春の散策。 ![]() 例年より早く桜が咲き始めると思ったら急に春冷えが続いて桜も満開にはまだ程遠い。我が家の庭先には例年 この季節になるとウグイスが鳴き始めて、その鳴き声で朝目覚めるという風流な毎朝だが、ここ数日はウグイスも 寒さで身を潜めているかのように声音がばったりと途絶えている。とはいえ風の冷たさも随分緩んできているので、 JASSの企画に乗ってあちこち探訪の散策に出かけた。まずは明治の傑物二人の別邸訪問である。 1、白洲次郎別邸。 2、安田善次郎別邸。 |
白洲次郎別邸 09,03,26 先日、テレビで白洲次郎が放映された。原作は北康利の「占領を背負った男」である。次郎、正子夫妻が戦時中 に住んだ家が町田市の鶴川に建っている。東京から少し離れた鶴川の田舎の総茅ぶき造りの古い民家を気に入 って買取り、戦時中を過ごしたのがこの東屋で名前を「武相荘」という。名前の由来は武蔵と相模の中間だから武 相でもあり、文字通り「無愛想」でもある。母屋と別棟で約150坪、長屋門や茅ぶき屋根を残す風情あるたたずま いである。白洲正子は文筆家であると同時に骨董の稀代の目利きとしても知られており、数多くの書画・骨董が 展示されていた。悲しいかな、目利きではない私の目では展示品のすばらしさを見分けることはできなかったが・・。 白洲次郎は吉田茂を助けサンフランシスコ講和会議全権委員顧問として影の立役者となり、日本国憲法成立に も深く関わっていた。本場イギリス人よりも流暢な英語(キングリッシュ)をしゃべり、留学先ケンブリッジ大学仕込み のダンディで気骨ある国際派の財界人だった。占領時のGHQからは「従順ならざる唯一の日本人」として一目置 かれる存在で、若いときからベントレーなどの高級車を乗り回し、晩年までポルシェを乗り回した車好きでもあった。 このあたりは前述の著書に詳しく載っている。つまりは生まれたときからの恵まれた大富豪のお坊ちゃまが、庶民 とは異質の育ちと生活をして、思うとおりの生涯を過ごした選ばれし数少ない明治人の一人であったということだ。 |
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武相荘 家の中には書画骨董をはじめ普段着や 食器、などの正子の愛した品々が展示 され、独特の美意識に貫かれた生活空 間が再現されている。 平屋建ての古い趣のあるこんな家屋が 今でも私の垂涎の佇まいである。 |
安田善次郎別邸 09,03,30 大磯は逗子葉山と並んで政財界人や文化人の別荘地として有名である。つい先ごろ相模湾を見下ろす景勝 地に建つ吉田茂邸が不審火で全焼して大磯の名所のひとつが失われた。40年ほど前に吉田邸を訪れ、この 私邸で繰り広げられた外国要人との外交交渉の場だった応接間や、2階にある書見の間、彼がこよなく好き だったヒノキ造りの舟形風呂、七賢堂などを見聞したものだ。要人との会食にあてられた食堂で食べた晩餐も 今はもう懐古する事しかできない。その他の現存する名だたる有名人の多くの別荘は現在見物を断っていて、 ここ安田善次郎別邸だけが唯一見物が可能な建物だ。 安田善次郎はいわゆる安田財閥の創始者。富山から上京して苦労をしながら両替商となり、時流を読んだ 商才が功を奏して財を築いた。当時の資産で3億円(1万倍として現在に換算すると3兆円)というから巨大な 富を得た途方もない資産家だった。安田銀行〜富士銀行〜みずほコーポレート銀行へと継承される安田財閥 ・芙蓉グループの創始者である。ここ大磯の別邸は知人の浅野総一郎(浅野セメント創始者)から譲り受けて 拡張整備した別荘で、吉田邸同様相模湾を見下ろす景勝の高台に建てられている。入り口の門は安田靫彦 (ゆきひこ)画伯設計施工による唐破風平唐門で、1万余坪の庭園が訪問客を出迎えてくれる。この景勝の 地を広く町民に開放しようと、一大遊園地の建設を夢見た翁が右翼の凶刃に倒れたのが今ある校倉造りの 経堂の付近で大正6年80歳の時であった。広く庶民に開放したいという翁の精神が持仏堂の前の石碑に刻 まれている。石碑には「おかまえはもふさず来たりたまえかし 日がな遊ぶも客のまにまに」 とある。 |
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安田靫彦画伯(ゆきひこ)設計施工による 唐破風平唐門。咲き始めた桜と調和して 見事な門であった。 同じ安田姓だがこれは偶然で、善次郎と の血縁関係はないそうだ。 |
国道一号線沿いに「虎御前」を初祖とする延台寺、島崎 藤村の墓がある地福寺、安田靫彦画伯の墓のある大運寺 がある。虎御前はあだ討ちで有名な曽我十郎と結ばれた 舞の名手。十郎が五郎とともに工藤祐経を討ち見事あだ 討ちの本懐を遂げて若い命を絶ったあと、剃髪してこの寺 で兄弟の菩提を弔ったといわれている。霊石「虎御石」が 安置されている。この霊石には逸話があるが、あくまで通 説なので説明は省く。 近くの一号線沿いには鴫立庵がある、ここは西行法師 ゆかりの俳諧道場。鎌倉時代の有名な歌人・西行法師が、 「こころなき 身にもあわれは しられけり 鴫立つ沢の 秋の 夕暮れ」とこの地で詠んだが、江戸時代初期に崇雪という 俳人が、西行を慕って大磯・鴫立沢のほとりに草庵を建て、 その後これが鴫立庵と呼ばれている。なかなか瀟洒な作 りで、風情にあふれている。歴代俳諧重鎮が江戸時代より 現在に到るまで、この庵に在住してここを守ってきている。 |
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