樺美智子忌。 ![]() 今年も6月15日が来た。61回目の樺美智子忌である。 1960年6月15日、全学連を中心とした活動家や心ある多くの一般学生、労働諸団体が、 小雨降る国会周辺のデモから一転して、衆議院南通用門から国会に突入して警官隊と 衝突し、学生・警官双方の重軽傷者は数百人にのぼった。 このデモに参加した東大生樺美智子さんがデモの最中に圧死した。彼女は私と同じ 1937年生まれの22歳の若さだった。死因は胸部圧迫及び頭部内出血となっているが、 警察側は転倒が原因の圧死と主張し、学生側は機動隊の暴行による死亡と主張し、 未だに真相は解明されていない。 国会では同夜、新安保条約は強行採決され、1か月後に自然承認となり、その翌日 岸信介は総理大臣を辞任した。 仲間たちと「アンポハンタイ、岸ヲタオセ!」と腕を 組んでシュプレッヒコールした高揚感を今でも鮮明に覚えている。警官隊の浴びせる 強烈なホースの水でびしょぬれになり恐怖感を覚えたことも脳裏にある。 安保改定は強行採決したものの、再軍備をもくろむ岸首相の不本意な退陣により、 岸の念願であった「憲法改正・再軍備」は頓挫し、以後60年間、憲法改正の動きは 停滞した。今も、「憲法を守ろう」という形で「安保反対」を叫んだ人たちはわずか に意思を繋いでいる。 安保改定新条約にはいくつかの懸念が指摘されていた。 自衛隊の増強を義務付けていること、米軍の行動の大半が「事前協議」事項になっ ていない事、条約の適用地域が限定されていない事、また新条約の片務的関係を 改め「相互防衛」条約に近づくことから事実上の軍事同盟になり、以前にもまして 日本がアメリカの軍事戦略に深く組み込まれること、など憲法9条の危機を理由と して進歩的な学者をはじめ有識者は安保反対の声を強めていた。 安保条約が必ずしも日本の平和を保障するものではないと国民の多くが本能的に 察知していたことと、政府の強行採決が多くの国民に民主主義そのものへの挑戦と して受け止められたのが、あの爆発的エネルギーを生んだと思われる。 今あえて肯定的にいうならば、安保闘争の意義は、戦後の平和主義と民主主義と が国民の中に根付きつつあったことを示すところにあったように思われる。 しかし一方では、この運動をピークにして一部学生たちは次第に思想が先鋭化 し、多くの学生は彼らから距離を取るようになり、学生運動の大きなうねりとダ イナミズムは影をひそめるようになった。 反対運動の成果に疲れを感じた若者たちは、西田佐知子が退廃的な歌声で歌う 「アカシアの雨が止むとき」に共鳴したのもこのころだった。あの高揚感と挫折 感は間違いなくあの時代の若者の味わった苦く貴重な人生経験だった。 もはやあのダイナミズムは今日の日本の若者には見受けられない。政治に無関 心または行動なき批判派がほとんどであり、台湾や香港、ミャンマーの学生に見 受けられるのみである。 61年前の学生にはデモへの参加、不参加を問わず、誰もが否応なく政治の大き な渦に巻き込まれ、無関心、いわゆるノンポリはごく少数派だった。 特に大学の寮生活を共にする我々貧乏学生は、毎日毎夜議論に明け暮れた。 61年前の話、今は昔の思い出話である。 ”我は生き彼女は逝きし六月の 雨は今年も沛然と降る” 朝日歌壇より ”血と雨にワイシャツ濡れている無援 ひとりへの愛美しくする” 国学院学生岸上大作 注;彼は安保条約改定反対の学生らが国会に突入し、東大生の樺美智子さんが 亡くなったあのデモの渦中にいた。日本が安保闘争に揺れた政治の季節に、 失恋の痛手と運動の挫折を味わい、21歳の若さで自ら命を絶った。 |