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徳島県の旧記事
2018年05月05日までの旅行記です。地元の方と知り合えたり、新しい発見があったりでとても充実しています。一緒に行きたい方はメールして下さい。
このページには徳島県北部と南部の記事が含まれています。
お問い合わせは、 fe26-co27-ni28-cu29-zn30@ymail.plala.or.jp (事務局)までどうぞ!


ここから〈徳島県北部〉の記事          

2018年05月05日(土) 記事NO.153
高越のルチルのもらい物 M79
K様からいただいた逸品で、高越山系ではよく見られる柱状結晶です。
この日はルチルの神様がおられなかったようで、ルチルのルの字もなかったです。一方で、K様は絶好調で小さなルチルを含めて5つくらい拾っていました。そのうちの1つをもらった次第です。他にもチタン鉄鉱付きのルチルとか、私がまだ持っていない石もありました。感謝です。
そこでふと思いました。石が採れなくても結局のところ誰かが私の欲しかった石をくれるのです。これもひょっとしたら神様のおかげかもしれません。もちろん、直接くださった方々には厚く御礼申し上げます。
雨が来る前に片付けました。収納庫が満杯になりつつあります。庭石にはまだ余裕があるのでまだ大丈夫です。でもそろそろ大規模な整理に入る必要があります。この夏にはやってしまいましょう。
・・・できなかったよぉ~(涙)。
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母岩はわからないが結晶が大きい
(画像に外部リンクあり)



2018年04月27日(金) 記事NO.152
祖谷の鉱滓
10年ぶりの訪問となった祖谷の最奥の鉱山跡で拾いました。とても遠かった。また、道がものすごい悪路で普通車では無理です。いや車をズタボロにするつもりなら行けるけれど・・・。
稼働していたのが大正時代初頭だったとかで、四国鉱山誌には出てるけれど、昭和時代にも稼働していたかどうかはわかりません。50年前までに完全に止まっていたことは、高越のF様が直接見ているので確認できました。
さて、拾える物は・・・、キースラーガーが落ちていない。どれもこれも鉱滓ばかりです。沢の中を上の方まで登りましたが、質の良くない物ばかりでした。それでも銅が含まれているらしく、緑色の孔雀石や水色の含銅石こうが付着していました。詳細は阿波学会誌にて。
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面白い形状をしているカラミ



2018年04月26日(木) 記事NO.151
眉山の鉱滓
眉山にはマンガン鉱山以外に銅を採掘していた鉱山跡が残っています。しかし、採掘量はそう多くなく高越や東山、野々脇などに比べると大した量ではないと思います。ましてや、鉱石を製錬して銅を取り出そうとするなど、可能性はかなり低いと考えていました。
ところが、ある日にルチル探しに同行していたM様が妙な物を見つけました。黒褐色で金属質で重量があり、どう見ても人工物です。外観から鉱滓(スラグ)としか思えない物体でした。どこか他の鉱山跡から誰かが持ち込んだのではないか。そう思えるほど突飛なオーパーツでした。
結論を先送りにして第二報を待ちました。すると、今度は別の山道で私自身が鉱滓を見つけたのです。見た目は錆が酷かったですが、間違いない物でした。どうやら精錬があったようです。1つを博物館に寄贈して、今後も注意を払って探すことにしました。・・・ルチル?そんなもの見つからななかったよ。
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M様が見つけたきれいな方

自分の分は博物館行き!



2018年04月05日(木) 記事NO.150
吉野川の黄色の絨毯
再び高越山へ石採りに行った帰り、いつものように土手を走ると黄色いペイントをしたような光景に出くわしました。一面が菜の花でいっぱいです。くすんだ緑色の背景にマッチしてとてもきれいです。
ふと爆音が聞こえてきたので、そちらを見るとバイクが爆走していました。菜の花畑の中に作られたコースに沿って、オフロードの練習をしています。未舗装の道を走り回るのでしょう。そう言えば友人のK様もときどき走っていましたね。高知県の穴内マンガン鉱山の山道でも出会ったことがあります。面白そうです。
空にはパラグライダーが2つ飛んでいました。三野町辺りから飛び上がったのかもしれません。ゆったりと穏やかにくつろいだ感じでした。ひねもすのたりのたりかな。
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河川敷は私たちの宝物です



2018年04月03日(火) 記事NO.149
川田山の桜を忘れないで
高越山に来ています。谷川に下りて鉱石や鉱物を探しました。索道跡を辿るとたまにキースラーガーの塊が落ちています。探そうと思ってもそう見つからないですが、今日はラッキーなことに3個も見つけました。
出荷するときにコンテナから落ちた物なので、さすがに銅の含有率が高いです。推定で6%以上含む緻密で銀色の鉱石、磁鉄鉱の黒い粒子を含む「玉入り」の鉱石、全体が金色で一部が桃色の鉱石でした。3番目は黄銅鉱を主として、それに酸化した班銅鉱が混じっています。おそらく竪坑の地下120mから掘り出された物でしょう。
この4月から周辺の4つの小学校が統合され、高越小学校が発足しました。少子化の波は確実に影響を与えています。しかし、当時の小学校跡の桜は毎年咲きます。どうか忘れないで見に来てください。
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訪れる人も少ないから花見できる



2018年03月31日(土) 記事NO.148
春先の剣山神社
剣山の見残しに来ています。西祖谷から入って奥祖谷二重かずら橋で遊び、さらに山道を9km進むと剣山直下に出ます。実はそれまでにもう山が見えていて、最高峰の太郎笈(タロウギュウ)と隣の峰の次郎笈(ジロウギュウ)に少しだけ残雪がありました。
標高1500m以下に自然林が広がっています。今は全く葉がなく灰色の枯れ木ばかりですが、逆に背の短い草が生える山頂には緑色が見えました。中腹の大きな石灰岩の傍らにあるのは神社でしょう。登山道に雪はなくすぐにでも行けそうです。しかし、今日はその予定がないので断念しました。まだ客も少ないようでリフトは止まっていたし、土産物屋も1軒しか開いていませんでした。木屋平線はまだ不通のようです。早く開通することを祈ります。
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山頂までここから1時間くらい



2018年03月29日(木) 記事NO.147
春先の鯉のぼり
仲間と県西部の鉱山跡を調査しました。まずまずの成果を得て帰ろうとしたとき、大歩危の清流の上に早くも鯉のぼりが渡されているのを見つけました。その数200匹以上。暑い春の日の中で、川面を渡る涼風にたなびいていました。
ちょうど川巡りに出る船と戻ってきた船がすれ違っている場面で、乗船者が頭上の鯉のぼりを見て写真を撮っていました。川には黒い背をした淡水魚が泳いでいます。アメゴかもしれません。糸と針があれば釣れそうですが、見えている魚ほど釣りにくいという格言もあります。・・・たぶん無理でしょうね。
さて、休憩が終わりました。今日はもう1ヶ所回ってからお開きです。
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青い水面と白いしぶき



2018年02月15日(木) 記事NO.146
今年2回目の大雪
この冬は暖冬と思いきや、例年より雪の日が多かったです。朝目覚めると、自宅の周りも前の道も遠くの山もすっかり真っ白になっていました。今日は仕事を休もうかな・・・などと布団に入ったまま寝言言ってたら、さあ大変!「何考えとんじゃ~!」と怒号が聞こえてきました。(笑)
さて、この雪も3時間経つとかなり融けてしまいました。雪国の人なら大したことない降雪量でも、南国の者にとっては大したことあるのです。そう言えば初めて大雪で特別警報が出たのは徳島でしたね。あのときは下手すると私まで遭難するところでした。
水和水を持つ鉱物に上国石とかアイレス石があります。この2つの鉱物の違いは、たった1分子の水です。北海道の方から上国石を要らないかとありがたいお話がありました。
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夕方までにほとんど融けた



2018年02月01日(木) 記事NO.145
眉山の柘榴石 M78
眉山のチタン鉱物を採集できたので、他の鉱物も探しています。今のところ水晶・玉随・藍閃石・紅簾石・緑簾石・ザクロ石・白雲母・二酸化マンガン鉱などが見つかっています。
他にも新潟産業大学の人がルチルと間違えた鉄電気石や角閃石もあります。赤外線分光か何かで分析してくれたのですが、吸収スペクトルの形が似ていたので仕方ないかもしれません。お礼に関東の業者発行の国内鉱物一覧と辰砂を挙げました。
眉山のルチルを記事にしたので、水面下での動きが慌ただしくなってきました。桜井欽一50選の標本を収集している人がいて、それらしき人からメールが来ました。上手くいったでしょうか。
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藍閃石中の透明な柘榴石



2018年01月13日(土) 記事NO.144
やや褐色の金紅石 M77
ダントツの高越産の標本の中でも金紅石がダントツで多いです。今日では見つけても小さければそのまま放置しますが、結晶が素晴らしかったり、共産する鉱物が違っていたり、異なる場所にあったりすれば採取します。そのために数が増えてしまったのです。
結晶の色合いだけを考慮すると、黒色透明・黒色不透明・赤色透明・赤色不透明・小豆色メタリック・青みがかった物・緑色がかった物など、微妙ですが異なる物を産出します。それらをその都度コレクションに加えるので、自宅における石の置き場がだんだん減ってきています。・・・これでも自重しているのですが、そろそろ家族からクレームが出てきそうです。信頼できる人の元に里子に出そうかなって考え始めています。まだ少し先の話ですけれど。
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母岩の端の方に密集している
(画像に外部リンクあり)



2018年01月12日(金) 記事NO.143
赤いのに緑簾石 M76
緑簾石(りょくれんせき)エピドートともいい、鉄やカルシウムを含んだ鉱物です。色は一般的に濃い緑色で、高越山系では藍閃石片岩によく含まれています。一方で、黄緑色や薄い褐色を示す柱状結晶はゆう簾石と思われ、緑簾石よりポピュラーな存在です。また、黄色いタイプはチタン石を含んでいると言われています。
緑簾石にも赤いタイプがあります。鉄分を多く含んでいるようで、見た目は全く別物です。最初に報告されたのは高知県穴内鉱山鳳ノ森坑でした。赤いのにどうしてみどりすだれいしなのか。ルチルのように見えたので分析してもらうと、チタンは検出されずやはりエピドートでした。高越ではルチルや鉄電気石より珍しい物です。私も石の採集を始めてから5回しか見たことがありません。でも眉山にはないと思います。
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ビギナーズラックで採取した



2018年01月08日(月) 記事NO.142
水晶中の鉄電気石 M75
高越山では石英脈が発達して金紅石などを含んでいますが、ほとんどが不透明な白色の石です。しかし、谷川から離れた余り行かないような場所で思いも寄らない産状を目にすることがあります。
水晶は鉱物を代表する石ですが、ここでは大変珍しいものです。私たちとしては、透明感があり結晶がきれいに並んでいれば頭付きでなくても水晶と考えています。それに合致する産状は今までに3例しか確認していません。おそらく元々少ないのと、余りきれいではないから見過ごしてしまうのでしょう。残念なことです。
斜面の泥の中から透明な水晶を拾い上げました。内部に黒い柱状結晶が含まれていたので、ひょっとしてルチルかもしれないと思いました。ところが、何百という結晶を見てきた目にはどうも様相が異なります。いろいろと調べた結果、ホウ素を含む鉄電気石ということで落ち着きました。
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高越ではルチルより珍しい



2018年01月01日(月) 記事NO.141
眉山のチタン鉱物そろい踏み M74
徳島鉱石クラブをご覧の皆様、明けましておめでとうございます。今年もお引き立てのほどよろしくお願いいたします。
だるま朝日が昇って1時間くらい経った頃、私は自宅で石割りをしていました。後で割ってみようと持ち帰った石がちょっと溜まっていたので、この休日に整理しようと思ったからです。寒い中ですが、高越や関川、国領や加茂川、そして眉山の石もありました。石英質の石を割ると先端部が鋭く尖ります。危ないので軍手を履いて、防護用に傷だらけになった眼鏡を付けて次々割っていきました。
6個目を割ったとき断面に板状の鉱物が含まれていました。灰黒色で金属光沢があり、高越山や関川でときどき見かけるチタン鉄鉱です。昭和40年代の保育社発刊の鉱物図鑑には、眉山のルチルとともにこの鉱物が掲載されています。言うなれば銘柄標本であった訳ですが、これの産地はまったく知られておらず、ルチル以上に産地不明の鉱物でした(ルチルの産地は知られていますが、現在は某病院のコンクリのよう壁に埋もれています。)。
・・・さて、困りました。眉山の石は間違いないのですが、どの場所から採取してきたかが思い出せません。旧年中に行ったことのある場所をもう一度見て回る必要が出てきました。別の石から黄白色のくさび状結晶が見つかりました。これも見たことがある鉱物で英名スフェーン、和名はチタン石です。透明な物は宝石にもなります。これで眉山のチタン鉱物3種がすべて出そろいました。
採集についてはK様をはじめとして、県森林局や登山道ですれ違った名も知らない方々にお世話になりました。ありがとうございました。次は鉱物の質のレベルアップを目指します。頑張ります!
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チタン鉄鉱 FeTiO3 
灰黒色板状結晶、弱い磁性あり

金紅石(ルチル) TiO2
赤~黒色柱状結晶、稀に双晶

チタン石 CaTiO3
黄白色結晶、別名くさび石

主な産地 
関川・五良津河又、銅山川、
白滝鉱山、高越山など



2017年12月30日(土) 記事NO.140
高越の大きなざくろ石 M73
数年前に高越山で大きなざくろ石を見つけました。風化してやや薄くなった淡い青紫色の母岩に、不透明な赤褐色の2cmくらいの粒子が見られる物でした。私の知る限りそれと同じタイプは後2つ見つかっています。友人のM様が1つと、もう1つは再び私です。
見つけた場所は、先に見つけた場所とはかなり離れていました。と言うことは何処かに供給源があるはずです。・・・しかし、これはわかりませんでした。もう露頭が残っていないのか、土中深く埋もれたのか、手がかりすらありませんでした。
それでもこの産地では3つめの標本です。あと1つ見つかればそれを切断して表面を磨いてもらうつもりです。楽しみです(記事NO.2参照)。
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円い粒子が浮き出ている



2017年12月29日(金) 記事NO.139
高越のキースラーガー切断標本 M72
数ヶ月前に、大きさの割りに重量がある含銅硫化鉄鉱の塊を拾っていました。細かな磁鉄鉱の粒子や層状になった鉱石の様子から、これをカッターで切って磨いてみれば面白いかもしれない。そう思ってすぐに石屋さんへ持って行きました。
年末なので仕事が立て込んでいました。しかし、お馴染みなのでちょっと無理を言って何とか仕上げてもらいました。夕方遅くにTELがあり仕事帰りに立ち寄りました。奥から出された物を見ると・・・ドンピシャ!思った以上に見事な仕上がりでした。全体が硫化鉄鉱で、その中に黄鉄鉱や角閃石の褶曲した鉱脈が走っています。もう1枚の方にも同じような文様が見て取れました。断層の破砕帯で見つかる鏡肌(かがみはだ)という鉱石みたいです。久しぶりのお宝ゲットでした。
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波打つように走る鉱脈
2019年ミネラルズ展示標本



2017年12月09日(土) 記事NO.138
真っ赤な母岩の真っ赤なざくろ石 M71
吉野川沿いの某所で採取した粒子です。愛媛県や高知県から流されてきた石でないことは確かです。粒子は小さいですがほぼ全体にざくろ石が見られ、まるで関川のエクロジャイトです。しかし、これはエクロではありません。オンファス輝石が見当たらないからです。
その一方で、これはこの産地では初めて見るタイプです。最近では大した物が見つからずだんだん足が遠のいていた場所でしたが、これならまだまだ楽しめそうです。標本箱のスペースが少なくなってきましたが、どうにかやりくりして収納しようと思います。
帰りは地元名産の饅頭をほお張りながら、あちこち道草を食っていきました。ベラクルズアメジストのような色合いをした葡萄です。甘くて美味しいので今度は腹一杯食べてみたいです。
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硬くてやや重くて赤い石



2017年12月08日(金) 記事NO.137
まれに見る紅簾石の結晶 M70
高越山の奥地にはいくつかポイントがあります。しかし、必ずしも見つかる訳ではありません。むしろそこから逸脱した場所の方が狙い目だったり・・・。今回もピンク色が冴えました。
大水で流された石が川底に積み重なっています。掘り返されるのではなく埋められていくので、石探しには不適切な災害です。それらを根気よくひっくり返して1個ずつ確認していくのは、気が遠くなるような単調な作業でした。私の目に入るのは白い石英・藍色の藍閃石・緑色の緑簾石やその他の緑色片岩、そして桃色から赤紫色の紅簾石でした。
やや透明感のある石英中に太さ数ミリの結晶が多数含まれていました。有名な戸根鉱山の物と比べても遜色ありません。まだまだこういう物があるんだなと、またヤル気が出てきました。
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濃い赤紫色の柱状結晶



2017年12月07日(木) 記事NO.136
これってルチル? M69
吉野川沿いの某所で採取した結晶です。川流れのように擦れていますが、実際はそうでもない場所でした。C軸方向に筋が走っているので金紅石と思いますが、何か腑に落ちないことがあります。色は小豆色でこの産地では典型的なカラーです。しかし、他の結晶との雰囲気が異なるのは何故でしょう?
透明感があり淡い褐色をしている柱状結晶が見られます。ゆう簾石かとも思いましたが、それもちょっと違う?母岩は石英で1cmくらいの結晶が3個。裏にもあります。眉山から高越山を経て銅山川や関川までの範囲から見られるルチルは、小豆色または黒色がほとんどです。一部で薄い青みがかった物や赤くて透明な物もあります。初めて見るタイプはまったく予想も付かないことになるかもしれません。
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今のところは正体不明かな?
(画像に外部リンクあり)



2017年11月26日(日) 記事NO.135の1
奥山に冬の訪れ その1
ある鉱山跡の調査をすることになり、友人のK様と現地へ出向きました。遠くから見える山にはうっすらと雪の影がちらほらしています。装備を点検してあらゆる事態に対処できるように準備しました。食料や飲料もいつもより多めです。また、汗をかいたままだと風邪を引くので、タオルやシャツも2セット持参しました。他にもカイロや新聞紙、首巻きやサポーターなどでした。ズボンも二重履きです。
道脇の温度計は2℃でした。降っているのは雪ではなく氷雨のような冷たい雨です。コンビニから外に出ただけですぐに凍えてしまいました。それでも店内は大勢の人で混み合い、これから冬山登山をするような人たちもいました。私たちも似たようなものですが・・・。
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林道の奥の滝は冷たかった

2017年11月26日(日) 記事NO.135の2
奥山に冬の訪れ その2
道の駅で待ち合わせた後、K様の四駆に乗り換えて目的地を目指しました。くねくねしたヘアピンカーブの連続です。木材を切り出すトラックが往来してとても狭いです。いつしか道はダートになり、それがぬかるんでタイヤがとられます。確かにこれでは普通車は走られません。森林管理署に問い合わせておいて正解でした。
最後の軽トラを追い越すと、そこから先は白い世界です。日がよく当たる南斜面の木々は黒々としていますが、北斜面にはつい最近積もったばかりの雪が自己主張していました。水切りのための側溝の蓋がはずれていて、注意しないとわかりません。こんな所で立ち往生するのはイヤです。車内でもみくちゃにされながらも慎重に進んでいきました。
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車を置いて道の先を調べる

2017年11月26日(日) 記事NO.135の3
奥山に冬の訪れ その3
ついに本日の行程を断念しました。ものすごく行きたかったのですが、落石の危険性が出てきたので万一を考えました。この2ヶ月、何度も計画しては雨のため中止して、今度は雪のために取りやめとはまったくアイロニーに満ちています。期待通りに行きませんが、これもいつものことです。焦ったって仕方ない物は仕方ないのです。
黒い四駆の下半分が泥跳ねによって、まるでシルバーになっています。いつの間にかツートンカラーです。これはこれで違和感ないよねって、互いに顔見て笑いました。気持ちに余裕ができたので、気を取り直して人界への帰途に就きました。再び泥跳ねしながら、次は来年のGWかなって考えました。リベンジなるでしょうか?
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岩肌の苔から垂れ下がるつらら



2017年11月13日(月) 記事NO.134
紅簾石の切断標本 M68
両手いっぱいの平坦な面をしている紅簾石(ピーモンタイト)がありました。カッターの刃が届かないくらい大きい石です。しかも割れ目が多くて表面にも筋が走っています。切るときに割れる恐れがありました。
でも、この石の結晶は紅のように赤っぽくて、モスグリーンの満礬柘榴石を多数含んでいます。上手くいけば立派な標本になるでしょう。仮に割れたとしても、ざくろ石を含んでいるだけで充分価値があります。
結局いつもの店で切ってもらいました。見事に成功!きれいな産状標本が得られました。なお、この鉱物は赤い緑簾石かもしれません。鉱物の命名法は時代と共に変わるため、ちょっとした成分の違いでラベルを付け替えることになるからです。しかし、この美しさは変わりません。
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また博物館で展示されるでしょう
2019年ミネラルズ展示標本



2017年11月12日(日) 記事NO.133
ゆう簾石の切断標本 M67
手頃な大きさのゆう簾石(ゾイサイト)がありました。直径20cmちょっとで辛うじてカッターの刃が通ります。表面に露出している結晶の分布からして、内部の方も期待できます。そこで、いつもの馴染みの石屋さんに切ってもらいました。
結果は狙い通りになかなか立派な物でした。白い部分は石英で、青い部分は藍閃石。しかし、切断面全体に結晶が走っていて産状がよくわかります。学習活動にも使えます。
今まではこの鉱物を緑簾石(エピドート)だと思っていました。しかし、プロからみれば違うそうです。もっと緑色が濃い結晶のようです。確かにそのような濃い色の結晶も見かけます。今度はそれを狙って探してみます。
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表面を磨いたので見た目がきれい
2019年ミネラルズ展示標本



2017年11月11日(土) 記事NO.132
もやもやしている山々
雨が上がっても湿気を帯びた大気がよどんでいて、平野部でもなかなか地面が乾きません。低い山も雲に覆われています。こういう日は気分的にアンニュイになりやすく、今日もそんな一日でした。
高越鉱山が閉山した頃に、近くの中学校で教鞭を執っていた先生が資料を収集していました。その方はもう施設に入られていて意思の疎通は難しいようです。いきなりでは失礼なので知り合いから紹介していただき、そのご家族に伺うと納屋からいろいろとガラクタが出てきたとのこと。もし鉱山関係の物品とか資料が出てきたらいただけないか。または、後世に情報を残すため県立博物館や山川町教育委員会の方に寄贈できないか。それも無理なら、ゴミ扱いせずにご自宅でしっかり保管していただけないか。・・・と何度も頼んでみました。
結果は全て否でした。こうしてまた貴重な資料が失われてしまいました。無理は言えないし、仕方ないことも頭ではわかっています。しかし、この何というか歯がゆさは当分収まりませんでした。
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昔の索道跡に沿って伸びる電線

標高300m以上は雲の中



2017年11月05日(日) 記事NO.131の1
秋の長雨の後で(2) その1 M65
色や形が変わった標本や面白い標本など、とにかくあまりお目にかかれないような石が好みです。学術的標本と鑑賞石をミックスさせたような感じです。過去にはいくつもそれを探し出して自身のコレクションに加えたり、博物館主催の展覧会に出展してそのまま寄贈してきました。
画像の石は、一見すると大したことのない地味な標本です。赤茶色に錆びているし、母岩もありふれた薄緑色の変成岩です。しかし、このしかし、この錆びた部分は川流れのキースラーガーが変色した物で、表面をよく見ると濃い緑色の斑点が付着しています。銅を豊富に含む鉱物に見られる孔雀石でした。マラカイトともいう二次鉱物で、鉱石から銅を取り出した後の鉱滓(カラミ)にもときどき生成しています。
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ここでは初めて見た標本

2017年11月05日(日) 記事NO.131の2
秋の長雨の後で(2) その2 M66
ある産地ではありふれた鉱物でも、別の産地ではほとんど見つからない物があります。高越山ではアクチノライトなど数種類が該当します。まだ見つけられていない鉱物や岩石もありますが、この冬でひとまず決着を付けようと狙っています。
さて、ありふれた鉱物でもまとまって産することが少なく、なかなか良品が得られない鉱物があります。白雲母もその1つです。母岩の表面に散らばっているだけならよく目にしますが、これだけがびっしり付着している物はめったにありません。ルチルやエクロジャイトの方がまだ見つけやすいくらいです。今回見つけたのは、白雲母が脈状にかたまって含まれている石でした。やや緑色をしているのでフックサイトかもしれません。
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よく剥がれずに残っていた

2017年11月05日(日) 記事NO.131の3
秋の長雨の後で(2) その3
鉱物採集の傍らで、鉱山情報の収集も断続的に行っています。高越鉱山が閉山してから半世紀近く経ち、最後まで稼働していた星越鉱山も40年になります。当時を知る人も次々この世を去り、彼らの証言を得ることはもうできません。せめて間接的にも情報を得るために、そのご家族や友人知人にまで範囲を広げて聞き込みをしています。
石拾いの後でM様と別れてそうした方々を訪ねました。・・・この日もあいにくとお留守のようでした。これもよくあることです。一度きりしかお目にかかっておらず、次の機会にはもっといろいろと話を伺うつもりでした。電話にも出ないので直接ご自宅に行くしかないのです。今日は退散して、また石拾いがてらにお邪魔することにしました。
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旗見の登り窯跡



2017年10月31日(火) 記事NO.130の1
秋の長雨の後で(1) その1
この秋は大型台風が2回も来襲し、我が家も甚大な被害を受けました。瓦が川原までふっとび大水が出て大変でした。何とか普通の暮らしができるまでに2週間もかかりました。しかし、倉庫に貯蓄していた石たちは無事だったのが何よりでした。そして、ようやく動けるようになりました。
まずはホームベースの被害状況の把握です。2週間の長雨の後、谷川はすっかり増水して様変わりしていました。川原に降りられない。滝のような流水が川底をえぐり、林の中まで水が来ていました。気温がぐっと下がってきたこの時期に、水に濡れてまで石探しをするつもりはありません。急な斜面を下って水面まで近づきましたが、そこから降りるのを断念しました。
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奥野井隧道の手前に駐車する

2017年10月31日(火) 記事NO.130の2
秋の長雨の後で(1) その2 M63
早朝の気温は8℃。風が吹いていたので体感温度はもっと低くなります。相方のM様と待ち合わせていましたが、川原を見てその水量に圧倒されました。そこで車で移動しながら、水が少なくて川原が露出している場所を探しました。
あちらこちらを探して20分。やっと降りられそうな場所を見つけました。山影は日が差し込まず、川下から吹き上げる風が肌寒いです。しぼんでいくやる気を気合いと共に引き戻し、川原の表面を丹念に見ていきます。向こうに見えた川原の端まで進みましたが、今日は特に何もなさそう。どうやらボウズに終わりそうです。・・・そう思った時期が私にもありました。
しかし、ここから怒濤の快進撃が始まったのです(大げさ)。
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褶曲している含同硫化鉄鉱

2017年10月31日(火) 記事NO.130の3
秋の長雨の後で(1) その3 M64
きっかけはM様がルチルを見つけたことが始まりでした。お世話になっている「あわ~ストーン」様に記事を載せてもらっていますが、そのコンテンツのルチルの神様のウインクによって私たちの活動は始まります。
この産地には取り立てて挙げるような珍しい鉱物はありません。しかし、いくつかの鉱物を伴って産出する様は見応えがあります。最初はルチル・柘榴石・チタン石・藍閃石の4種混合標本です。それがどうしたって思われるかもしれませんが、藍閃石が少ない関川ではなかなか見られません。もちろんここでもきわめて珍しい組み合わせなので、私は地味にキースラーガー狙いで行くしかないです。そして見つけたのが3種類の産状標本です。説明するにはちょうど良い物でした。
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表面に露出したものと丸ごとの塊



2017年09月30日(土) 記事NO.129の1
曼珠沙華(まんじゅしゃげ) その1
ヤマからの帰りに農道を走っていると、あぜ道に連なる赤い花が見えました。彼岸花(ヒガンバナ)です。この辺りでは毎年9~10月頃によく咲いています。染色体数が1.5倍になったいわゆる三倍体で、種なしスイカと同様に種子ができないため、球根から増えていきます。そのため毎年同じ場所に寄り添うように生えるのです。
周囲をよく見ればあちらこちらでも花が咲いています。稲刈りが終わってやや枯れた感じの風景に、赤い色はとても目立ちます。ちょっと車を停めて秋の青空と共に景色を堪能しました。今日の成果は今一でしたが、灰色の気持ちもどこかへ行ってしまったようです。明日からまた頑張りましょう・・・。
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真っ赤な花弁が広がる

2017年09月30日(土) 記事NO.129の2
曼珠沙華(まんじゅしゃげ) その2
・・・と、素直に文章が終わっていればすっきりしたでしょう。実は他にも記事がありました。
赤い花に混じって白い花が咲いていました。何だろうと思って近寄ると、それもヒガンバナでした。アルビノか?それとも全くの別種か?突然変異か、それとも誰かが植えたか?形状はまったく同じなので間違いありません。この白花が増えてくると、田んぼの景色も様変わりしそうです。
リコリスという別名があり、球根の汁は濃ければ毒になり薄ければ薬になるそうです。これ以上は調べる気にもならないので、読者の皆さんも興味が湧いたら調べてみて下さい。
この日は秋晴れの穏やかな一日でした。
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白花って色素がないからだね



2017年08月28日(月) 記事NO.128
高越山系のマンガン M62
谷川で採集していると、ときどき黒いマンガンが転がっています。どこからやって来たのか、今も詳しくはわかっていません。確かにキースラーガー鉱山でも一部にマンガンを産出する地域がありました。しかし、高越鉱山においては資料も地元の方の話もほとんど触れられていないのです。
今回拾った塊は全体的に真っ黒で、ツメで引っ掻くとポロッと取れます。オキシドールをかければ発泡するので間違いありません。原子番号は鉄と一番違いの25番だから相性は良いと思います。つまり同時に産出してもおかしくはないわけです。ここ以外にも野々脇鉱山や東山鉱山でも同様でした。紅簾石の鉱脈が走っているので、それも当たりでしょう。
この夏は6か所のマンガン鉱山を回りました。とにかく暑かったです。
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主成分は二酸化マンガン



2017年08月10日(木) 記事NO.127
夕焼けのグラデーション
日没後に農道を走っていると、きれいな夕焼けに出会いました。思わずシャッターを切りました。斜めに伸びる雲があかね色に染まり、日没間がない山の稜線辺りは淡い黄色、そして空の高い所はだんだん暗くなっていく群青色をしていました。よく見ると暗い影のような光線が走っています。太陽光の一部が手前の雲でさえぎられて、それの延長線上に影が見られる現象で、何というのか忘れました。
この上空は飛行機のルートになっていて、さっきから赤と緑の灯りが飛んでいます。米軍機は見たことありませんが、自衛隊機は夜間訓練をしているのをよく目撃します。そのうちミサイルまで飛んでくるかもしれません。国民を守れない国って何なんでしょうね?怖いけれどしっかりと見据えましょう。
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何となく秋の気配が・・・



2017年08月04日(金) 記事NO.126の1
帰りに祖谷渓へ その1
祖谷川沿いに車を走らせました。この辺りの道は標高が高く、渓谷の川面から相当な高さがあります。ガードレールから下をのぞくと、このところの渇水のせいなのか水が少ないようでした。ちなみに砂金が採れます。
西祖谷山までの道のりはくねくねしていて車酔いしそうです。また、対向車がわかりづらく神経を使うドライブでした。その先にTVでも紹介された「小便小僧」がいます。断崖絶壁の上にどうやって設置されたのか知りませんが、相当な高さの岩の上にありました。下をのぞき込めば目がくらくらします。きわめて危ないのでカメラだけを突き出して、何枚かシャッターを切りました。今日も日差しが強く肌がこんがり焼けそうです。真夏日どころか猛暑日がまだまだ続きそうです。
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大きな淵ができている祖谷川

2017年08月04日(金) 記事NO.126の2
帰りに祖谷渓へ その2
この道を初めて通ったのは仕事のためでした。出合小学校でも書きましたが、県内の学校に荷物を届けるという内容でした。10年以上前のことです。現在は数を減らしていますが、当時は幼稚園が182園と4分園、小学校が231校と4分校、中学校が89校と4分校、高校及び障害児教育諸学校が47校と10分校ありました。これらの学校を回れるだけ回ってみたのです。延べ35回の出張で、訪問したのが242校と14分校。全体から見ると44.8%をほぼ単独で回ったことになります。ちなみに、走行距離は3,447kmで、1日での最大訪問数18校、最大走行距離は287kmでした。西岡小・いちう小・名頃小・菅生小・善徳小・吾橋小・政友小・西祖谷中などを回っています。今はその仕事から離れていますが、よい思い出となりました。 イメージ

警告!渓谷の上に立たないように



2017年08月03日(木) 記事NO.125の1
出合いを求めて その1
私は鉱山巡りと鉱物採集を趣味としていますが、もう一つあります。それは廃校巡り。生徒数の激減により休校または閉校した小中学校や高校を訪ねてその記録写真を撮ったり、運良く誰かに出会えれば当時の話を聞いて書き留めたりすることです。また、生徒数が少なくいつ休校してもおかしくないような学校にも出かけています。回った鉱山の数に比べれば少ないですが、生徒がいて先生がいて地元の方々がいて、そういった当時の人々の息づかいがよみがえってくるようです。
私の好みとして、正門・木造校舎・卒業記念碑があります。これらは当時を知る上で貴重な知的財産にもなるのです。今は徳島県内がほとんどですが、高知や愛媛にも少しずつ侵出していくところです。鉱山跡を調べれば学校跡にもたどり着けます。当に一石二鳥な訳です。
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職員室を改造した食堂

2017年08月03日(木) 記事NO.125の2
出合いを求めて その2
今日は山城町にあった「出合小学校」に行きました。今は校舎内が改造されて簡単な宿泊施設と喫茶店になっています。ちょうどお昼のランチの時間に訪問しました。グラウンドはゲートボール場でした。これは他の学校でもよく見られるパターンです。体育館の下をくぐって校舎に入ると、最初の部屋は食堂でした。写真撮影の許可をもらって昼食を注文しました。最近のお勧めはジビエ料理です。増えすぎて間引いた鹿の肉を使ったもので、独特の食感があります。赤身の肉はやや硬いですが、煮込めば大丈夫です。思えば私が初めて鹿肉を食べたときの料理はしゃぶしゃぶでした。と言っても、自分で鹿肉を薄くスライスしてそれをカップうどんに入れて湯を注ぎ、5分待ってからうどんと一緒に食しただけです。意外と美味かったのを覚えています。 イメージ

