遊行寺参詣。  
     09,01,19

  我が家の菩提寺・光照寺の本山は藤沢市にある清浄光寺(通称;遊行寺)である。
 光照寺を墓地と決めた時、いつかは参拝しようと決めていたが、ようやく先日JASSの
 企画で拝観の機会を得た。藤沢駅から歩いて30分、我が家から電車の時間も含めて
 1時間そこそこの近場なのに今まで来なかったのが不思議なくらいである。

 遊行寺は時宗総本山「藤澤山無量光院清浄光寺」が正式名称で、1325年の創建、
 開基は遊行4代呑海上人の兄で地元の地頭俣野五郎景平とある。広大な敷地に
 沢山の御堂と池や庭や樹木が配置された格式高いお寺だった。印象に残ったのが
 3つあり、ひとつはこんな立派なお寺に、国定忠治の片腕、板割りの浅太郎の墓
 があったこと。二つ目は、中雀門の屋根瓦の正面に「菊の御紋」、側面に「葵の紋」
 が取り付けられていたこと。三つ目は入り口の総門が天下の三黒門の1つといわれ
 る立派な門構えをしていたことだった。

  お年を召した人なら誰でも御存知の国定忠治。新国劇で辰巳柳太郎や島田正吾
 が「赤城の山も今宵が限り・・・」と大見得を切るシーンに喝采を送ったことだろう。

  「泣くなよしよしねんねしな〜」と東海林太郎が熱唱した「赤城の子守唄」も覚えて
 おられる事だろう。この赤ん坊(勘太郎)を背負っていたのが板割りの浅太郎だ。
  しかし史実では、国定忠治に謀反の疑いをかけられた板割りの浅太郎が、忠治
 の命を受けて叔父の目明し中島勘助と息子勘太郎を殺害し、首を赤城山に持参し
 て身の潔白を証明したと言うのが事実のようだ。

  その後忠治は処刑され、浅太郎は仏門に入り修行の末遊行寺の堂守となり、
 鐘つき、参詣者の接待、清掃をしながら念仏三昧、中島親子の菩提を弔らい、
 この寺に住職として埋葬されたとのことだ。

  中雀門の屋根瓦の「菊の御紋」、「葵の紋」については、この門が紀伊大納言
 7代徳川冶宝の寄進、時の十二世法主尊観上人が親王であったことに因るとの
 事であった。

  天下の三黒門については、浅草寛永寺の黒門が有名(上野戦争でこの黒門
 付近が彰義隊と官軍の激戦地)だが、二つ目はここ遊行寺の黒門、あと1つは
 何処かは不明なので誰か識者に教えていただきたい。

  だいたい「天下の三黒門」なる言葉があるのかどうかすらして私は初めて聞い
 た次第なので、どうも怪しいもののような気がしている。

 こうして我が菩提寺の本山・遊行寺の参拝を終え、隠れ里「K屋」の見事な正月
 会席料理を味わって帰宅した。

 
 天下の三黒門の1つ、遊行寺黒門。
 境内に入ると、左側に幹周り7、1m
 もある大銀杏の木があり、遊行寺
 のシンボルになっている。

 樹齢は650年から700年といわれて
 いるので、1300年頃の植樹なのだ
 ろう。イチョウは中国原産で日本へ
 の渡来は早くても12世紀以降のこと
 だから、ほぼ合点が行く。
  余談だが、鎌倉八幡宮の石段左
 側の大イチョウの陰にひそんだ公暁
 が実朝を殺害したのが、1219年(承
 久1)のこと。イチョウが日本に渡来し
 た時期からみると、辻褄が合わない。
 どうも公暁が大イチョウの陰に隠れ
 ていたと言うのは作り話の匂いがす
 る、と文化財研究会の会長と話題に
したものだ。
  板割りの浅太郎の墓。

 長方形の墓石が並ぶ中で、何故かひときわ目立つ
 珍しい無縫塔(卵塔)になっている。墓石が風化して
 戒名の文字が見えにくいが、「○○和尚の墓。」と
 いう文字がかすかに読み取れる。

 尊属殺人犯板割りの浅太郎も、更正して最後は
 和尚として手厚く葬られた事になる。

 この墓に花が絶えないのは、新国劇か、映画か、
 浪曲かの老ファンなのだろうか、それとも故郷が
 赤城の山に近い群馬の出身なのであろうか。