使命感や感動が強くなって来たというようなことではなく、世界的規模で神の計画が動き出したということである。

「かねて私から聞いていた約束を待て」と言われたその約束は聖霊の降臨の約束である。この約束は主イエスが旧約から引き継がれたとともにとともに、自ら成就したもうたものである。「私から聞いた約束」と特に言われた。聖霊が下るのは、イエス・キリスト名においてであることをシッカリ把握して置きたい。これが2章に記される出来事の事前の通告である。

ヨハネのバプテスマとキリストの名による聖霊のバプテスマの比較が述べられる。先にも触れたように、肉体を纏った形では主のおられない時期に、我々がキリストを信じる信仰の現実性は偏に聖霊の証しに掛かっている。聖霊を信じる信仰と、聖霊による証しを持たないならば、信仰は空虚なものと言うほかない。

しかし、洗礼を受けたけれども、自分にはまだ聖霊を受けたという経験がない、と心配げに言う人があろう。その人には、聖霊を受けるという約束の徴しが、キリストの洗礼によって与えられていると教えなければならない。だが、無自覚なままで洗礼を受けてしまった者には、約束は無効ではないかと懸念されるかも知れない。そうではない。生後8日目の嬰児に施された旧約の割礼が無効にならなかったように、新約の洗礼も大人であれ子供であれ、受けた当人の状況と別に、それ自体有効なのである。

主イエスはご自身では誰にも洗礼を授けておられなかった。弟子がナザレのイエスの名によるバプテスマを実行したことはあるようだが、これが正規のものであったかどうかは判断がつかない。

ヨハネの洗礼は「罪の赦しを得させる悔い改め」を誓った人の誓いの表明であった。これは一世を揺り動かした大事件であって、神の裁きを強調し、厳格な禁欲を提唱したユダヤ教の覚醒運動であった。それでも多くのユダヤ人が陸続とヨルダンの谷に下って行ってヨハネから洗礼を受けた。ヨハネがヘロデに殺された後も、その信奉者は残っており、感化は海外まで広がっていた。パウロがエペソでヨハネの洗礼しか知らない教会員がいるので驚くという出来事があるが、相当広範囲にこれは行き渡っていた。主の弟子たちはヨハネを意識せずにおられなかった。

しかし、ヨハネの影響を排除してキリストの教えを注入したというのでなく、バプテスマのヨハネは後に来られるキリストを証しするために来たと証言することによって、キリスト教信仰に受け入れたのである。

ヨハネの洗礼は悔い改めの洗礼であっても、生まれ変わりの洗礼とは言われなかった。ヨハネ自身、人を生まれ変わらせる御霊についてよく知っていないし、まして人に教えることは出来なかった。主イエスはヨハネが殺されたという報せを来た時に、ルカ伝7章27節以下にこう言われた。「見よ、私は使いをあなたの先に遣わし、あなたの前に道を整えさせるであろう」と書いてあるのは、この人のことである。あなた方に言って置く、女の産んだ者の中でヨハネよりも大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい」。

当然、ヨハネのバプテスマでは神の国に入れない。新しく生まれなければ神の国を見ることは出来ない。キリストの教えは神の国に入る教えであった。

 


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