ハレとケ珈琲のジビエカレー

2017年08月03日(木) 記事NO.125の3
出合いを求めて その3
食後に校舎内を散策しました。1階は食堂と工房、2階は宿泊室です。移動式のこぢんまりとしたベッドルームと、シュラフ専用の雑魚寝部屋があります。この間の連休中は海外のバックパッカーが泊まっていったそうです。少しは人的交流ができそうで安心しました。
中庭にはテラスが設けられていました。天気が良くて気温が最適なときは外で食事できます。当時の名残としてカブトムシを飼育していた箱や藻類だらけになった池などが残っていました。トイレはきれくなって水洗です。しかし、廊下の天井にムササビが棲みついているので、夜間に遭遇して驚く人がいるそうです。
学校を撮影した古い航空写真が飾られていました。何となくもの悲しさを感じました。卒業記念の壁画は平成15年で途切れていました。
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山と谷に挟まれた学校だった



2017年08月02日(水) 記事NO.124
大きなクスの木の下で♪
本県の巨樹の里と言えば一宇村ですが、平野部にも巨木がいくつかあります。その1本が加茂の大楠(おおくす)です。昭和31年に国の特別天然記念物に指定され、樹齢は推定1,000年!根回り20m、枝張り40m、高さ25mのしっかりした大樹です。周囲は住宅と水田が広がり、さえぎる物がないため遠くからも目に入ります。
平安時代からこの地に生えているのでしょう。もし語ることができるならどのような出来事があったのでしょうか?ロマンあふれる話です。木の下を歩いてみました。葉が密生しているかと思えば意外とスカスカで、日光が透過してまぶしいくらいです。うっすらと樟脳(しょうのう)の臭いがしました。クスから見ればおせっかいですが、私たちがいなくなった後もここでしっかり根を張って生きていって欲しいです。
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青空に緑色が映える



2017年08月01日(火) 記事NO.123の1
学駅切符で目指せご入学! その1
鉄道マニアでなくても全国的にそこそこ有名な駅です。この駅の入場券を5枚セットで買うと「ご入学」ということで、希望する学校に入れるという縁起物になります。バカバカしいと思われたらそれまでだが、困ったときの神頼みばかりじゃなく鰯の頭も信心からというのか、溺れる者は藁をもつかむ心境なのか。平たく言えばジョークの類いですね。
実はこの駅に来るのはこれが初めてでした。この前を通る国道はもう何百回と走っているのに、脇道にそれたことはなかったです。せいぜい百姓市の野菜を買うくらいかな。今朝は早かったのでまだ店は開いていませんでした。今の季節だとナスとかピーマンとか瓜などかな。ちなみに、焼きナスピーマンの肉詰めが好きです。
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うだつの町並みに合わせている

2017年08月01日(火) 記事NO.123の2
学駅切符で目指せご入学! その2
平成5年5月5日、この駅に入場券を買いに来る人がいつもより(少しだけ)増えました。朝の5時は無理ですが、夕方の5時なら親が買いに来ることができます。この日の切符なら5枚そろわなくても大丈夫だからです。五のぞろ目だから1枚でも効き目は5倍!やったねって感じでした。
まあ私の場合はこの切符のおかげではなく、大凶のおみくじを引いたからだけど・・・。さて、その切符よりもっと効き目がある切符が存在していました。昭和55年5月5日です。しかもこのときは切符売り場に駅員さんがいたのでその場で買えたそうです。さらに恐ろしいことに、午後5時55分に合わせて55枚も買っていきました。本当かどうか知りませんが、時刻を55秒にも合わせたという逸話も残っています(笑)。5が13回も続くとは最強ですね。え?11回じゃないかって。午後(五五)だよ!
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徳島行き各駅停車が行く



2017年07月31日(月) 記事NO.122
スズメバチの巣を発見
池田の山奥を歩いていると、古民家の軒下に大きな蜂の巣がありました。その形状と縞模様からスズメバチと判断しました。材料として木の繊維などをはぎ取ってきて、はたらきばち自身が分泌する唾液と混ぜて扇状に貼り合わせていきます。そのため独特の縞が現れます。
中身がいるかどうか見ていると、ブーンと羽音が・・・。やっぱりいる!!体長5cmのオオスズメバチが出てきました。ミツバチの天敵で養蜂家が恐れる連中です。でもこの地方では貴重なタンパク質として食していた時代もありました。蜜はなくても蜂の子がいるからです。茹でたり焼いたり、炊き込みご飯にして食べることもあったそう。・・・私はちょっと遠慮させて頂きますが、別の場所で食べたときは身体がカッとなって精力が増強したように感じました。暑さでバテているのでたまにはいいかもね。
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直径40cmくらいの球状の巣



2017年07月22日(土) 記事NO.121
今日もルチルに会えた! M61
急に暇になったので、いつもは行かない時間帯に出かけました。先日の大水でまたいろいろな物が流されていました。何気なく石に触った瞬間、「暑っつ!」。まるで焼いたフライパンのようによく熱されていました。上からの直射日光と下からの照り返しで、オーブンレンジで焼かれているようです。頭と首にタオルを巻きましたが、噴き出る汗が止まりません。いつの間にかTシャツがべとべとになっていました。
今日は高知県のH様と石採りです。エクロジャイトやルチルを探しました。その結果どちらも見つかりましたが、結晶が小さくて及第点くらいです。猛暑日だったのでわずか1時間で納竿しました。へとへとでもう堪えられません。次は秋になってからにしようと心に決めました。なお、ふいご温泉に行こうとしましたが着替えを忘れたので断念しました。ちょっと残念です。
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2cmの結晶が6本走っている
(画像に外部リンクあり)



2017年07月15日(土) 記事NO.120
ルチルの神様!再々降臨! M60
以前に年若い友人に頼まれて原稿を書いたときのタイトルがこれでした。その記事はリンク先の別サイトに載っています。金紅石(きんこうせき)すなわちルチルの採集について述べたものでした。私がルチルの産地で初めて現物を採集したのは、初回の訪問から3年も経ってからでした。それまではまったく見つけられず、知り合いから譲り受けた小さい物だけでした。ところが、ある日ついにその均衡が破られました。川底を掘ると出てくる出てくる。その数300個以上。細かな結晶を含めるとおそらく1,000個を超えていたと思います。たくさんあっても困るので3分の1は川原へ返しました。後から現地を訪ねた人が採集していったそうです。次の3分の1は友人に上げたり、イベント会場で配ったり、博物館に寄贈したりしました。残りの3分の1は自身で保管しています。1つの母岩に多くの結晶が含まれていたり、共に産出する鉱物が珍しかったりするからです。そのうち展示会で公開します。 イメージ

石英中の2cmの柱状結晶
今日は2個見つけた
(画像に外部リンクあり)



2017年07月13日(木) 記事NO.119
気付けば梅雨が明けていた
いつの間にか梅雨明けでした。急に晴れる日が多くなったと思ったら、連日真夏日(最高気温30度以上)で連夜熱帯夜(同25度以上)が続いています。また猛暑日(同35度以上)もあり、酷暑の夏が始まりました。体育館でバレーボールをしました。まともな試合はかなり久方ぶりです。館内の熱気がすごくてそれだけで意識が遠のきそうになりました。第2回戦の第2セットがdeuceになり、味方のパスが大きくそれました。頭からスライディングして何とか向こうに返しましたが、その次のサーブで負けちゃいました。でも体力がほとんど残ってなかったので、遅かれ早かれだったと思います。川原で水遊びをしました。オイカワやヨシノボリがいまいた。黄褐色でピカピカしているのは風化した蛇紋岩です。頭まで日焼けして頭皮がむけちゃいました。紫外線のエネルギーはすごいです。 イメージ

黒羽根に金緑の胴体 ハグロトンボ



2017年07月01日(土) 記事NO.118
黒っぽいけど藍閃石 M59
青色片岩が徳島の岩石に選ばれて1年が経ちました。徳島では一般的な「青石」のことかと思っていましたが、説明文を読むと藍閃石片岩だとわかりました。この変成岩は三波川帯に沿って分布しており、徳島県内では眉山から高越山を経て三好の方まで延びています。紅簾石片岩と同じような分布です。ところが、愛媛県内に入ると紅簾石はあるのですが、藍閃石はあまり見かけません。有名な関川でもほとんど目にすることなく、加茂川上流の新居鉱山のズリで見かけたくらいです。これはまたどういうことでしょうか?なかなか興味深いです。
今日も石の整理です。これから暑くなるので外出を控えようと思います。しかし、それもうわべだけで誰かに誘われれば遊びに出かけます。また、石採りに誘って下さい。
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髪や羽毛のような黒紫色の結晶



2017年06月25日(日) 記事NO.117
風化したエクロジャイト M58
国内でたった3ヶ所でしか産出しないという岩石。愛媛県産の石は今から3億年前に形成されたそうですが、こちらの徳島県産は1億年前とちょっと新しい。でも産出量が圧倒的に少なくほぼ絶産状態で、ピンポイントの場所でもいつの間にかこの岩石を見かけなくなっている。ネット上でいくつか気になるブログとか散見しているが、彼らも採集しているのだろう。ただ、それにしてもこの減り方はちょっと尋常じゃないと思っています。
緑色のオンファス輝石が風化すると白っぽくなり、まるで別種の岩石であるかのように変化する。でも大きめの柘榴石の粒子を見れば、確かにそれであると断言できます。私よりもそれに詳しいブレインがいるから・・・。いろいろな種類の鉱物と共に産出しているのを見つけるととても楽しいです。これからの夏は暑さとの戦いにです。
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赤褐色の粒子を含むエクロ



2017年06月18日(日) 記事NO.116
不思議な感じの石 M57
同じ種類の鉱物を複数持っています。1種類だけでいいじゃないかと思われるでしょうが、結晶の形状や大きさ、共産鉱物の種類が異なると全く別物になります。特にそういった例を見かけるのが「柘榴石」です。水晶の次に多くて、私の知り合いはそれを専門に集めているくらいです。
まず、母岩が異なります。石英・藍閃石・紅簾石・緑泥石などの石片を含む物や、透緑閃石・曹長石・角閃石などの中に直接含んでいる物もありました。想像もしていなかったバリエーションの多さに、探す方としてはとてもうれしくなります。次に共に産出する鉱物の違いです。思いもよらない組み合わせがありました。
この産地の鉱物や岩石コレクションはまだ完成していません。否、おそらく未完のまま終わるでしょう。それで良いんです。そうでないと楽しみがなくなるから ・・・。
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泥質片岩に柘榴石と藍閃石



2017年04月19日(水) 記事NO.115
地味な鉱物~チタン鉄鉱 M56
初めてチタン鉄鉱を目にしたのは今から12年前。石採りを始めてから半年くらい経った白滝鉱山訪問のときです。同行者が採集したもののなかに、黒っぽくて板のような薄い鉱脈が白い石に含まれていたのを覚えています。その後、高越山や関川などで探しましたがなかなか見つかりませんでした。報われたのはその2年後のこと。高越の奥の谷川に分け入ったとき、黄色のチタン石を見つけました。金紅石(ルチル)を合わせてチタン鉱物御三家といいます(私だけ?)が、ひょっとして近くにあるかもしれないと思って探しました。すると、握りこぶし大の石英が見つかりました。持ってみると予想よりもずっと重たい。金属質の薄い板状結晶が含まれています。こうして目的を1つ果たせました。その後は2~3回に1個くらいは見つかるようになりました。目が慣れてきたのでしょうね。 イメージ

これ欲しい人はメールにて



2017年04月17日(月) 記事NO.114
エクロジャイトを磨く M55
握りこぶし大のエクロを見つけました。表面は風化して全体的に褐色を帯びていましたが、柘榴石の粒子がはっきり見えます。また、一部に緑色のオンファス輝石や青紫色の藍閃石も含まれます。
形状が丸っこいので、底面以外の全体を磨いてもらうことにしました。数日経って見に行くと、元の色とは異なり表面がかなり茶色くなっています。理由を尋ねると乾式研磨をしたそうです。本来であれば、磨きながら水をかけて細かな粒子を洗い流します。しかし、今回は石が小さく丸くて滑りやすいので水を使いませんでした。そのため、赤褐色の柘榴石の粉がまとわりついてこのような色になったのでしょう。
その後、ちょっと無理を言って流水を使いながら少し磨いてもらいました。おかげで表面がツルツルピカピカになりました。ずっしりと重量感のある置物ができあがりました。
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ペーパーウエイトには大きすぎ?



2017年04月16日(日) 記事NO.113
高越の層状含銅硫化鉄鉱 M54
藍閃石片岩に胚胎する銀色の鉱脈がそれです。藍色というより黒に近い濃い色をした変成岩に含まれています。鉄に主眼を置くと、鉄鉱石というものは赤鉄鉱Fe2O3や磁鉄鉱Fe3O4など酸化型と、黄鉄鉱FeS2や硫化鉄鉱FeSなど還元型に分けられるそうです。なお、これは以前に東京大学から調査隊が来たとき、、学生と話したことの受け売りですからどこまで正しいかはわかりません(笑)。
この標本は誰かが先に割っていて、そのまま放置されていた石です。私自身はほとんどハンマーを使わないので・・・。まともな標本と思うのですが、何故か捨てられていたのです。もっとマシな石があったのか、当人のオメガネにかなわなかったのか、それとも単に忘れたのかな?
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何だか巻き貝の中身みたい?



2017年04月15日(土) 記事NO.112の1
こうつの里に春来たる その1
高越に来たとき、ときどき立ち寄らせてもらうFさんを訪ねました。ところが、今日は自治会の寄り合いがあるとかでお留守でした。仕方なくFさんの番犬としばらく遊んでいました(笑)。
前の番犬「プーチ」とも仲良くしていたのですが、彼女は老衰のため十七歳でこの世を去りました。Fさんの忠実な熊犬でした。モグラが地中を進む音を感知して、草むらに駆け込んだと思ったら獲物を咥えて戻ってくるなど、かなりどう猛な性格でした。しかし、主人であるFさんやご家族には絶対服従で、私に慣れてくれたのは3年も経ってからでした。因みに、その名の由来は某大国の大統領から取ったものだそうです。急に世界中が慌ただしくなってきました。いつの間にやらミサイルが飛んできたとか、そういう事態にならないように頭でっかちの政治屋たちができればいいんだけど・・・。地震よりそっちの方が心配です。
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薄桃色の花が咲いている
初めて桜があったとわかる

2017年04月15日(土) 記事NO.112の2
こうつの里に春来たる その2
今の番犬の名前は「マイ」ちゃんと言います。「プーチ」が亡くなる2年前にここへ来ました。熊犬としての経験はなく、Fさんが猟師を引退した今ではそうなることはないでしょう。柴犬をベースとした雑種で、見知らぬ人には大声で吠えて威嚇します。周囲に民家がなくて不用心なこともあるので、犬を飼うのは理にかなっています。しかし、別に危害を加えるわけでもないのにすぐに吠えかかられると辟易します。
子犬のときには数回吠えられました。しかし、そのうちだんだん打ち解けて、遠目でも吠えなくなりました。足音とか車の音とか臭いでわかるのでしょう。そして、今日は歓迎のほおずりでした。まるでネコみたいにすり寄ってこられるとかわいいです。ごろっと腹を見せたので、ナデナデしてモフモフしました。彼女も少し太り気味のようです。
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高越鉱山の標本を埋めている

2017年04月15日(土) 記事NO.112の3
こうつの里に春来たる その3
Fさんの敷地を出て少し行くと、「こうつの里」跡地がありました。ここでも柵が咲いています。もう少しすればスモモの実がなったり、タケノコが生えたりするでしょう。
脇を流れる水路が奥野井谷川です。これに沿ってトロッコ列車が走り、掘り出された鉱石を運搬していました。今でも路線沿いで四角に割ったキースラーガーが見つかります。また、山の上を通していた索道沿いもポイントです。先日は20cm角の石が落ちていたそうです。重量は20kgくらい。品位は・・・、さてどれくらいでしょう?鉱山全盛時代は銅を3%以上含む石だけ運び出していましたが、浮遊選鉱が軌道に乗ると1.5%の石までが対象となりました。緑青が付いているので、品位は期待が持てそうです。
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ここで谷川が急に細くなる



2017年03月25日(土) 記事NO.111
白竜のサーサス研磨標本 M53’
下の石を切断して磨きました。様々な鉱物が含まれているのがわかります。黒褐色の部分が二酸化マンガンで、おそらくブラウン鉱だと思います。薄いピンク色はばら輝石、黄色い粒子または脈状の部分は満礬柘榴石(マンガンとアルミニウムからなる)でしょう。そして、明るい褐色の繊維状がサーサス石です。
見た目がきれいに仕上がったので、友人に送りました。喜んでくれたようで私もうれしく思います。他にも磨きたい石があるので順次行うつもりです。因みに、これらは知り合いの石屋さんに頼ん作ってもらっています。切るのが千円、磨くのが千円で、大きさは「刃が届く範囲」です。多少の無理も聞いてくれるので、かなり良心的だと思います。
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磨くのにハマッてしまいそう



2017年02月25日(土) 記事NO.110
白竜のサーサス岩 M53
私にとって最大の鬼門となった白竜マンガン鉱山から産出した石です。褐色の部分がそれで、繊維状結晶が見られる物もあります。国内では10ヶ所ほどで確認されており、そのうち四国では3ヶ所です。鉱物名はサーサス石(サーサイト)といい、レア鉱物には違いありません。7,8年前に採集した石を整理しました。そのときに片付けたまますっかり忘れていた石たちが見つかりました。
この産地は、地権者と土地や道を管理する企業、地元の団体と警察署などにより、侵入及び石採りが禁止されています。私の場合は地権者との交渉の末に許可をもらったのですが、鉱山跡の調査も含めて数回入りました。ところが、仲良くなったTという人に頼まれて親切心から教えて上げたところ、他県の団体のお抱え業者に知れ渡るようになり、Tに恩を仇で返されてこの産地が無許可で荒らされるようになりました。詳しくは友人の方から教えてくれるでしょう。
なお、タイトルに誤りはありません!
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サーサス石を鉱染状に含むため



2017年02月18日(土) 記事NO.109
まあまあ大きめのキースラーガー M52
東京からわざわざ高越まで来て、大きなキースラーガーを探していた人がいる・・・という話をしました。高越建設の事務所に飾られている40cmの標本は見応えがあります。しかし、そういった標本が今も採れるのでしょうか?結論から言えば、そうであるとも言えるしそうでないとも言えます。まるで人を煙に巻くかのようですが、これにはそれなりの理由があるのです。
以前に、別のサイトで本坑前の土中にキースラーガーが埋まっているという記事を載せました。すると、それから一ヶ月後に現地を訪れると、周辺が穴だらけにされているではありませんか。これは迂闊なことは書けないなと判断して、それからは掲載する情報を限定的にしました。
つまり場所は知っているけれど公開するのは止めています。知りたければ相談には乗りますが、余り期待はしないでください。
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岩の間から見つかった母岩付き



2017年02月11日(土) 記事NO.108の1
雪の高越鉱山跡地 その1
午前中に自転車を購入して自宅まで持ち帰りました。その後、親戚の家まで古い自転車を運びました。そして、自宅へ戻りました。思ったほど時間がかからず、ぽっかりと自由時間ができました。そこで、久しぶりに高越山へ行くことにしました。
昨夜から北西風が強く、日本海では極渦が発生しました。寒冷なときに発生する小さな台風のようなもので、前線を伴わないけれど強い風や積雪に見舞われるそうです。でもここはずっと南の四国であるし、そんな遠いところの気象現象など関係ないだろうと思っていました。
余裕たっぷりに途中で地元の野菜を買い求めたり、コンビニに立ち寄って熱いコーヒーを飲んだりしていました。また、讃岐山脈の様子を眺めたり、吉野川の水鳥を目で追っていました。
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こうつの里(高越鉱山事務所)跡

2017年02月11日(土) 記事NO.108の2
雪の高越鉱山跡地 その2
車窓いっぱいに高越山が見えてきました。山頂部には雪雲がかかっています。それも次々押し寄せてくるようで、かすんで見えるのは降雪のためでしょう。
国道から脇道に入り、高越大橋を渡りました。すると、道路が一部凍結していました。塩化カルシウムを撒いていたのでかなり融けていますが、午前中だったら通られなかったかもしれません。しかし、トンネルにたどり着く前に挫折しました。そこまでは雪が融けていなかったのです。これではいつもの谷筋を探索するのは無理です。
顔なじみの町内会長さんのお宅にお邪魔しました。出迎えてくれるのは、丸々太ったわんこです。最初は少し胡散臭そうにしていましたが、すぐに私の臭いを思い出したのかじゃれついてきました。
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山も野原も綿帽子かぶり~♪

2017年02月11日(土) 記事NO.108の3
雪の高越鉱山跡地 その3
招かれてこたつに案内されました。板張りの部屋にずっしりとした感じの軒下。これぞまさに伝統的な日本家屋です。お茶が出てお茶菓子は干しイモです。どこまでも古き良き時代の日本的な感触に気持ちがほっこりしました。
互いの家族の話や昔の鉱山の話、近所の知り合いの話など2時間くらいしました。埼玉の人がキャンピングカーで鉱山跡へ来たそうです。定年後に自由になった時間を使って、寝泊まりしながら日本各地の鉱山跡を回っているとのことでした。ここへは大型のキースラーガーを求めてきました。しかし、小さい物しかないと説明すると、そのまま帰られたようです。人が良さそうだったら私から何か差し上げたのに・・・と思いました。これ見て覚えがある方はメールしてくださいね。
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山神社と川田山小学校の跡



2017年01月08日(日) 記事NO.107
眉山の朝の姿
徳島の市街地に面するのが眉山の東斜面です。ゆえに、山頂からご来光を拝むとき、灰黒色から黄色へと変化するビルの群れを見ることができます
。地平線に現れた点のような白い光。それが少しずつ左右に延びて白い線になり、そして真ん丸くなった太陽が昇ってきます。ふと周りを見渡すと、建物も車も一緒に見ていた人の顔も橙色をしています。
清々しい朝のひんやりとした空気の中で、今日の仕事に向けて活を入れます。・・・そう、この一時は通勤(出張)途中なのです。年寄ってきたので朝の早起きが苦になりません。というか、そんなに眠れない。それだったらいっそのことしゃんと起きて、好きなことをした方がマシってものです。
皆さんも仕事前の登山はいかがですか?
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紅葉と日光で黄色く色づく



2017年01月01日(日) 記事NO.106の1
平成29年初詣と初日の出 その1
長旅から帰って来てすぐに大掃除に取りかかって、餅つきしてすぐに試食して、注連飾りを付けてすぐに飛ばされて付け直して・・・と旧年中はいろいろありました。それでも時間は経つもので早くも年明けです。
元旦の朝4時に起きて神社に初詣に行きました。除夜の鐘の直後や初日の出を見た後とかは参拝客が多くなりますが、その間のこの時刻には大分減っています。それでも駐車場はかなり埋まっているし、石段を上り下りする人も数百人単位はいます。露店もほとんど開いていて、定番のタコ焼きやリンゴ飴など買い求めていました。子供たちはすでにそちらに惹かれているようですが、まずはお参りです。ガラガラと鐘を鳴らして今年の無事を願いました。
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大麻比古神社の朝

2017年01月01日(日) 記事NO.106の2
平成29年初詣と初日の出 その2
お参りした後は恒例のおみくじです。私の狙いは大吉・・・ではなくて「大凶」です。良いことがありますから安心してね・・・じゃなく、悪いことがあるから油断するなよって言われる方が安心するのです。高校入試と大学入試の直前に引いたおみくじがどちらも大凶でした。慢心していた私は目を覚まされたおかげで無事合格できたのです。大凶に感謝しています。でも最近のおみくじには大凶は入っていないのかな?
初詣が終わる頃、辺りが白みだしてきました。日の出は近いです。駐車場を出て一気に吉野川河川敷を目指しました。北岸の土手にたどり着いたとき、もう太陽は水平線に顔をのぞかせていました。道端のスペースに駐車して、そこから日の出を拝みました。新しい年の幕開けです。
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鉄橋の間から登る初日の出



2016年12月18日(日) 記事NO.105の1
新町川のイルミ(2) その1
ケンチョピアとは新町川河口の県庁横にあるヨットハーバーです。係留してあるヨットのマストには色鮮やかな電球やLEDが点灯していました。写真を撮ろうとしましたが船が揺れてなかなか上手くいきません。何度か試してようやく数カットだけ物にしました。
末広大橋の手前で折り返し、再び新町川の奥へ戻ります。まだ夜の7時なので両岸には多くの店が電気を付けていました。それらがズラッと並んでいるのは何とも言えない気分にさせられます。いつもは岸から川を見るのに今日は川から岸を見ています。視点が異なるとそこに新しい感動が生まれてくるようです。
それにしても暖かい夜です。防寒対策をきちんとしてきましたがまったく不要でした。ちょっと船が魚臭かったけれど・・・。
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新町橋の光ファイバーカーテン

2016年12月18日(日) 記事NO.105の2
新町川のイルミ(2) その2
ボールの間に空けられた水路を慎重に進みました。私たち以外にも正規の遊覧船やカヌーをこぎ出す人がいたためです。赤からオレンジを経て黄色へ、緑から青色を経て赤紫そしてピンクへと、次々に色が変わっています。ボールの中はヘリウムガスを入れてありポヨンポヨンしています。子供の身長より大きいですがそう重くはないようです。
郷土文化会館を過ぎた辺りで再びUターンしました。またボールの間をゆっくりと航行します。両岸の人の往来や店舗の灯りなどが別世界のように感じられました。水面に立つさざ波に灯りがキラリと反射して、何とも言えない光景でした。・・・こうして20分に及んだ船旅を終えました。
上陸するとき身体が揺れました。船酔いではなく気持ちがまだ戻ってきていないせいでしょう。
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マスカットのような色になった

2016年12月18日(日) 記事NO.105の3
新町川のイルミ(2) その3
クリスマスツリーを見に行きました。吊してある光ファイバーの中を白や赤、緑や青といった光の粒が動き回っています。真下まで行って上を見上げると、放射状に光線が延びていました。光の色によって暖かくもなるし寒くもなる。そういった芸術作品がここにありました。
最後の仕上げは・・・食い気です。家族はノーマルなタコ焼きで、私はちょっとそのおこぼれをもらいます。セコイと思った方、それは間違っています。元は私のサイフから出ているからです(笑)。腹の中が温かくなりました。これでようやく戻れそうです。
明日からまた仕事です。でも年末まで後わずか。もうちょっと頑張れば1週間くらい休めそうです。今はイケイケで進もうと思います。
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夜の眉山と町灯り



2016年12月17日(土) 記事NO.104の1
新町川のイルミ(1) その1
水の都と呼ばれる徳島市には多くの水路が走り、あちこちに小さなハーバーがあります。渋滞時間には車で走るより船で走った方が速いかもしれません。とは言っても試したことがないのでわかりませんが・・・。
駅前から眉山へ向かうとき、必ず渡るのが新町川です。私が小さい頃はとても汚い川でした。しかし、ここ20年くらいかけて地元民が中心となって川の清掃を行ったり、イベントを催して呼びかけたりしてかなり水質が改善されました。今ではたくさんの魚が戻ってきて透明度も増してきたようです。ボードウォークの下から川を間近に見ることができます。淡水と海水が混ざる汽水域なので、川の下流と海の浅瀬の生物を同時に観察できます。壁に埋め込まれたガラス窓を眺めるとときどき大きな魚がふっと現れます。
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ボートに乗り両国橋をくぐる

2016年12月17日(土) 記事NO.104の2
新町川のイルミ(1) その2
さて、12月の中旬から下旬にかけてイルミネーションを用いたイベントがありました。藍場浜公園と新町川を中心に光による飾り付けを行うのです。公園には光ファイバーを用いた巨大なモニュメントを、川にはたくさんのヘリウム風船を浮かべてLEDで発光させるものでした。
当初はまったく興味がありませんでした。夜は寒くなってきたし、明日は仕事もあるし、行くのが億劫になっていたのです。人がいっぱいというのも並ぶのが面倒くさいので嫌です。要するにものぐさなのですが、家族から誘われてもなかなかウンと言えませんでした。
しかし、私が行かなければ私以外で行って船に乗ると言われました。何かあったら一大事です。仕方なく一緒について行くことになりました。
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次々と色が変わる水上のボール

2016年12月17日(土) 記事NO.104の3
新町川のイルミ(1) その3
このイベント期間中、両国橋のたもとから遊覧船が出ていました。しかし、私たちが乗り込んだのは個人所有の船です。地元のNPOで活躍されているO氏のご厚意で、今日のイベントの見学ができました。感謝です!
見た目は普通の小型漁船に乗り込み、新町川の埠頭から離岸しました。まずはケンチョピアから見ていきます。両国橋の下をゆっくりとくぐって行きます。電飾で彩られそれが水面にも映ってきれいです。橋の上の通行人がびっくりしたような顔で私たちをのぞき込みます。少しだけ優越感を味わっているうちに、船は下流へとゆっくり進んでいきました。
川の真ん中は真っ暗でした。水も黒くて何も見えません。こんなに暗い場所は数十年前に夜釣りをしたとき以来でした。
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公園のクリスマスツリー



2016年12月11日(日) 記事NO.103
高越山に冬来たる
久しぶりの休日の朝目覚めると、部屋の空気がキーンと透明になっていました。思わずぶるっと身震いして布団を被り直しました。ようやく本格的な冬の寒さの到来です。窓を開けると空は晴れ渡り、吐く息は真っ白です。こんな日はこたつでごろごろするのが一番ですが、せっかくなので高越山へ行ってみました。
いつもの谷川に降りて石を探しました。風はまったくありませんでした。しかし、気温がかなり低くて底冷えします。6時間くらい粘るつもりでしたが、あえなく2時間で退散しました。
今日は大収穫でした。4年かけて探していた5円玉サイズのざくろ石が再び見つかりました。先の分は博物館に寄贈しているので、今回は自分がコレクションします。あともう1つ見つかったら切断標本を作ります。また4年後には見つかるでしょうか?
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うっすらと雪化粧した高越山



2016年12月01日(木) 記事NO.102の1
眉山の紅葉(2) その1
30年前と比べて12月の平均気温が高く、紅葉するのがだんだん遅くなってきています。寒くなくて良いですが、季節感がちょっとズレてくるのは微妙です。それは横に置いといて今回はその色合いを楽しみましょう。
私が好きな情景は、赤や黄色が流れのように織りなす錦や、先端から少しずつ色が変わっていく様子、濃い緑色を背景に紅葉が降りしきる雪のように散りばめられている状態などです。県内には剣山や松尾川、神山森林公園など有名スポットが目白押しですが、別にそこまで行かずともあらゆるところで素晴らしい紅葉を目にできます。それらを見つけるのも私たちの楽しみなのです。せっかく晴れたので今日のこの日を楽しもうと思います。
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楢と楓

2016年12月01日(木) 記事NO.102の2
眉山の紅葉(2) その2
眉山には多くの谷や沢があります。延長はさほどでありませんが、岸から10m以上も掘られた深い谷川もあるのです。雨水が地下を伝わってきて石清水となって地表に現れます。県の銘水にも選ばれているので、それを汲んでコーヒーやお茶を沸かす人もいるくらいです。
そのうちの1つに昔の銅山の跡があります。佐古山鉱山で紹介したように、東斜面の地下数十mの坑道があって銅の採掘が行われていました。それを精錬した残りカス、つまりスラグが散らばっているのです。量的には少ないので産出量も大したことはなかったでしょうが、それでも戦時中は貴重な資源でした。今はつぶれた坑口しかなくて、藍銅鉱などの採集はできません。
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まるで瀑布のよう

2016年12月01日(木) 記事NO.102の3
眉山の紅葉(2) その3
神社仏閣が集まっている大滝山では、所々で石英脈が発達していて水晶が見つかることがあります。今はほとんどが崩れていて見つけることは困難です。私が所有している水晶は登山道で偶然見つけた物です。まとも(?)に延びた結晶ではなくクネッたような変形水晶でした。
山地の至る所に昔の建物跡があります。かつては飲食店屋事務所などがあったそうですが、今は朽ちた柱や割れた茶碗などしか見られません。広場になっていた場所に樹木や竹が生えて境界がわからなくなってきました。何となく寂しさを感じました。
さて、今日の活動も間もなく終了です。時間があれば平日休日を問わずここを訪れています。新しい発見を求めてまた来ましょう。
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石段の上にも枯れ葉が舞う



2016年11月30日(水) 記事NO.101の1
眉山の紅葉(1) その1
ある用事で眉山に出かけました。ずっと継続している活動があるので、友人や知り合いたちと一緒に行動したりしています。眉山の東斜面の中腹を南北に縦断する道が走っています。ここは私たちのような閑人(ひまじん)とか、自然愛好家やハイキングが好きな人にとってはたまらなく魅力的です。
めいめいのペースで道を歩けば、新しい発見につながります。車も通れますが、速く駆け抜けてしまうと見落とす物が多々あるからです。それは植物であったり、岩石であったり、人工物であったり、古道であったりします。そういう物を見つけるのが私たちの楽しみであり、継続すべき活動なのです。さて、今日は何を発見するやら・・・。
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行き止まりにある駐車場も彩る

2016年11月30日(水) 記事NO.101の2
眉山の紅葉(1) その2
この縦断道路では、木々が頭の上に覆い被さるように枝を広げています。そのため夏場は強い日差しを遮って私たちに潤いを与えてくれます。一方で、秋には落葉してある程度は日が当たるようになりますが、それでもやっぱり暗くてちょっと寒いです。北風の影響を受けにくいだけまだマシでしょう。
霊園から少し進むとシダがたくさん生えています。もうすぐ迎える正月の注連飾りに使う「ウラジロ」です。昔はもっと生えていたのですが、環境が変わったのか少なくなりました。まあ1ヶ月後にはここに採りに来ることになるでしょう。早い者勝ちなので近所の人たちと競争です。負けたときはスーパーで買います(笑)。
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眉山から見た城山

