偕楽園の観梅。(その1)     16,03,05

  東日本大震災から満5年、また3月11日がやってくる。あの日は親子3人で
 水戸の偕楽園に梅を見に行く予定だった。年月が流れて今年3月1日、私は
 5年前と同じように1人で手弁当を作って偕楽園に出掛ける支度をした。5年
 前と違うのは弁当が3人前から2人前になった事と、宿泊地を日光から福島に
 代えた事くらいである。

  旅の予定は、
 初日;常磐道を走り水戸偕楽園での観梅〜弘道館見物〜常磐道・磐越道・東
 北道を福島西ICまで走り〜福島県の秘湯高湯温泉安達屋に宿泊。
 翌日;高湯温泉発〜二本松城址〜高村千恵子記念館〜白河南湖公園〜帰宅。
 というほぼ800`の旅である。

  年末に買い換えた新車クラウンハイブリッド(2500cc)を駆って早朝6時に
 我が家を出発した。流石に室内の最新装備、乗り心地、走りの静粛さは旧車
 とは格段の違いがある。長丁場の運転にはこれほど楽で安全な車はない。

  この所老人の運転ミスや突然の病から悲惨な交通事故が相次いでいるの
 で、特に安全運転に気を付ける事と、疲れた時には必ず適当な休みを取る
 ことに心掛けた。それでも800キロの長旅走行なので、体の疲れ、特に視力
 にやや不安を抱いての旅立ちだった。

  予定通り午前9時前に偕楽園に到着。ボランティアガイドさんが園内を案内
 してくれた。初春のような暖かい日差し。約100品種、3000本の梅がほぼ
 8分咲きで、色とりどりの梅の花が咲いていた。広い園内は梅見客で一杯だ
 った。出店が並び、土産物屋が威勢のいい掛け声をかけていた。

  偕楽園は筑波山や大洗の海を遠望できる高台にある。これ等を借景として、
 第9代水戸藩藩主徳川斉昭が天保13年(1842年)に開園した公園である。
 梅林の他に、杉林や竹林、桜、ツツジ、萩などが植えられている。眼下には
 千波湖の景観が拡がり、庭内にある好文亭からの眺めは見事だった。

  庶民にも開放して偕(とも)に楽しむという徳川斉昭の作庭思想は、岡山の
 後楽園を作った岡山藩主の池田綱政公の思想に通じている。心休まる見事
 な庭園だった。

     

  弘道館に立ち寄った。弘道館は水戸藩の藩校として、偕楽園と同じく藩主
 の徳川斉昭が創設している。独特の質実剛健な水戸学はこの弘道館で教え
 られる。斉昭の子、徳川慶喜が大政奉還をした後、幼いころに学んだこの
 弘道館で4か月間謹慎生活を送ってのち、静岡に蟄居を命じられている。

  私塾で学んだ子供が、15歳で試験を受けて弘道館に入学できるが、相当
 の難関だったようだ。卒業はなく、学問と武芸の両方が重視された、今でいう
 総合大学である。その点、会津の藩校日新館は9歳で入学できたから、ここ
 弘道館とは少し性格が違う。

  ”弘道館で学び、偕楽園で寛ぐ”それが斉昭の思想で、孔子のいう「一張
 一弛」、つまり、厳しいだけでなく時には弛めて楽しませることも大切だという
 教えである。文武修行の弘道館、修行の余暇に心身を休める偕楽園という
 一対の施設として構想されている。

  ここでもボランティアガイドさんに館内をくまなく案内してもらい、斉昭の業
 績の説明を受けた。屈指の国防主義者だった斉昭の尊攘思想は、弘道館
 での教育方針となるが、その思想は次第に急進的になり、後の水戸浪士の
 桜田門外の変や、武田耕雲斉率いる天狗党の乱という反幕行動を生むこと
 になる。彼等蹶起者の主力はみな弘道館出身者である。

  ガイドさんと、幕末から維新にかけての斉昭・慶喜の思想と行動について
 若干の意見交換をした。例えば、なぜ慶喜は戊辰戦争の最中に、沢山の
 部下を見殺しにして大阪城を船で脱出し、寛永寺で謹慎したのか、等々。
  話が弾み、30分の予定が2時間に及んでしまったが、貴重な話を聞くこ
 とが出来た。ガイドさんもついつい熱の入った解説をしてくれた。

  偕楽園で名物の水戸納豆等を買い、手持ちの弁当を食べて一休みして、
 今日の宿舎の福島・高湯温泉に向かった。磐越道では小雪に見舞われ、
 気温は0度を指していた。東北道福島西ICを下りて10分ほどで、市営の
 チェーン脱着駐車場に着く。ここに駐車して今宵の宿「安達屋」の迎えの車
 に乗った。急な山道は雪で覆われていて、やはり自分の車では走れない。
 宿の主人曰く。「四駆でスタッドレスで小さい車でなければこの雪道は登れ
 ない。」 

  高湯温泉は宿が10軒ほどしかなく、我々の泊まった安達屋は築400年
 になるという秘湯である。お湯は硫黄泉で白濁していて何とも気持ちの良い
 風呂だった。広い露天風呂から見える雪景色も見事で、家内はとうとう4回
 も入浴したらしい。私が経験した数多くの温泉の中でも5本の指に入る、記
 憶に残る屈指の温泉だった。やはり名湯であり秘湯である。

  ただし宿の主人は、山道を車で来れる様になっては、もう秘湯ではない。
 とやや自虐的に語っていた。便利さは一方で自然の美を損なうのだという
 事を感じさせられた。

  夕食は囲炉裏で食べる野趣に富んだ献立。イワナの串焼き、朴葉みそ
 焼き、ナマズの洗い、アミ茸の味噌汁など山奥特有の珍しい夕食で充分
 満腹感を味わった後、店主手打ちの10割蕎麦が供された。これが10割
 蕎麦かと意表を突かれる蕎麦だった。通常、10割蕎麦はつなぎを使わな
 いから太めでボサボサ感があるのに、まるで8割蕎麦のような細めで切れ
 ない蕎麦だった。抜群に美味しく遂に完食してしまった。いまでもこれが本
 当に10割蕎麦かと、にわかには信じられない思いである。

  さて2日目は二本松から白河を経て帰宅する。2日目も新しい見聞をし
 たので稿を改めて紹介することにする。

           ・・・続く・・・