囲碁の日。 20,05,15 今日5月15日は囲碁の日とされている。5(碁)月15(囲碁)日と苦しいつじつま合わせを したのが日本棋院。かっては1月15日をもじって「囲碁の日」としたようだが、年に1回では 間延びするので、毎月15日を囲碁の日にして普及に役立てようとの日本棋院のたくましい 商魂の現れなのだろう。もしかしたら命日と月命日の関係をまねたのかもしれない。 江戸の昔から碁打ちは商才つまりは金銭感覚に弱く、旦那衆のご祝儀に頼って生活し てきた。旦那衆のお相手をして食い扶持にありつく、つまりは「お座敷芸」である。 「旦那衆」の最たるものはお殿様で、殿中で対局する「お城碁」が対局者の晴れの出番。 次が家老のお抱え棋士で勝負に負ければ切腹も覚悟の命がけの宮仕え。下って官財界 大御所の庇護を受けた棋士で、定期的に指導碁に訪れては飲食も共にした。これ等の 人は一握りに過ぎず、三流の棋士達はいつも食うや食わずの生活で上達を夢見ていた。 棋士たちは囲碁の腕を磨くのは商売だから当然だが、ほとんどの棋士は経営センスに 乏しく苦手だから、基盤の脆弱な日本棋院はいつも赤字で棋士の生活は苦しかった。 これを救ったのが3大新聞社で、朝日が「名人戦」、読売が「棋聖戦」、毎日が「本因坊戦」 を企画して多額の賞金を出して棋院の財政難と棋士の生活を救ってきた。 新聞社も多くのファンを引き付け売り上げ部数を伸ばし、持ちつ持たれつの関係を築く に至った。その間、朝日と読売が名人戦の取り合いで騒動が起きたが、結局は朝日が 「名人戦」、読売が「棋聖戦」を新設することで和解した。棋聖戦は現在賞金額では史上 最高額がついていて、「棋聖位」は棋士の目指す最高称号となっている。 その後十段戦、天元戦、碁聖戦、などの7大タイトル戦に発展したのはご存知の通り。 余談だが、筆者が中学生のころ、読売新聞社嘱託の無敵の囲碁棋士、呉清源の対局 譜面を食い入るように見つめて興奮したことを今でも鮮明に覚えている。 日本棋院は私の知人の元電装社長のO氏が第14代理事長に就任して,スポンサー依 存の経営体質から脱却して多角化を進めて現在に至っているようだ。 Oさんは温厚な人柄で、若くして経理畑の辣腕家として頭角を現し、趣味の囲碁でも強 豪で、その後同社の会長を経て棋院理事長に就任してその手腕を発揮された。 長らく 交流はないがご存命ご活躍なのだろうか。 囲碁の日、いつもの碁会所は軒並み自粛中なので、家に閉じこもって、日がな一日中 囲碁史の本を読んだ。この日パラパラと開いた書物は、呉清源解説の「玄玄碁経集」と、 趙治勲監修の「算悦・算知・道悦」の2冊。 「玄玄碁経集」は南宋時代(12~13世紀)に著された中国の代表的な古典の棋書で、 詰碁や手筋などを収録してある。 「算悦・算知・道悦」は江戸時代の「名人碁所」をめぐ る命がけの争碁の棋譜を趙治勲が丁寧に解説している。 これらの古典は睡眠剤としてもうってつけの特効薬で、いつの間にかすぐに桃源郷を さまよってしまう。家の中で囲碁の本を読み、碁盤に石を並べ、パソコンで囲碁対局をし、 TVでプロの囲碁対局を観戦するのは楽しいが、早く外出許可が下りて碁会所が復活し て囲碁の友達と歓談・対局できる日が待ち遠しい。 囲碁の楽しみは「読む」「観る」「打つ」だが、打たなければ興味は半減である。 昨夜は10歳でプロ棋士になった小学生仲邑菫(すみれ)初段と武宮9段の対局をTVで 観戦した。菫ちゃんが白番で堂々たる勝ちっぷりを収めた。多少強引なところがあるが 子供らしい鋭い手を連発して百戦錬磨の武宮9段をタジタジとさせた。 囲碁の世界でもゴルフの世界でも水泳や陸上その他のスポーツ界でも次々に若手が 登場して脚光を浴びている。老人は目を細めて彼ら彼女らの活躍に拍手を送っている。 |