2016年11月30日(水) 記事NO.101の3
眉山の紅葉(1) その3
木々の間から市街地を見下ろすことができます。標高は80mくらいなのでほぼ目線の高さの鉄塔などもありますが、ほとんどはそれより低く遠景を妨げる建物はありません。人口が少ないのと逆に敷地が広いのでそんなに高いビルは必要ないからです。
東斜面の最高峰は270mで、そこから見る紀伊水道や淡路島、遠くの紀伊半島や太平洋は格別です。初日の出のメッカでもあり、元旦の日の出前には展望台も駐車場も人や車でいっぱいになります。山頂までのパークウェイに車が数珠つなぎになるのも毎年のことです。忌部神社や金比羅さんもあるので、初詣を兼ねて一石二鳥です。
そう言えば鳥の声もしています。今日のごきげんは良さそうです。
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眉山から見た末広大橋



2016年11月23日(水) 記事NO.100
海苔の養殖が始まる季節
吉野川の風物詩の1つが始まりました。栄養豊かな水質に恵まれて、これからの3ヶ月で立派な海苔ができます。吉野川橋と吉野川大橋に挟まれた川幅800m、長さ3kmの範囲にブイで浮かべた網が設置されます。そこで太陽光線を浴びながらすくすくと育つのです。
見ていると、海苔を世話する船が行ったり来たりしています。網を広げたり支柱を挿したりと忙しそうです。これからしばらく経って海苔が成長してくると、磯の香りがほんのりと流れてきます。すると、何だか食欲が湧いてくるから不思議です。特に、タマゴかけご飯にきざみ海苔をかけると絶品です。皆さんも是非試してみてください。
それでは先行して、今からそれをいただきます!
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川一面の網と吉野川橋



2016年10月30日(日) 記事NO.99
山の生活用水
小さな沢を上り下りしていると、黒いホースが這っているのが目に付きます。水道が普及していない地域では、井戸水や沢水が生活を支えています。秋や春にはこれらの水源を見回り、枯れ葉が積もって塞がっていないか、雪解け水でホースが流されていないか確認します。しかし、一番困るのが夏場です。大雨が降って沢が増水すると、これらの設備が破損して生活に支障を来すのです。また、逆に雨が少ないと水源が涸れて水が乏しくなったり、泥水が入ってきたりします。山上に住む人々にとっては、水の確保がとても重要なのです。
この水にはカルシウムやマグネシウムなどが豊富に含まれています。そのため喉ごしが良く○○の銘水などと呼ばれて、遠くの平野部からわざわざ汲みに来る人もいます。ちょっと苔むしていたりするので私は・・・ですが、おいしいことは間違いないでしょう。
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この下にある鉱物が隠されている



2016年10月23日(日) 記事NO.98
ピンクはマンガンの色 M51
金属のマンガンの酸化数は、単体の0以外は+2、+3、+4、+6、そして最高値の+7があります。酸化されて真っ黒になった鉱石には+4が含まれ、オキシドール(3%過酸化水素水)を振りかけると発泡します。椿や星越、土須や水落、白竜や穴内などのマンガン鉱山にはよく落ちています。一方で、ピンク色をした菱マンガン鉱やばら輝石には+2のイオンが含まれています。前者は炭酸塩、後者はケイ酸塩からなりますが、古宮のように結晶が見られる物もあります。北海道には積丹ルビーとまで言われる逸品があるし、スイートホーム鉱山のように鮪のトロみたいな素晴らしい結晶もあるのです。・・・とまあ、かなり話を盛っている訳ですが、必ずしも結晶でなくてもピンク色をしている岩石があります。鉱物が鉱染状に広がっているその石は遠くからでも目立ちます。紅簾石片岩のことです。 イメージ

暗い林の中でもよく目立つ



2016年10月21日(金) 記事NO.97
神山の乳銀杏
神山温泉の裏手側に有名な銀杏(イチョウ)の樹があります。子供を産んだ女性の乳の出が良くなるという御利益があるそうです。神社のお社は小さいですが、イチョウの木は立派なものです。黄色い葉っぱがたくさん落ちていて、境内は黄色一色に染まっていました。雌株らしくて銀杏(ギンナン)も少し落ちていました。
ここが色づくと平野部のイチョウももうすぐです。まだまだ暖かいとはいえ朝夕は冷え込むようになりました。我が家でもこたつを出すかどうかという話が出ました。冬の用意もしっかりしておきましょう。そう言えばミカンが出回り始めました。まだ小粒ですが味は良いようです。こたつにミカンという定番のスタイルが見られる季節ももうすぐです。ネコはこたつで丸くなる・・・。
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この谷川の奥に次郎銅山



2016年10月14日(金) 記事NO.96
石のストック
吉野川のある支流を遡っていたとき、大岩の陰に白い石がいくつかまとめられていました。母岩は石英で、明らかに誰かが割った物でした。表面を観察すると見覚えのある結晶が見られました。私以外にもこのような場所に来る人がいるとわかりました。
たくさん石を見つけると、そのうち良い物だけを新聞紙に包み、残りはそのままにします。ときには茶目っ気が出て、ラベルを書いて一緒に置いてくることもあります。しばらくして再び現地を訪れると、その石がなくなっているので、誰かが持って帰ってくれたのかなってうれしく思います。
ここで見つけた物は見つけた人に権利があります。どうしても欲しい場合は欲張って複数を持ち帰りますが、それでも後から来る人のために少しは残しておきましょう。自己満足であってもその方が良いと思います。
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赤っぽい結晶が含まれる



2016年10月01日(土) 記事NO.95
高越のエクロジャイト(4) M50
国内での主な産地は3ヶ所で、そのうち1ヶ所が本県にあるのはうれしいことです。おかげでエクロジャイトの研究が進むし、大きい石は加工して飾ることができます。今日も谷川で大きめの石を見つけました。数年前から馴染みになった石屋さんに頼んで、切断標本を作ってもらいました。カットと研磨で○千円でしたが、融通が利くので重宝しています。
この石は輪切りと縦切りをしてもらいました。4つに切り分けて、そのうち2つは某教育機関へ寄贈しました。切断面を見ると、ルチルはなかったもののアクチノライトやアパタイトらしき鉱物がありました。産状標本としてはまずまずでしょう。なお、輪切りした物は私の机に飾っています。標本箱に入れるだけでなく、このような楽しみ方も面白いです。皆さんもいかがですか?
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青紫色の藍閃石エクロジャイト



2016年09月08日(木) 記事NO.94の1
祭りの後で その1
近くの学校の祭の後で恒例のファイヤーストームが行われました。高校生や先生たちはグラウンドの中に、保護者や近所の一般の人はネットの外から見ていました。ただ始まりを静かに待っていました。
太鼓の音とともに号令がかかり、時代を感じさせる古風な校歌や応援歌が歌われます。そして、ついに「動の時間」となり幟を持った激突が始まりました。クラス単位で挨拶をし合いエールを交換します。だんだんと身体の中に熱がこもってきます。そのエネルギーが噴出先を求めて、見る者走る者から声上がります。そうして一塊となった熱気は止まることなく、クラスを越え学年を越えてグラウンドに満ちあふれるのです。
こうして長かった2週間が終わりを告げました。明日からは新しい自分が始まるのです。頑張れ!
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円になり各々自分の火を見つめる

2016年09月08日(木) 記事NO.94の2
祭りの後で その2
日はすっかり落ちて、辺りは夜の帷に包まれようとしています。その闇の中で燃える光と熱のきれいな炎です。不浄を焼き尽くす浄火でもなく、悪しき罪を罰する業火でもない。まだまだ余熱を持った新鮮で躍動感あふれる若々しい炎です。
揺れ動く炎を眺めているとずっと目が離せなくなり、遠い昔を思い出し様々な感情があふれ出ます。また今の自分のことや周囲のこと、更にこれからのことを考えたい気持ちに駆られます。炎を通して過去・現在・未来が同列に現れているかのようでした。
焚き火とは陰の火。昼は陽の火である太陽に敵いませんが、その真価を発揮するのが夜。疲れた人々の心を癒し、その灯りは迷う人々に進むべき方向を指し示します。一方で、それは燃料となる薪を投げ入れないと消えてしまいます。皆とともに薪を与えながら、いつまでも心の中にそれを燃やし続けて欲しいものです。
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めらめらと形を変える情熱の火



2016年09月01日(木) 記事NO.93の1
高越山の岩石(1) その1 M46
紅レン石は三波川帯を代表する変成岩で、関東では埼玉県の長瀞(ながとろ)などが有名です。まだ行ったことがないので、いつかはそこで地層を観察したいものです。一方、四国ではありふれた岩石・鉱物であり、質を問わなければ充分採集可能です。
地質学会により県の石として指定されたのは眉山の紅レン石ですが、ここ高越山でも巨大な露頭が天然記念物に指定されています。赤紫色または桃色の結晶を含んだ石で、遠くからもよく目立ちます。
マンガン系なので、黒い二酸化マンガンを含んでいたりします。また、赤色や緑色のマンガンざくろ石、バリウムを含む雲母やホランド鉱も見つかっているようです。注意して観察しましょう。
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紅簾石の結晶や二酸化マンガン

2016年09月01日(木) 記事NO.93の2
高越山の岩石 その2 M47
全国各地に「虎石」と称して、地元では名石になっている岩石があります。組成は様々ですが、共通しているのは見た目がトラの縞しま模様に似ているからでしょう。タイガーストーンではありませんが・・・。
徳島県下で有名な虎石は法正谷(ほっしょうだに)産で、今でも採掘跡が残っています。しかし、このような石は珍しくなく地元の人は持っているし、他の地域でも産出します。実際に高越山でも見かけるし、ネットでは祖谷産の虎石と称する石が出品されています。
私の知り合いは、河原で拾った虎石を皿に敷いた砂の上に鎮座させ、鑑賞石にして楽しんでいます。先日もお邪魔したとき、石の話に花を咲かせました。黄鉄鉱やルチルまで含んだ見事なものでした。
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黄色のチタン石に緑簾石など

2016年09月01日(木) 記事NO.93の3
高越山の岩石 その3 M48
高越山を彷徨していたとき、大きめの緑色片岩を見つけました。ひっくり返して見ると、石の中心部が青紫色で褐色のさびが浮き出ていました。前者は藍閃石片岩のようで、後者は白っぽい金色に見えました。今度は横から見ると、グルッと楕円形をした構造が現れました。120度以上も折れ曲がった褶曲構造のキースラーガーでした。
このような石を産状標本といいます。その鉱物が含まれている様子がよくわかるからです。これは外側が緑色で内部が別の色なので、まるで色違いのスイカやカボチャみたいです。重かったのですが、他の石を全て足下に置いて車まで運びました。そして、再び発見地点まで戻り石を回収しました。
さて、この後少し欲が出てさっきの石の上手を歩きました。すると、100m上方にこれと全く同じタイプの石が転がっていました。これはどう見ても間違いなく同じ母岩から割れた石だと思われます。重量は・・・、さっきの倍以上ありました。しばらく迷いましたが、気合いを入れてこれも車まで運びました。私が見つけた大物ベストテンに入る石でした。
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横に寝かすと構造がわかる

立てるとカマドみたいになる

これは小さい方の標本

2016年09月01日(木) 記事NO.93の4
高越山の岩石 その4 M49
ざくろ石を初めて拾ったのは関川でしたが、その後あらゆる産地を訪ねて標本が増えました。眉山や高越山でも拾えて、一部は県内あちこちの学校や機関に差し上げています。さて、そうなると、今度は標本の質が問われます。色や大きさ、粒子の形状、透明度、母岩や他の鉱物との関わりなど、数え上げればキリがありません。ただし、産地によりそれらのレベルが異なるので、ある産地ではレアでも別の産地では普通に見られることもあるのです。
高越山の場合、ざくろ石の色や形状は関川にも引けを取りません。しかし、大きさは最大でも1cmくらいで普通はミリサイズです。私が見つけた物では2cmが最大(関川では5cm)で、思わずバンザイをしてしまいました。その後、それを上回る物はまだ見つけられません。

高越山の大型ざくろ石、どなたかチャレンジされませんか?
もし見つけられたらご一報を!もれなくルチルを差し上げます。
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褐色の粒子は8ミリくらい

これでも大きい方

2016年09月01日(木) 記事NO.93の5
高越山の岩石 その5 M50
藍閃石に結晶があることに気付かされたのは、北海道のS様から頂いた標本でした。それまでは枕状熔岩を置換した変成岩として扱い、余り顧みることもありませんでした。それが、こうつの里の跡地で初めて結晶を拾ったのを皮切りに、あちこちで目にするようになりました。つまり、目が肥えてきた訳ですね。石に慣れるとはこのようなことを言うのでしょう。
その後、結晶にもいろいろなタイプのあることがわかりました。毛のように極細のものからマッチ棒くらいのもの。黒に近い藍色や青紫色、赤紫色や群青色など、見慣れてくると微妙な色の違いがわかるのです。
この藍閃石はセンチ近い黄鉄鉱を含んでいます。よく見ると大きな窪みがあり、元あった結晶が抜けてしまっていることがわかります。ちょっと残念ですが、これも自然の造形と捉えると面白いです。鉱物の種類だけでなく見た目も楽しみたいです。
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金色は黄鉄鉱で、毛状の藍閃石



2016年08月12日(金) 記事NO.92
黒谷川を渡る
板野町を流れる河川で、讃岐山脈から流れ出しています。何の変哲もない川ですが、黒谷川郡頭という遺跡があった場所です。そこで見つかったのが古代朱、つまり真っ赤な水銀の鉱物「辰砂」でした。
弥生時代において、辰砂は祈祷などに用いられる特別な染料でした。同じ赤でも酸化鉄(Ⅲ)や鉛丹に比べてとても鮮やかです。徳島県を代表する鉱物の1つと思っています。現地の加茂谷でも村おこしのために、水井鉱山を探索したりしています。
遺跡から発見されたのは、辰砂が付着した石臼や石杵です。また、この川の河川敷を工事したとき、同様の土器片が見つかりました。私もそれを入手したかったのですが、今はすっかり川底になりました。また、機会があればチャレンジします。
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この橋ができたときに見つかった



2016年08月11日(木) 記事NO.91
四国の恐竜化石
私は恐竜の化石を見つけたことがありません。しかし、化石採集の熱心な人が知らず知らずに見つけて持っている可能性がある。・・・そういうことを前回書きました。
香川県さぬき市で、30年前にハドロサウルス類の化石が採集されていました。四国で3例目です。昨日の今日で、早くも記録更新となりました。大阪市の博物館に寄贈されていて、和泉層群から見つかりました。これらの地域にやってくるマニアがどっと増えそうです。産地の荒廃に繋がらなければ良いのですが・・・。地元民とのトラブルが心配です。
ところで、昨日の朝刊では勝浦のティタノサウルスのことしか記載がありませんでした。しかし、博物館ではもう1つのことをリークしていたはずです。和泉層群で見つかるコダイアマモは生痕化石か植物化石か。この論争に決着が付きました。「排泄場所がある巣穴」だそうです。これを取り上げた新聞は今のところなさそうです。面白い内容だと思いますが、すっかり恐竜に話題を取られています。

そして、一週間後の18日にやっとこの記事が掲載されました。植物でなくなったのは残念ですが、見た目はきれいなのでそのまま保存します。
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昔に採集したコダイアマモ
今も持っている



2016年07月17日(日) 記事NO.90の1
恐竜展始まる!そして発見! その1
15日から徳島県立博物館で、大型の恐竜化石の展示会が始まりました。ちょうどこの日、嫁さんや母など女性軍は買い物でありません。鬼の居ぬ間に洗濯・・・と思ったら、子守を押しつけられました(涙)。と言うわけで、子どもと甥や姪一同を引き連れて、このこれを見に行きました。
会場は3つに分かれていました。最初は魚とか甲殻類とか比較的小さな化石です。普段は倉庫に保管されていてめったに見られない物が目白押しでした。じっくり見たかったのですが、子どもたちがどんどん先へ進んでいきます。迷子が出そうなくらい人が混み合っていたので、後ろ髪を引かれる思いでその後を追いました。2つめのブースでは、海外の大型標本や恐竜・ほ乳類などが展示されていました。ティラノサウルスの模型が咆吼する様に、居合わせた子どもたちが驚いていました。
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あんぐりと口を開ける子どもたち

2016年07月17日(日) 記事NO.90の2
恐竜展始まる!そして発見! その2
3つめは少し離れた別の部屋にありました。その中に見上げるような大きな恐竜がいました。福井県で発見されたそうです。鋭い牙に爪、両側が見られる大きな眼窩、俊敏に動けそうな太い脚など、確かに現代のどの生物とも異なります。は虫類はトカゲ・ヘビ・カメ・ワニの4つに分類されますが、恐竜はそれらのどれでもないようです。
スクリーンに当時の様子を再現したものが映し出されていました。水飲み場に集まる草食恐竜を肉食恐竜が襲うような場面です。高いところの葉を食べるシーンや戦闘シーンなど、なかなかリアリティがありました。
その後はおやつタイムになりました。いつものように喫茶でかき氷とケーキの優雅なひとときです。恐竜に見入ることなくあっさりと終わってしまいました。
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フクイ○○という恐竜たち

2016年07月17日(日) 記事NO.90の3
恐竜展始まる!そして発見! その3
平成6年に勝浦町イグアノドンの歯の化石が見つかりました。四国初の恐竜化石として全国的にも有名になりました。地元の有志が「恐龍の里」を造ったり、「イグアノ丼」という料理もできました。
それから22年後、7月5日に阿南市の親子がついに2例目を発見しました。イグアノドン発見地にほど近い場所で、今度は竜脚類のティタノサウルスだそうです。博物館に持ち込まれて鑑定され、たった数日で恐竜の歯であると認定されました。審査はものすごくスピーディに行われたそうです。また、ちょうど恐竜展の期間に当たるのでものすごくタイムリーな話題です(徳島新聞掲載は8月10日)。
実物は黒い母岩をクリーニングして、黒い歯を浮かび上がらせています。黒地に黒だから目立ちにくいです。でも見慣れた人にははっきりわかるそうです。3例目はいつでしょう?いや、すでに見つかっているかもしれません。自分の手元の石の中にあるかもです。
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これはイグアノドンの歯



2016年07月15日(金) 記事NO.89の1
園瀬川の石 その1
徳島市は水の都とも言われ、数多くの河川や水路が走っています。市街地の北部は吉野川から分岐した水路のような河川で、何れも紀伊水道に向かって流れ込んでいます。それに対して、南部の河川は吉野川と独立しており、全く別の水系を形成しています。そのうち最長は勝浦川で、上勝町の正木ダム奥の旭川、殿河内渓谷などを源流とします。また、徳島動物園付近から流出する多々羅川もあります。
今回訪ねたのは、文化の森の横を流れる園瀬(そのせ)川です。佐那河内(さなごうち)村南部の大河原牧場辺りを源流として、市内では冷田(つめた)川などに分岐しています。日頃は余り見向きもしない川ですが、機会を得て観察会に出かけました。
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園瀬川中流域の潜水橋付近

2016年07月15日(金) 記事NO.89の2
園瀬川の石 その2
四国の地質帯はそれぞれ東西に延びており、北から南にかけて6つあります。香川の屋島や五色台、愛媛の高縄半島は①領家帯という火成岩帯で、その南側に②和泉層という化石を含む砂岩層、さらにキースラーガーを含む③三波川帯と続きます。逆に四国の南からは、徳島南部から高知の大部分を経て愛媛南部を含む⑥四万十帯やその北側の⑤秩父帯があります。そして、③と⑤に挟まれる狭い範囲に④御荷鉾(みかぶ)帯があります。
②と③の間にあるのが中央構造線です。先日の熊本大地震ではこの西端が動く可能性が指摘されました。③と④または⑤の間に御荷鉾構造線、⑤と⑥の間に仏像構造線があります。これらの地質帯にはそれぞれ特徴があります。
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何となく緑っぽい石が多い川原

2016年07月15日(金) 記事NO.89の3
園瀬川の石 その3
④のみかぶ帯は、地質帯というより③と⑤に挟まれた破砕帯だそうです。結晶片岩が多くて薄く剥離しやすい性質があるので、しばしば土砂崩れを引き起こします。防災センターや徳島大学などによれば、実際に地滑り地帯がかなり多いです。また、ここの石は緑色岩類とも言われて白色や灰色の中にうっすらと緑色をした感じです。川原で観察したところ、緑簾石や蛇紋岩、かんらん石や柘榴石などを確認しました。大河原から流されてきたのでしょう。しかし、キープするほどの石はありませんでした。
川の中を覗いて生物の観察もしました。鮎やオイカワ、ヨシノボリやゴリがいました。また、川底の石にはトビケラの幼虫が巣を作っていたり、川岸のアシにはコオニヤンマの幼虫(ヤゴ)、小さなヌマエビがいました。今度はこれらの観察をメインにして良いかもしれません。
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岩に張り付くヨシノボリ(中央)
水中カメラで撮影



2016年06月14日(火) 記事NO.88の1
企画展「自然コレクション」(3) その1
急に決まった最終日の説明会と記念品の配布。慌ただしい一日でした。
県立博物館1階の特設ホールで行われた企画展には、県内外から数千人の来客がありました。特に土日は子どもが無料となるので、多くの親子連れが来て展示物を熱心に見ていました。私も出展者の立場ではなく観覧者の立場で、他の出展者の展示物を見ました。特に昆虫の標本や動物の剥製など、いわゆる「生物(なまもの)」の展示に脱帽しました。
私が取り扱う「石」は、標本箱に入れるときでもちょっと端を割って整形するだけで済みます。それどころか、箱に入れなくてもラベルと一緒に新聞紙で包んで適当に置いておけます。一部に湿気や酸化を嫌う物もありますが、基本的に寒暖差や日光に影響されず戸外に置くことができます。つまり、保管がとても楽なので誰でもすぐに始められるのです。
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受付をしていたうちの子どもたち

2016年06月14日(火) 記事NO.88の2
企画展「自然コレクション」(3) その2
昆虫の場合、針で止めたりして死後硬直後の形を整えるのが難しいです。小学生の頃、夏休みの自由研究で何度も作ったことがありますが、いつも整形が難しくて苦労しました。最近の子ども(ついでに親も)は面倒がって昆虫採集など見向きもしないそうです。
それでもあれだけたくさんのチョウが羽を広げているのはとてもきれいです。クワガタムシやカミキリムシなどが整然と並べられているのを見ると、その標本作製が素晴らしいし見事としか言いようがありません。
また、鳥類や魚類の剥製についてもどれだけ苦労したか想像できません。特に国産が絶滅した「朱鷺(とき)」は貴重でしょう。私たちではとても真似できない技術がそこにありました。
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覆い被さってくるカブトムシ

2016年06月14日(火) 記事NO.88の3
企画展「自然コレクション」(3) その3
ただし、標本の元となる現物を探してくるあるいは捕らえてくるのは、どの分野に置いてもかなり難しいでしょう。どれだけ技術があっても物がなければ絵に描いたモチです。知り合いのゴミ虫専門家(比喩でなくゴミ虫のような微小昆虫のコレクター)によれば、毎年夏休みに入山してトラップを仕掛け虫採りしています。土ホタルにはまった人やチョウ屋(蝶が専門)とかガ屋(蛾が専門)もあるそうです。
私たちは石が・・・、特に岩石や鉱物が専門です。だから、ジャンルは違うけれど何となくその世界の状況がわかってしまうのです。面白いです。だからやめられません。企画展は終わりましたが、また先のことを目指して来週から頑張ります!
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徳島県下最大の柘榴石標本



2016年06月11日(土) 記事NO.87
高越山のルチル その4 M45
6月のある日に、久しぶりに高越山へ行きました。人が余り入っていない谷川の奥は狙い目です。急な斜面を川原まで下りて、そこからうつ伏せになってまるでなめるように(友人談)石を見ていきました。
流水から少し離れた川岸の上の方に目をやったとき、私の鋭敏な視覚(?)が異様な物を捉えました。見た目は緑簾石の多い藍閃片岩ですが、白い石英脈を挟んでいていかにもルチルを含んでいそうです。ひっくり返して確認すると、・・・やっぱりありました。
小さい物ならそのまま採らずに置きますが、これは岩盤の一面に細かな結晶がびっしり付いていました。どう見てもこれはお持ち帰りです。余分な石をクリーニングできれば、おそらく手のひらくらいの面積になるでしょう。これ1つだけでもここに来たかいがありました。

あわ~ストーンさんのご厚意により、そちらでも掲載を始めさせて頂きました。宜しければご覧ください。(外部リンクあり)
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赤い部分がすべてルチル結晶
(画像に外部リンクあり)



2016年06月05日(日) 記事NO.86の1
梅雨の合間に鮎喰川 その1
季節は梅雨真っ盛り。週間天気予報にはずっと傘マークが並んでいます。こういう時期にはどこへも出かけられません。たまたま用事があったので神山町への玄関口、徳島市入田町と一宮町を散歩しました。
この近くには(と言ってもかなり離れているが)白竜マンガン鉱山があります。サーサス石アーデン石などレアな鉱物を産出しましたが、山師に情報が漏れて乱獲されました。市場に出回っているそれらの鉱物は無許可採集ばかりなので、注意が必要です(地権者に確認済み!)。
さて、それらの鉱物がひょっとして落ちているかもしれないのが鮎喰川です。鮎喰(あくい)という名のとおり鮎釣りでも有名なところでした。今は水量が少なく万全とは言いがたいですが、上流に行けば川底に岩盤が発達していて良型のアユが釣れるそうです。
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一宮の丘から眺めた鮎喰川

2016年06月05日(日) 記事NO.86の2
梅雨の合間に鮎喰川 その2
川原には様々な石が落ちています。色の薄い紅簾片岩や緑色の緑泥片岩、緑や紫の泥質片岩、白雲母が目立つ石英片岩などです。稀にルチルがあるそうですが、私はまだ見つけていません。今日もしばらくうろうろしましたが結局大した物はありませんでした。
一宮の集落の対岸に一宮城跡があります。戦国時代に領主の留守を狙われて土佐の長曽我部に落とされました。一時脱走できたお姫さんも結局亡くなったそうです。ようやく伝令が届いて急いで引き返しましたが、もはやどうすることもできず家来たちは自身で切腹したとのことです。
集落内には石を塗り込めた石壁があちこちに見られました。鮎喰川で拾ってきた物のようです。思わずそちらに目が向いて石ばかり見ていました。これも石屋の性(さが)ですね。
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家老屋敷跡の池の鯉



2016年04月24日(日) 記事NO.85の1
企画展「自然コレクション」(2) その1 M43
寄贈品の中に「50年ぶりの発見」と銘打った物があります。実際に露頭が消滅したのが昭和40年頃だったし、その後発見されていなかったので誇大広告(?)ではないと思います(笑)。
悪い石採り人に出会ってゴタゴタがあって、当時運営していたHPを止めたり気分的に落ち込んでいた時期がありました。そうしたなかで、幻の逸品を探してやろうと一念発起して計画し実行に移しました。それがドンピシャで大当たり!神様は私を見捨てていなかったと思わず手を合わせて拝みました。その後もいろいろありましたが、めげずに地道に努力した結果、マニア垂涎の石とか自分しか持っていない石とかの激レア品を見つけることができました。関わってくれた方々に感謝いたします。ご覧の皆さんも地道に正攻法で続ければきっと良いことがありますよ。

急に決まったことですが、最終日の6月12日に来場されたお子さんには石のプレゼントがあります。午後から始めるので、どうぞお越しください。石の説明会もします。(6月6日)

皆様、ご来場ありがとうございました。また、4年後くらいにお目にかかりましょう。(6月13日)
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子どもが拾った石の標本
高越山および関川
その奥にはエピドートと
アパタイトにショールを展示中

2016年04月24日(日) 記事NO.85の2
企画展「自然コレクション」(2) その2 M44
今回私たちが所有している石も展示してくれました。高越山の金紅石・含ざくろ石紅簾石結晶、藍閃石結晶、リン灰石、緑簾石、関川のクロム透輝石、鉄電気石、加茂川の大型チタン鉄鉱、穴内の二酸化マンガン鉱などです。これらのうちいくつかはそのまま寄贈する予定です。博物館へ寄贈すれば子どもたちの教育に役立つと思ったからです。・・・その一方で、本音では重たくて持って帰るのが面倒くさいから・・・というのはナイショです(笑)。
子どもが拾った石の標本セットには良品がいくつかあります。どちらも昨年の夏休みに3回ずつ現地(徳島県高越山と愛媛県関川)を訪れました。炎天下で日焼け止めを塗りながら、水のない川原を這いずり回りました。結果として、学校代表で県の展示会に出品されました。子どもは満足していましたが、しばらく頭や顔の皮膚が痛かったです・・・。
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阿波学会誌掲載標本が再び!
徳島の顔になりつつあるルチル

2016年04月24日(日) 記事NO.85の3
企画展「自然コレクション」(2) その3
この日、突然ですが博物館の臨時解説員を頼まれました。自分たちの石が展示されているし、自分のことだからわかりやすく説明できるでしょうって言われては断れません。ちょっと戸惑いましたがこうなったらやってやろう。落ち込んでも復活するたびに強くなるっていうのが真髄なのかな(笑)?
当日の14時にはギャラリーが60名くらいいて、そのうち半数くらいの人が聞いてくれました。知り合いも何人かいましたが、見知らぬ親子連れの方やコレクターらしき人もいました。わざわざ県外から駆けつけてくれた方もいてとてもうれしかったです。学芸員さんの後に続いて石の解説を行いました。持ち時間は10分もないので走り走りです。いくつかの石について、採集したときのエピソードや具体的な場所も説明しました。後日そこを訪問する人が増えたようです。地元とのトラブルが起こらない場所なので大丈夫でしょう。
展示会に足を運んでくれたギャラリーの方々に感謝いたします。
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解説を聞くギャラリー
穴虫のコランダムがきれい
眉山のルチルは赤かった
自然銅は大きかった



2016年04月23日(土) 記事NO.84の1
企画展「自然コレクション」(1) その1
4月20日から徳島県立博物館にて、県内のコレクターが収集した自然界の様々な標本の展示会が開催されています。このような企画展は4年ぶりで、その間に新しく採集されたりして入手した標本も含まれています。分野は幅広く多岐にわたっています。鳥類・甲虫・蝶・木の実・淡水魚などに混じって、私たちも鉱物・岩石を出品しました。ちなみにブースは奥の方です。博物館収蔵品とともに12点ほど飾られています。
会期は6月12日までで、入場料は100円~200円です。自然から得られた標本に興味のある方はぜひお越しください。私たちは石が専門ですが、他のコレクターからの出品にも興味があります。解説ばかりでなく見ることも楽しもうと思います。
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ニッポニアニッポンの剥製

2016年04月23日(土) 記事NO.84の2
企画展「自然コレクション」(1) その2
博物館入口を入ってすぐ右に曲がると「自然コレクション」の看板があります。戸口から中に入ると、まず鳥類の剥製が目を引きます。純粋な国産は絶滅した朱鷺(トキ)や鳴門に飛んできて話題になった鸛(コウノトリ)、鹿児島県の出水に大群が渡ってくる鍋鶴(ナベヅル)などとてもきれいな剥製でした。他にもドジョウの液浸標本や巨大な種などが展示されていました。
右側の壁を埋め尽くすのは昆虫たちです。定番の蝶や甲虫がぎっしりと隙間なく並んでいました。その中にタガメという水生昆虫がいました。半世紀前までは駅前にも飛んできたそうですが、私は実物を見たことがありません。図鑑ではなく生を見られて良かったです。
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鳴門の雌は里帰りしてしまった

2016年04月23日(土) 記事NO.84の3
企画展「自然コレクション」(1) その3
孔雀の標本の傍にクジャク石がが置いてあったりしますが、鉱物・岩石のまとまった展示は奥の方でした。まず、博物館が独自で入手した石はきれいな物が多いです。スイートホーム鉱山の菱マンガン鉱やブラジルの10cmルチル、大きな緑柱石、ペリドットやタンザナイトなどの宝石類などめったに蔵出しされない逸品が目白押しでした。
次に国産品、特に四国産の鉱物が展示されていました。それらの中には私たちが博物館に寄贈した物も含まれています。雪の中を1時間半もかけて運んだ祖谷鉱山産キースラーガー、炎天下で一山越えて持って帰った千町鉱山産磁鉄鉱、余りにも重いため斜面を転がしながら登っていったざくろ石など、どれもこれも思い入れのある石ばかりでした。
これらを展示してくれた博物館の方々に感謝いたします。
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ざくろ石にさわれます!
これより大きい物を探そう!



