ゴルフに挑戦。       12,05,18

    私がゴルフを始めたのが昭和42年(1967)だから、ゴルフ歴45年、最盛期には年80回、
   平均でも年50回はくだらなかった。計算はしたことはないが合計では2000ラウンドを優に
   超えているから、超ベテランの部類に入るだだろう。その私が「ゴルフに挑戦」とはいささ
   か変だが、昨日久しぶりにクラブを握った時の正直な気持ちが「ゴルフに挑戦」の心境だ
   った。ただし「スコアに挑戦」ではなく「持続力に挑戦」の心境だった。
   
    昨年9月以来8か月ぶりのゴルフなので、掌の皮がむけるやら腰痛でクラブを杖代わり
   にするやら、四苦八苦のラウンドだったが何とか完走することが出来た。万一に備えて
   ニトロを懐にした決死のプレーも、何事の異変も起きずに済み、正に「挑戦が成功だっ
   た。」といえるだろう。51,50のスコアも望外の成績だった。36名の参加の「三友会」と
   いうゴルフ仲間の大会だったが、好天気に恵まれた雄大な箱根カントリーは初春の新
   緑がまぶしいくらいに輝いて見えた。「またここに来られた。」の感を一層深くしてコース
   を回った。

    パートナーの一人が三友会の会長。旧玉塚証券の創業者の御曹司で昭和3年生まれ
   の御年84歳。往年のゴルフの名手で今でも華麗なフォームで堅実なプレーをなさってい
   た。創業者の父上が葉山に別荘をお持ちで、戦前には子供のころよく葉山の一色の海
   に潜ってサザエやアワビを獲ったものですと懐かしげに話してくれたので話に花が咲い
   た。今葉山の別荘調査をしている関係で興味を持ち、別荘の場所を聞いたら、売却し
   た後の屋敷は一色の料亭「音羽楼」になっている筈だという。そういえば1000坪もある
   広大な土地に平屋の和風建築の料亭「音羽楼」があり、私も現役時代に仕事上の会食
   によく使ったものだが、何とも落ち着いた建物や部屋だったことと、上品な京風料理だ
   った記憶がある。玉塚さんの話では父君の趣味がふんだんに生かされた部屋や調度
   品だったと記憶しておられた。

    今は「音羽楼」は解体されて分譲住宅になり、趣も何もない一般住宅が4軒ほど建っ
   ている。かっての立派な門構えと和風建築は跡形もなくなっているから、遠からず知る
   人も少なくなるだろう。まして玉塚証券の創業者の別荘がここにあったなどは知る人は
   皆無になる。だからこそ我々が地元の人たちや後世の人たちに残そうとしている別荘
   調査の意味があるのだと、1人うなずいた。

    そういえば玉塚証券の名前すら知らない人が多かろう。玉塚証券も遠い過去のもの
   になってしまった。昭和40年代になって証券業界の再編成・合併吸収が次々に繰り返
   されたが、玉塚証券は山叶証券と合併して新日本証券になり、さらに和光証券と合併
   して新光証券になり、さらにみずほの傘下に入って現在はみずほ証券になっている。
   いわばみずほ証券の母体になるのだが、玉塚証券創業者の直系の発言力・影響力が
   現在いか程のものかは聞きそびれてしまった。また過去への郷愁はいかばかりなのだ
   ろう。
    資本の淘汰の恐ろしさ・凄まじさ・冷酷さを身を以て体験なさったのであろう。激動の
   時代を生き抜いた経験が糧になっているのか、葉山の思い出を淡々と語る玉塚さんの
   上品な笑顔と語り口がさわやかだった。

    ゴルフ場に来ることは、プレーもさることながら、得難い知人が出来て知らない世界
   の話を聞ける楽しみがある。いつものことだが改めて思い知った久しぶりの箱根カン
   トリークラブだった。