虚礼廃止。        20,01,20

   早いもので松の内も過ぎて今日は大寒、正月気分は一新した。とはいえ、毎日が刺激
  のない平々凡々の生活なので退屈極まりないが、これも老人になれば誰でも経験するこ
  となので、それなりに工夫して生きるほかはない。

   正月の楽しみの一つは元日に読む年賀状である。近況が記された賀状には圧倒的に
  健康面のことが多く、体力の衰えを嘆く寸評が多い。

   その年賀状も年々減ってきて、今年は90通ほどになった。減ったというよりも減らしてき
  たといった方が正しい。

   会社生活現役時代の最盛期にはゆうに300枚を超える年賀状のやり取りをしていたが、
  現役終了後、儀礼的な賀状はあえて出さず、翌年もその翌年も出さないと相手も儀礼的
  と承知しているから自然に賀状が来なくなる。こうした強制的な対策で年々減少し、厳選
  されて残ったのが今の80枚である。

   賀状が減少したもう一つの理由は言うまでもなく死亡通知によるものである。
  パソコンの住所録(筆ぐるめ)のリストから新たに亡くなった故人の情報を消去するのが
  忍びなくてそのまま残してあるが、今年も忘れられない友人が5人も他界してしまった。

   数はまだ少ないが、「歳なので来年から賀状は出しません」 という人も現れてきた。
  去年は高校時代の恩師から、そして今年も高校時代の先輩、大学時代の友人、会社時
  代の先輩、から同趣旨の賀状が来た。

   80歳を超えると年賀はがきを買ったり、賀状のデザインを考えたり、宛先の印刷や一言
  添える文章を考えたりするのが面倒で億劫になり、投函までには結構手間暇がかかる。

   若い時の「虚礼廃止」という勇ましい趣旨ではなく、「加齢による一苦労」が理由とは何と
  も寂しい限りだが、人それぞれの考えがあっての通知なので仕方のないことである。

   一年に一度の便りを楽しみにしていたのが便りがなくなると音信不通になり、心配事の
  種が増える。80歳を超えると一日一日が生きる勝負だから、「便りのないのはいい便り。」
  などと言って、安心してのんびり構えるわけにはいかない。

   私はと言えば、人生残りわずか、たかがあと数年、人生を全うするまで今まで通り賀状
  を出し続けていくつもりである。昔と違ってパソコンで住所も挨拶もプリントできるし、ひと
  言自筆で近況を知らせするぐらいは大した苦労ではない。賀状の下手なデザインを考え
  たり、出す相手を思い浮かべて一言書き添えるのも結構楽しいものである。

   逆に、相手の立場に立ってみると、私から到着した年賀状を見て、元気に過ごしている
  と知れば、安心感を覚えるに違いないと思うのである。

   ネットやスマホなど情報伝達のツールは目覚ましく進歩しているから、今更葉書のやり
  取りなどは古臭いし、壮大な国民の無駄な風習だ。などと高邁な理屈を言われれば返す
  言葉もないが、一年に一度の「紙と労力の無駄遣い」をどうぞ大目に見てもらいたい。

   門松やしめ飾りと同じで、日本人の古き良き伝統、正月風景に欠かせぬ美風の一つと
  思ってもらいたいものである。
                    「無駄に美風あり」である。