2016年03月31日(木) 記事NO.83
岩崎正夫氏ご逝去を悼みます
徳島大学名誉教授で、ラピス大歩危の館長もされていた先生でした。専門は地質・岩石学でたくさんの教え子がおられます。当クラブのメンバーにもいます。私はお目にかかれる機会を何度も逸してしまったのでそれが残念です。ご家族の方にお悔やみ申し上げます。
先生の著作をいくつか所有しており、今でも鉱山跡調査や鉱物産地を見つけるのに大変重宝しています。特に法正谷の虎石や相生鉱山の輝安鉱を入手するときとても役立ちました。正確な記録を残して後世に伝えることは私たちの使命です。石の売買などの金銭的な利益に群がるのではなく、産地を保護して論文にまとめたりして名を残す方がよほどマシだと思います。今後とも頑張ります。
故人のご冥福をお祈りいたします。
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時は移ろうとも故人の偉業は残る



2016年01月25日(月) 記事NO.82の1
ある雪の日 その1
珍しく大雪でした。県内の交通がマヒ状態で、あちこちで道路の閉鎖や交通機関の運休・遅延が発生しました。特にある主要道では、わずかな傾斜の坂道をタンク車がスリップして登れず、後続車両がストップして大渋滞を巻き起こしました。30分で行けるところを3時間もかかったそうです。不運としか言いようがないですが、一方でチェーンくらい付けて行けよっ・・・とも思います。そんな私はたまたま年休を取って自宅にいました。
カメラを持ち自宅から歩きました。もう雪が降ることはなさそうで、ぼんやりと日が差しています。昔から雪道を歩くのが好きで、今日も3~4時間は歩くつもりです。ポットにコーヒーを入れて、冬鳥の観察や雪原と化した田畑を見て回りました。雪が珍しい地方ならではの楽しみ方です。
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水路の土手も真っ白になった

2016年01月25日(月) 記事NO.82の2
ある雪の日 その2
ときどき風が吹いて木々の枝から落雪しています。北海道のようにサラサラしたパウダースノーではなく、ややベトッとした感じのぼたん雪です。服に付くとそのままくっついて濡れてしまいます。雪がへばりついている木々は重そうでした。
そう言えば水も鉱物ですね。水晶やアゲート(めのう)によく含まれている処女水(バージンウォーター)など、確かにそのようです。結晶化するときにその中に閉じ込められたから、ただの水ではないでしょう。私もいくつか持っていますが、分析すると面白いことがわかるかもしれません。
結局5時間も歩き続けました。ちょっと疲れましたが、なかなか面白い発見もありました。寒さはどこかへ消え失せ、衣類の内側が汗でぐっしょり濡れています。風邪を引くのですぐに服を着替えました。
明日からまた仕事です。趣味を続けるためにも(家族のために・・・が一番ですよ。)がんばります。
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白い中の黄色の実はキンカン



2015年12月31日(木) 記事NO.81の1
大晦日の中州市場 その1
年末を迎えてどこもかしこも慌ただしくなっています。我が家でも昨日までに大掃除を終え、餅つきや正月の注連飾りも買いだめました。そこで、毎年恒例の市場巡りに出てきたわけです。日頃はめったに足を向けない場所ですが、数年前にここでTVの取材を受けたり(後日、職場の同僚から冷やかされました。)、掘り出し物をゲットしたことから、この日だけは買い物に勤しみます。
まずは小松島名物の竹輪(ちくわ)です。次々焼かれてかごに盛られていきます。。家族が買い物しているうちに、子どもたちが買い食いしていました。私も相伴に預かって、熱々のできたてを食べました。天ぷらも美味かったです。次はミカンの試食です。勝浦などから出荷された黄色い実が箱にどっさり入っています。見栄えは今ひとつの物しかありませんでしたが、味は同じだし安いしお買い得でした。
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人通りが少なくなったストリート

2015年12月31日(木) 記事NO.81の2
大晦日の中州市場 その2
他に金時人参や蕪、ブロッコリーなどおせちに花を添える野菜を買い込み、雑煮に入れる大根も袋に入れました。早生のハウスイチゴも即購入です。うちは野菜や果物が大好きなのです。
魚屋には寒ブリやハマグリ、カニやエビなどがありました。そう言えば、博物館の話によると最近のハマグリは朝鮮ハマグリばかりだそうです。外来種が在来種を駆逐しているようで何とも心配です。その一方で、吸い物にすると美味いのでついつい買ってしまいます。
昔に比べると賑わいが廃れてきたように思います。実際に県全体の人口が5年間で5%も減っています。どうにかならないかいつも悩みます。自分の子どもたちは将来どこに住んでどこに就職するのでしょう。年末からちょっと不安を感じてしまいました。
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ハマチやカンパチが並んでいる



2015年12月23日(水) 記事NO.80の1
クリスマスイブイブ その1
友人のMさんの12月は大忙しです。特にクリスマスのイルミネーションを飾るのに、何日もかけて計画し実行しています。電力計算から始まって配線や電球などの配列、道具の調達など私だったらもう目が回りそうです。それが完成するのが12月中旬で、メールがあれば見に行っています。暗い住宅街の中でひときわ明るく浮かび上がる場所を目指せばよいので、すぐに見つけられます。今年もいろいろと楽しませてもらいました。
私の家でも少しはイルミを点けています。玄関にツリーとサンタクロースを飾ったり、ベランダの手すりに配線したり、それなりに楽しんでいるのです。庭にも灯りが点いていますが、それは太陽電池なので曇りの日は点灯しません。まあぼちぼちやっているところです。
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樹木を彩るLEDの灯り

2015年12月23日(水) 記事NO.80の2
クリスマスイブイブ その2
年末は家族の忘年会などで慌ただしくなります。大概は20日頃までにしてしまうため、もっと忙しい大晦日にずれ込まなくて助かっています。深夜帯になり携帯に呼び出しがあったので迎えに行きました。古い言葉で言えばアッシー君の状態です。でも自分のときはまた迎えにきてもらうのでお互い様です。
今日はかなり遠くの徳島市街まで行きました。駅前周辺や新町川、眉山周辺や県庁前などでイルミが光っています。さすがはLEDのお膝元です。そう言えば阿南市内の工場そばの山や河川の土手にもありました。18時から22時くらいにかけて県内の至る所で光ります。
明日はイブです。明後日は当日です。プレゼントは何にしようか。いやもう準備万端です。喜んでくれたらうれしいです。
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サンタにトナカイにスノーマン



2015年11月27日(金) 記事NO.79の1
阿波史跡公園 その1
まるで静岡県の登呂遺跡みたいで驚きました。徳島市国府町から石井町にかけて、弥生時代の遺跡が多数発掘されています。土器や石器、動物の骨や炭化した植物とか、古代の人々の生活がよみがえってきます。
朝夕少しずつ寒くなってきたある日、眉山の西方2kmにある気延(きのべ)山へ行きました。入場料のいる博物館はスルーして(笑)、まばらに見学者のいる公園を散策しました。住宅地から少し上の小高い丘にあります。駐車場は十分広いので百人くらいが来ても対応できるでしょう。
園内にはいくつかの住居や倉庫など当時の建築物が復元されていました。時間が早ければ中に入れたそうですが、この日はもう夕方だったので閉まっていました。次回は子どもを連れて来たいです。歴史の勉強にもなります。
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復元した竪穴式住居

2015年11月27日(金) 記事NO.79の2
阿波史跡公園 その2
もう一つの目的は、眉山で過去に採れたルチルがこの山系で見つからないかというものです。以前に何かの文献で、眉山本体ではなくその周辺の山から結晶が採れたと読んだ覚えがあるのです。
二酸化チタンの結晶であるルチル(金紅石)は、採れたてのときは赤色透明または桃色メタリックな結晶です(赤ルチル)。保育社の鉱物図鑑には、そのような色で表した図解があります。また、個人や機関が所有している半世紀以上前の標本は、すっかり酸化されて黒くなっているものばかりです(黒ルチル)。
そこで、徳島県人の名にかけて是非とも赤い結晶を入手したいと思いました。いや、フィールドに出て採集したかったのです。コンクリとアスファルトに塗りつぶされ、産地が消滅してからすでに半世紀。どこか近くの山にまだ手つかずの状態で残っていないだろうか。探し始めて今も継続中です。
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復元した高床式倉庫

2015年11月27日(金) 記事NO.79の3
阿波史跡公園 その3
他のサイトを見ると、眉山へ行ってルチルを探したという記述がたまにあります。某サイトの黒い極小ミリサイズ結晶は成分分析してみないと何とも言えません。しかしながら、C軸方向の条線が確認できないので・・・やっぱり何とも言えません。
他にも昔採集していた石英を割ったら入っていた(私の知人)とか、別に私のところにメールしてきた隣県のある人は眉山某所で見つけたと書いてありました。ただし、前者は実物がありますが後者は確認できていないので何とも言えません。
さて、私自身もそれを持っています。県立博物館にも1個寄贈しました。入手方法は申し上げませんが、売買や犯罪行為でないことは確かです。証明しろと言われたら困りますが、こちらに不義理を働いたため信用できない人に説明するのはまずいでしょう。
こうしてすったもんだのあげく、ようやく黒ルチルと赤ルチルの両方がそろいました。近日公開予定です。
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史跡公園から見た眉山西側



2015年11月08日(日) 記事NO.78
小学生もがんばっています!
郷土の文化を大切に守っていこう。・・・というわけで、デコまわしや農村舞台、地元の祭りや花火大会などの催しに興味があります。まあ昔からある程度関心があって写真を撮りに行ったりしていました。
徳島市川内町の十郎兵衛屋敷での一コマです。唱っているのは小学生、人形を動かしているのは高校生と大学生、それを指揮しているのが人形浄瑠璃の座のメンバーで60歳以上の方ばかり。たまたま誘われてたまたま声がよくて、たまたま人手が足らなかったという偶然の重なりで、家族がこれに出演しました。しかも2人も。うれしくもあり誇らしくもあります。今後もがんばって続けて欲しいです。
なお、記事NO.58と69も参照してください。
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大勢の観客の前で紹介された



2015年11月07日(土) 記事NO.77
四つ葉のクローバー M42
石拾いに行くとたまに想像も付かないような石に出会います。それは希少な岩石・鉱物であったり、面白い造形であったり、変わった鉱物の取り合わせであったりします。あるいは、それらの要素を重ね合わせた物であったりもするわけです。
さて、読者の皆さんはこの画像を見てどのように思われますか?谷川で見つけたとき思い浮かんだ言葉がタイトルのとおりでした。やや暗いですが葉の部分は濃い緑色の緑閃石、薄緑色の母岩が少し変質したエクロジャイトでざくろ石を含みます。エクロはレアな岩石です。また、エクロと緑閃石との組み合わせも初めて見ました。そして、その見た目はタイトルにそっくりです。
この日の成果はこれだけでした。しかし、とても満足しています。欲張ってたくさん採らずとも「足るを知る」ことで、また石拾いが楽しめるのです。
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既知の岩石・鉱物による
未知の組み合わせ標本



2015年11月03日(火) 記事NO.76の1
地域の秋祭り その1
気候の特異日のおかげで今日も晴れました。祭りは一昨日から始まっていて最終日も無事に何とかなりそうです。何百年も前に人が住み着き集落が形成され、その中心として神社や仏閣が建造されました。そこに祀られている神仏に感謝の意を込めて様々な神事を執り行うのです。
地域の顔役が一堂に集まり打ち合わせをしたのが夏場でしたから、もうそれから3ヶ月が過ぎようとしています。私はここでは新参者ですから付き合いは余りありません。しかし、私の家族はここで生まれ育った人たちだからこれら地域の行事に積極的に参加しているし、私もそうなるように話を持って行っているわけです。70歳以上のお年寄りと10歳に満たない子どもたちが協力して祭りを盛り上げるのです。それの手助けをするのは大人として当然だと思っています。
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2体の獅子舞が乱舞する

2015年11月03日(火) 記事NO.76の2
地域の秋祭り その2
子どもが太鼓を打つことになりました。週3日、夜8時に本堂に集まり、お年寄りから指導を受けます。体力の必要な大太鼓は無理なので、獅子舞のリズムをとる小太鼓の1人を任されました。トン・トトトン、トン・トトトン、・・・と調子よく音が聞こえます。ばちではなく細い竹のような棒で太鼓をたたきます。軽いため子どもにとって負担が少なく、連続して30分くらいもたたき続けていました。もっともうちの子は「○○○の達人」をしているので、遊びも何かの役に立つという例でしょう。
獅子舞が終わると御神輿を引いて地域を回ります。子どもの数が少なくなったので中学生以上の年長者も一緒です。家を回ってご祝儀をいただいてお礼の囃子を唱えます。午後3時から歩き出して終わったのが8時でした。幼稚園児もいて疲れましたが、5時間の練り歩きに耐えて無事に全日程を終了しました。皆さんお疲れさんでした。
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子ども御輿が集落を練り歩く



2015年10月05日(月) 記事NO.75
紅簾片岩のざくろ石(2) M41
4年前に初めて実物を見つけてから、今日までに大小30個くらいは見つけています。この産地に決して多いわけではないですが、目が肥えたのかそれとも注意力が向上したのかくらいでしょう。私とよく同行する友人たちもかなり向上して、最近では私の方が負けて(?)います。
先日私が見つけたのは、紅簾石の結晶とざくろ石がダブルで含まれる物でした。どちらも珍しいのですが、それが2つとも入っているなんてかなりレアです。ところが、友人の一人が何か手に持ってきました。渡されたので見てみると、結晶とざくろ石が入っていました。それも私より大きな結晶が。しかも黄鉄鉱の結晶まで含まれていたのです。
別に勝負しているわけではないですが、・・・負けました。今度はもっとレアな物を探すゾ~と心に誓いました。
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同じ石の切断標本
1個は阿南市科学センターへ



2015年10月04日(日) 記事NO.74
幻のキースラーガー(2) M40
キースラーガーは鉱物ではなく、黄鉄鉱・黄銅鉱・磁鉄鉱などの金属鉱物が混じり合った状態の鉱石です。人気はあまりないですが、私はその見た目や質感、四国にキースラーガー鉱山が多かったことから積極的に収集しています。しかし、産地がわからなかったりすでに閉山してズリが撤去された場合はどうしようもありません。そうしたなかで、わずかに残ったズリから奇跡的に採集できた物もあります。
旧貞光町の個人経営だった鉱山ではで自宅裏に坑道が残っています。今は倉庫代わりに使われて内部に入ることはできません。また、ズリはすべて埋め立てられて畑になっていました。。そうした状況で地権者を訪ねたのです。すると、そこの方がたまたま深く掘ったときズリのような物がたまたま出てきました。その場所を教えてもらってたまたま掘り当てたのが、やや青みがかった金色のキースラーガーでした。
地権者の方に感謝いたします。
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数ミリの黄鉄鉱をかなり含む
現存するのは3個だけ



2015年09月14日(月) 記事NO.73の1
高越山からの帰り道 その1
徳島平野を地図で見ると東西に細長く伸びていて、その中央部をこれまた東西に吉野川が流れています。つまり平野部は川によって南北に分断されているのです。ゆえに、川を挟んで人や物資を輸送するため渡し船が盛んに運行されていました。ほんの80年くらい前の話です。
大きな橋はまだ数が少なく、喫水線の浅い川船が往来していました。川岸に設けられた荷卸し場では多くの人が働いていました。人が集まると出発する船や時刻を決めてある船など、個人経営がほとんどであったようです。地元の農家や漁師が農閑期に行っていたこともあります。
亡くなった祖母の話では、夜になると人がいないはずの川岸から昼間と同じ物音や掛け声などが聞こえてきたそうです。タヌキが人をまねて遊んでいたそうです。これもほんの80年くらい前の話です。
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 上板町高志の潜水橋

2015年09月14日(月) 記事NO.73の2
高越山からの帰り道 その2
私の自宅は高越山から見て少し東の方にあります。帰りのルートはいくつかありますが大別すると2つ。南岸の国道192号線か、北岸の鳴門池田線のどちらかを走ることになります。途中で両岸をつなぐ橋があり、どこで渡るのかそれとも最後まで渡らないかはそのときの気分次第です。
山川町から対岸の阿波・市場町へ渡る橋は2つ。どちらもまあまあ通ります。川島町から吉野町へは阿波中央橋と潜水橋があります。前者はたらいうどんへ行けるのでときどき通ります。その下流にあるのが六条大橋で、石井町と上板町を結んでいます。ちなみにそのすぐ下流に第十の堰があります。6月のシーズンには太公望たちがアユを狙いに集まります。また、秋にも落ちアユを狙ってカーボンロッドを振るう人を何人も見かけます。
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足に止まったギンヤンマ

2015年09月14日(月) 記事NO.73の3
高越山からの帰り道 その3
大体通るのはこの辺りまでですが、ついでに言うと名田橋・四国三郎橋・鉄橋・吉野川橋・吉野川大橋と順に並んび、最も河口に近いのがしらさぎ大橋です。また、川中に砂が堆積してできた島がいくつかあります。両岸から離れて孤立しているので、渡り鳥の楽園になっています。
河原で見かける石もいろいろです。ざっと見て20種類くらいはあるでしょうか。「青石」の別名を持つ緑色片岩やピンク色した紅簾片岩、白い石英や黒い泥岩、深緑色または赤褐色の蛇紋岩など様々な石が落ちているのです。岩のくぼみから砂金を掘り出した山師もいるので、丹念に探せばかなりの種類が見つかるでしょう。
さて、明日からもしばらく仕事が続きます。ストレスを小出しにしながら何とか次の休みまで英気を養うことにしましょう。
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夕暮れの高越山(おこっつぁん)



2015年09月13日(日) 記事NO.72の1
奥野井谷川の奥へ その1
ぽっかりとヒマな時間ができたので、久しぶりに高越山にやって来ました。自宅からそこそこ距離はありますが、今となっては通いなれた道です。国道192号線から美郷・倉良(くらら)峠の方へ曲がり、すぐに右折して高越山山頂へ向かう道がそれです。高越大橋を渡り、谷川沿いに車を走らせること10分くらいで隧道をくぐり、目と鼻の先に少し広くなった林道があります。そこが駐車スペースになります。
この付近はかつて高越鉱山の飯場があったところで、与原とか今はなき地名で呼ばれていました。100人以上が生活していたそうです。今残っているのはわずかに2軒。しかも1軒はほとんど別荘感覚らしいので、事実上1軒しかありません。これでは集落とも言えないでしょう。寂しい限りです。
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 本坑へと続く崩れかけた橋

2015年09月13日(日) 記事NO.72の2
奥野井谷川の奥へ その2
残暑厳しく紅葉はまだまだです。谷川の水は澄んでいて冷たく、この上流ではアマゴの養殖場があります。暑かったので靴を脱いでしばらく谷川に浸していました。心地よい涼風が首筋をくすぐります。
岩の上に座っているときも、目だけは四方八方をじっと見ています。もちろん河原に落ちている石です。あえて石を探さずのんびりとくつろいでいるときに、意外と大きな発見があるものです。例えば、ルチルの大きな群晶を見つけたときもそうでしたし、トカゲハク(コベリンではなく斑銅鉱を含んだキースラーガーのこと)の塊もそれでした。
欲望にとらわれなくなれば、神様は味方になってくれるようです。成果があってもなくてもそれは神様の思し召しです(別に宗教にはまっている訳ではない。)。自然体こそが一番です。
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 この日の成果はボウズでした

2015年09月13日(日) 記事NO.72の3
奥野井谷川の奥へ  その3
「山の神」の境内にお邪魔しました。奥野井隧道(全長55m)の真上にそれがあります。3年ぶりくらいですが、しっかり道が残っていました。
高越鉱山の歴史は、明治から大正までの前半と昭和の後半に分かれます。その根拠の1つが山の神の設置場所です。前半はここにありましたが、後半はもっと下流の旧川田山小学校の裏山にありました。私が鏡を見つけた場所です。阿波学会誌ではそれぞれを山の神A及びBと表示しています。
神棚は少しずつ朽ちていて、背の高い雑草が生い茂っていました。ご神体は行方不明で、代わりに谷川から採集した石英が置かれてあります。閉山後何年も経ってから地元の人がこれを設置しました。いつまでここに残っていられるでしょうか。記憶を風化させたくないです。
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 灌木に覆われた隧道の周囲



2015年09月12日(土) 記事NO.71
門前に夜顔の花が咲く
夕闇の中でゆっくり白花を開かせ、真っ暗になる頃にようやく満開になります。その白さが暗闇ではひときわ目立ち、遠くの街燈に照らされてもきれいです。
かんぴょうの原料であるウリ科の夕顔(ゆうがお)とは別種で、熱帯アメリカ原産のつる性植物で明治の頃に日本に入って来たらしい。また、何と夜顔(よるがお)と昼顔(ひるがお)は同じヒルガオ科の植物です(朝顔も・・・。)。裏の顔と表の顔を使い分けているようで、何だか人間臭いしたたかさを感じてしまいます。私みたいにすぐ気持ちが顔に出る者にとっては、そういうところがちょっとうらやましいかも・・・。
日本では一年草扱いだが実際は多年草。そのまま放置しておくと来年も生えていたりするので、このままにしておこう。足元には水晶の破片が転がっています。
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つるが伸び放題になっている



2015年09月11日(金) 記事NO.70
高越山に萩の花が咲く
久しぶりに高越山の高い所まで登ってみました。体力がないのでもちろん車で行ける所までです。杉林の所々でシイタケを栽培しています。菌糸により軟らかくなったクリやナラ、クヌギなどの丸太は甲虫の棲みかにもってこいです。カミキリムシの開けた穴がありました。
平地ではまだまだ夏ですが、ここはもう秋の気配です。あちこちの茂みの中に赤紫色の小さい花が群れていました。萩(はぎ)です。秋の七草の1つで、四国山地を走ると道沿いにときどき目にします。県内では脇町の最明寺という寺社が有名で、何度か撮影に出向いたことがありました。目立たないけれどじっくり見れば味わいがあります。
今日は、ざくろ石緑簾片岩の表面に藍閃石結晶が付いた石を拾いました。腹が減ったので、それでは帰って「おはぎ」を食べます。ご飯をたわら状に握って甘いあんこで包んだものです。大鉱物・・・いや大好物です!
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まだちょっとつぼみが目立つ



2015年08月21日(金) 記事NO.69の1
徳島城博物館 その1
徳島城址の敷地内(徳島城の公園)にも博物館があります。この公園はぐるっと石垣に囲まれており、桜など花の名所でもあります。散歩したりベンチで休憩したり友人とおしゃべりしたりと、眉山同様に市民の憩いの場となっています。
線路に近い方には店が2軒あり、ジュースやおでんなどを販売しています。公園内にあるので利用する分には便利です。阿波踊り期間中には踊り子たちがよく休憩しています。また、復元された「鷲の門」が近いので県外のお客さんがよく見に来ています。
城山には石段を上がって見学することができます。残念ながら城本体がないため頂上には広場があるだけですが、鎧とか刀とか昔の図面とかいった物はここの博物館で見ることができます。
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博物館正門の西は展示室
東は日本庭園

2015年08月21日(金) 記事NO.69の2
徳島城博物館 その2 M39
図書室で勉強している子どもがいました。狭い部屋ですが、置いてある資料を基にいろいろと調べ物をしているようです。おそらく夏休みの自由研究でしょう。ちょっと難しそうな歴史本をひも解いていました。
そう言えばうちの子たちにも宿題が出ていました。理科の方は「石の採集」をすでに終わらせています。一方で、社会の方はなかなか課題が決まりませんでした。それでも8月上旬までにテーマを決めて研究方針を固め、お盆までに何とか完了しました。
今年は防災の観点から町内の水路を横切る橋梁や道路について調べました。自宅近くには幅0.5~20mを超える水路が縦横に走っています。約0.5平方キロ当たり延長6kmの水路がありました。想定される避難場所まで、これらを最低2ヵ所は越えなければなりません。もし橋が落ちれば孤立する危険性があることがわかりました。
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南極大陸の石でざくろ石入り
小松島市の人が寄贈した

2015年08月21日(金) 記事NO.69の3
徳島城博物館 その3
展示物の隅に「南極の石」がありました。鎧とかよりそちらに目が奪われたのは仕方ないでしょう(笑)。白い母岩に小さいけれど透明感のある赤褐色粒子が多数含まれていました。この石は知り合いの高校の先生も持っていました。南極観測隊に行った人がある程度の量を持って帰って、こちらで多くの人に配ったり博物館などに寄贈したのではないでしょうか。上の画像の石は直径25cm以上あり、かなり見事な大型標本です。
同時期に徳島大空襲の展示も行われていました。戦争末期、米軍に爆撃され多くの死傷者と家屋を焼失しました。眉山々頂から見渡す限り、ほとんど家が残っていなかったそうです。また、吉野川に架かる鉄橋を走行中の列車が銃撃を受けたこともありました。もう二度と戦争は御免です。しかし、今の世の中を見ているとそれなりの覚悟が必要かもしれません。国を誤りそうで実に愚かなことです。
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飯原一夫氏の戦争画
うちの家族の恩師

2015年08月21日(金) 記事NO.69の4
徳島城博物館 その4
ここへ来た目的がこれ、「人形浄瑠璃」の付き添いと見学です。演じたのは定番の巡礼お鶴とその母お弓です。
盗まれた阿波藩主の刀を取り戻すため、阿波十郎兵衛とその妻お弓は名を変えて大阪に潜伏します。そこに国元に残してきた娘お鶴が巡礼としてやって来ました。話しているうちにお弓はお鶴が実の娘だと気づきます。しかし、今はまだ名乗れません。両親が恋しくてはるばるやって来た娘を見て、またその気持ちを聞いて心が烈しく揺れ動きます。でも心を鬼にして娘を阿波の祖母の元へ帰るように促し、家の外へと追い出すのでした。・・・この続きは残念ながらバッドエンドとなってしまいます。
子どもが太夫として頑張っていました。今後も続けていって欲しいです。
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小学生から大学生・社会人まで
皆さん頑張っています!



2015年08月20日(木) 記事NO.68の1
眉山の後で温泉を その1
平日休日を問わず眉山でのウォーキングを楽しむ人が多いです。先日行ったときも知り合いの高校の先生と登山道でばったり。互いに挨拶して、自分が登って来た道の情報と相手が歩いてきた道の情報を交換しました。ちょっと崩れたり削られているとか、そこの花はまだ咲いていないとか、何人とすれ違ったとか、要するに眉山の話なら何でもよいのです。話が盛り上がったりすると、しばらくそこで小一時間くらい話し込んだりします。
私の目的は眉山にかつてあったという鉱山跡の調査です。すでにいくつか見つけていますが、まだ世に知られていない場所があるようなのです。・・・まあそれは今後の課題として、この日は歩くことを楽しみました。
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屋上から眺めた眉山東斜面

2015年08月20日(木) 記事NO.68の2
眉山の後で温泉を その2
2時間ほど歩いた後、下山して徳島駅前近くまで戻りました。そこにかねてから行きたかった温泉があったのです。2階からEVで最上階へ上がったところが温泉です。受付で料金を支払うとロッカーのキーを渡されました。そのまままっすぐ進んだら暖簾がありました。
この日は平日だったので入浴客は私だけでした。いきなりの貸し切り状態で気分はマックスです。浴槽は屋内に1つと展望デッキにもう1つ露天風呂があります。汗ばんだ身体を洗って一度シャワーを浴びてから、ゆっくりと全身を浴槽に浸しました。ふぅ~・・・、ごくらく極楽じゃ。ややぬるめのお湯がちょうどよいです。ホテルの基部をボーリングしたら冷泉が湧いたとのことで、それを有効利用しているのです。
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徳島駅前のバスターミナル

2015年08月20日(木) 記事NO.68の3
眉山の後で温泉を その3
お湯はやや緑色をしており、そして少し褐色に濁っていました。これは鉄分が含まれているからです。緑色は鉄(Ⅱ)イオンが溶けて、褐色は鉄(Ⅲ)イオンが沈殿していると思います。また、なめるとしょっぱいので塩分もそこそこ含まれています。徳島市は水路と橋の街で、昔は海がそこまで迫っていたそうです。その後、露天風呂に入ったりベンチに腰かけたりと好き勝手させてもらいました。約30分ほど私一人でくろぎました。
さて、今回の眉山探訪では目ぼしい発見がありませんでした。ただし、その場所には「ないこと」が確認されたので、少しずつ場所を絞れるようになりました。鉱山跡もさることながら、鉱物の採集も必須の課題です。マンガンを含むざくろ石や鉄電気石は拾っているので、金紅石やチタン鉄鉱などを探したいです。でも幻の逸品だからたぶん見つけられないでしょう。
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冷泉100%かけ流しらしい



2015年08月16日(日) 記事NO.67
送り火の灯ろう流し
お盆の最終日、鳴門市で灯ろう流しがありました。文化センター前に臨時の祈祷所が設けられ、灯ろうを付けた木の船に榊(さかき)を飾って、水路の船まで持って行きました。昔はろうそくでしたが、すぐ消えたり火事の心配があるので小さな電球に変わっていました。
船にいっぱいになると岸から離れて水路の中央へ移動します。そこで係りの者が1そうずつ川に降ろすのです。満潮を過ぎたので潮は海の方へ流れていました。ゆっくりと灯ろうが流れて行きました。とても幻想的でした。
お盆に帰って来ていた故人やご先祖が再びあの世へ戻ってい行かれました。あっ、そうそう墓参りがまだでした。明日必ず行きます。ご先祖様、すみませんでした。
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船に乗せられた幾つもの灯ろう



2015年08月15日(土) 記事NO.66の1
私は写真の係り その1
徳島県民なら一度や二度は踊ったことのある阿波踊り。ここ徳島市内では12日から15日まで、市内各場所に設置された演舞場で開催されます。もちろん早い時期から練習を重ね、有名連になると4月くらいから毎夜集まって踊っています。吉野川の河川敷や橋の下、近くの公園や神社の境内など、遠くからぞめきやおはやしが聴こえてくるともう間近に迫っていることが実感できるのです。
今年もまた知り合いの連(れん、すなわちチームのこと)に子どもたちを入れることができて、6月くらいから練習を始めました。昨年に比べてやはり上手くなっているのがわかります。私は送り迎えなどフォローに回り、無事に終わってくれるのを祈るだけです。
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藍葉浜演舞場前に集合する連

2015年08月15日(土) 記事NO.66の2
私は写真の係り その2
何度か練習場所に送り届けているうちに、私の趣味がカメラであることが知られました。最近はほとんど遠ざかっていたのですが、まあ普通に撮影することができます。そこで、先方からカメラ係りを依頼されました。業者のカメラマンとビデオ係りがいるのですが、2人ではカバーしきれない部分があるそうです。もし引き受けてくれれば普段は入れない演舞場内にも入場できます。・・・とのことで話を了承し、久しぶりに望遠レンズとカメラを倉庫から取り出しました。
その後はきちんと準備をして当日を迎えました。ところが、午前中のチェックのとき急にバッテリーが使用不可になりました。電源は入るのですが、数枚シャッターを切ると急激に電気を消耗してしまいます。これは大変なことになりました。
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紺屋町演舞場前で記念撮影

2015年08月15日(土) 記事NO.66の3
私は写真の係り その3
集合時刻は午後3時です。それまでにバッテリーを何とかしなくてはなりません。予定をすべてキャンセルしてカメラ屋に次々電話しました。型番が古いのであまり出回っていません。どこからもないという返事ばかりで焦りました。ようやく隣町の店に在庫が1つあることがわかりました。しかし、それはすでに先約がいて確保している物だそうです。日の目を見たのも束の間で、一瞬で奈落の底に突き落とされたように感じられました(ちょっと大げさ?)。が、その方が店の常連さんで今すぐ必要ではないとのこと。店長さんが機転を利かせて先方に確認すると、先に譲ってもよいそうです。その申し出をありがたく受け取り、こうして窮地を脱することができました。先に譲って下さった方とキタムラ藍住店の方、本当にありがとうございました。 イメージ

新町川に架かる橋のイルミ

2015年08月15日(土) 記事NO.66の4
私は写真の係り その4
さて、肝心な演舞の様子ですが、皆さんしっかりと踊りを満喫されました。ドイツから来られたお医者さんもいて医療関係者ばかりが集まって踊りました。私は他のカメラマンと被らないように、別角度から踊り子たちを撮り続けました。借りた法被のサイズが小さくて締めることができなかったので、そのままにして練り歩きました。観光客がぎっしり入った演舞場内で踊り子たちの間を歩くと、まるで報道カメラマンになった気分です。結局午後9時の閉演までぞめきの中を歩き回りました。
子どもたちを引き取り、夜店でいろいろ買いました。否、買わされました!ポテト、カステラ、たこ焼き、リンゴ飴、冷凍パイン、シシカバブなど、踊って腹が減ったのか子どもたちは底なしです。汗びっしょりになってそろそろ帰って風呂が恋しくなったので、タクシーを呼んで帰りました。後日、タクシー代わりの家族から別途請求がありました(笑)。
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水面に映る演舞場のイルミ
また来年です!



2015年08月11日(火) 記事NO.65の1
子どもと一緒にぶどう狩り その1
盆休みになったので子どもを連れて、土成町御所(ごしょ)のぶどう園に行きました。目的は3つありました。
まずは、お目当てのぶどう狩りです。入園料は要らなくて採った分だけ買取する仕組みでした。この時期は種ありの巨峰と種なしのピオーネが熟れています。袋のすき間からのぞき込んで、できるだけ紫色が濃い物を選びハサミで茎を切って採りました。両方合わせて10房で○千円でした。ヤブ蚊が多くてあちこち刺されましたが、帰ってからのぶどうの味は格別でした。
今度はリンゴかブルーベリーに行きたいそうです。また、場所を検索しなければなりませんね(笑)。楽しんでくれたらそれでいいです。
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袋がぶら下がるぶどう畑

2015年08月11日(火) 記事NO.65の2
子どもと一緒にぶどう狩り その2
この地の有名な食べ物に「たらいうどん」というのがあります。明治時代に当時の県知事を招いて接待したとき、タライに入れて出された物が発祥だそうです。ジンゾクの出汁でしょうゆベースの汁にうどんを浸けて食べるのが美味いのです。・・・ところが、この日は店が休みでした。WHY?
と言うことで、目的の2つ目と3つ目はあえなくダウンしました。2つ目はもちろんたらいうどんのこと。では3つ目は何でしょうか?
この辺りは和泉層群が露出しているので、河原で化石探しができます。見つかる確率は少ないですが、ダメもとで1回くらいは見てもよいでしょう。たらいうどんの店から河原に降りることができます。しかし、店が開いていなければ入れません。不法侵入する訳にはいかないし、次の機会を待つことにしましょう。
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売り物にならない小さい房
食べたらダメ?



