石垣山一夜城史跡を歩き秀吉の智謀を偲ぶ。        08,06,12

  世に一夜城といえば、小田原石垣山の一夜城と美濃の墨俣城の二つが有名だが私はまだどちらも一度も訪れた事がない。
 墨俣城は信長の命を受けた木下藤吉郎が永禄9年(1566年)長良川の上流から資材を筏にくんで流し、あっという間に砦を
 築き上げてしまい、これが功を奏して美濃稲葉城の斎藤竜興を滅ぼす事になる。世にこれを「秀吉の一夜城」と呼ぶのは有
 名な話。一方小田原一夜城は天承18年(1590年)豊臣秀吉が22万の大軍を率いて当時難攻不落の小田原城を包囲し、こ
 れを眼下に見下ろす笠懸山に一夜で石垣の城を作ってしまい、これを見て驚いた北条勢が戦意を喪失して籠城を諦めて城
 を明け渡す事になるという、いわゆる「太閤一夜城」も有名な話。
 国道1号線を抜けて小田原一夜城跡を左に見て箱根乙女峠に抜ける道は私のかっての通勤ルート。いつでも手の届く場所
 なのに何故か一度も訪れた事がなかった史跡で心残りだったが、ようやくこの石垣山一夜城を見に行く機会に恵まれた。
 葉山文化財研究会のお誘いである。
 6月12日、あいにくの小雨のなかを小田原駅からバスで史跡に向かう。出迎えてくれた小田原郷土史研究会の会長さんたち
 の説明を聞きながら現地到着。世に石垣山一夜城または太閤一夜城と言われるのは、秀吉が築城に当たり、山頂の林の
 中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城の将兵が、
 一夜のうちに城が出現したと思ったと言う伝承によるものだが、実際には延べ4万人が動員され、天承18年4月から6月まで
 約80日が費やされた城なのだそうだ。この城は関東で最初に造られた総石垣の城で、石積みは近江の穴太衆(あのうしゅ
 う)による野面積(のづらづみ)と言われる特徴的な技法。実際に見てみると組みあげた上の石が下の石を覆うようにかぶさ
 っている石積み法でその特徴がよく判る。そういえば一昨年に見た安土城跡もそうだった。
 一夜城は本丸、二の丸、井戸曲輪、西曲輪、南曲輪、など5,8ヘクタールに及ぶ大きな石積み遺跡で、特に井戸曲輪は一
 夜城の中でも白眉ともいうべき遺構。本丸物見台から眼下3キロ下の小田原城を見下ろすと、さすがの小田原城も豆粒のよ
 うにみすぼらしく見え、落城目前の城を見下ろしながら秀吉と家康が”連れしょんべん”をしたという逸話ももさもありなんと想
 像される景観であった。
 秀吉が山中城をわずか半日で攻め落とし直ちに小田原到着、間髪をいれずこの絶好の山に築城を始める事が出来たのは
 何故か、その情報源は誰か、など興味ある疑問と答えの仮説がいくつかあるのだが、その紹介は割愛しよう。
 遺跡を見終え、秀吉の智謀に思いをいたした雨上がりの昼過ぎ、早川の市内まで徒歩で下り、早川漁港の食堂で地場の刺
 身定食を食し、水産試験所を見学して帰途に着いた。
 本丸物見台から小雨煙る小田原城を見下ろす。
 霞んでよく見えないが、左下側の森の周辺に
 小田原城が小さく見える。右側は相模湾。
 このカメラスポットが秀吉と同じ目線だと思うと
 なにか不思議な気持ち。