富岡製糸工場。 15,09,16 埼玉県の4つの寺を廻ってようやく坂東33か所全てのお寺巡りを終え,群馬県 の下仁田のひなびた温泉宿で疲れを癒した。ここ清流館は「日本秘湯を守る会」 に紹介されている隠れた秘湯で、7000坪の敷地があり、供される野菜はすべて 自家栽培、露天風呂は巨大な岩風呂、内風呂は古代ヒノキ、源泉かけ流しで なかなかの宿だった。 翌日、車で30分足らずの近くにある世界遺産の富岡製糸工場を見物してきた。 月曜日のせいなのか比較的空いていてガイドさんの説明付きでほぼ1時間見物 できた。 富岡製糸工場は殖産興業を推進するため、明治5年(1872年)に建てられた 官営工場で 繭を生糸にする操糸工場で、長さ140m、,幅13m、高さ12mの広い建屋内 には、300人取りの操糸器の配置の邪魔にならないように支柱が1本もない。 これは小屋根組みがトラス構造という当時としての最新建築工法を用いた事 によるもので、その設計思想は現代の工場建設にも共通する。その先進性に 感心させられた。また作業環境を考えて、採光にも十分な配慮がなされていた。 ガイドさんの説明によれば女工たちの労働時間や休日、給料などの処遇は 極めてよく、それは富岡製糸工場が官営の工場だった為との事だった。説明 を聞きながら二つの事を追憶していた。 1つは、脚光を浴びた富岡製糸工場の創業と同じころ、明治から大正にかけ て、飛騨から若い娘たちが野麦峠を越えて信州の岡谷・諏訪の製糸工場に働 きに出掛けたいわゆる「女工哀史」の事。岡谷の製糸工場で働く女工の処遇は 劣悪で、富岡の処遇とはかけ離れていた。官営と民営の差がもたらした格差だ った。現代の官民格差と共通する話である。 2つ目は明治17年に起きた秩父騒動の事。 群馬の富岡や長野の岡谷、諏訪に限らず、埼玉県秩父地方でも昔から養蚕 業が盛んで、秩父の多くの養蚕農家は桑の木を植え、蚕を育て、繭から生糸を 紡ぎ、絹織物を織って生計を立てていた。しかし明治15年ごろの深刻な経済 不況と増税(※1)、加えて化繊の台頭による需要の変化から生糸市場が大暴 落して養蚕農家を苦しめ、高利の借金をしたり土地を手放したり破産者が続出 した。生糸や織物の価格は半分から3分の一まで暴落したとされている。 (※1松方緊縮財政=地方交付金削減は必然的に地方税の増税を招いた。) 明治17年、ついに秩父の農民は政府に対して武装蜂起する。秩父騒動は 指導者の影響もあって自由民権運動の色相を濃く帯びてくるが、この事件には 地域経済、地場産業が直面したこうした時代背景が深く関わっている。 やがて事件は鎮圧され農民の敗北に終わる。 (興味がおありなら、中公新書、井上幸治著;「秩父事件」をお読みください。) 、 「風光る 峠一揆も 絹も越ゆ」 秩父の宝登山神社の茶店の一角に石碑があり、そこに秩父の俳句愛好者 たちの句碑が刻まれていて、その中の一句がこの俳句である。 昭和初期に廃れていた秩父音頭と秩父踊りを復活させた功労者が皆野町の 開業医の金子元春氏で、その子息が歌人の金子兜太氏であり、兜太の弟さん が父の病院を継いだ千侍氏で、くだんの俳句はその金子千侍氏の作である。 このあたりの経緯は、今は亡き私の心の師、元朝日新聞社論説主幹の今津 先輩から聞いた話だが、氏と一緒に三峰神社を登拝した折に、宝登山神社で 偶然に発見したのが件の俳句である。 説明するまでもなくこの句の意味は、一揆を起こした農民たちも、生糸や絹織 物も、この峠を越えて行った。との深い歴史への想いを込めたものである。 「風光る・・」がこの句をぐっと引き締めている。さすが兜太氏の実弟だけのこと はある見事な感性だと感じ入った記憶がある。 宝登山神社に刻まれた句碑、と連想を呼び、故人との懐かしい交友を回想した 旅となった。 最後に失敗談を・・。 友人に下仁田ネギを土産に買うから楽しみにせよと伝えておいたが、下仁田 ネギは寒い冬に何度も霜を被ってから収穫するので甘みが出る。出荷は11月 以降になるから今はどこでも売っていないよ。と宿の主人に云われて成る程と 得心した。恥を忍んで無知を告白する。代わりに上州名物のこんにゃくを、刺身 蒟蒻や蒟蒻羊羹など数種類も買い込んで土産にした。マメ知識が一つ増えた。 |