2015年08月09日(日) 記事NO.64
ガスタンクも阿波踊り
郷土文化会館5階から見た光景です。ひつまぶし・・・じゃなくてヒマつぶしに何気なく見ていると、タンクに阿波踊りが描かれていました。阿波踊りは蜂須賀藩政時代から続く盆踊りで、今日9日より鳴門で、明々後日12日より徳島で開催されます。そして最後は16日に池田で踊り納めとなります。県内の方も県外の方もぜひお越しください。
さて、まったく話が変わります。天然ガスの主成分はメタンやエタンですが、これら気体は分類上で鉱物に含まれません(固体である千葉石やメタンハイドレートは別です。また、石油は液体ですが鉱物だそうです。)。資料によれば吉野川の一部でガスの噴出が確認されています。しかし、とても需要をまかなえるはずもなくその事実だけが残っています。そのような研究も面白いかもしれません。
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何だかボーリングの玉みたい



2015年08月08日(土) 記事NO.63の1
科学フェスティバル2015 その1
徳島大学工学部にて、第19回めの科学フェスが開催されました。実は昨年から参加していましたが、そのときは台風で中止となり2か月もかけて準備していた物がふいになりました。しかし、この1年間ずっと劣化しないように保管してようやくブース開設にこぎつけました。
某高校の名で参加していたので、私はどちらかというとサポートに専念しました。前日に準備のため会場入りし、机やいすを配置していつでもできるよう用意を済ませました。そして迎えた次の日、朝8時から一番客が並んでいます。開始は10時からなので驚きました。毎年来られている常連さんのようです。駐車場スタッフはもう配置についています。私たちも少しずつ気合を入れてそのときを待ちました。
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開会式はこの門前で

2015年08月08日(土) 記事NO.63の2
科学フェスティバル2015 その2
開場の合図とともに大勢のお客さんが入ってきました。大人2名に子ども2名のグループが多いように思いました。私たちのブースは3階にあります。最初のお客が入って来たのは5分後でした。すぐに打ち合わせの通り子ども1人にスタッフ1名が応対して、後の人には後方のイスで待ってもらいました。
出だしはぼちぼちでしたが、1時間もしないうちに待ちの行列ができました。工作時間は10分程度ですが、一度に4~5人しか対応できないので苦労しました。また、順番にスタッフを休憩させたり昼食を取らせたり、必要なときに必要な人員を手配するなど全力管制戦闘を繰り広げました(笑)。こうして16時までに今日のノルマを達成し、この日はお開きとなりました。
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工学部の共通講義棟

2015年08月08日(土) 記事NO.63の3
科学フェスティバル2015 その3
2日めも朝からてんやわんやでした。好きな石をなかなか選べなかったり、接着剤を机に付けてしまって後から大目玉を頂いたり、とにかく大変でした。午前中で表番組の「木版標本作り」がすべて終了したので、本には載せていない裏番組「フィギュア」を実施しました。百均のケースにミネラルタックでくっつけるものです。これもまた好評のうちに、終了時刻を2時間も残してすべてなくなりました。
2日間の集計の結果、全体で8500人が来場し1人平均5つくらいのブースを回ったそうです。私たちのブースには約350人ほど来られました。スタッフとしても皆初めての体験だったので緊張しました。それでも何とか無事(ではないけれど・・・)終了で来てホッとしました。来年度はまた考えます。
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朝の開場前には500名が並んだ



2015年08月05日(水) 記事NO.62
銅鏡(どうきょう)
博物館の常設展示室の奥、寄贈した石が展示されている場所から2ブロック隣には、銅鐸や石碑など歴史文化のコーナーがあります。緑青が付いてすっかり錆びてしまった銅製品の中に、まったく錆びていない銅鏡がありました。・・・もちろんこれは複製品です。しかし、もし錆びていなければどれだけ映るのか、自分の姿を映して実体験できます。
私も映してみました。かなり近づかないとわかりにくいですが、それでもしっかり自分の顔が確認できました。ちょっと老けてきたのが気になります(笑)。また、後ろの展示物などもちゃんと映っていました。市販されている現代の鏡に比べれば映りが悪いですが、これでも充分です。
高越鉱山で拾った銅鏡は新しい物でした。おそらく昭和に入ってから誰かが置いた物なのでしょう。崩壊して転げ落ちた社の残骸から発見しました。同行した自治会長から頂きましたが、然るべき場所であれば寄贈しようと思います。
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よく光を反射してきれい



2015年08月04日(火) 記事NO.61の1
徳島城跡の穴巡り(2) その1
縄文時代には徳島城跡のすぐ東辺りまで海でした。城山の麓にはそうした時代の住居跡や貝塚がいくつか残っています。背がつかえそうな低い洞穴を住みかとして、当時の人々が貝や魚を採って暮らしていたのです。アサリなど二枚貝の貝殻が多く、魚の骨や獣の骨片なども見られるそうです。柵の間からのぞき込むと白い貝殻がたくさん積もっていました。また、穴の壁はゴツゴツしていて硬そうです。奥までどれくらいあるのかはわかりません。
今はすっかり街並みに隠されていますが、この辺りの標高は1m未満なので、目を向ければ青い遠くに海が広がっているのが見えたでしょう。自然の恵みを受けて生活を営んでいたと思います。ひょっとしたら小舟で海に出て行ったかもしれません。
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徳島城博物館のウラにある

2015年08月04日(火) 記事NO.61の2
徳島城跡の穴巡り(2) その2
海が近かったという証明の1つが、波によって浸食された岩肌です。波が打ち付けると岩が少しずつ削られて、何かが岩を削って食べたような痕が残ります。鳴門の島田島とか日和佐の千羽海岸とか、今でも同じような痕が見られます。
これらの岩の上にホルトノキが生えていました。寺社仏閣を手掛けている知り合いの棟梁に言わせると、水分を豊富に含んでいるため建築材料にはまったく不向きだそうです。すぐにシロアリに食われてしまうだろうということでした。しかし、戦時中の徳島大空襲のすぐ後には貴重な材木として使用されたとと聞きました。とにかく目につくものは何でも利用したのでしょう。戦争に巻き込まれることなく、のんびりとこのような調査をしていきたいものです。
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表面は意外とツルツルだった



2015年08月03日(月) 記事NO.60の1
徳島城跡の穴巡り(1) その1
徳島駅から北東(鬼門)へ徒歩12分の位置に徳島城跡があります。かつて天守閣があった小高い丘が城山(しろやま)で、ホルトノキやヤマモモなどの樹木がたくさん生えています。また、城山周辺は公園になっており市民の憩いの場です。
城山の北側、つまり水路に面した岩壁に穴が開いています。高さ1.5m幅2mくらいで大人が何とかかがんで入っていけるくらいです。鉱山跡ではないかと考えていましたが、どうやら抜け道らしいです。この場所に城を建てたのは豊臣秀吉の配下になった「蜂須賀小六」です。そのときからあるのかどうか知りませんが、万一のときの脱出口だったのでしょう。なお、これを造らせた蜂須賀本来の血筋は絶えてしまいました。ちょっと残念です。
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遊歩道から見てやや上にある

2015年08月03日(月) 記事NO.60の2
徳島城跡の穴巡り(1) その2 M38
城山をはさんで反対の鷲の門近くに石垣が残っています。城山を半円形に取り囲み、全長は数百mに及びます。高さも私の背丈の3倍以上あり、厚さは3mくらいはあるでしょう。
石垣を構成している石は数十cmから2mで、きれいに積み重ねられています。石のほとんどが緑色または青緑の緑色片岩や緑泥片岩です。眉山北東部の佐古山などで採掘されたと思われます。一方で、赤紫や桃色の紅簾片岩もありました。マンガンなどからなる紅簾石の細粒を含む変成岩で、三波川帯を代表する石です。黒く汚れた石の中にピンクが点在しているととても目立ちます。これも眉山から採って来たのでしょう。
他にも石英脈や緑簾石、藍閃片岩なども見られました。これらの石を観察するのも面白いかもしれません。
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鷲の門からすぐにある紅簾片岩



2015年08月01日(土) 記事NO.59
露頭に孔が開けられました!(2)
記事NO.33(1)とは別の鉱物の露頭です。ここは予てより要注意ポイントとして見ている場所です。私だけでなく地元の方も含めて気になる人同士で観察を続けてきました。石の大部分は薄っすらと苔生していました。ところが、一番鉱物が濃厚な部分は真新しい状態でした。ということは、やはり誰かがここに来て岩本体をたたいていることの証左です。
少なくなったとはいえ今でものような行為をしている人がいるのはとても残念です。せめて自然にはがれて落ちている石片で我慢してくれれば良いのですが・・・。
博物館の話によると、以前にある業者が石を丸ごと採っていった(盗っていった)そうです。おそらく市販の標本セットになって売られているでしょう。今ではその跡がイノシシのヌタ場になっています。
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夏場は蚊が大量発生している



2015年07月31日(金) 記事NO.58の1
阿波の人形浄瑠璃 その1
徳島駅から眉山に向けて徒歩5分。新町川に面した藍場浜公園の横に、郷土文化会館(あわぎんホール)が建っています。様々な催しが行われ、この日も全ての階で研修や展示がありました。そして、最上階の5階では阿波の文化に関する常設展示があります。
徳島県人なら一度は踊ったことがある「阿波踊り」。それより少しマイナーですが、県人なら一応の知識として持っているのが「人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)」です。黒子2~3人で人形1体を操りながら、三味線の調べに合わせて語り部が話します。江戸時代から連綿と受け継がれてきた郷土文化で、私たちの誇りともなっています。
あいにくここではその浄瑠璃をナマで見ることができません。しかし、簡易シアターがあるのである程度のことがわかります。本物を見たい方は吉野川北岸の阿波十郎兵衛屋敷へどうぞ。
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巡礼お鶴とその母お弓

2015年07月31日(金) 記事NO.58の2
阿波の人形浄瑠璃 その2
私の家族がこの浄瑠璃を習い始めました。週1回は稽古場に行っていろいろ学んでいます。先日はようやく黒子と語り部デビューを果たし、本人曰く有望株なのだそうです(本当かどうか知らないけれど頑張ってね!)。どこでもそうですが、若手がいなくて興業が難しくなっています。大事にされているみたいですが、慢心せずに続けていって欲しいです。
確かにこれは若者向きではありません。歌舞伎を見せられた外国人からこれは罰ゲームですかって言われたという逸話があります。それと似たような状態かもしれません。しかし、今失えば永久に消えてしまいます。時代の流れとはいえ残せるものは残しておくのが良いと思います(鉱山跡を探す気持ちと同じです。)。そして、消えていこうとしているそれらに関心を持つ子どもが増えていって欲しいです。
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寿式三番叟
(ことぶきしきさんばそう)



2015年07月29日(水) 記事NO.57の1
佐古山の用水路 その1
眉山北東部には神社や仏閣がたくさん建立されています。見上げるような石段を上ると広い境内になっていて、どっしりしたお社が置かれていました。神木となる巨木が何本かあり、その幹や枝の割れ目から長年の風雪に耐えてきたことを忍ばされます。そうした一画に鉱山跡が残っていました。
阿波の藩政時代からここでは緑泥片岩を採掘していました。緻密で色合いもよいなど石質に優れ、建築現場にも近いことから大変重宝されてきたそうです。また、徳島は低地が多かったので細かな水路網が整備されてきました。それにもこの石材が使用されてきたのです。
今でも街のあちらこちらでその様子を目にできます。当時の往来のままに高瀬舟でも出てきそうでした。
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昼下がりにカモが数羽泳いでいた

2015年07月29日(水) 記事NO.57の2
佐古山の用水路 その2 M37
佐古山地区には採石場以外に佐古山鉱山がありました。主に戦時中に掘られたようで、坑道は眉山東部の地下50mを南北に走っています。黄鉄鉱や黄銅鉱、マンガン鉱物などを産出し、二次鉱物として藍銅鉱なども見られたそうです。
坑口は斜面の下の方にほぼ潰れた状態で、何とかそれだと判別できました。周囲を見渡しましたが質の良くない緑泥石ばかりで、鉄や銅などの金属光沢は見られません。戦後70年にもなるし度重なる土砂崩れがあったので、わからなくなるのは仕方ないでしょう。
鉱山跡の前の広場には、戦時中に陸軍の1個連隊が駐屯していました。装備も大した用意ができず、軍事演習といっても林の木に止まっているカラスを狙っていたとのことです。
こうした話を伺ったのは御年80歳を超える方々です。今のうちに聞いておかないとこうした事実が歴史から消えてしまいます。
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きちんと組み込まれた石壁



2015年07月28日(火) 記事NO.56の1
徳島権利博物館にて その1
催しをやっているというので、久しぶりに文化の森を訪ねました。ここは徳島市南部の園瀬川南岸にあり、博物館・美術館・文書館・図書館などの建物と広大な庭園からなる複合施設です。ちなみに図書館の下にトンネルが掘られて環状線が開通しています。
文化の森駅からのアクセスはよくないですが、徳島駅からバスが運行されていてそちらの方が楽です。土日祝日には来館者が多数いるのですが、駐車場のキャパが不足気味で昼頃の駐車にはいつも苦労しています。今の倍くらいは欲しいところですが、周辺は住宅地と山林と湿地なのでこれ以上は増やせられないようです。
私にとっては憩いの場でときどき訪れています。図書館の蔵書を読むだけでも楽しく何かのついでに行くこともあります。子どもからお年寄りまで多くの人が訪れています。
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戦時中のポスターを展示していた
瀝青炭や亜炭の採掘のこと

2015年07月28日(火) 記事NO.56の2
徳島県立博物館にて その2 M36
私たちは鉱山跡を調べたり石を採集したりしています。それで手に入れた一般情報を公開したり、特別情報は相手を限定して教えたり、石を自宅に飾ったり、誰かに上げたり交換したり、博物館や大学などに寄贈しています。
寄贈するときは、まず博物館に「こういう物があるけれど要りますか?」と連絡します。そして、その在庫がなくてぜひ欲しいとなれば持参するのです。また、急な場合はアポなしで石の産地から直行して、受付で学芸員さんの都合を聞いてから石を言付けます。なお、石の種類(鉱物の名称)と産地(採れた場所)も必要です。
こうして私たちは200個以上の鉱物や化石を寄贈しました。その一部は博物館2階で常設展示されています。誠に光栄に思います。今後もやる気が出てきました。
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常設展示中の高越山産ルチル
奥井野谷川最上流部にて採集

2015年07月28日(火) 記事NO.56の3
徳島県立博物館にて その3
環状線が開通して車でのアクセスが少し容易になりました。周辺施設としては受験の神様の猫神(ねこがみ)神社や温泉などがあります。また、裏山に遊歩道が整備されて四季折々の花や樹木が植えられ、所どころに休憩所もあるので眉山同様にウォーキングを楽しむ人が多いです。北側を流れる園瀬川ではホタルが飛んだり、ヨシノボリなどの希少種が見つかったりしています。自然と人工物がマッチしているようです。
山頂には小さな広場がありいくつかの石も展示されています。私たちもある有名な珍しい石を展示しませんかと持ち掛けたことがありました。しかし、その石が大きすぎて移動が大変な上に、誰かに勝手に割られると困るので断念しました。いろいろと悩みが尽きないです。
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おやつはフレンチトースト



2015年07月23日(木) 記事NO.55
眉山のお地蔵さん
眉山の有名な鉱物のほとんどはなぜか東部に集中しています。そのため、私もそちらに出向いてばかりいるのですが、今日は気まぐれで西部のゴルフ場近くにやって来ました。
眉山を越えるルートは2つあります。一般的なのがスカイラインを走って西部公園に抜けるルートで、もう1つが西部の地蔵峠を越えるルートです。くねくねした舗装道を走るとだんだん道が細くなってきて、そしてまた少し広くなってきて林を抜けて明るくなったと思ったら頂上です。
道端に駐車して登山道を少し登ると、ミンミンゼミの声が聞こえてきました。赤い涎掛けをしたお地蔵さんが静かに立ってらっしゃいました。ここは眉山縦断登山コースの西端になります。毎日多くの人がここを通って行きます。身体を鍛えて健康を保つためです。
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蝉時雨の中の別世界



2015年07月22日(水) 記事NO.54
眉山の紅簾石(1) M35
ある研究者からの又聞きですが、四国の紅簾石(こうれんせき)の大部分は赤い緑簾石(りょくれんせき)らしいことが成分分析でわかりました。見た目が図鑑とそっくりであっても、その組成を調べると明らかに異なるそうです。
そういったなかで、眉山産の石は紅簾石だという分析結果が出ています。小藤博士という方が研究されていたそうで、その分野ではルチルと同じように有名です。マンガンなどによって桃色から赤紫色に発色しており、大変きれいな鉱物です。また、無色透明な藍閃石を含んでいるのも特徴です。なお、露頭がいくつか残されていますが、本体を割るのは止めてください。自然にはがれ落ちた破片を拾うだけにしましょう。
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登山道の脇にあった薄桃色の石



2015年07月21日(火) 記事NO.53
眉山の水晶 M34
徳島県内には水晶の産地がいくつかあります。眉山もその1つですが、周囲10kmもある山なので産地が複数個所あるのです。例えば、大滝山の神社の裏とか緑色片岩に接している石英脈などにそれが見られます。しかし、その変成岩は見た目がきれいでなく色合いがくすんでいて、草むらに埋もれてしまえばまったくわかりません。
職場の先輩情報を頼りにある場所を訪れました。登山道から離れた笹原の中にその石がありました。言われてなければ見向きもしなかったでしょう。よく見れば2cmくらいの石英脈が走っていました。透明感は余りなくとても水晶を含んでいるとは思えません。少なくとも表面からはまったくわかりませんでした。
その石を割ることは止めてその辺に散らばっている石英片を拾い、新聞紙に包んで倉庫に入れました。そしてそのまま忘れていました。数か月も経ってからやっと思い出しました。1個ずつ確かめると1つだけ水晶を含んでいる石片がありました。
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変形水晶を含んでいた変成岩



2015年07月14日(火) 記事NO.52
台風前の第十樋門
吉野川河口から20kmくらい遡ったところに第十の堰があります。コンクリと石で造られたもので、暴れ川だった吉野川の水流を抑える働きをしています。もっとも今日では地球高温化のためか四国の雨量がとても多く、堰やダムを設けるよりは増水した分を速やかに海に流す工夫が求められているようです。
この堰の少し上流に第十樋門があります。支流に水を取り入れるための施設で、土手を走る二車線道路がここだけ一車線になっています。対向に時間がかかりますが、これも地元民にとっては毎度の光景なのでお互い様です。
台風時にはこの辺りでものすごく増水します。この樋門の高さの3分の2まで水位が上昇したときもあります。圧倒的な水量で濁流が押し寄せてきました。しかし、ちょっと水位が下がるとこの辺りはかっこうのナマズ採り場に変貌します。子どもが何人か入れるような巨大な網で岸辺の近くをすくうと30cmくらいのナマズが引っかかるのです。見物していた私は40cmもあるヘラブナをもらいました。
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晴れた日は水が澄んできれい



2015年07月01日(水) 記事NO.51
藍閃石の大きな結晶 M33
小さくても石はとても重いです。今までにもいくつか超大型の標本を見つけてきました。それらのほとんどは何とか引き上げて車に載せることができ、今は私の自宅にあります。この石もそのうちの1つです。
藍閃石は青紫色の柱状または繊維状結晶です。私が初めて見つけたのが高越鉱山の坑口前でしたが、その後友人のS様よりもっと素晴らしい結晶サンプルをいただきました。それをもとに谷川を探し回るとこれが出てきたのです。
濃紫色の髪の毛のようなものが一般的ですが、これはマッチ棒より太くて結晶も長めです。まるで小型の直角貝の化石みたいです。母岩の一部分にしかありませんが、私が見つけたなかで最大クラスだったので、その重量に四苦八苦しながら汗まみれになって持ち上げることができました。
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母岩は50×40×20cm
その後もときどき見つけられる



2015年06月30日(火) 記事NO.50の1
高越山のルチル その1 M30
和名は金紅石と称されるチタンの鉱石で、ルチルとかルータイルとか言われています。国産鉱物の銘柄標本として有名なのが徳島市眉山産の物で、意外と市場に出回らず入手は困難とされてきました。私も思い立ってから6年もかかりましたが、何とかラッキーに恵まれていくつか入手できました。
一方で、眉山に匹敵する産地がもう一つあります。吉野川市山川町の高越(こうつ)山です。ここでは今でもルチルが見つかるので、多くの採集者が訪れています。とは言っても確率は低く、詰まるところ根気と運任せになります。私はここに100回以上訪れており、いくつかの成果を上げることができました。
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一部しか残っていないが7cm
(画像に外部リンクあり)

2015年06月30日(火) 記事NO.50の2
高越山のルチル その2 M31
柱状結晶でC軸に沿って条線が走っているのが特徴です。①透明で赤い物、②透明で黒い物、③青味がかった物、④不透明で真っ黒な物、⑤あずき色でメタリックな物など、見た目も様々なのです。
このうち、高越に多いのは④と⑤で稀に①や②もあります。一方で、眉山ではほとんどが②や④で私が所有する①のようなタイプはかなり珍しいようです。また、愛媛県別子山村では①や⑤が多く③や④もあります。
トンネル直下の川原で拾った物は結晶が擦れてしまってわかりにくいです。また、結晶の形を取らず単なる塊状として産出するときもあります。和名と同様に赤くて向こうが透けて見えるような結晶は一見の価値があります。
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擦れた小さい結晶が10個くらい
(画像に外部リンクあり)

2015年06月30日(火) 記事NO.50の3
高越山のルチル その3 M32
ルチルを含む母岩はほとんどがそれで、特に石英片岩や藍閃片岩が多いです。ゆえに、河原ではまずそれらの石を探してひっくり返したり、持ち上げて詳細に表面を観察したりします。ちなみに、博物館で展示されている結晶は川原で一度上をまたいだものの、何か気になってバックして再びひっくり返して見つけました。
私自身はほとんどハンマーを使いませんが、それとタガネは常備しています。その数少ない機会がルチルを含む石を割るときなのです。大概の石はとても硬くて小さなハンマーでは役立ちません。そこでタガネを使って端からちょっとずつヒビを入れていきます。上手くいくと大きさのあるきれいな結晶が採集できます。
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藍閃片岩にルチルとドロマイト
(画像に外部リンクあり)



2015年06月28日(日) 記事NO.49
ちょっと釣りしてます!
今日は朝早くから家族サービスをしています。義理の弟が釣りのプロ(各地の海釣り大会で優勝している!)なので俄かレクチャーをしてもらって、彼の行きつけの店を紹介してもらって釣竿やエサを購入しました。私自身が釣りをするのは○十年ぶりになります。
目的地の岩壁に着いてすぐに糸を垂らしました。上からのぞき込むと黒くて小さな魚影がたくさん見られます。アミを金属製のかごに詰め込んでそれに近づく魚を針で引っかける、いわゆるサビキ釣りをしました。結果は今一でエサを取られるばかりでした。それでも子どもたちが数匹釣り上げました。
私は途中から釣りそっちのけで、岩壁の花こう岩などを観察していました。小さな水晶や長石など、ペグマタイトをいくつか確認しました。
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この日は家族連れが多かった



2015年06月24日(水) 記事NO.48
リング状のチタン石 M29
三波川帯という地質帯に沿ってキースラーガーが産出し、多くの鉱山が稼働していました。紅簾片岩もこれに沿って分布しています。そして、チタンもやはりこの地質帯に多く含まれているようです。
地殻中に含まれる元素を多い順から並べたものをクラーク数と言いますが、チタンは遷移元素としては鉄に次いで2番目に多いです。つまりそれだけたくさん含まれているのです。
チタンを含む鉱物と言えば、金紅石(ルチル)・チタン石(スフェーン)・チタン鉄鉱などがあります。これらは基本的に酸化物であり、クラーク数1位の酸素と化合しています。単体は軽量チタンなどと言われてよく使われています。金属チタンの相場は1g当たり1円です。安いように思われますが、ほぼ純度100%アルミニウムのアルミ缶1kgが20円くらいなので、むしろ高い方だと思います。
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チタン石の層がうまく露出している



2015年06月23日(火) 記事NO.47
高越鉱山のキースラーガー M28
高越鉱山は徳島県下最大のキースラーガー鉱山でした。キースラーガーとは「含銅硫化鉄鉱の鉱床」を意味するドイツ語で、純粋な物では鉄44%、硫黄48%、銅を3~6%くらい含んでいます。
採掘された鉱石は適当な大きさに割られ、索道によって湯立駅(現在の阿波山川駅)まで運ばれました。ワイヤーで吊るされたバケットに入れて空中を移動していくため、たまに鉱石が下に落ちてしまいます。それらが今でも山中や河原から見つかるのです。
すでに閉山から50年くらい経つので、鉱石の表面はすっかり錆びて風化しています。やや赤みがかった褐色で緑青が浮き出ていたりします。内部までグズグズになっている物もありますが、一方で金色の新鮮な面が見られたり、青紫色の斑銅鉱を含んでいる物もあります。
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四角形に整えられた鉱石



2015年06月22日(月) 記事NO.46
高越山の燐灰石? M27
別子山村瀬場谷のエクロジャイトの石碑と、その片割れであるふるさと館の切断標本には様々な鉱物が含まれています。金紅石(ルチル)、黄鉄鉱(パイライト)、そして燐灰石(アパタイト)などです。
その産地のエクロ中にこれらの鉱物が含まれるのであれば、高越のエクロに同じものが入っていてもおかしくないはず。そう考えた私たちは数少ないエクロを探し求め、そのいくつかにルチルやパイライトが含まれているのを確認しました。ところが、アパタイトだけがなかなか見つかりません。白い鉱物はほとんどが石英で、母岩が変われば曹長石だったりしました。
そうしたなかで、ある日少し変わった様相を示す鉱物を見つけました。一部がシャンパンカラーとなっている結晶です。目の肥えた知人に見せるとどうやらアパタイトらしいです。確かに別子山村のエクロ中のそれと見た目だけは合致します。組成はリン酸カルシウムCa3(PO4)2で表され、人体の骨や歯と同じです。また元素分析してみましょう。
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藍閃石化した枕状熔岩に含まれる



2015年06月17日(水) 記事NO.45
やや風化したエクロジャイト(4) M26
愛媛県産の物に比べるとレアですが、何度も現地に通って地元の人にも聞き込みして一緒に採りに行きました。おかげでいろいろなバージョンの石が入手でき、県立博物館にも常設展示されるようになりとてもうれしいです。
地下50~100kmからやって来たマントル内の鉱物ですが、柘榴石とオンファス輝石からなります。前者は赤褐色~黒褐色の粒子で、後者は緑色をしています。これの鉱脈が地表に現れて年月が経つと、少しずつ黄色みまたは褐色なってきます。そして最後はほとんど灰白色になります。白っぽい粉を付けたような質感です。それを斜面で探してハンマーで割ると、きれいな結晶を含んだ中身を見ることができます。
目がある程度肥えてくるまでに5回以上の山行きが必要でした。もっとも詳しいことを知っているプロが一緒なら2~3回で充分でしょう。どなたか教えて下さる方はいないでしょうか。
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褐色と灰緑色になった岩石



2015年06月15日(月) 記事NO.44
藍閃石中のチタン石 M25
チタン石は組成式CaTiO3で表され、チタンやカルシウムからなる鉱物です。無色・褐色・鶯色・黄白色などの結晶が岩石に挟まっていて、それがまるで岩を割るときに打ち込む楔(くさび)のように見えます。そこから「くさび石」の別名が付いています。大きい物では1つの単結晶が500円玉大の物が見つかっています。また、透明な物は「スフェーン」と言って宝石みたいに加工されたりします。
石採りを始めた頃はこのチタン石も珍しいと思っていました。しかし、目が慣れてくるとあちこちにあることがわかりました。それでも結晶がきれくて大きい物は稀です。チタン石の中にルチルが含まれている物も珍しいです。ありふれた物でも見方を変えると貴重品になります。もっと多くのことが知りたいです。
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岩石に含まれる黄白色結晶



2015年05月29日(金) 記事NO.43
高越鉱山のアセチレンランプ
高越山でお世話になっているF氏よりいただきました。
真鍮(黄銅)製で下部のタンクにカーバイドを入れます。上のタンクから水を少し滴下すると、カーバイドと反応してアセチレンが発生します。管を通して丸い鏡のような部分の中央からガスが出てくるので、それに着火すれば灯りになるのです。腰のひもにタンクを付け、頭部まで管を延ばして鉢巻きで固定していました。その後、灯りは電池式に代わり火傷の心配もなくなりました。
年月が経つうちに、こうした鉱山用具も少しずつ棄てられてしまいます。そうなる前に何とか見つけ出して保存したいと願っています。読者の皆さんにもご協力をお願いします。
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F氏の玄関の上がり框にて



2015年05月22日(金) 記事NO.42
キースラーガーの定性分析
定性分析とは、細かな量は別にしてとりあえず何が含まれているかだけを調べる化学実験です。金属の場合、イオンに色が付いていることが多くそこから成分を判断できます。
高越鉱山で採集したキースを希塩酸に浸しました。すると、黄褐色の溶液になりました。これは鉄(Ⅲ)イオンの色です。また、斑銅鉱を含んでいそうな高品位鉱石では緑色になりました。緑といえばニッケルイオンですが、この鉱山からニッケルを取り出した記録はなく、青色の銅(Ⅱ)イオンが混じっていると思いました。アンモニア水を加えると、溶液の色が濃くなってやや青味がかったので、おそらくそうでしょう。また、ハンマーで強くたたくと火花が散り、鼻を刺すような刺激臭が発生しました。これは固体の硫黄が二酸化イオウという気体に変わったためと判断しました。
採集ばかりではなく、この実験のような活動も大事だと思います。
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暑い中での実験はちょっと辛い



2015年05月20日(水) 記事NO.41
産地不明の斑銅鉱 M24
高越鉱山の御神体を探して7年になります。山のような形で大きさは30cm以上。ほとんど斑銅鉱の塊で、少量の黄銅鉱を含むということでした。
昭和44年に閉山が決まったとき、誰かが山神社から持ち出したらしく気づいたときはもうありませんでした。
科学センターが最近入手したモノがそれではないかと思いました。そこで実物を観察したり、地元の方の話を検証したりしました。その結果、残念ながらご神体ではないらしいことがわかりました。
誰かが今も知らずに持っているのか、それとも鉱石として売られて融かされてこの世に残っていないか・・・、わかりません。でももしそれが現存するなら、後世のため博物館かそれに準ずる機関に寄贈したいと思います。それも私たちの活動の1つです。
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茨城県日立鉱山産の斑銅鉱?



2015年05月18日(月) 記事NO.40
標本セットを作ってみました! M23
岡山県の○○ダンゴが入っていた木箱を利用して、徳島県産の鉱物標本セットを作ってみました。サイズは22×15×3cmくらい。木枠も付いていて24種類も収納できます。手持ちの石を適当な大きさに割り、ガーゼを敷いてラベルをはり3日ほどかかりました。
藍閃石・緑泥石・紅簾石・緑簾石・透緑閃石・白雲母・苦灰石・蛇紋岩・方解石・柘榴石・チタン石・水晶・赤鉄鉱・黄鉄鉱・黄銅鉱・磁鉄鉱・チタン鉄鉱・ハウスマン鉱・燐灰石に、金紅石・斑銅鉱・辰砂・キースラーガー・エクロジャイトも入っています。自分で言うのも何ですが、県内で産出する主要鉱物が全て含まれ、現地へ行ってもほとんど採集できない物まであります。
これを2セット作って最近知り合った方々に差し上げました。理由は2つ。学習に使うことがあり、且つ大事にしてくれそうだったからです。誰かのために役立てるのなら、今後も作り続けようと思います。
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完成すると何となくホッとする



2015年05月12日(火) 記事NO.39
藍閃石中の黄銅鉱 M22
珍しい鉱物の取り合わせで、尚且つ見た目がきれい物はめったにありません。駆け出しの頃に比べれば多少は目が利くようになりましたが、私としてはまだまだです。石を百個拾ってもそのうち持ち帰る物が2~3個あれば、成果として十分です。それも詰まるところ運任せですが・・・。
藍閃石の繊維状結晶をいくつか見つけました。私が初めて実物を見たのは、北海道在住の友人が送ってくれた石を見たときからです。青紫色の母岩表面に、ほとんど黒に近い結晶が生えていました。その後、高越山の通洞坑近くで採集でき、今ではある程度の石まで見分けられるようになりました。送ってくれたS様に感謝します。
ありふれた石にも何か見どころがあると思います。

2016年4月、この石は熱心な個人のところへ貰われていきました。
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金色は黄銅鉱の鉱脈



2015年05月02日(土) 記事NO.38
奥野井谷川の源流にて
高越山南麓から流れ出る奥野井谷川は延長3kmくらいで、名越鉱山(川田山)辺りで合流します。途中で降りられる場所も少なく、採集ポイントは5カ所くらい。半世紀前なら水晶などが拾えたそうですが、そこに足蹴く通っている私でもまだ数個しか見つけられていません。山体を構成する主な変成岩は藍閃石・緑泥石・紅簾石片岩などで、石墨片岩や緑色片岩なども見られときどき河原に落ちています。
鉱物の種類も多いですが、必ず採集できるとは限りません。この日はちょっと幸運が舞い込んで、チタン石・チタン鉄鉱・満バン柘榴石・鉄バン柘榴石・黄鉄鉱・ルチル・黄銅鉱・斑銅鉱・アパタイト・紅簾石結晶・緑簾石結晶・磁鉄鉱などが見つかりました。日を改めて公開したいと思います。
なお、奥野井隧道(トンネル)の出入りには気を付けてください。
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見た目は白っぽい石ばかり



2015年05月01日(金) 記事NO.37
まるで赤石のエクロジャイト(3) M21
瑠輝石またはエクロジャイトともいう変成岩は世界で20ヶ所くらい、日本ではわずか3ヵ所の地域だけに産出します。赤いザクロ石が緑色のオンファス輝石中に含まれる石ですが、産地ごとに多少の相違点が見られます。
高越山では、薄緑色または薄紫色の母岩に透明感のある赤褐色粒子が含まれています。それを「藍閃石エクロジャイト」と称します。それに対して、東赤石山ではもう少し濃い緑色の母岩で赤味の濃い粒子を含んでいます。また、権現山では同じような母岩に桃色の粒子や鉱脈を含むことがあります。
M様から頂いた石は見た目の質感が赤石とそっくりです。ところが、これは高越で採集したものだそうです。そう言えば、以前に採集した○○産のルチルと△△産のものの一部がよく似ていたので驚いたことがありました。先入観が入ると真実が遠のく・・・とはよく言ったものです。
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見慣れたつもりでも、
まだ見たことのない産状に驚く



2015年04月15日(水) 記事NO.36の1
焼き物の里(2) その1
ポチョーン・・・、ピチョーン・・・。
とても澄んだ音が聴こえます。ここは登り窯跡に造られた「水琴窟(すいきんくつ)」です。地中に作りだした空洞内部に滴下水が落ちることで、壁面に音が反響して何とも神秘的な音色になるのです。昔から日本庭園の装飾の1つとされています。
これを造るときによく使われるのが瓶(かめ)です。ひっくり返してさかさまの状態で土に埋め、上部は陶器や金属、側部は土、底面は小石や瓦などで覆います。そして、音が上部に抜けるように縦穴を開けたり、水切りを設けたりと細かな仕様をして完成です。良い音を作るためにはそれなりの技術を要します。ここにもその1つがありました。
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休憩所は窯の中にあった

2015年04月15日(水) 記事NO.36の2
焼き物の里(2) その2
鍛錬千日の行、勝負一瞬の行・・・。本県では伝説的な野球の名監督の言葉だそうです。昭和57年夏と58年春の全国大会を連覇して、その夏の準決勝で敗れてしましました。しかし、当時はやまびこ打線として全国を震撼させたチームでした。今はそこそこのレベルですが、いつかは再び甲子園の土を踏むかもしれません。
私もその監督の色紙を持っています。あることをしたお礼にと頂いたもので、優勝して地元に凱旋したときの写真も貼られています。宝物というわけではありませんが、大事に持っています。なお、先の準決勝で負けた相手校では野球部の存続が危ぶまれています。何とも皮肉な運命に戸惑いを隠せません。
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お孫さんは映画監督



