五月晴れの甲斐・秩父路、三峰神社登拝。    10,05,05

    今津講元のお誘いで2年ぶりに三峰講の三峰神社参拝に参加した。大型連休の大混雑もようやく峠を越し、
   この2日間は好天にも恵まれた快適な旅になった。御殿場インターから中央道を経て山梨に入り、恵林寺参
   拝・昼食〜雁坂トンネルを通り抜けて三峰神社に到着し、夜は高野右吉一統による秩父祭り囃子の太鼓演
   奏を聞き、翌朝本殿参拝、神楽奉納、帰路は浦山ダム見学、秩父神社、宝登山神社を参拝して長瀞で昼食
   をとり、関越道から帰宅するという一連の行程はいつもながら例年通りである。なにせ60回を越える歴史を
   持つ講なので、神社側の応対も丁寧で至れり尽くせりだが、特に早朝の神事はお山の荘厳な霊気とともに
   身の引き締まる思いに包まれる。

    今年で3回目の参加だが、太鼓演奏は勿論、その他にその都度何かしら心に残る印象的なことがある。
   1回目は2006年だが、秩父宮殿下が宿泊されたという秩父山荘のご記帳簿に高校時代の同級生の内海隆
   一郎君(作家)の記帳を発見したこと。2回目の2008年には長瀞の筏くだりで両岸に咲く見事な藤の花を見
   て、第2の故郷、岩手の猊鼻渓の藤の花に想いを馳せたことだった。そして3回目の今年は2つの印象的な
   ことがあった。
    1つは花にまつわる印象。まず、至る所に咲いているハナミズキの花が実に見事に密集して咲いていたこ
   と。(葉山のハナミズキはこうは見事には咲かない。) そして山吹の花が山襞一面に黄色に咲き誇ってい
   たことだった。早朝の神事で神楽を踊る巫女さんが右手に山吹と思しき黄色い花の可憐な小枝を持ってい
   たことが特に印象に残った。
    2つ目の印象は俳句に関すること。今津講元にはいつも貴重なお話を伺っているが、先年伺った話に、昭
   和初期に秩父音頭と秩父踊りを復活させた功労者が皆野町の病院長の金子元春氏(号:伊昔紅)で、その
   子息がかの金子兜太であり、兜太の弟さんが病院を継いだ千侍氏でやはり俳句で有名だという話があった
   。講元にお聞きした千侍氏の秀作に、「風光る 峠一揆も 絹も越ゆ」 がある。そんな話をバスの中で話し
   ながら宝登山神社に行ったら、なんと神社茶店の一角に石碑がありそこに件の俳句が刻み込まれている
   ではないか。花と句。これが今年の三峰参拝で得られた心に残る好印象である。

    ついでにもう1つ。甲府市塩山にある恵林寺は武田信玄の菩提寺だが、ここの三門に掲げられているの
   が快川和尚の有名な絶句である。武田軍を滅ぼした織田軍が恵林寺に押し寄せ潜伏していた武田の兵士
   の引渡しを命じたが、快川和尚はこれを断り、怒った信長が快川和尚はじめ約100人の僧侶を一人残らず
   焼き討ちにした。
   「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼」 天正10年(1582年)快川和尚、壮絶な火定を遂げた際の一句で
   ある。・・あんぜんかならずしもさんすいをもちいず。しんとうめっきゃくすればひもおのずからすずし。・・と読
   みます。後段の「滅却心頭火自涼」は信仰の極致というか、やせ我慢の極致というか正に壮絶ですね。
    一説によればこの一句は快川和尚の作ではないとも言われる。何故なら、和尚を取り巻く全ての僧侶が
   焼き討ちにあい、後世にこの句を伝える僧侶は誰一人として生き残らなかったためという。鎌倉八幡宮の
   銀杏の木といい恵林寺の快川和尚といい、言い伝えには何かとケチがつくもののようだ。