三陸大津波の鎮魂の旅。  14,08,20

   南三陸町といっても宮城県生まれの年寄りの私にはピンとこないが、志津川とか歌津と
  いえば名前に親しみが持てる。この辺一帯を始め三陸沿岸が広く大津波で壊滅的な被害
  を受けていながら、機会がなくて今まで訪問できなかったことがずっと気がかりだった。

   従兄弟の法事があって宮城県の登米市に出掛けたので、告別式終了後、気仙沼の従兄
  弟の運転で被害地を2日間見て回った。南三陸町志津川湾、南三陸町歌津伊里前湾に残
  る津波の痕跡は何とも痛ましく、志津川も歌津も全滅に近い。震災直後はいかばかりであ
  っただろう。

   住宅と商店街は根こそぎ波にさらわれ荒涼とした爪痕が剥き出しになっていた。歌津の
  3階建て鉄筋コンクリートの工業高校の建屋が、砕け散ったガラスと錆びて汚れた壁面を
  みせて残骸となって建っていた。周りには基礎だけが残った民家の跡地が広がっていた。
  ブルトーザーがひっきりなしに新しい盛り土を盛っていて新しい街づくりに励んでいるが爪
  痕はあまりにも痛々しい。

   海岸線は住宅建設禁止で魚の加工工場らしき工場群に生まれ変わり風景は一変して
  いる。津波は平地を駆け上り、山に囲まれた山間を縫って奥深く侵入し住宅を飲み込ん
  でいったようだ。驚くほど高台の民家が津波にのみこまれていた。津波の通り道の片側
  が家屋全滅で反対側が無事という悲喜劇が起きていた。

   従兄弟の実家の近くの気仙沼市本吉町小泉の高台にある小学校の校庭から眺めたら、
  眼下に惨状が一面に見渡せた。ただ声もなく見入るだけだった。

   気仙沼線は線路も鉄橋も寸断されてずたずたになり、流されて跡形もない民家の跡地
  や今は荒れ果てたままの田圃が津波の通り道の奥深くまで見渡せた。ここを通る小泉川
  の川幅が津波で数倍に広がり、かっては鮭が遡上したらしいが今はそれも途絶えている。

   日本の白砂青松百選に選ばれた名勝の小泉海岸線は、7メートルも地盤が沈下して陸
  地が海中に沈んでいた。かってボーリング場やレストランで賑わったというシーサイドパレ
  スホテルが数十メートルも沖合の海上にポツンと廃墟となって残っていた。(まるで安芸
  の宮島のように・・) 
   鉄筋の建物は廃墟として残り、木造民家は跡形もなくなるから、海上に残るたった一つ
  の廃墟は一層無残な光景となる。

   大谷海岸と気仙沼湾も同じ光景だった。気仙沼の景勝地・岩井崎は左に気仙沼湾、
  右に大谷海岸を望み、その景観は見事なものだが、公園の周辺にある数件の民宿が
  全滅して、民宿を経営していた従兄弟の友人が今も行方不明だと話してくれた。

   気仙沼の海岸一帯に盛んに盛り土が盛られ、これから巨大な防潮堤の建設が進むら
  しい。地元民は賛否両論だが着々と工事が進んでいる。

   明治以来もその昔も三陸地方は津波の被害にあってきた。大自然の猛威に対して人
  間の知恵はたかが知れている。巨大な防潮堤が今まで無力だったことは歴史が証明し
  ている。
  津波を完全に防御するために巨大な防潮堤を造っても所詮同じ過ちの繰り返しになり
  かねない。それよりも広い避難路の建設とか職住分離の徹底とインフラ整備のほうが
  より大事だと従兄弟は力説していた。災害を目のあたりにした私はただうなずくだけだ
  ったが同感だった。

   復興屋台村で食べた海鮮丼はことのほか美味かった。地元の人達は復興の志に燃
  えて元気いっぱいに見えたが、心底は如何なものだろう。東北人は他人に自分のみじ
  めな姿を見せたがらない誇り高い気丈な人が多い。よその人には判らない気性だ。

   気仙沼から大船渡線で一関に行き新幹線で帰京した。大船渡線は懐かしい。高校
  時代に大船渡線で通学した友人が沢山いた。山汽車の別名で呼ばれたが、大船渡や
  気仙沼から魚の行商人がこの線を利用したから魚臭い汽車だった記憶がある。

   岩手県の海側から内陸まで山を横切って東西に走る汽車なので山汽車と呼んだの
  だろう。気仙沼から大船渡の終点盛駅までは津波で線路が破壊され復旧のめどが立
  たないので、今はBRTbus rapid transitバス高速輸送システム)とよばれるバスが駅
  から駅まで走っている。駅の構内をバスが走る珍しい光景だ。

   気仙沼から一関まで1時間半。車窓から森や畑を眺めながら、懐かしい駅名に青春
  を思い出した。千厩、摺沢、猊鼻渓、陸中松川、陸中門崎などなど。ここから通学して
  いた懐かしい学友たちは今どんな人生を送っているのだろうか。満77歳、野心に燃え
  た紅顔の美(?)少年、美少女達は紛れもなく同じ青春を謳歌した喜寿の同級生たち
  である。