2015年04月14日(火) 記事NO.35の1
焼き物の里(1) その1
土の質が良い場所は焼き物が盛んです。四国にもそうした産地がいくつかありますが、本県では鳴門の大谷焼が有名です。子どもの身長を越える瓶や壺、大きな平皿などが毎日のように焼かれています。・・・ということはなく、1週間とか10日とかある程度陰干しした物ができてから火入れをします。
家族が絵付けをしたいと言うので一緒に行きました。釉薬が数種類しかなく配色は今一つでした。しかし、面白い模様を書いていました。
私は余り関心がないため周辺をぶらぶらしているだけです。今年の春は雨が多くカサが離せません。庭先に大量に干されていたはずの焼き物たちが濡れています。壺の間にカタツムリがのんびり這っていました。遅咲きの水仙がきれいでした。
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土を積み上げて造った登り窯

サンプル2015年04月14日(火) 記事NO.35の2
焼き物の里(1) その2
裏庭には二羽、庭には二羽、鶏がいる(うらにわにはにわにわにはにわにわとりがいる)。・・・ではなく、裏庭にはたくさんのスイレン鉢がありました。一尺(30cm)から四尺を超える大型まで、価格もウン千円からウン十万円までいろいろです。
自宅にここで作られた鉢がいくつかあり、スイレンを植えたりメダカを泳がしたりしています。植え方は、まず小さな植木鉢に土を盛り苗を植えます。次に、水を張った鉢にそれをゆっくりと沈めて完成です。つまり大小2個の鉢が必要になるのです。
他にも醤油瓶や昔使っていた火鉢など、様々な物を利用して庭を飾ります。言うなれば和風のガーデニングでしょうか。水っぽい雰囲気の中にすっきりとしたものが感じられます。
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水の中のスイレン鉢
周りの小さいのはメダカの群れ



2015年04月13日(月) 記事NO.34の1
第九の街 なると その1
フロイデ シェーネル ゲッテンフンケン トホテル アウス エリーズィウム. ビィール ベトレーテン フォイエルトゥルンケン ヒムリッシェ ダイン ハイリヒトゥム ・・・。有名な交響曲第9番合唱、通称「第九」が日本で初めて演奏された場所がここです。歌詞の意味は、「歓喜よ。美しき神々の煌めきよ。天上の楽園の乙女よ。 我らは炎の様な情熱にあふれ、あなたの聖なる場所に踏み入れる・・・。」というらしいです。
1918年6月1日、ここ鳴門市板東の地に収容されていたドイツ人捕虜たちにより演奏されました。80人にも及ぶ合唱団の協力も得て、大成功に終わったとのことです。この事実は映画「バルトの楽園」にて公開され、俘虜収容所の職員や鳴門市の地元民らと、ドイツ兵たちとの交流の様子が描かれています。戦時中は非人道的な差別や虐待などが頻発していたなかで、このように互いを尊敬し合い交流を深めていったこれらの行為は私たちに感動を与えてくれます。 
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桜を背に指揮するベートーヴェン

2015年04月13日(月) 記事NO.34の2
第九の街 なると その2
残念ながらバルトの楽園の舞台セットは撤去されてしましましたが、鳴門市ドイツ館やドイツ橋というアーチ橋などがあります。また、裏山に「ばんどうの鐘」がありここから遠くを見渡せます。
さて、ちょっとおなかがすきました。ドイツにあやかって大ジョッキのビールとフランクフルトでも味わいたいものです。ドイツに住んでいる知り合いによれば、いきなり乾杯したと思ったらジョッキを数秒から数十秒で空けてしまうそうです。それもつまみなしですから大したものです。また、子供用ビールというのがあってアルコール度数0.5%です。小さいときからこれですから、大きくなれば推して知るべしでしょう。
そういえばライフル射撃も盛んでした。黒の森シュバルツヴァルトでは狩猟が行われていたのでしょう。
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貴族の館のような佇まい



2015年04月11日(土) 記事NO.33
露頭に孔が開けられました!(1)
ある朝、地元の方から通報がありました。
以前から気になっていた某所の露頭に孔が開いているとのことでした。取りも直さず駆けつけて案内してもらいました。すると、見事に真ん丸い孔が2つ開けられていました。知り合いの某大学の先生や博物館の学芸員さんによると、これは硬質の岩石を掘削するのに使う特別製の電動ドリルを使用したらしいです。先生もドリルを所有されていますが、砂岩などやわらかい岩石用だそうで、それではこの露頭に歯が立たないと言われました。
日課の散歩をしてこの近くを通りかかったとき、ブオーという大きな音が聴こえたそうです。そのときはチェーンソーで材木の切り出しでもしていたと思って気にかけませんでした。もう少し気にしていればよかったと言われました。多分これはどこかの大学(関西方面?)の誰かが研究のために切り出したように思われます。その後どこかで論文が出るかもしれません。研究のためだけならば今回は大目に見るそうです。ただし、地元への挨拶なしでは次回はないかもしれません。地元との軋轢を生みださないようにきちんと礼儀や節度を守りましょう。
その後、別の誰かが孔の周辺を割っているのが確認されました。こちらは残念ながら研究ではなさそうです。いつも散歩をしている方々が今後は充分注意をしておくそうです。無断での行為が見つかったときは、始末書かもしれません。
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何だか誰かの鼻みたいです

掘削した当人ならわかるでしょう

9月にはもっと割られていました



2015年02月22日(日) 記事NO.32の1
鳴門北部の和泉層 その1
四国の地質帯で、北側から2番目に位置するのが和泉(いずみ)層です。産出する化石が少ないことで知られていますが、ピンポイントで探せばいろいろ見つかります。
アンモナイトは数が少なく断片的な物ばかりです。海に近いため波に浸食されてそれが含まれる地層が削られています。アヤメ石は比較的見つかりやすいです。植物ではなく生痕化石ですが、まるで昆布などの海藻のように思えます。ノジュールがいくつかありましたが、割っても何も出てきませんでした。何が核になってこのような形状になったか不思議です。
注意点として、干満の差が激しいため干潮時刻を知る必要があること。満潮時±2時間以内は産地までたどり着けません。波にさらわれるかもしれないので無理はしないように。
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北泊(きたどまり)集落の朝

サ2015年02月22日(日) 記事NO.32の2
鳴門北部の和泉層 その2
和泉層を探して鳴門市北部の島々を巡っています。道端に駐車して徒歩で移動すると、予想しなかったいろいろな発見があります。
第二次世界大戦後半の太平洋戦争末期、日本は米国による空襲にさらされていました。毎日のように空爆があり多くの人が亡くなりました。・・・私は爆弾が投下されて自分の近くに落ちた夢を見たことがあります。
その日、鳴門の北の海上で少年兵がカッター訓練をしていました。すると、突然米国の戦闘機2機が飛来してきました。すぐに逃げようとしましたが、機銃掃射に追いまくられて次々命を落とし、かなりの数が犠牲となりました。
小舟で丸腰だから、戦闘機の脅威にはなり得ないことはわかっていたはず。ということは、遊びで撃ってきた。絶対的有利な立場でなぶり殺したと捉えられても仕方ないでしょう。当に鬼畜の所業です。
この事実はしばらく世に知られませんでしたが、地元史の発掘により日の目を見て石碑が立てられました。嘆きと悲しみの海でした。
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犠牲者を悼む「慟哭の海」

2015年02月22日(日) 記事NO.32の3
鳴門北部の和泉層 その3
戦争はもっとも大事な命のやり取りを軽くしてしまいます。上述の米国人たちを許せませんが、旧日本軍も相当なことをしています。犠牲者の数は違えども似たようなことはしてるはずです。それをときどき思い出して反省して、国の行く末を間違えないようにしてもらいたいです。
「蟹工船」を書いた小林多喜二の通夜の写真が見つかりました。蟹工船(かにこうせん)とは遠洋まで行ってカニ漁をする船のことで、従業員として雇われた人が暴力や搾取といったひどい目に遭わされていることを赤裸々に綴っています。また、当時肥大化しつつあった軍への批判も含まれていました。それを苦々しく思った軍は特高という警察を向かわせ、小林を拉致監禁して暴力をふるい死体にして帰したのです。国家権力による殺人でした。
今の世の風潮がいつか来た道であってはなりません。
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海上にはただ風と波の音だけ



2015年02月15日(日) 記事NO.31
徳島市の日曜市にて
問屋町繊維会館を中心に、毎週日曜日朝から昼まで開催されています。肉や魚、野菜や果物、衣類や雑貨がメインですが、それに混じって様々な古品もあります。昭和時代の家具や日用品、どこから入手したかわからない顕微鏡(地元の某大学のシール付き)、古い雑誌やレコード盤、農家で使っていた古民具など、いったいどれだけ価値があるのか全くわかりません。ただ言えるのは、興味がない人にはガラクタでしかないってことです。逆に、それらに価値を見つけられる人はスゴイと思います。
石も売っていました。どう見ても関川の柘榴石です。握りこぶし大が500円。買う人はいないようでした。他にも産地不明の方鉛鉱や黄鉄鉱もありました。おそらく神岡産だと思います。閉山間際にかなり持ち出され、その筋に売られた物でしょう。中国産のホタル石は液浸で着色した方解石のようでした。
面白かったのが、ピーコックと英名で書いてあった下に、和名でクジャク石と書いてあったこと。前者は黄鉄鉱や黄銅鉱の表面に針鉄鉱などが生じて虹色になった物で、後者は銅が反応して生じた緑青(ろくしょう=塩基性炭酸銅)なので全く別物です。
結局、100円定食を大量に買って帰りました。その日のお昼は腹いっぱいでした。
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100軒以上の店が並ぶ
冷やかしだけでもおもしろい



2015年01月22日(木) 記事NO.30の1
名越鉱山跡を訪ねて その1
高越山北麓のふいご温泉に行きました。高越鉱山通洞坑を泉源として、鉄分を含んだ冷泉を加熱して使っています。通洞坑から湧き出てくる鉱水中の泥を沈殿槽で落とし、それをパイプで引き込んでいます。浴室はそう大きくはありませんが、それでもゆったりと足を伸ばすことができます。上流のトンネル付近で石採りした後で、ときどきここで至福の時を過ごすのです。
湯上りには身体がほてって少し暑いくらいです。ロビーで新聞でも読みながら時間をつぶします。建物を出るとすぐ駐車場で、紅簾片岩の露頭の看板があります。そこから歩いて5分で鞴橋(ふいごばし)があり、そのかなり下の水面近くに舌状に飛び出している露頭が見えます。赤紫色の大きな岩塊でした。
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今は通行禁止の鞴橋

2015年01月22日(木) 記事NO.30の2
名越鉱山跡を訪ねて その2
鞴橋のその先に名越キャンプ場があります。芝生を植えて整備されているためきれいで、屋根付きのかまどや水洗トイレもあります。以前に香川県の人が泊まりに来て、場所を教えてあげたことがありました。
このキャンプ場の対岸に精錬所跡があります。高越鉱山川田山坑で採掘された鉱石から銅を取り出した場所です。斜面が赤黒い石のような物で覆われていますが、鉱滓(こうさい)またはスラグとかカラミという人工物です。銅の成分を抜き取った後の残りカスなのです。
まだ銅が含まれているようで、緑色や水色の被膜が付着していました。クジャク石や水亜鉛銅鉱のようです。金色の結晶が丸ごと残っていましたが、おそらく黄鉄鉱でしょう。人工物とはいえ、面白そうな物は全部拾ってきました。
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高さ25m、幅20m以上ある

2015年01月22日(木) 記事NO.30の3
名越鉱山跡を訪ねて その3 M20
少し離れた場所で鉱物採集をしました。緑色の母岩に透明な石英がくっつき、無理やり言えば水晶でしょうか。黄白色透明な結晶は燐灰石のようです。濃い藍閃石中に幾筋も鉱脈が走っていました。
変わった岩石を見つけました。ほとんど白雲母からなりペラペラとはがれやすい石です。褐色の部分は苦灰石(ドロマイト)のようで、希塩酸を加えると発泡して溶けました。その結晶の中に、別のあずき色の柱状結晶が含まれていました。金紅石(ルチル)です。長さ3cm、幅1cmの結晶を筆頭に、大小5個の石を拾いました。
このような鉱物の組み合わせはとても珍しいです。友人に上げたり博物館にも寄贈しました。今後も地元の利を生かして様々な共産パターンの石を探していきます。
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15×8×8cmで3つ鉱物を含む
(画像に外部リンクあり)



2015年01月08日(木) 記事NO.29
梅の花
「梅の花ぁ~、開けぇ~、匂えぇ~、・・・。」
寒くなってきましたが、子ども神輿に付き合うことになりました。神社を出発して町内の檀家を一回りします。距離にして約10kmを5時間かけて歩き、最後は再び神社に戻ってきます。午後3時ごろから始まり、夕方暗くなると小さい子は帰します。そして、年長者20名と大人10名で残りを回るのです。
昔はもっと子どもが多かったので、神輿を担いでずっと歩きました。今では大八車に丸ごと載せて稚児2名がタイコをたたきます。檀家では差し入れやお捻りを用意して待ってくれています。子どもたちは寿司やお菓子をほおばり、大人たちは一杯ひっかけながら賑やかに進行しました。
今後もこうした地元の活動が続いて欲しいです。
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暗くて寒いなか皆さん頑張りました



2015年01月01日(木) 記事NO.28
明けましておめでとうございます!
新年は寒風吹きすさぶ薄暗い朝から始まりました。初日の出が少しだけ期待できるかと思ったのですが、何とか水平線上の雲間に太陽の下半分だけ見えました。
ハマグリの吸い物と餅4個の雑煮を食べて、鳴門へ初もうで。参拝客はまだ少なかったのですが、ちょうど護摩焚きをしていて不謹慎ながらその火に当たらせていただきました。お土産を買って親戚まわり。お年玉用にストックしていた紙幣が懐から次々消えていきます(泣)。その後、子どもたちは母親に連れられて初売りへ。福袋を買うと息巻いていました。
金銭的にも時間的にも開放された後、ついでにビーチコーミングしてきました。漂着物採集とは聞こえが良いですが、実態はゴミ漁りです。でも私はそれで良いと思っています。
捨てる神あれば拾う神あり。そのゴミからオタカラが出てくることが多いのです。本日の収穫は、ブイ・浮き・ガラス玉・流木・タカラガイ・ロープなどでした。
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ウチノ海の筏も寒そうでした



2014年12月20日(土) 記事NO.27
関川と同じ?柘榴石 M19
現在は東進して流れている吉野川は、ずっと昔には瀬戸内海に流れ込んでいたそうで、それを「古吉野川」といいます。美馬町にその痕跡が残っており、現地の堆積層から丸くなった柘榴石や曹長石などが見つかります。特に、黒色または灰緑色の母岩中に白色の粒子が見られる石、すなわち「曹長石点紋角閃片岩」の見た目が関川産とそっくりです。
しかし、一方でこれらの石がどこからやって来たのか、その由来については明らかになっていません。愛媛県の赤石山系で超大規模な土砂崩れがあったためか、柘榴石の未知の露頭があったが今は完全になくなってしまったとか、いくつかの仮説はあるけれどまだわからないそうです。
先日、ある場所で柘榴石を見つけました。この周辺では珍しいタイプでどちらかと言えば関川産に近い物でした。ひょっとすると新しい仮説が生まれるかもしれません。それにしても、古代の事実を解明していくのはロマンですね。
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柘榴石と角閃石が混在する



2014年12月16日(火) 記事NO.26
高越山の緑閃石 M18
色で分類すると、白・紫・ピンク・緑・黒色の石が目立ちます。白は石英や曹長石、紫は藍閃石、ピンクは紅簾石、黒は角閃石などですが、緑は種々の緑色片岩のことです。見た目だけの判断なので間違いもあるでしょうが、素人だったら大よそのところが合っていれば良いと思います(これはちょっと開き直りですね。)。
緑色の石には結晶を伴うものがいくつかあります。緑閃石もその1つです。緑簾石でもゆう簾石でも緑泥石でもない石が何種類か見つかっています。透明感のある緑色柱状結晶はアクチノライト、白色柱状結晶はトレモライト、やや赤みのある紫色の結晶は期待を込めてヘキサゴナイト(?)と勝手に判断しています。前者2つは本当にそれらしいですが、後者は成分分析でもしないとわかりません。
そして、これら以外に見られるやや深緑色結晶を「緑閃石」と称しています。石英やルチル、チタン石などを伴います。晶洞の内側に結晶が生成していることもあります。
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石英表面に生えている結晶



2014年12月12日(金) 記事NO.25
結晶片岩の浜には砂鉄が少ない
大神子(おおみこ)海岸は徳島市南部に位置して、テニスコートやバーべキュー場などがあります。急に深くなるため海水浴はできませんが、よく釣りをする人や海岸を散策する人がいます。私もときどきここで焼肉とビールを楽しんでいます。
浜に落ちている礫はどれも大きくて、表面に砂などは見えません。薄っぺらい小石ばかりで水切り遊びには使えるでしょう。地元の冊子によると、この辺りの地層に赤鉄鉱の鉱脈が走っているようです。試しに磁石を用いて浜辺を歩いてみました。・・・結果はほとんど付着しません。他の砂浜であればもっと真っ黒に着くのですが、ここはきわめて少ないようです。
かなり旧い鉱業権の申請書を調べると、砂鉄や砂金の採掘が申請されていました。しかし、これでは大赤字間違いなしだったでしょう。
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穏やかな湾に波がうち寄せる



2014年12月6日(土) 記事NO.24の1
箸蔵寺にお参り その1
四国別格霊場15番の箸蔵(はしくら)寺は、池田の市街地より吉野川を挟んだ北岸にあります。山頂にあるためロープウェイで上り下りするのが一般的ですが、徒歩でも1時間半あれば何とか寺まで行くことができます。でもやっぱり体力に自信がないので、この日は見晴らしの良いゴンドラに乗り込みました。
紅葉がほぼ終わりかけて山全体が深緑と枯葉色をしています。北西風も少しずつ強さを増していました。こちら側は和泉層群なので、産出するとすれば化石でしょう。一方で、対岸は三波川帯なのでキースラーガーを産出します。この近くでは、三好鉱山・三縄鉱山・粟山鉱山などでしょう。跡形もなくなってしまった場所もあり、これも時代の流れでしょう。少しだけ残っている遺構にその当時の生活や文化のにおいが感じられます。
帰りにうどんをすすりました。凍えそうな心身が温まりました。
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箸蔵山ロープウェイからの眺め

2014年12月6日(土) 記事NO.24の2
箸蔵寺にお参り その2
昨日、出張で隣県へ出向きました。早朝まだ暗いうちに家を出られたので、高速に乗らずに海岸沿いの国道をずっと走りました。3時間後に現場についてすぐ仕事に入り、昼食までほとんど休憩なしでした。するとそこへ1本のTELがありました。家族から私への安否確認でした。
まったく知らなかったのですが、四国中央部の山地が大雪に見舞われ、高速がすべて通行止めになっているそうです。120台もの車が立ち往生して、長い人では8時間も車中に閉じ込められている状態でした。何と半分の確率で私もその仲間入りするところだったのです。それを心配してくれて先ほどのTELとなったわけでした。
仕事を途中で放り出してしまいたかったですが、17時までしっかり勤務して急いで帰路につきました。夜空は憎らしいほどに澄み切って、煌々と光る十三夜の月が出ていました。結局4時間かけて無事に帰られました。まるで神がかったような一日でした。
今日もまだ箸蔵山周辺では50cm以上の積雪があるようです。それがどれだけ行動の自由を奪うのか、私自身は北陸や北海道で体験しています。南国ゆえに忘れがちですが、この冬も気を付けて行動します。
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境内は薄い雪が凍結している



2014年11月28日(金) 記事NO.23
今年の松茸はこのくらい?
県北には松林が広がり、赤松もたくさん生えています。その根元には「シロ」とよばれる菌糸の寝床が見られ、雨が降った翌日にはニョキっとキノコが生えます。何とも言えない匂いがして、それを目当てにサルやイノシシが食べに出てくるのです。
ここは鳴門市の某所です。かつては鉱区設定が申請されていましたが、環境保全や私有地の問題があり採掘が認可されませんでした。現地を訪れた際に地元の方から松茸をいただきました。土瓶蒸しやきのこご飯にするととてもおいしかったです。
その後の何年かは、いろいろな方面でお付き合いしてくださりました。しかし、昨年の秋に急に逝かれてしまって大変悲しかったです。ご冥福をお祈りしています。
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以前にいただいた直径15cm



2014年11月24日(月) 記事NO.22
本日は久しぶりに訪問しました!
三連休の最後の日、家族サービスが終わりようやく余暇ができました。そこで、ずっとしばらく行っていない場所へ行きました。山はもうすっかり秋の気配で、一部の紅葉は落ち始めています。ドングリやナナカマドの実がなって、野鳥や小動物があさっていました。そうしたなか、期待と不安を交錯させながら立ち入らせてもらいました。
そこは以前にも希少な○○石を見つけた場所です。古典的な黒い物は持っている人がいますが、赤い新鮮な状態の結晶を持っている人はおそらくいないでしょう。私が採集できたのも偶然で、昔のその1回のみ。もちろん数がないので母岩を細かく割って、仲の良い友人数名に分配するのがやっとでした。
・・・予感なんてありません。ただ何となく今日行っておきたいと感じていただけです。虫の群れに閉口しながらそろそろ帰ろうかと思っていたとき、何気なく目に留まった白い母岩の表面に小さい結晶が付いていました。何度も眼をしばいて見つめましたが、その色合いなど見間違えるはずがありません。そう、○○石でした。思わず山に向かって「ありがとうございます!」とお礼を言っていました。
後日、他の石とともにその標本を博物館に寄贈しました。大げさかもしれませんが、歴史に残る逸品になってほしいです。
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柘榴石や曹長石もあった
眉山東斜面の登山道より

蜂の巣が多いので注意!

2012マチあそびのとき
ハチに刺された

そしてニュースになった



2014年09月28日(日) 記事NO.21
本日は石の整理をしました!
細かい用事がいろいろあって本日はどこへも出かけず、その合間をぬって庭先に転がっている石を片付けました。家族からは粗大ゴミ扱いですが、自分なりには貴重品ばかりと思っています(笑)。
高越山、関川、五良津、銅山川、加茂川、白滝など四国の石がほとんどで、一部に神岡や秩父など有名どころも出てきました。同じ石でも産地が違うと見た目も違ってきます。また、同時に産する鉱物との取り合わせも異なります。例えばチタン石の場合、石英、緑簾石、藍閃石、緑閃石などに含まれ、白に近い黄白色、ほとんど黄色、ウグイス色、黄緑色などバリエーションに富むのです。
石の名称はわからなくても、産地だけはしっかり記入します。確かにそこで採れたという証明になるからです。2時間で150個ほど終わらせました。
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ときどき家の中に入ってくるチョウ



2014年09月27日(土) 記事NO.20
郷土の文化「獅子舞い」
徳島市の海岸線で砂鉄の採取が計画されていました。昭和30年頃のことです。当時は海沿いまで田畑が広がり、一部は塩田になっていました。農閑期に少しでも収入を得ようと思って、海岸より500m圏内での操業を申請したそうです。しかし、漁業に与える影響が大きいと県に判断され、申請は通りませんでした。もっとも、その後調査した限りでは、砂1kg中にたった1gしか砂鉄が含まれていませんでした。実行していれば採算が採れなかったでしょう。
秋祭りが近いので、タイコの練習の音が聴こえてきました。市内ではたった3ヵ所しか獅子舞いが残っていません。子ども神輿も出るそうで、こういった地元の文化の担い手が続いていくれることを期待します。
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三宝荒神社の獅子舞い



2014年09月16日(火) 記事NO.19の1
ある酸化鉱物の鉱脈 その1 M16
何年も野山を歩き回って鉱山跡を調べたり石を採集していると、思わぬ発見があるものです。もちろん毎回の巡検でそれを期待しているわけですが、大発見につながることはそう多くありません。また、見つけられても様々な観点から公開を伏せるときもあるのです。
高越山のある場所で、酸化鉱物が密集している石英を見つけました。母岩は一抱えもある大きなもので、半ば砂に埋もれていました。最初は目を疑って何度も見返しました。しかし、何度見てもそれはあの鉱物です。それまでは同じ鉱物をほとんど採集できていなかったので、まるで金脈に当たったかのようでした。また、喜ぶというよりもまるで何か大それたことをしたかのように感じられました。
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全長1mを超える石英の塊
(画像に外部リンクあり)

2014年09月16日(火) 記事NO.19の2
ある酸化鉱物の鉱脈 その2 M17
めったに使わないハンマーとタガネを使って、割れ目に沿って慎重に割っていきました。石英という石は大変硬いのに、割れ目から割れやすいという特徴もあります。そのため今までに何度も苦汁をなめさせられているのです。
2時間もかけてやっと主な部分をはぎ取ることができました。自画自賛かもしれませんが、この酸化鉱物の標本としては一級品だと思います。早速つながりのある公的機関や教育関係に寄贈したり、仲間や知り合いに配りました。また、お世話になっている地元の町内会長さんも同行されていて、大変喜んでくれました。石を見つけたことより、地元とのつながりを感じられてうれしかったです。
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手のひら3つ分に密集した鉱物
(画像に外部リンクあり)



2014年08月16日(土) 記事NO.18の1
白い石は曹長石 その1 M14
高越山で見られる白い石の8割以上が石英で、残りが曹長石や石灰岩です。やや菱型の結晶からなり、それが集合して大きな塊になることもあります。川流れ品はあちこち結晶が抜け落ちて穴が開き、全体的に摩耗していてあまりきれいではありません。
いつもの谷川に降りると、すぐにこれが見つかりました。ほとんど全体がそれです。青緑色の細い繊維状結晶が含まれており、緑閃石のようです。小1時間も探せば見つかりますが、状態の良い物を選びます。結晶等がきれいなのはもちろんで、産状がわかりやすい標本がグッドです。
なお、探すときは必ずどの石にも焦点を当ててフォーカスしましょう。私の場合、100個の石を手に取ってもそのうち1個程度しかキープしません。逆に言えば、それだけの数をしっかり見ないと良い石は採れないということです。
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曹長石と緑閃石

2014年08月16日(土) 記事NO.18の2
白い石は曹長石 その2 M15
石探しの後半でちょっと良い標本を見つけました。藍閃石中に白い結晶が散りばめられていて、まるで花畑のようです。サイズは20cmと手ごろで、飾り石としても見栄えがします。
この産状パターンのほとんどはせいぜい数個の結晶が含まれているか、あるいは白い塊で入っているかです。見た目がきれいな物はかなり探す必要があります。今回はとてもラッキーでした。
1つでも満足いくものが採れたら、それだけで来たかいがあったというものです。交通費とか時間とか(ついでに家族サービスとか)を気にすれば、趣味の世界に走れません。石採りは私の道楽なので、しばらく続けたいと思っています。
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藍閃石片岩中の曹長石



2014年08月14日(木) 記事NO.17の1
踊るあほうに見る阿呆 その1
・・・おなじ阿保なら踊らにゃ損損~とばかりに、阿波踊り期間中は徳島県全体が浮かれます。鳴門・阿南・池田など地方都市で順次開催され、お盆の12~15日に徳島市内10ヶ所以上で披露されます。
今年はいつもと違いました。家族が踊りの連(チームのこと)に誘われて、見物人の前で踊ることになったのです。そこで、本番前に何度も練習会に参加して踊りに磨きをかけました。一応ですが、徳島県人なら誰でも阿波踊りを練習したことがあります。今回はそれを踏まえて見栄えよくするために行ったそうです。
当日は開演の2時間前(16時)に現地集合して、簡単な打ち合わせ。そして、屋台の間を移動して演舞場に躍り込みました。300mほどの距離を踊りながら進みます。腰を落としてタイコやカネのリズムに合わせます。時間にしてたった10分くらいですが、かなり長かったようなあっという間だったような・・・そんな感じでした。
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本日3つ目の紺屋町演舞場

2014年08月14日(木) 記事NO.17の2
踊るあほうに見る阿呆 その2
大人にとっての楽しみは終わった後の冷たいビール・・・ですが、子どもの楽しみは屋台巡りだそうです。定番の焼きそばやたこ焼き、かき氷に冷凍パイン。腹が膨れると今度は射的と金魚すくいになりました。成果はまずまずで、小さな袋に黒出目金が泳いでいました。
ところで、石を売っている店がありました。レピドライト入り水晶やファントム、フラワーアメジやドゥルージ、タイムキーパーやジャカレー、グインデルのクローズにファーデン・・・。これらがわかる人はかなりのめり込んでいるかもしれません。原則として石を買うのは止めているので、代わりにミネラルタック(鉱物用粘土)を購入しました。フィギュアケースに石を入れて飾るのが楽しみです。
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並んで躍り込む子どもたち



2014年07月30日(水) 記事NO.16
広石の巨大なズリ
神山町広石には小さな集落しかありませんが、かつては大きな鉱山がありました。東山鉱山広石鉱床、通称「広石鉱山」です。東山の本鉱床に匹敵するズリ(不要な脈石などを棄てた場所)があり、上から見下ろすと民家が小さく見えます。
茶色く錆びた緑色片岩や紅簾片岩などが積み重なり、高さは推定30m、周囲は400mくらいかと思います。上部は風化が激しく砂のように細かくなっていて、まるで巨大な砂山です。キースラーガーを採掘していましたが、鉱山末期にはズリからも鉱石を探して販売していたそうで、目ぼしい鉱物はほとんど見つかりません。緑色の被膜が付いていたので、おそらくクジャク石でしょう。
すこしずつ松林がズリを覆っていきます。見た目でわからなくなっても、文書と看板でこの場所を残しておきます。
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県道わきに残る小山のようなズリ



2014年07月22日(火) 記事NO.15の1
釜脇の製錬跡 その1
一宇の土釜(どがま)とは、貞光川上流の甌穴群(ポットホール)のことで、景勝地としても有名です。特に新緑や紅葉の時期は剣山へ行くハイカーが多く、車を止めて見に来ている人がたくさんいます。そして、そのすぐ下流に釜脇鉱山跡が残っています。
鉱山について初めて論文を発表したのが5年前で、そのときに地元の方々にお世話になりました。おかげでどの文献にもない事実を知ることができて、それを後世に残すことができました。何度も現地に足を運んだかいがあったというものです。
土釜の対岸に当時の精錬所の跡が残っていました。と言っても何もない平地だけですが、そこに小さな熔鉱炉がいくつか建っていたそうです。一宇村史にも資料がありませんでしたが、役場の紹介で当時働いていた人のお孫さん(今は御年80歳)を訪ね、2時間のよもやま話の中でそれを知りました。
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今も草があまり生えていない部分

2014年07月22日(火) 記事NO.15の2
釜脇の製錬跡 その2
カラミが落ちていました。鉱滓(スラグ)のことで、鉱石から銅を取り出した後の残りカスです。高温のマグマが冷え固まったような感じで、気体成分が抜けだした孔がたくさん開いていました。
精錬所が稼働していたのが昭和20年頃だったので、その頃が鉱山の最盛期だったのでしょう。坑道の水準がほとんど貞光川だったので、浸水に悩まされていました。川底の下へ向かって掘られていたとのことです。また、坑道は国道の直下にもあります。
この鉱山跡もすっかり忘れ去られていました。しかし、文書化することで後世に伝えることができます。これをご覧の皆さんにも郷土の歴史や文化に興味を持っていただき、何らかの形で残していって欲しいと思います。
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黒色や褐色のカラミが残る



2014年07月07日(月) 記事NO.14
昭和40年代の石ブーム M13
旧一宇村の産物として、「虎石(とらいし)」という観賞用の石が有名でした。当時は国道わきにいくつもの看板が掲げられ、石を買い求めるお客が押し寄せて来たそうです。その後ブームが去り、山間の集落は再び静かになりました。
この石の産地を調査し始めてから、いくつかサンプルを入手しました。やや緑がかった黄白色に地に黒い筋がたくさん見られ、まさにこれはトラの毛皮です。徳島大学で教鞭をとられていた岩崎先生の話では、チタン石を含む緑簾石だそうです。比較的やわらかくて加工や研磨が容易だったので、掘り出した石をきれいに磨いて置物にしたそうです。
あるお宅で見せてもらった石には黄鉄鉱が含まれていました。また、私の親が昔購入して持っていました。探し回った物がすぐ傍にあったとはちょっと皮肉なことでした。
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法正谷の虎石



2014年07月05日(土) 記事NO.13
紅簾石のざくろ石(1) M12
紅簾石はマンガンを含むため桃色に発色し、遠くからでもひときわ目立つ岩石です。石英などとともに産出し、微細な粒子が母岩全体に染み込んでいるような感じ(鉱染状と称する)です。その一方で、稀に結晶化している物や他の鉱物を含んでいる場合があります。
赤紫色の細い結晶が多数集まってやや太めの柱状結晶となります。高越山以外に関川・国領川・白滝鉱山などでも採集しています。また、包含する鉱物として黄鉄鉱がもっとも多く、マンガンが濃縮されて黒い二酸化マンガンが見られたりします。
3年前にある紅簾石を見つけて驚きました。どう見ても丸い粒子が含まれているのです。やや緑がかった5ミリくらいの物でした。他者に見せて意見を聞くと「ざくろ石」とのことでした。その後注意していると他の産地からも見つかりました。探してもボウズに終わることが多いので、かなりレアな方だと思います(NO.75も参照)。
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ざくろ石入りの紅簾石片岩



2014年06月29日(日) 記事NO.12
眉山の紅簾石 M11
鉱山巡りや石拾いの傍らで、公的機関に収蔵されていない標本があればそれを探し出して寄贈しています。特に地元の研究の役に立てればと思い、石拾いするときはその分を見越して1~2個余分にキープするのです。各機関との付き合いも長いところで7年以上になります。最初に何を持って行ったか、今までにいくつ寄贈したかは覚えていません。もっともトータルで200個は軽く超えていますが・・・。
画像の資料は、いつものように標本を寄贈したときに鑑定してほしいと持ち掛けられた物です。紅簾石だとわかっているのですが、そこに含まれてる透明な柱状結晶が何か教えて欲しいとのことでした。静岡県の教員(?)からも同様の質問がありました。・・・結論から言ってこれは「藍閃石」でした。藍色ではなく無色だったからわからなかったです。そのお礼ということで、この資料はそのまま私の手元にとどまりました。
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藍閃石入りの紅簾石片岩



