秩父夜祭。             10,12,04

   長男が幼稚園の頃だから今から30年以上も昔のことだが、息子と同い年のご近所の兄と弟がよく
  家に遊びに来ていた。弟さんの名前は「ブコウちゃん」といった。お母さんが秩父の出で「武甲山」か
  ら取った名前だと知ったのはしばらく後からだった。当時は武甲山が秩父の山でセメントの原料の石
  灰をここから大量に採掘していることすら知らなかった。まして秩父夜祭のこともほとんど知識がなか
  った。いつかは見たいと漠然と思いながらついぞその機会もなかった。秩父は私にとってはあまり縁
  のない遠い場所だった。
   秩父が急に近い存在になったのはつい数年前からである。横須賀RCの大先輩の今津先生が講元
  を勤めている「三峰講」に3度ほどご一緒するようになり、三峰神社を参拝し秩父夜祭の祭囃子の太
  鼓の名人高野右吉さんの生演奏を聴き、翌日秩父神社を参拝するようになってからのことである。
   昭和初期に秩父音頭と秩父踊りを復活させた功労者が皆野町の病院長の金子元春氏(号:伊昔紅)
  で、そのご子息が俳句の金子兜太氏であり、兜太の弟さんが病院を継いだ千侍氏でやはり俳句の
  名手だという話を先生から伺った。千侍氏の俳句、「風光る 峠一揆も 絹も越ゆ」も教わった。秩父
  地方は昔から養蚕の盛んな地域だが、明治中期の生糸価格の大暴落によって生活の糧を失った農
  民が蜂起して一揆を起こしたいわゆる「秩父事件」を回想したであろう秀句だった。
   先月、秩父に程近い群馬の渡良瀬渓谷にも行き、いよいよ秩父夜祭訪問が現実味を帯びている
  予感があった。同じ頃、家内が朝日旅行社のツアー企画の「秩父夜祭と伊香保・水澤寺見物」を見
  つけ、ついに念願がかない、中断していた坂東33ヶ所めぐりの5年ぶりの再開も兼ねて家内と娘3人
  でこのバス旅行に参加することになった。

   秩父夜祭は京都の祇園祭、飛騨の高山祭とともに日本三大曳山祭りといわれている。わたしは秋
  の高山祭りの直後に高山市内に格納されている山車を見たことがあるが、その豪華な3層の山車と
  巧妙精緻な「からくり人形」を生んだ飛騨の匠の技に驚嘆したものだった。またその原型ともいわれ
  る祇園の豪華絢爛な山鉾も八坂神社近くで見たことがある。秩父夜祭の山車も「秩父まつり会館」に
  陳列されているのを見た。しかし実際の曳山の巡行を見物するのは初めてである。

   我々一行は早い夕食を食べて秩父市内を2キロほど歩き、指定された13番札所慈眼寺の観覧席
  に陣取った。この場所は山車がお花畑駅近くの踏み切りを通過する姿を目の前で見られる特等席だ
  った。この日の夜は例年の肌を刺す寒さもない。午後7時に秩父神社を出発した御神幸行列は神輿
  1基、御神馬2頭、を先頭に市内各町の高張り提灯行列と続き、勇壮な掛け声と祭囃子が聞こえて
  きていよいよ笠鉾2基、屋台4基がゆっくりと現れた。スターマイン花火が夜空に打ち上げられた。目
  の前で繰り広げられる行列と花火のコラボレーションである。
   さすが別名『動く陽明門』と言われ国の重要有形民俗文化財に指定されただけの事はある。匠の
  技を極めた極彩色の彫刻や、金糸をあしらった後幕の刺繍などに彩られた豪華絢爛な笠鉾・屋台が
  秩父屋台囃子の調べに乗って、およそ2〜3百人の引き手に引き廻されてきた。
   行列は中近笠鉾、下郷笠鉾、宮地屋台、上町屋台、中町屋台、本町屋台、と続いた。
「笠鉾」の構
  造は土台の中央から長い真柱を立て、3層の笠を立て、緋羅紗の水引幕を吊り、造り花を放射状に
  垂らすのが本来らしいが、笠鉾の順路に電線が架設されたため、笠鉾本来の姿での曳行はできなく
  なり、今では笠をはずして屋形姿で曳かれている。
従って6基とも同じような外観だが、よく見れば屋
  台のほうは屋台歌舞伎を上演出来るような構造になっている。屋台を飾る沢山の提灯がほの明るく
  光り幻想的だ。高野右吉さんご一統が打ち鳴らす太鼓の音が止むことなく聞こえる。見物客には見え
  ない山車の最下部の場所に座って何時間も打ち続けるのだろう。ご一統の真剣な姿が思い起こされ
  親近感が沸く。

   山車は自由に右折左折が出来ない。「ギリ廻し」と呼ばれる木の棒をジャッキにして屋台を持ち上げ
  て方向転換をするが、その様を間近かに見ることが出来た。迫力あるシーンだった。まさしくここは特
  等席だった。そして一時的に架線を切断して山車が通過できるようにした秩父鉄道の踏切りを次々と
  渡り団子坂を登っていった。

   祭りの沿道から少し路地に入ると至る所に露天商が夜店を出している。客が立ち並び掛け声が勇ま
  しく、夜祭の雰囲気が路地一帯に漂っている。焼き鳥あり、今をときめく広島風お好み焼きあり、各種
  雑多な露天が繰り広げられていた。寒さをしのぐには熱燗に限る。熱々のおでんを食べ熱燗を飲んで
  寒さをしのいだ。春、夏、秋のお祭りは何度も見たが冬の祭りは珍しい。熱燗が飛ぶように売れていた。

   午後7時ごろ秩父神社を出発した6基の山車は午後10時半頃に御旅所に着く。斎場祭の神事を行
  ってから午前0時ごろ出発して秩父神社に戻るのが午前3時を回るという。すべての行事が終わると
  高野右吉さんご一統や祭りに携わった人たちは近くの店でうどんを食べながらねぎらいの小宴をやり、
  来年を期すそうだ。
   秩父の例大祭は12月3日の夜だけではない。12月1日から6日まで行われ、すべて秩父と近隣の
  町の人々の全員参加で成り立っている。武甲山を遥拝する聖地、秩父盆地の中心地に鎮座する秩
  父神社を崇める人々に支えられるこの神事は300年を超える歴史を持つという。法被を着て行進する
  人々、観客席で声をかけ声援する人々、その一体感に心温まるものを感じたが、あの明治中期の極
  貧の秩父騒動の頃の祭りはどのように行われたのだろう。逞しい農民・庶民の祭りへの熱い思いは
  決して揺るがなかったに違いない。

   翌朝の朝刊3面には写真入で秩父夜祭の様子が報道され、伊香保に向かうバスの中ではガイドさ
  んが道の両側に並ぶ数軒の民家を指差して、あのカーテンを閉じた2階で、シーズンには主婦達が生
  糸を紡いでいます、と声軽やかに説明していた。      完