2014年06月22日(日) 記事NO.11
スダレ石の仲間たち M10
緑簾石・紅簾石・灰簾石など簾(すだれ)の文字が付く石があります。あまり詳しいことは知りませんが、緑簾石(エピドート)は比較的濃い緑色の柱状結晶をしており藍閃石片岩中によく含まれています。
この緑簾石よりも色が薄くて結晶がよく似ているのが「ゆう簾石」です。緑色というより黄緑または灰緑だったり、薄い茶褐色の結晶だったりします。初めて見つけた場所は奥野井谷川上流の堰のたもとでした。確か高越山で見つけた20種類目の鉱物だったか・・・と思います。関川や銅山川には負けるけれど、この産地もそこそこ種類が多そうです。
クラブの仲間たちとあちらこちらで活動しています。未発見の鉱物を探して頑張ります!
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緑色が強いタイプのゆう簾石



2014年06月21日(土) 記事NO.10
取り残されたルチル M9
ルチル(二酸化チタンの天然結晶)はあらゆる母岩に含まれていてもおかしくありませんが、実際はいくつかの母岩と相性がよいことが知られています。具体的には石英・藍閃石片岩・緑泥石片岩などで、他にも透緑閃石・透角閃石・緑閃石・チタン石・方解石・エクロジャイトなどに含まれたり、緑簾石・チタン鉄鉱・ざくろ石などと接することもあります。
画像は、藍閃石片岩表面の石英中に2cmのルチル結晶が含まれている物です。まるでルチルを浮かび上がらせるかのように、自然に石英が削られていました。標本としても鑑賞石としても、適当な産状とサイズを持った石でした。これもうちでは無防備に放置されています。まあ勝手に持って行くような人は近所にも団体にもいないので安心です。
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ルチル・ルータイル・金紅石
(画像に外部リンクあり)



2014年06月20日(金) 記事NO.9の1
高越のエクロジャイト その1 M7
エクロジャイトは広域変成岩の1種で、高温高圧下で形成された石です。地下50~100kmのマントル上部に起源をもつと言われ、鉄礬柘榴石や苦礬柘榴石など赤褐色のざくろ石と、緑色のオンファス輝石を含んでいます。この石が地上で見つかる場所は世界中で20ヶ所、そのうち国内では3ヵ所しかありません。その1つが徳島県の高越山なのです。
画像の石は切断して面を研磨しており、3ミリくらいのざくろ石が多数とオンファス輝石の他に、金紅石(ルチル)・チタン石(スフェーン)・燐灰石(アパタイト)等も含まれています。産状がよくわかる標本で、サイズは30cmです。片割れの石も同等で、有意義に使ってくれそうな機関に寄贈しようと考えています。
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いろいろ含んだエクロジャイト

2014年06月20日(金) 記事NO.9の2
高越のエクロジャイト その2 M8
地下深くの岩石が地上へゆっくり移動すると、温度や圧力が下がるため物質の性質が変わりまったく別の石になります。ところが、エクロは火山噴火というより地殻変動という大きなイベントの結果、変成がほとんど起こらないくらいの短時間で地上に噴き出したと思われます。そのため、地下深くの様子を伝える貴重な資料になります。
高越山のエクロは藍閃石エクロジャイトと称されます。薄い青紫色の母岩にざくろ石が含まれ、その粒子のまわりだけオンファス輝石が確認できます。愛媛県赤石山山系や新潟県青海とは異なるタイプです。
この標本を3つに割って1つは県立博物館に、1つは阿南市科学センターに寄贈して常設展示されています。そして、残りの1つが私の手元にあります。言うなれば箔付きの資料(?)ですが、うちではちょっと無防備に放置されています。
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徳島県立博物館と阿南市
科学センターで展示されて
いるエクロジャイトの片割れ



2014年05月18日(日) 記事NO.8
近所で夜桜見物
久しぶりの休日に、標本の片付けと整理をしました。コレクターとしてはものぐさで不熱心な方ですが、いつの間にやら箱いっぱい倉庫いっぱいの石がたまっていました。一応、徳島県内・四国内・国産・海外・化石・その他に分類していますが、数が多すぎてどうにも仕事が進みません。ニ○リの木箱が製造中止になったのが痛かったです。
古典的標本は特別な箱に入れ、レアな鉱物やレアな産地の石は1か所にまとめました。それでもまだ1/4も終わっていません。結局途中でさじを投げてしまいました。忘れていた石が出てくると、しばらく食い入るようにながめ倒します。そういうとき、やっぱり石が好きなんだ・・・と思います。
夜になって桜を見に行きました。暗闇の中にライトアップされた白い花が浮き上がります。しばらくぼぉ~っとながめていました。
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ライトアップされた近所のサクラ



2014年05月17日(土) 記事NO.7
高越山の斑銅鉱 M6
高越鉱山は県内屈指の銅山でしたが、昭和44年に採掘を止め46年に完全撤退しました。当時は、キースラーガー中の銅を目的にしていました。銅の鉱物として、黄銅鉱や斑銅鉱があります。鉱石はもちろんのこと棄てられていた脈石にもそれらを含んでいます。
脈石を積み上げたズリでそれらを採集することができます。石英や緑泥石などによく含まれています。金色をしているのが黄銅鉱で、組成式はCuFeS2となります。銅の主要鉱物です。また、青紫色をしているのが斑銅鉱で、組成式はCu5FeS4と黄銅鉱よりも銅の品位が高いです。鉱山稼働時には断層や褶曲している場所に多く見られ、俗に「ハネコミ」と称されていました。
画像は、石英中の斑銅鉱黄銅鉱です。一部が黒くなっていてひょっとすると輝銅鉱(組成式CuS)を含んでいるかもしれません。

余談ですが、私は組成式や分子式を書くのが好きです!
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斑銅鉱と黄銅鉱と輝銅鉱?
青紫色と金色と黒色


2014年04月29日(火) 記事NO.6
スキー場のウラの鉱山跡
徳島県内の主なスキー場は、剣山(つるぎさん)と腕山(かいなやま)の2つくらいです。私はあまり得意じゃないので行きませんが、どちらも降雪機を用いてゲレンデをつくっています。シーズンには定点カメラが設置され、自宅にいながら現地の様子がわかります。1月になれば雪がよく積もるのでスキー客も増えるようです。
画像は、腕山スキー場から見た鉱山跡のある山です。「こもれびの道」という遊歩道を15分ほど進めば坑道跡が2か所あります。急角度に採掘されていて湧水は少なかったそうです。この場所を教えてくれたのは、ここにスキー場を初めて開設したNさんのご家族です。今は経営権を町に譲渡して引退されました。町の観光施設として貴重な財源になっています。
鉱山跡を探していたとき、何気なしに初めて道を尋ねたお宅がNさんだったとは、偶然とはいえ神がかったような出会いでした。このようなすばらしい出会いがあるからこそ鉱山(ヤマ)歩きは止められません(笑)。
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四国山地の中に埋没する腕山



2014年04月27日(日) 記事NO.5
幻のキースラーガー(1) M5
鉱山跡を探すとき、地元の人から話・・・の次に助かる情報は落ちている鉱石です。当時採掘していた物が見つかれば、その近くに鉱山跡があるはずだからです。また、鉱滓(こうさい=カラミ)が見つかれば製錬までしていたことも明らかになります。
画像は、別枝(べっし)鉱山のキースラーガーです。坑口から下の国道まで続く山道の途中に落ちていました。発見できたのはこれ1個だけで、少し割って自分の物にした残りすべてを博物館に寄贈しました。何の変哲もない硫化鉄鉱の塊ですが、別枝産の鉱石はこれが唯一の物です。
正式には「別子型含銅硫化鉄鉱」というそうですが、「これは別枝型だね。」って冗談言って笑っていました。
かなり重くて汗でビショビショになりながら運んだのがつい昨日のことのようです。
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別枝鉱山産として唯一の標本



2014年03月30日(日) 記事NO.4
鉱石と鉱物のちがい M4
ここだけの話ですが、鉱石クラブの名称は本当の意味の「鉱石」ではありません。鉱石(オアー)とは、人類にとって有用な鉱物を含んだ岩石のことで、ほとんどが数種類の鉱物(ミネラル)からなります。例えば、キースラーガー(含銅硫化鉄鉱)は鉱石としての呼び名で、それに含まれる鉱物には黄鉄鉱・黄銅鉱・斑銅鉱・磁鉄鉱などや石英・紅簾石・藍閃石などがあるのです。
私たちの活動目的は、鉱山跡を見つけ資料として残すこと、岩石・鉱物・化石を採集して標本として後世に残すことです。これらの言葉を合体させて、このクラブ名が決まりました。
画像は、2012年12月の徳島県立博物館のミニ鉱物展に出品された標本セットです。同じ苗字の人が大勢いて親子ですか・・・と尋ねられましたが、親戚ではないので念のため。
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子どもが採集した標本24種
2016年に36種までパワーアップ



2014年03月29日(土) 記事NO.3
徳島宝石クラブ? M3
クラブ名を見て、鉱石でなくて宝石だったら良いのに・・・などと冗談めかして言われます。まれに見つかる宝石質のガーネットや色の濃いアメジスト、大腸菌サイズのダイヤモンド、青紫色のコランダム、砂に混じったペリドット、赤や青のアゲート、白や緑のヒスイなど四国にも意外とたくさんの宝石があります。また、ルチルやカイヤナイトの透明結晶もきれいですし、煙水晶やシトリンの見事なものもあります。
画像は、某有名産地で採集した石英を割って見つけたルチルです。サイズは5mmですが、真っ赤な柱状結晶です。X線蛍光分析により裏付けをとりました。他にも何個か見つけましたが、交換希望者が誰もいなかったので友人知人にあげてしまいました。これからもときどき掘り出し物を記載するので、暇があったらブログをのぞいてみてください。
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石英と白雲母と金紅石
(画像に外部リンクあり)



2014年03月08日(土) 記事NO.2
あちらこちらで花が咲く M2
梅・桃・桜・椿は春を代表する花々です。野山を歩き回ると至る所で目にします。そして、ふと足元を見ると石の花も咲いています。丸かったり多角形だったりして、主に赤色や桃色、たまに緑色をしている結晶はザクロ石でした。
関川ではたくさん見られますが、本県の眉山や高越山でも少しは拾えます。ときには驚くような巨大な物やきれいな物も見つかり、私たちを楽しませてくれます。ザクロ石は水晶とともにもっともポピュラーな鉱物ですが、それだけ奥が深いとも言えます。
画像は、高越山産のザクロ石で母岩は60cm、推定重量40kgはあります。私が単独で運ぶことのできた最大のもので、徳島県立博物館に寄贈しました。もちろん博物館収蔵品の中でも最大のザクロ石を含む母岩です。色の薄い藍閃石片岩と思われます。谷川から小一時間かけて岸まで上げて車に乗せました。めちゃくちゃ大変でした・・・。
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県内最大のざくろ石標本
2016年04月20日に初公開!
子どもたちにたくさん触られた
寄贈して良かった・・・



2014年03月01日(土) 記事NO.1
新たなる出発です! M1
長かった冬の時代が過ぎ去り、再び春が訪れようとしています。
これまで鉱山跡を調べたり、鉱物や化石を採集したり、産地を案内したり、博物館などに寄贈したり、学会論文を書いたり、様々な活動に取り組んできました。これもまた多くの皆さんの励ましや助力によるもので、とても感謝しています。
ここにブログを復活いたします。その日に起こった出来事や過去の回想、産地紹介や石に関することなど、いろいろなことについて書いていきます。会員の皆さんも読者の方々も今後ともよろしくお願いします。
画像は、高越山産の金紅石(ルチル)で2cmあります。交換希望の方はメールしてください。学校や博物館など教育・研究機関であれば寄贈できます。今までに10ヶ所以上の公的機関などに送っています。
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2cmのルチル結晶
(画像に外部リンクあり)











ここから〈徳島県南部〉の記事          

2018年03月18日(日) 記事NO.41
田んぼいっぱいの蓮華草
母と子どものイベントの手伝いで、牟岐町まで来ています。大きな荷物を運び入れ手荷物を片付けると、・・・後はほとんどすることがありません。手持ち無沙汰になったのでホールの裏に出てみました。
冬の間に何も植えていない田畑が目立ちます。休耕田でしょう。たまには田畑を休めないと地味がやせてしまうからです。ノーフォーク農業とか何とかいうのがあるでしょう。あれは確かクローバーを植えるんだっけ?
蓮華草(レンゲソウ)も豆科植物だから、空中窒素固定に最適です。薄桃色の小さな花があちこちに咲いていました。とても長閑な雰囲気です。
気が付けば車の中で寝ていました。疲れがちょっと出てきたようです。ここのところ休みがなく20日間ぶっ続けで働いています。大変です。
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チョウやハチも働いていました。



2018年02月06日(火) 記事NO.40
楠根地のフズリナ化石
阿南市には石灰岩の地層が広がっています。また、高知県の鳥形山に規模は及ばないけれど、いくつかの石灰鉱山が稼働しています。かつては方解石の結晶やサンゴなどが採れましたが、危険なので今は入ることはできません。その一方で、道路工事中に鉱物や化石の露頭が出土することがあります。
水井鉱山へ向かう途中に比較的新しいトンネルがあります。そこがまだ建設中のとき、許可をもらって短時間だけ入らせていただきました。灰色の石灰岩に円い管のような生物化石が見られます。あまりきれいな物はありませんが、化石に間違いないようです。フズリナは少ないようで、まともな石はこれ1個だけでした。今はコンクリで塗り固められたので採集できなくなりました。何だか眉山のルチルみたいです。
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かなり黒っぽい石灰岩に点在する



2018年01月02日(火) 記事NO.39
辰砂べっとり? M11
水井鉱山の辰砂の色合いは、真紅色・赤紫色・朱色・赤褐色・桃色・橙色など様々です。含有量がかなり高いときは前者の2色ないし3色で、低くなると後者の色になります。結晶は稀でほとんどが粒子か脈状となり、酸化鉄(Ⅲ)の薄膜に辰砂の微粒子が混在している場合もあります。
さて、今日も古い標本を出してきました。忘れてしまっていた石やこれから割ってみる石もあります。徳島県内の産地別標本数では高越山がダントツ1位ですが、2位に水井鉱山が挙げられます。鉱物種は少なく辰砂以外は方解石やマンガンですが、古代朱の採掘場所としてロマンをかき立てるものがあるからです(ちなみに、3~6位は宍喰鉱山・星越鉱山・野々脇鉱山・白竜鉱山のどれからしい。)。
桃色~赤紫色の石が出てきました。鉄さびの部分もありますが、よく見れば辰砂の微粒子も付着しています。また、赤褐色の脈にも辰砂が含まれているようです。・・・以上から、含有量は低いが鉱脈としては厚みがある標本と判断しました。う~ん、何かビミョーな感じですがこれはこれでヨシとしましょう。
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辰砂HgSを含んでいると
想定される色をすべて
持っている石灰岩でした

比重も大きくて重い



2017年12月31日(日) 記事NO.38
忘れていた石灰岩を割ってみた M10
水銀鉱山のあった水井町の川原で拾った石灰岩を割ってみました。白い石には黒や緑、桃色の脈が走り、割ってみましたが辰砂はありませんでした。次に黒っぽい石を割りました。赤色ではなく白色の斑点が見えます。どうやらフズリナか何かの化石のようでした。今度は灰色に褐色の脈がある石を割りました。サンゴのような化石が含まれていました。
今年の最後に見た目が良くない石を割りました。実はこの石、私が見つけたときに何となくビビッと来ていたのです。割り跡をのぞき込んだ瞬間、真っ赤な脈が目に入りました。硫化水銀(Ⅱ)HgSのα態である「辰砂(しんしゃ)」です。よっしゃ!思わずガッツポーズが出ていました。
弥生時代に祈祷や埋葬に用いられた古代朱と同じ物です。そう思えばまるで神秘の赤い鉱物です。来年こそは行ってみようと思いました。
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真っ赤というかやや赤紫色っぽい



2017年07月30日(日) 記事NO.37
老人ホーム慰安公演
子どもがやっている文化活動を手伝いに日和佐まで来ています。車に人と荷物を積み込んで3時間かけてそこまで行きました。途中で薬王寺の道の駅で休憩しました。朝から南へ向かう県外ナンバーがごった返していました。ツバメのフンには注意しましょう。
現地についてからは荷物を下ろし舞台を設置して、後はカメラの陣取り合戦です(笑)。・・・無事に終わりました。その後はチケットをもらって露店を楽しみました。インドネシアの神様たちが面白かったです。終盤になってもち投げがありました。否、実際に投げているのは大量のお菓子です。加わるより見ている方が面白かったので、後ろの方からその賑わいを見ていました。汗をたくさんかいたのでこれからシャワーをします。
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地元の人々との交流でした



2016年12月23日(金) 記事NO.36の1
お使いの帰り道 その1
水井水銀鉱山を始めて訪れたのが、もう十年前。そのときからずっとお付き合いさせて頂いている方々がいます。お年を召しているので最近では足腰がたたって山に登れなくなりました。しかし、頭の方は冴えているので、昔の話をすると私が覚えていないこともよく記憶されているのに驚きます。おかげで、阿波学会誌の論文を書くときもいろいろとお世話になりました。感謝しています。
さて、今日は沖縄のお土産「ちんすこう」を持って彼らを訪ねました。南へ行く用事がめっきり減ったので、これは良い機会と思ったからです。ところが、お一人は畑の方に出ているようで留守。もう一人は最近調子が優れないようで寝ておられたので、軽く挨拶して家人の方にお土産を渡して後にしました。
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20番札所「鶴林寺」の山門

2016年12月23日(金) 記事NO.36の2
お使いの帰り道 その2
ぽっかりと時間が空いてしまいました。さあどうしようか。考えながら車一台がやっとの水井橋を渡ると、斜め前に峠越えのルートが見えました。そうだ!水銀の道を帰ろう!こうして阿南から勝浦に抜ける間道のコースが確定しました。
加茂谷から生比奈に抜ける道は、古代において重要な通商ルートでした。迂回するよりもこの峠を越える方がずっと速いのです。そしてこの道は、弘法大師が水銀の鉱脈を探して歩いた道とも言われています。鶴林寺から21番「太龍寺」までの道筋に、水銀が辰砂の形で含まれている露頭があったそうです。私もその調査をして、論文には未発表ですがいくつか発見しています。まさに朱の道であった訳です。
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狛犬の代わりに狛鶴(つる)

2016年12月23日(金) 記事NO.36の3
お使いの帰り道 その3
今は峠道も整備されて車でゆったりと通れます。そして、鶴林寺への道は脇道となってしまいました。2km進むとようやく境内が見えました。周りを杉の大木に囲まれ、根元には水を含んだ苔が群生し、何だか静謐な雰囲気が漂います。山門をくぐると社があり、そこから石段を登ってお参りです。山上なので限られた平地の中に所狭しと建っています。観光地化された他の寺社に比べると小さくて古びていますが、私はこういう感じの寺が好みです。参拝客が少ないのは困るでしょうが、日常の煩わしさからちょっと逃避するには良い場所です。これから寒くなって朝霧でも立ちこめたら素晴らしいでしょう。道が凍る前に一度来てみようと思いました。もうすぐ平成28年も終わりです。来年はいかにせん。 イメージ

境内にそびえる三重の塔



2016年07月31日(日) 記事NO.35の1
牟岐の砂浜 その1
古牟岐(ふるむぎ)という地名があります。間違ってコムギと呼びそうになります。牟岐駅から海岸の方へ向かうと小さな港湾があります。その途中から南阿波サンラインを4km走ると、モラスコ牟岐や牟岐少年自然の家へ通じる分かれ道があります。
また、サンラインを走ると太平洋から吹いてくる心地よい風に心が癒されます。グラデーションのように岸辺から沖に向けて、海の色が段々と変わっていきます。とてもきれいです。晴れて太陽が照り付けるような日には、藍閃石のような色合いの黒潮が見えます。黒というより極めて濃い藍色をしています。私たちに良い漁場を与えてくれて、美味しい魚介類を求めることができます。本当に自然の恵みです。
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かつて10億円の牟岐大島

2016年07月31日(日) 記事NO.35の2
牟岐の砂浜 その2
モラスコ牟岐の前の海岸に来ました。私たちが来たときには、すでに何組かの家族連れがいました。ウエットスーツを着込んで海の中へ入っていきました。どうやら潮が満ちて島になってしまった対岸に渡るようです。深さは50cmくらいでそう深くはありません。しかし、波が高く潮流が速いので油断は禁物です。小さい子どもは波打ち際で遊んでいました。
岩場のプールには取り残された魚など生き物がいました。でももうすぐそこも海につながるでしょう。脱出まで後わずかです。砂浜に転がっている石は火成岩です。赤や紫がかった青色、緑の石など硬そうでした。ありふれているので特に拾いませんでした。東の方に海岸線が見え、赤茶けた浜辺が続いていました。そちらにも鉱山跡があったようです。
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向こうの島まで岩盤が続く

2016年07月31日(日) 記事NO.35の3
牟岐の砂浜 その3
砂浜で砂鉄を採集しました。ビニール袋に強力磁石を入れ、砂の上を這わせると簡単に採れます。ここの含有量は砂1kg当たり80gくらいだそうです。種子島北岸の300gには敵いませんが、それでも四国では有数の産地です。50g以上含まれる砂浜なら6ヶ所あります。
四国では砂鉄に含まれるチタンが多いそうです。チタンは融点も高くて、たたら製鉄には不向きです。製鉄所では鉄が融けた状態を「ゆ」と言いますが、この「ゆ」を出す口がチタンにより詰まってしまうのです。一方で、昨今ではチタンが貴重になっています。そう言えば、高越山でルチルの鉱脈を見つけたことがありました。相場はチタン1gが1円です。採算が取れるものなら考えてみましょう。
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施設入口の千年サンゴ



2016年07月30日(土) 記事NO.34の1
牟岐のマンガン鉱山 その1
若い人たちと鉱山跡を訪ねました。彼らはこのブログにメールを送ってきて、学校で調べたいとのことから私も同行しました。ここへ来るのは数年ぶりだったので、今も前のようにあるのかわかりませんでした。この場所を教えてくれた方も次々と鬼籍に入り、親しい人がいなくなってしまったからです。これは仕方ないことですが、それでもやるせない気持ちにさせられます。
さて、牟岐駅前を曲がって山の方へ向かいました。目印はもうなくなり、道の曲がり方とか木々の連なり方など曖昧な記憶しかありません。それらしい場所から藪の中に入り、見たことがある場所を探しました。まもなく山道を1つずれたところで見覚えのある沢を見つけました。
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しっかり坑口が残っている

2016年07月30日(土) 記事NO.34の2
牟岐のマンガン鉱山 その2
沢には黒い石が落ちていました。念のためオキシドールをかけると発泡しました。二酸化マンガンに間違いありません。石をたどっていくと人が歩いた道の跡に出ました。それを更に進むと黒く引っ込んだ場所が見えます。近づいてみるとやはり坑口でした。高さは身長の倍くらいあります。坑道は少し奥で水没していました。頭上が危険なのでそれ以上は入りませんでした。
足下は落ち葉もそう多くなく、下草も少なめでした。重金属であるマンガンを含んでいるからでしょうか。黒い石を持ち上げると、軽い物と重たい物があります。前者は、表面だけが黒くて内部は白っぽかったり、クリーム色のケイ酸分の多い石でした。それに対して、後者は内部まで真っ黒でした。
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坑口の手前で様子をうかがう

2016年07月30日(土) 記事NO.34の3
牟岐のマンガン鉱山 その3
今日の私の仕事は終わりました。彼らをここへ案内することと、場所の再確認が目的でした。鉱物採集する気持ちが湧いてきません。石を割っても二酸化マンガンしか出ないためです。手持ち無沙汰になってしまって、はっきり言ってヒマでした。
一方で、彼らの熱心なこと。ズリの石を次々と割っています。金属光沢のある部分が現れたり、少し桃色の部分が見られたりしました。結局そこで1時間も割り続けました。持ってみて重量感のある石を持って帰るそうです。それらはおそらく廃棄された鉱石だったでしょう。マンガン成分が45%以上でないと取引されなかったので、その調整のために放置されたと思います。こうして彼らは大量のサンプルと触媒を入手できました。
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ズリの隅々まで鉱石を探す



2015年08月29日(土) 記事NO.33の1
正木の梅林石 その1
上勝町の正木ダム周辺ではいろいろな石を産出します。トリゴニアをはじめとする化石、植物化石を含む石炭、サンゴを含む石灰岩、そして名石の1つ「梅林石」です。
梅林石(ばいりんせき)は、赤黒い母岩中に白い霰石(あられいし)が分散しているものです。白くて丸い粒子と白い脈があたかも白い花が咲くごとく、梅の林のように見えることからその名があります。個人によって好みがありますが、大きさ数ミリ程度の丸い粒子が均等に散らばっている状態が人気です。まるで南国に降るささめ雪のような趣です。
この石は比較的やわらかく表面を磨く人もいます。粒子や脈がはっきりしてくるとまた違った感じがします。
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ダム上流では石が露出していた

2015年08月29日(土) 記事NO.33の2
正木の梅林石 その2 M9
勝浦川沿いの民家を訪ねると、その庭やガレージの上などにこれでもかってくらい梅林石が置かれています。聞けば川が増水した後に腰近くまで水に浸かりながら採って来たとのこと。その行動力とバイタリティには畏れ入ります。やっぱり皆さん好きなのですね。
他にもあまり知られていないですが、上勝の奥で採れる「サンゴ石」という物があります。白い母岩に赤いサンゴのような脈が走っています。詰まるところ、石の好みは人により千差万別です。しかし、その中に誰が見てもキレイと思うような石があり、それが市民権を得てどこそこの名石と呼ばれるようになったのでしょう。
今回は3個の梅林石と他に化石や鉱物を拾って終了しました。他の参加者もめいめいがそれなりの物を拾えました。まずまずです。
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やや大型の梅林石



2015年08月02日(日) 記事NO.32の1
県立博物館の催し「シェルズ」 その1
知り合いの学芸員さんから案内があり、いつものように子どもと一緒に博物館を訪れました。1階の特別会場にはたくさんの貝が展示され、それを見に行ったのです。もちろん休日は無料というのも大きな要素です(笑)。
さて、中に入ると珍しい物が盛りだくさんでした。オキナエビスとかタカラガイとか、日本三名宝なども含まれていました。山伏が吹いている法螺貝(ホラガイ)も置いていました。確か高知の桂浜では3万円くらいで売っていました。オウムガイは3千円でした。
また、海水性ばかりでなく淡水や陸上の貝もありました。特に目を引いたのが、最近見つかったアナンムシオイという陸生の巻貝です。阿南市の石灰鉱山跡から見つかり、大きさ数ミリの小さくて目立たない貝です。貝殻を作るためにカルシウムが必要で、それを補うためにそこに棲んでいるそうです。
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私も何度か現地を訪問している
しかしまったく気付かなかった

2015年08月02日(日) 記事NO.32の2
県立博物館の催し「シェルズ」 その2
現生種ばかりでなくすでに絶滅した化石も展示されていました。和泉層群のアンモナイトや傍示層のトリゴニアなどです。ゆっくりと堪能しました。
私もまた鉱物を集める前は化石を、その前は貝を集めていました。主に砂浜などでビーチコーミングして拾っていました。300種類くらいはあったと思います。しかし、興味が薄れてしまって今ではどこに置いてあるのかわかりません。捨ててはないと思うのでまた取り出して見てみます。
思えば昔からいろんなものを集めるのが趣味でした。メダルや古銭などは価値がありそうですが、気に入っていた古物はほぼガラクタでしょうね。古いモーターや俯角計、方位磁石、顕微鏡、電解液の電池など面白い物があります。忘れている物がかなりあるので、それらもまた発掘しなければなりません。
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重量500kgのトリゴニア
工事現場から発掘された



2015年06月27日(土) 記事NO.31
トリゴニアの森
トリゴニアは三角貝とも言われ、ジュラ紀・白亜紀など中生代の示準化石になっています。二枚貝の仲間ですが、見た目は名称通りの三角形で変わった形状をしています。オーストラリアには現生種がおり、生きた化石と呼ばれています。
勝浦町から上勝町にかけて、トリゴニアを含む砂層すなわち「トリゴニア砂岩」が分布しています。隆起して山の一部となった地層があり、その上に木が生えてこんもりとした森になっているのです。斜面に沿って転石をひっくり返すと、次々に化石が見つかります。私たちや地元の小中生にとってここはお馴染みの場所で、いつでも化石が見つかります。乱獲せずに必要最低限な分だけ採れば、親子孫何代にもわたって楽しむことができます。
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化石の森がいくつかある



2015年05月14日(木) 記事NO.30
牟岐大島の千年サンゴ
調査やドライブに立ち寄る牟岐(むぎ)町は自然豊かな町です。先日は震度5の地震があって心配しましたが、鉱山絡みで知り合った地元の方々は大丈夫だったようです。本当に良かったです。
牟岐の海中には、かなりの年月を経て形成されたテーブルサンゴの大群落があります。「千年サンゴ」とよばれて牟岐の海の象徴ともなっています。現在では採集はできませんが、昭和40年代までは漁師が素潜りで採っていたそうです。当時の古いサンゴ標本がちらほら残されています。
某施設で棄てられそうになっていた標本を、そこの長の許可を得てもらってきました。すっかりほこりをかぶって汚れていましたが、水と薄い洗剤で軽くブラッシングしてきれいになりました。
鉱物ではありませんが、これも今では採れない貴重な物だと思います。なお、もう1つあった物は知人を通して貰われていきました。
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シコロサンゴかそれとも何か?
サイズは30cmくらい



2015年05月13日(水) 記事NO.29の1
古紙回収は役得かもしれない その1
今年の学会調査は阿南市なので、いくつかの鉱山跡を重点的に調べています。水井鉱山は「辰砂」という水銀の鉱石を採掘していた場所で、当時の資料が残っていました。坑内図もその1つで、青刷りの図やトレース用紙に色鉛筆で記してあるものがありました。一方で、当時使われていた道具は3年前にほとんど棄ててしまったそうでとても残念です。
画像は、上部鉱床の丹波坑内図をコピーしたものです。黒くなっている部分が主要坑道で、かつて一度だけ地元の方の案内で入ったことがあります。今は内部の崩落が激しいため入ることはありません。
他にもこのような図をお持ちの方がいればご連絡ください。そして、後世に記録を残すためコピーする許可をお願いします。また、もし不要であれば県立文書館に連絡してぜひともご寄贈ください。
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図の右の濃い部分が丹波坑

2015年05月13日(水) 記事NO.29の2
古紙回収は役得かもしれない その2
江戸時代に庄屋だったとか、明治時代に会社経営をしていたとか、大正時代に警察署長だったとか、昭和時代に・・・・・・とか、そういうお宅でときどき古紙の山が見つかります。なかなか整理が追いつかないので棄ててしまうことが多いですが、そういった場面に出くわすと即決でそれを頂いています。興味がない方には単なるごみの山ですが、私たちのような郷土史を調べている者にとってはオタカラになることもあるのです。
画像は、水井鉱山下部鉱床の佐々木坑内図のコピーです。原本はある建築屋さんが持っています。この図面の価値が分かっている方で、大事にしまい込んでいるそうです。また、私もカラーコピーしたので原本紛失などいざというときの資料として残せそうです。このような資料を求めて今日もあちこち彷徨っているのです。
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図の上手(北側)が佐々木坑



2015年03月21日(土) 記事NO.28
相生鉱山の輝安鉱 M8
徳島県下で数ヵ所しかなかったアンチモンの採掘跡。その1つが相生町にありました。坑口はすでに潰れていて、ズリもないため今では何も採れません。地元の方に尋ねても当時の鉱石を持っている人は皆無でした。
別の鉱山跡などを訪ねて地権者とよもやま話をしているとき、ふと相生の話になりその方が鉱山で働いていたことや鉱石を拾って持っていることがわかりました。懇願すると、私を信頼してくださったのか2個とも頂きました。
大きさは6cmくらいで少し光沢がなくなっています。しかし、地元産の貴重な標本には間違いありません。その後、あちらこちら歩き回って調べたところ、10個ほど現存していることがわかりました。所有者と博物館など公的機関との間を取り持ち、いくつか寄贈して頂きました。また、標本としての価値を知らせて後世に伝えていって欲しいことを申し上げました。
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やや黒ずんだ柱状結晶



2015年02月21日(土) 記事NO.27
ウィキペディア(Wikipedia)に掲載された鉱山跡
ネット上に掲載されているウィキペディアをたまに利用しています。多くの人が無償で関連内容を書き込み、誰でもが使える事典・辞書として機能しています。まだまだ改善の余地はありそうですが、一次的な情報を得るには重宝しています。
ある日、鉱山の検索をかけたとき、徳島県の鉱山跡がたくさん記載されていました。かなりマイナーな鉱山も含まれ、誰がこれらを掲載したかは不明です。しかし、何の記事をネタにしたかはわかりました。おそらく私が以前に別のサイトで公開していた内容です。
なぜわかったかというと、掲載しているいくつかの鉱山名は私自身が勝手につけている「仮称」だからです。市町村史にも地元の聞き込みでもその名称はありません。一方で、名前なしでは困るため私が便宜的にそう名付けて公開していました。ゆえに、その情報がどのような経路をたどってウィキペディアに掲載されたとしても、大元の発信源は私だったことになります。
公開したからにはどのように使われるか、ある程度は仕方ありません。でも勝手に掲載されているのは・・・、う~ん何か釈然としない部分もありますね。参考文献でも入れておいてくれたら少しはマシなのですが・・・。
とりあえずは鉱山名だけで、それらに関する詳細はまだ全面公開する気はありません。個々に知りたい方はこちらにメールしてください。ただし、その理由によるので確約できません。
詳しくは表紙「はじめに」を見てください。
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川上鉱山などの中継地
うつぼ谷鉱山などは仮称

読者のK様が指摘しているとおり、
旭野鉱山や枇杷の口も同様



2015年01月27日(火) 記事NO.26の1
水井の辰砂 その1 M7
古代朱として有名な水井鉱山の辰砂(しんしゃ)です。成分は真っ赤な硫化水銀で、弥生時代には祈祷や埋葬のとき土器に塗られていました。一般的に辰砂はマンガンなどに含まれたりして産出します。しかし、ここの物は石灰岩中に含まれるという全国でも稀な産状です。
鉱山跡は上部の丹波坑と下部の佐々木坑に分かれ、どちらでも辰砂が採れました。この2つは高低差170mもあり互いにつながってはいません。そのため、丹波坑では方解石に含まれていますが、佐々木坑では石灰岩以外に輝緑岩に含まれる物もあります。
私はこの鉱山に通いだして10年になります。地元のKさんやYさんのおかげですんなり入らせていただいています。ごみを捨てず、杉を折ったりせず、危ないところには近づかず、迷惑がかかるような行為は慎みましょう。なお、この画像のような標本が欲しい方はメールしてください。
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丹波坑で採掘された赤い鉱石

2015年01月27日(火) 記事NO.26の2
水井の辰砂 その2
辰砂から水銀を単離してみました。辰砂を含む石灰岩を細かく割って塩酸に溶かし、傾斜法にて上澄み液だけを捨て沈殿を取り出します。これを再度塩酸に溶かし、同じ工程を繰り返します。最後に水を加えてかきまぜ、沈殿の中から赤い物だけをスポイトで吸い取ります。こうして、石灰岩100gから0.1gくらいの赤い粒子が得られました。
これを試験管に入れてドラフト内で加熱します。試験管の口には曲がった細いガラス管を取り付けて、発生する気体(水銀の蒸気)が冷えてくっつくようにしました。加熱するにつれて、赤かった辰砂が灰色というか褐色というか形容しがたい色になります。また、刺激臭がしてきますがおそらく二酸化硫黄でしょう。やがて、辰砂の見た目の量が明らかに減ってきて、ガラス管の曲がり角に銀色の丸い粒が付いていました。
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実験用サンプルだが交換は可能



2015年01月26日(月) 記事NO.25
椿鉱山群で研修会
先日、県内の高校の先生を鉱山跡を案内しました。阿南市椿町周辺にはいくつか鉱山跡が残っていて、鉱やマンガンを拾うことができます。鉄は主に赤鉄鉱として15%くらい含まれ、マンガンは二酸化マンガン鉱として同じくらいの含有量でした。念のため持参したオキシドールをかけてみると、白く発泡して盛んに酸素が発生していました。
7鉱区のうち、4鉱区まで場所の特定ができました。何れも個人の所有地だったので、地元のアイさんやエムさんのお世話で許可をいただきました。今回はそのうち3ヵ所を訪れました。B地点の椿鉱山では2つの坑道と露天掘りを見学し、ズリから鉱石を採集しました。ここは稀に水晶が採れるので皆さん熱心に探していました。
C地点ではもっとも急勾配の斜面を登攀しました。かなり体力が必要となります。頂上の広場には2つの坑道が東西に延びていました。索道や排水溝などもありました。阿南の昔に触れて人心地つきました。
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標本や実験材料を探す先生方



2015年01月14日(水) 記事NO.24
オパールはなかった・・・
今回は失敗談です。いや負け惜しみがたっぷり入っています(笑)。
オパールは水を含んだケイ酸を主成分とし、その光の干渉による遊色がとてもきれいです。国産の物はとても地味ですが、私もいくつか持っています。蛋白石(たんぱくせき)の別名のとおり、まるで卵白のように白く透明感があります。
ある日、地図を見ていると何となく気になる地名がありました。「蛋石」と書いてあります。これはひょっとしてオパールが産出するのではないか。期待と不安に駆られて現地を訪れました。まずは、聞き込み調査開始です。1軒目、不在。2軒目、知らない。3軒目、わからない。4軒目、石灰岩なら掘っていた。そして、5軒目でやっとわかりました。「これなぁ~、たんせきでなくて○○いしって呼ぶんだよ。」・・・そう間違いだったのでした。
気の毒に思ってくれた地元のお年寄りが、黄色い柿をくれました。帰りの車内でかじると・・・、しっぶ~うぃ!!サワーグレープならぬビターカキでした。
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向こうに見える山に石灰岩だけ



2015年01月05日(月) 記事NO.23
採掘の終わった石灰鉱山
お松権現への帰りに、近くの石灰鉱山跡に来ました。ここは稼働中に数回訪問したことがあります。当時の責任者とちょっとした縁があって、特別に入山を許可していただきました。もちろん作業の邪魔をしないことと、危険な場所に行かないことが条件でした。
くねくねした急なダートをたどると、ほとんど掘りつくした石灰層が見えました。粗鉱の品位は55%とあまり良くないそうです。しかし、稀に桃色のマンガン方解石や微量の辰砂を含むことがあり、私にとってはそれがねらいでした。結局ここでは採集できませんでした(後日、この近くの別の場所で拾いました。)。
今はホッパーや倉庫などが少しずつ朽ちていっているだけです。当時の賑わいを知っているだけにこの静けさが何とも言えません。もうここに来ることはないと思いながら、鉱山跡を後にしました。
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道の両側に残る施設群



2014年12月29日(月) 記事NO.22
藤川層でアンモナイトを探す
採れないだろうとわかっていても、一度採れた場所にはついつい足を向けてしまうものです。ここもその一つで、以前にアンモナイトを採集しました。トリゴニアのついで、冬枯れ景色の撮影のついで、ミカン購入のついで・・・などと、たくさん理由を設けてこの場所に来ました。
少しだけ草が残っていましたが、夏場のように邪魔するほどではありませんでした。ぼろぼろと崩れかけた斜めの地層をふるっていると、小さなノジュールが出てきました。これには化石が含まれていることがあるのです。慎重に割っていきましたがなかなか割れません。仕方なく大型ハンマーで一撃! あっ・・・、ハンマーがすべって石の端に当たり、その反動で石は谷底へと消えていきました。しばし呆然自失。
酸っぱい葡萄ですが、他人に石が当たらなくてよかったです。
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北に向かって傾斜している地層



2014年12月28日(日) 記事NO.21
モラスコ牟岐と南阿波サンライン
牟岐町古牟岐から3km、急なカーブを下りていくと牟岐少年自然の家があります。その敷地に隣接するのが「モラスコ牟岐」で、様々な貝を展示しています。円筒形の建物に大きな三角屋根が目印で、簡素な食事もできすぐ前が砂浜です。この砂浜は砂鉄の含有量が高く、砂1kg当たり60~100gにもなります。もっとも不純物が多いでしょうから、実際はもう少し下回ると思います。
せっかく来たので入場しました。ニッポン・テラマチ・オトメダカラの日本三名宝が展示されています。何れも深海性で希少なため入手困難だそうです。私の持っているテラマチダカラより大型できれかったです。他にも珍しいエビスガイなど数百種類がありました。
帰りはひたすらサンラインを走りました。アップダウンが激しく、運転している自分も車酔いしそうなくらいでした。当然、他のメンバーは・・・言わずもがなです。年末年始は天気が悪そうです。ちょっと一息でした。
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以前にウミガメを離した砂浜



2014年12月22日(月) 記事NO.20
旧国道を歩く
阿南市と日和佐の境界に国道55号線の星越トンネルがあり、県北と県南を結ぶ動脈として利用されています。休日ともなれば宍喰や東洋へ向かう車が多くなりますが、平日はどちらかと言えばひっそりしています。
トンネルの阿南側の手前300mに脇道があります。後世山への参道となり、それこそが昔の街道でした。トンネル上の峠まで500mくらいです。途中で崖崩れがあり車での進入は難しくなっていました。更に歩くと竹林や杉林が続いていて、手入れされなくなったミカン畑もありました。
峠道は山の斜面を切り開いて日和佐側まで延びています。赤茶けた岩肌が目に付き、赤褐鉱とも言われた鉄マンガン系の鉱石が露出しています。今年は学会調査のためここを何度も訪ねました。うすら寒くてやや暗い街道を歩くと物寂しいですが、同時になぜかホッとした気分にもなります。
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徳島まで45kmの標識が残る



2014年12月17日(水) 記事NO.19
トリゴニア砂岩
傍示層という白亜紀の地層が分布しており、三角貝などの化石を含みます。凸型よりも凹型が多く、巻貝や二枚貝とは異なる姿をしているのがわかります。上勝町出身者に尋ねると、誰でもこの化石のことを知っています。それどころか、皆これの採集経験があるそうです。さすがは土地勘のある地元の強みです。
他にもクロムやマンガン、蛇紋岩、新生代化石、水晶、石炭などの産地があります。私もこれらの現地を何回となく訪れて、ある程度のツウになれました。同時に、産地を守らなければならないと感じたこともありました。採る量を最低限に抑えて、この産地を後世にも伝えていきたいと思います。
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まるで葉っぱみたいに見える



2014年11月17日(月) 記事NO.18
化石の産地は今
正木ダム周辺では三角貝「トリゴニア」の化石を多数産出します。そのポイントはいくつかありますが、私はこの場所でたくさん採集しています。ある雪の日、どんな気まぐれかここへやって来てバレーボール大の群生化石を拾いました。たまたま積もっていた雪の上に、岩の欠けらが丸ごと落ちていたのがそれでした。結局その日に採集できたのはそれだけ。しかし、大変ラッキーでした。
それから3年も経って久しぶりに訪れました。すると、側溝を埋めていた堆積岩の山がありません。その中にたくさんの化石が詰まっていたはずでしたが、一つも残っていませんでした。おそらく排水をよくするため役場の方で処理したのでしょう。こうしてポイントを一つ失いました。残念ですが公共のためなので仕方ありませんね。
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土砂がすっかりなくなっていた



2014年11月15日(土) 記事NO.17の1
徳島の炭鉱 その1
四国鉱山誌に掲載されている炭鉱は総計11ヵ所。とりあえず○○炭鉱と名前が付いているが、当時の現地での呼び名と異なるところもあります。何れも石炭または亜炭を採掘していた場所で、そのうち数ヵ所では今も石炭を採集することができます。
分布域を大別すれば、羽ノ浦町から上勝町までの東西30km、南北4kmのベルト地帯に9カ所と、鴨島町内の狭い範囲に2ヵ所あります。前者は瀝青炭、後者は褐炭を産出していました。
今までに7カ所回りましたが、一度訪問しても数年くらい行かないと現地はすっかり様変わりしています。いくつかの用事を掛け持ちしたので、ついでに今回久しぶりに石炭を拾ってきました。
後日、友人にも石炭が採れる場所を教えてあげました。植物化石が密集したような良質の石炭がゲットできたそうです!
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勝浦炭鉱前の林道に石炭あり

2014年11月15日(土) 記事NO.17の2
徳島の炭鉱 その2
勝浦炭鉱は上勝町正木ダム下流にあり、坑道はすっかり埋もれています。当時はまだくぼみが残っていて坑口跡のようでしたが、今では全くわからなくなりました。また、鉱区の一部は正木ダムに沈んでいるようです。元々この辺りは植物化石の宝庫なので、それらが炭化してできた石炭の多さに納得できます。強粘結瀝青炭ということなので、発熱量はまあまあでもかなり燃えにくい石炭であったようです。質もそう良くはなかったのですが、戦後の物資不足と雇用安定のため盛んに掘られていました。
高鉾炭鉱は正木ダム北西部の傍示谷にあります。徳島新聞にも掲載されていたことがあり、昔のことなのに地元では意外と知られています。林道の横に坑口が開いており、内部を覗くことができます。また、急な谷川の斜面にも石炭を含んだ土砂が見られました。少し崩れているようです。
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高鉾炭鉱の坑口の杉丸太

2014年11月15日(土) 記事NO.17の3
徳島の炭鉱 その3
徳島炭山は勝浦町南部の斜面に広がるミカン畑にあります。稼働していたのは昭和20~24年と短期間で、戦争から復員した地元の人を雇用していました。その頃はミカンが高級品で、今の貨幣価値に換算するとMサイズ1個が500円くらいでした。それでも飛ぶように売れてミカン御殿があちこちに建ったとのことです。今は坑道も潰れて排水口のようなものが残るだけです。それでも畑には石炭の破片が落ちていて当時の名残をとどめています。
私が未訪なのは4ヵ所です。地元の人の案内を必要とするところばかりで、急な斜面やブッシュをかき分けていくことになります。加齢とともに行くのが億劫になるので、早くけりをつけておきたいです。
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雑草と側溝に挟まれた採掘跡



2014年10月24日(金) 記事NO.16の1
宍喰のレンコン その1
化石と言っても生物体そのものが残っているばかりではありません。例えば、生物が海底の泥の上をはった痕や食事をした痕、排泄物などが当時の様子そのままに残ることもあるのです。
これは生物以外にも適用します。雨が降った跡のような自然界の動きが、その後地面を覆った土砂などにより保存され、何千万年も経て私たちの眼前に現れることもあるのです。
レンコン(漣痕)とは、あの食べられるレンコン(蓮根)ではなく昔の波の痕です。浅くて静かな砂浜に波が打ち寄せていた様子を残しています。国内にも何ヵ所かあるそうですが、ここのモノは巨大で保存状態がよく記念物として保存されています。
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レンコンの前で記念撮影!

2014年10月24日(金) 記事NO.16の2
宍喰のレンコン その2
高さ20mくらいまで直立する岩肌に、リップルマークとでもいうのか舌状の模様がつながっています。まるで恐竜の表皮みたいで、面白い形をしています。石質は褐色の砂岩で、少しずつ崩れ始めていました。横から見ると地層がほぼ同様に直立しています。厚みは20~50cmくらいで、薄皮をはぐように割れて落ちていました。
地球高温化(温暖化ではない!)のせいで大雨が続き、これらの自然標本が徐々に壊されています。すぐにでも何らかの対策を行うことが重要でしょう。県立博物館の2Fに、このレンコンを写し取った模型を展示しています。皆さんもぜひご覧になってください。もちろん現地へもお早目に見に行きましょう。
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記念物の石碑



2014年10月17日(金) 記事NO.15
理科学会研修会
高校の先生方と阿南市の椿鉱山群を回りました。本命の星越鉱山までの道が崩落して危険なため、急きょ場所を変更しての巡検となりました。
椿鉱山群は7つの鉱区に分かれ、鉄やマンガンを主目的に採掘されていました。品位は15~18%と低く、昭和9年の露頭発見からわずか10年足らずで閉山しました。
4年前に見つけていた鉱区や、今年の2月に見つけたばかりの場所を訪ねました。私はあまり足腰が強くないのですが、何とか皆さんを山上まで案内できました。坑口や索道などが残っていました。また、水晶らしき物や赤鉄鉱などが採集できました。
今度は他の場所も案内してあげたいです。
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行かれなかった星越鉱山の坑口



2014年09月15日(月) 記事NO.14
赤褐鉱(せきかつこう?) M6
鉄-マンガン系鉱石(アンバー)は阿南市以南で見られ、当時は「赤褐鉱」と称されていました。鉄が平均15~18%、マンガンも同様で品位はあまり高くなかったです。それでも局所的に高濃度の部分があり、銀白色の鏡鉄鉱や真っ黒な二酸化マンガン鉱も産出していました。それぞれ鉱物的には、赤鉄鉱とかハウスマン鉱などを含んでいます。
今年の学会調査でこれらの産地を調べました。星越鉱山や椿鉱山群でそれらを目にしました。坑道だけでなく露天掘りや施設の遺構など、今まで知られていなかった事実が明らかになりました。戦時中では高価なセメントを使って排水溝や擁壁を造っていました。とりあえず、後世に残せるだけの資料を用意しています。50年とか100年後に誰かがまたここを調査するときの道しるべにしたいです。
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テーブルのような赤褐鉱



2014年09月14日(日) 記事NO.13
阿波の名石「梅林石」 M5
勝浦町から上勝町にかけて、勝浦川で「梅林石」が採れます。白い部分はあられ石だそうで、斑紋がまるで白梅のようです。また、稀に桃色になった物が見つかります。
大水が収まった翌日には、地元を中心にかなりの人が川原に出て石を探しています。持ち帰って庭に飾ったりして楽しむのです。私も2回ほど参加しましたが、そこそこ良い物をゲットできました。一抱えもある大きなものを持ち帰った人もいました。また、遠く県外からやって来た人もいたようです。
自分たちが観賞するために、必要な分だけ採集するのが良いと思います。それがマナーというものでしょう。
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スライスして表面を磨いた標本



2014年09月13日(土) 記事NO.12の1
方解石と水晶 その1 M3
水井鉱山は、石灰鉱山の鉱床の一部にあります。ゆえに、炭酸カルシウム系の鉱物もいっしょに採集できます。
同質異像の関係にある「方解石」と「あられ石」、トンネルの天井から垂れ下がった「鍾乳石」と「石筍」など。このうちもっとも多いのが方解石で、質に文句を言わなければいつでも拾うことができます。ほとんどは不純物の多い褐色の結晶で菱型に割れたり、砂漠のバラのような面白い形状をしています。ただし、結晶は小さい物ばかりです。
鉱山稼働時には大きい結晶が採掘されていました。画像の結晶は大きい物で5cm以上あり、全体で40cm近くあります。惜しむらくは私のモノではないことです。まあいつでも見せてくれるのでヨシとしましょう。
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現存するものでは最大級の標本

2014年09月13日(土) 記事NO.12の2
方解石と水晶 その2 M4
石灰岩層に熱水が貫入してできたため、辰砂や黄鉄鉱、マンガン系鉱物なども見られます。そして、稀に見られるのが水晶です。
徳島県内は元より四国内の水晶産地はあまり知られていませんが、ときたまセンチ単位の大物(これでも?)が見つかります。画像は頂き物の標本で、石灰岩の表面に水晶がびっしりはり付いています。今は私のモノですが、惜しむらくはピンポイントの採集場所がはっきりしないこと。まあ大体の位置は予想できているのですが・・・。
他に鍾乳石も入手しましたが、それも同様です。時間をかけて探せばよいでしょうが、最近は少しものぐさになってしまって出かけていません。どなたか叱咤激励を・・・しなくてよいです(笑)。地元の標本はしっかり確保していますから。
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透明でやや不揃いな水晶の群晶



2014年09月10日(水) 記事NO.11
水井鉱山の番人(シカの骨)
水井鉱山上部鉱床は、石灰石の岩盤に辰砂の鉱脈が貫入してできたものです。そのため坑道内は常に崩落の危険性があり、実際に坑口から内部をのぞき込むと、積み上げられた廃石がかなり落ちてきています。それなのに丹波坑に入ろうとするマニアや業者がいて、本当に危険な状態になっています。
現地を案内してくれた地元のY氏とK氏、そして私は現場で拾った入場禁止の看板を坑口の手前に置きました。また、ズリの石灰岩を坑口の前に積み上げ、それ以上前に出ると頭上から石が落ちてくるエリアを示すことにしました。作業していると「シカの頭骨」が出てきました。まるで、どこかのシャーマンが祈祷・呪術に使うようなグッズです。そこで、その頭骨を積み上げた石灰岩上に祭壇のように設置してみました。
ここへ来る人はそれを見るでしょう。しかし、絶対にそれより前に出ないでください。守らない人はどうなっても知りません。
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うっすらと赤い石灰岩上の頭骨



2014年07月25日(金) 記事NO.910
地質がガラッと違う M2
四国の地質は、北から領家・和泉・三波川・黒瀬川・秩父・四万十帯が東西に走っており、それらの岩石を比べると明らかに違っています。私たちがよく活動しているのが三波川帯で、キースラーガーやざくろ石などを伴う鉱物を相手にしています。その一方で、たまに他の産地にも出向きますが、河原に落ちている岩石が全く異なることに気が付きます。
昔の木沢村役場の前に河原が広がっています。一抱えも二抱えもあるような巨岩だらけで、適当な持ち帰りサイズを探すのに手間取ります。よく見かけるのが石灰岩・蛇紋岩・チャート・砂岩などで、金属系の鉱物は少ないです。また、種類もそう多くはありません。置石や水石としては面白いので、地元の人が拾って庭や玄関に飾っていました。
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赤褐色の脈が走る石灰の巨岩



2014年07月19日(土) 記事NO.9の1
化石の会の展示会その1
夏休み前の雨の日、勝浦町役場の隣の図書館で催しがありました。主に県南で産出した化石が、これでもかってくらい多数展示され、子どもと一緒に目の保養をしました。
直径30cmを超える大型アンモナイトや10cm近いイノセラムス、小学生が採集したカニの化石などもありました。勝浦町の地質は、立川に沿って下流から遡ると、新生代・中生代・古生代へと古くなります。ゆえに、狭い範囲で多くの化石を目にすることのできるフィールドなのです。また、小学生でも気軽に入られる場所があり、化石好きな子どもの(それともちろん大人も)興味関心を満たしてくれます。親子や学校でどんどん採集に出向いて行って欲しいです。
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ため息が出るくらい見ても飽きない

2014年07月19日(土) 記事NO.9の2
化石の会の展示会その2
前にも書きましたが、徳島県にはいくつもの化石の団体があり、互いに協力している部分もあるようです(私たちのような鉱物中心のグループは見かけませんが・・・。)。ネットで検索するとヒットします。今後も頑張って活動を続けて欲しいです。
この展示会では、勝浦町の昔のことを古い写真で紹介していました。ナウマンゾウの名の由来となったナウマンもこの地を訪れ、いくつか化石を発見しています。隣の上勝町や南部の鷲敷・上那賀、阿南市の羽ノ浦でも、様々な発見が今でもあります。
帰りに道の駅によって、石炭を採掘した炭鉱跡を確認しました。子どもの夏休みの宿題になる予定です。
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標本と画像でつづる勝浦町の昔



2014年07月15日(火) 記事NO.8
四国百名[鉱]山
深田久弥の日本百名山がTVで紹介され、熟年登山ブームに火をつけた感があります。私も元々は登山が好きで、旅先でもいろいろな山に登りました。また、毎年数回は剣山に登り自然の風景を撮影することにしています。
そうした名山のふところに鉱山跡が残っています。県内の数多くは江戸時代末期ないし明治初頭に発見され、昭和の時代まで稼働ていました。その場所を見つけるのが私たちの目的の1つです。人里離れた山中に点在しているため、かなりの根気と労力が必要です。ものすごく大変ですが、ようやく発見できたときはとてもうれしいです。他県の人とも情報交換しながらじっくりと探していきます。
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鰻轟山と請ヶ峰



2014年05月31日(土) 記事NO.7の1
昔はこんなのが採れました!その1
勝浦町役場の南側に広がる山地で採集されたアンモナイトです。サイズは直径30cm(推定)で、見つかった部分は全体の1/3しかありません。持ち主の話によると、○○谷を遡上してひと山越えた場所の谷底で見つけたそうです。黒い泥岩を丹念に見ていくと石の表面に規則正しいシワが見えたので、ハンマーで横から割っていくとついに化石が現れました。鑑定していないので種類は不明だそうです。
私も上勝町でアンモナイトを採集しています。シコクエンスという種類で、ノジュールの中から見つけました。また、話を伺った役場の方も林業の傍らで化石を拾っています。アンモと言えば和泉層群ばかりと思っていましたが、県南でこれだけの物が産出するとは驚きでした。今もどこかで採れるでしょうが場所の特定には至りませんでした。
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四国では大型のアンモナイト

2014年05月31日(土) 記事NO.7の2
昔はこんなのが採れました!その2
羊歯(シダ)の化石です。クラドフレビスだと思います。サイズは母岩全体で30cmくらい。ほとんど葉ばかりですが、葉の付き方など生きていたときの様子がよくわかり、博物館級の標本です。なお、アンモナイトと持ち主が同じです。
本県では化石に関わる個人グループがいくつかあり、中には国立博物館級の逸品を所有している人もいます。そういった貴重な物が地元に残されていることをうれしく思います。
ちなみに、これは勝浦町立川渓谷で産出した物で、表面が褐色に風化した泥岩を割って取り出されました。私もいくつか持っていますが、これほどの物はまだ見つけられておりません。いつかは・・・と思っていますが、私のメインは鉱物なのでそちらばかり優先しています。でもまた子供を連れて行きたいですね。
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かなり見事なシダ植物化石



2014年05月12日(月) 記事NO.6の1
科学の祭典2013 その1
2013年11月30日と12月1日の両日、阿南市科学センターで「科学の祭典」が開催されました。県内外から約30ブースが出展され、連日大勢の親子連れでにぎわいました。
この施設は那賀川町にあり、合併するまでは那賀川町科学センターと称していました。113cmの望遠鏡があり、小惑星を3個見つけています。それぞれ「那賀川」「阿南」、そして発見者の出身地「新居浜」と名付けられました。
さて、私のところに出展依頼があったのが8月頃で、それから3か月以上かけて準備し、当日を迎えました。もっとも苦労したのが、具体的に何をするか決めることでした。自分が指導できる範囲は主に地学分野で、他人にあげてもよい石なら庭に転がっています。そこで、石を使って何か作ってお土産に持って帰られる物を用意しました。
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阿南市科学センターの外観

2014年05月12日(月) 記事NO.6の2
科学の祭典2013 その2
私達が充てられたのは2階の太陽観測室でした。通常は昼間の太陽を観測し、黒点や紅炎を見られる場所です。スペースがかなりあったので、工作と展示を行いました。
展示は大型の標本ばかりを並べ、実際に手で触れてもらいました。サイズは20~40cmクラスで、重量は最大30kgもありました。片付けするのが面倒だったので、来館者や他のチームの希望者、県立博物館や徳島大学などに差し上げました。
工作は、採集した岩石を針金で展示できるように固定しました。ほとんどザクロ石ばかりでしたが、皆さんしっかり工作されてお持ち帰りになりました。私と他2名でブース運営しました。お客がひっきりなしに来訪し、文字通り飲まず食わずトイレ行かず・・・で連続7時間。我ながらとても頑張らせてもらいました。大変疲れましたが、皆さんや仲間と有意義な時間を過ごせました。
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開場する前の展示スペース
2日間でのべ160人が来場した



2014年04月30日(水) 記事NO.5の1
出羽島アート展その1
毎年春に牟岐町の沖に浮かぶ「出羽島(てばじま)」で、島内アート展が開催されます。芸術家たちが集まり、民家や道端で自分の作品を展示して来訪者に見てもらいます。図画工作みたいに様々な方法で様々な材料を用いて、かなりインパクトのある作品がめじろ押しでした。
2014年は3月7日~30日まででした。私たちは最終日の前日、29日に島を訪れました。島までの連絡船は、定期便の他に臨時便がいくつか出ていました。漁船をちょっと大きくしたくらいで、30人くらい乗ればいっぱいになります。牟岐漁港から出羽島港まで海上3,7km、15分ほどで着きます。
桜の季節には少し早いですが、県南は気温が高めですでに満開を迎えている樹もありました。京都湯ノ花温泉の桜石のように桃色が強めの桜花でした。
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牟岐町の某工場のサクラ群栄

2014年04月30日(水) 記事NO.5の2
出羽島アート展その2
港には高さ3mくらいの防波堤があります。その周辺に、丸みを帯びた砂岩質の石がたくさん転がっていました。大きさは10~50cmくらいで、まるで島を取り囲むかのようです。沸石のたぐいがあるかもしれません。
島の西部にある大池では、天然記念物のシラタマモが繁殖しています。メートルクラスの大岩が積み重なっている海岸にあり、遊歩道から池まで足場が悪くて子どもやお年寄りは難儀しそうです。やっと看板のあるところにたどり着いて池をのぞき込むと、白くて丸い物が付いた藻が見えました。岩の間を海水が通るのでここは汽水域です。太古の形態を残している貴重な生物でした。
せっかくなので島内を1周しました。ゆっくり徒歩1時間くらいでくるっと回りました。島の中央部にある展望台に灯台があり、そこから無人島の牟岐大島が見えました。以前にイカの産卵場所を見に行ったことを思い出しました。
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出羽島港周辺に広がる石の浜

2014年04月30日(水) 記事NO.5の3
出羽島アート展その3
アートにはそれぞれ個性が現れていて面白いです。魚の骨だけを何百本も集めて独特の雰囲気をかもし出したり、石や流木を巧みに組み合わせた物もよかったです。もちろん常道の絵画やデッサン、パッチワークなどもありました。
旧出羽島小学校の体育館では、たくさんの灯ろうが灯され飾られていました。その作者には知り合いもいました。実は近所の方が島出身で、行く前にいろいろと話を伺っていたのです。また、子どもの友人の親戚が住まわれているそうで、意外なところに人のつながりがあるものです。
最近できた津波避難タワーに登りました。島の集落がずっと見渡せました。また、グラウンドにはヘリポートが設けられていました。クローバーが生えていて、大きなHマークが緑色に浮き出されていました。
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石×3
サザン・ストーンズ

2014年04月30日(水) 記事NO.5の4
出羽島アート展その4
島から人口が流出し、どこも人の数が減ってきています。特に子供の数が激減して小学校は閉鎖され、若い人のいない限界集落ばかりになっています。
しかし、最近になって子ども連れの家族がそうした集落に居を構えるケースが増えています。子どもがいる処は活気があります。私も山中で子どもの姿を見るとホッとするのです。また、地元の人と話をしているとその穏やかな雰囲気に心がなごみます。
山や川や島の自然をある程度コントロールするために、そこに住んでいる人の活躍が欠かせません。道の下草を刈ったり、危険個所を役場に報告するなど、即対応・情報発信ベースとなる拠点集落の必要性を感じているのです。
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 体育館に並んだ灯籠



2014年04月26日(土) 記事NO.4
先生の研修会で案内を・・・
いろいろな学会団体からたまに現地調査やそこまでの案内の依頼があります。学術研究や歴史に残す手助けになるので、できるだけ時間をとってその期待に応えたいと思っています。話だけでも聞きたい方は下記のアドレスよりお気軽にどうぞ。ただし、「はじめに」の条件をお守りください。
画像は、某谷川にて坑道跡や選鉱所などを見学している高校の先生御一行様です。理科や社会を専門とする方々20名近くの参加がありました。私も気合が入ってしまって、めったに案内しない場所も見せてしまいました。学校の先生なら石を売ったりとかの宜しくない行為はしないでしょう。学校の授業で生徒にもいろいろ教えてくれることを期待します。
地元にはまだこれだけの宝があることに、多くの方が気づいて欲しいです。
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水井鉱山佐々木坑を訪ねて



2014年04月13日(日) 記事NO.3
県南の未調査地域の下調べ
徳島県内の100ヶ所を超える鉱山や採石場の跡を1つずつ訪ねています。県北についてはかなりわかってきましたが、県南についての達成度はやっと半分くらいです。なぜなら、地元の人すらめったに入らない場所ばかり残っているからです。
単独で行くことは多少なりとも危険を伴います。他に声をかけて一緒に行かないと誘っているのですが、山道の剣呑さを知ると皆さんにしり込みされてしまいます。その一方で、早くしないと現場を知っている人がいなくなってしまいます。本当に時間との戦いになっています。
画像は、水がすっかり干上がった畑に残っていたカエルの卵です。川上鉱山跡を探していたときに見つけたもので、ゼリー状の粘液に包まれていました。しばらくは乾燥に耐えることができるでしょう。
鉱山跡まで徒歩1時間の距離まで来ているのですが、そこからちょっと足が止まっています。代わりに他の産地を訪れて帳尻を合わせています。
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ヒキガエルの卵らしい



2014年04月12日(土) 記事NO.2の1
石炭を運んだ道 その1
勝浦町南部のミカン畑に炭鉱がありました。そこで採掘された石炭は様々な手段で出荷されました。また、地元の集落で採れた作物や作られた工芸品も同様でした。一方、魚介類・塩・マッチなどの生活必需品はこの逆のルートをたどって集落にもたらされました。
手段の1つがトロッコ列車でした。勝浦川に並走する水路の土手を走っていたそうです。今は細い舗装道路になっていて当時の面影がまったくありません。でも、桜の季節になると祭りが開かれ、小さなSLを走らせたりしています。地元の名物になっているみたいです。
鉱山や炭鉱の歴史を紐解くと、当時の人々の生活の営みがよみがえってきます。それを私は調べて記録しているのです。自分たちのために、そして後世の人々のために・・・。
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桜花と菜の花の咲く道を進む汽車

2014年04月12日(土) 記事NO.2の2
石炭を運んだ道 その2
物資輸送の他の手段は船です。底が広くて喫水線が浅い木製の川船、つまり高瀬舟みたいな物でした。どのような乗り心地だったか確かめたかったのですが、今回ちょうどその機会に恵まれました。
いつもはほとんど水無しの水路の長さ200m、幅10mの部分をせき止めて当時の水路を再現したのです。急きょ設けられた船着場からお客を乗せた船が離れていきました。櫂の代わりに太い竹竿を操り、自由に方向転換しています。流れはゆるやかなので、下流からの帰りもそう大変でなかったように感じました。
その後、県道が整備されて輸送の手段はトラックに代わりました。とても便利になりました。その一方で、こうした催しや文化を残していきたいです。
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桜吹雪の下で花見をのんびりと



2014年03月18日(火) 記事NO.1
徳島県の鉱山で採掘されていた鉱種 M1
鉱山跡の探索を始めたのが2005年1月からだったので、もう9年になります。
さて、鉱種とは、鉱山が採掘目的としていた鉱産物のことです。本県では金・銀・銅・硫化鉄・亜鉛・水銀・クロム・マンガン・アンチモンなどの金属や、石灰・ドロマイト・珪石などを目的とした鉱山が稼働していました。すでに稼働を止めて半世紀以上が経過した場所もあり、それを特定するのは至難の業でした。当時を知る人がどんどん減っていくなかで、この活動は時間との戦いになっている感があります。
画像は、牟岐鉱山産の輝安鉱でアンチモンの鉱物です。ズリには長年の風雨にさらされて白くなってしまった鉱石しかなく、割った石からほんの少しだけマシな結晶が得られました。なお、私たちの前に来られた方は落としたごみを持ち帰りましょう。
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牟岐鉱山へは徒歩で80分かかる


○読者の方へ・・・原則として旧市町村で区分けしています。他のコンテへの移動は左記からどうぞ♪なお、欲しい鉱物があれば個人の方でも交換できます。メールにてご連絡ください。学校や博物館など、公的な機関であれば寄贈もできます。鉱山について詳しく知りたい方は、トップページの注意事項をお読みの上でメールしてください。鉱山跡地は危険な場所が多いので、未成年者は自分たちだけで決して行かないでください。
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