寺尾聡コンサート。 22,08,30 今から9年前の2013年9月、新潟の友人の結婚式で新潟を訪れたとき、友人の勧めで 長野県上田市の無言館を訪れた。別所温泉からバスで20分、「信州の鎌倉」と呼ばれる 塩田平の丘陵地に中世ヨーロッパの僧院を思わせる無言館の建物がある。 この無言館には、信濃デッサン館の館主窪島誠一郎氏(水上勉の息子)が、美術学校 時代の仲間を戦争で失った画家の野見山暁冶とともに、日本各地の戦没画学生の遺族 を2年間に亘って探し訪ね歩き、集めた画学生30余名300余点の遺作、遺品が展示され ている。 館内の中央にガラスのショーケースがあり、様々な遺品が並んでいる。使い込んだ絵 筆、古ぼけた写真、学業成績、戦地から母にあてた手紙(例によって父親あてではない)、 スケッチブック、召集令状、そして一片の戦死通知、鹿児島の知覧の特攻記念館で見た と同じ衝撃が走った記憶がある。 先週の28日の日曜日、日テレの24時間生放送で、「無言館」のドラマが放映された。 窪島誠一郎役は浅野忠信、画家の野見山役は寺尾聡、監督は劇団ひとりというドラマで ある。主演2人の重厚な演技、達者な脇役陣が光った作品だった。ご覧になった人も多 かろう。この放映を見ながら、無言館に登る坂道や無言館と記された石碑、窓一つない コンクリート造りの白い無機質な建物などを思い出した。 画家の野見山暁役を好演した寺尾聡をテレビで見た翌29日、今度は生の寺尾聡のコン サートを聴く機会があった。 逗子市の老舗某スーパーが開業120周年記念として「リビエラ逗子マリーナ」で定員 100名限定の寺尾聡コンサートを開き、たまたま家内が無料招待券2枚を特別入手した ので参加することができた。 このコンサートのチケットは1枚3万円だそうだから相当な値段だが、それでも東京は もとより大阪や九州から熱心な寺尾ファンが追っかけで会場に来ていたそうだ。 逗子マリーナは逗子湾に面して、ヨットの係留、プール、レストラン、ホテル、マン ションなどが林立する一大リゾートマリーナで、50年前にこのマンション4Fで、ノー ベル賞作家の川端康成がガス自殺をしたことでも知られている。因みに自殺の原因は 今もって謎とされている。 この日は夏の暑さもかなり収まっていて、プールサイドから夕暮れの逗子湾を眺める と、穏やかな微風と潮のにおい、沈みかける太陽が、遠く伊豆の山々と富士をシルエッ トのように浮かび上がらせ、実に心地よい。 かって徳富蘆花がこの逗子湾で近所の釣り仲間と小舟を出してアジ釣りをし、その時 に葉山の方角から寺の鐘の音が聞こえた、との短編エッセイがあった事を思い出した。 急ごしらえの結婚式場を会場に、9つの円卓テーブルに100名の限定招待者が着席し、 軽食とワンドリンクのサービスがあり、17時開場、18時から2時間の寺尾聡ショーの開 宴である。寺尾聡とバンドメン7名が入場し盛大な歓迎の拍手で迎えられた。 演奏と歌が始まったが、会場の音響効果が悪いのか、演奏者たちの楽器の音が激しす ぎるのか、多分その両方だが、私にはほとんど寺尾聡の歌声が聞き取れなかった。 追っかけの寺尾ファンたちは後半には立ち上がってペンライトをかざして酔いしれてい たが、わたしら夫婦は場違いな場所に来たとの錯覚さえ持つ雰囲気だった。 まして知らない曲ばかりなので、騒音としか思えない楽器とそれにかき消されるよう な歌を2時間も聞かされるのは苦痛でしかなかった。ラストソングでようやく寺尾のヒッ ト曲の「ルビーの指輪」を歌ってくれたので何故かホッとした。 曲の合間に短いトークがあり、父母との思い出や、自分自身の過去の話などを話し ていた。。ワルで音楽と野球にのめり込んだ学生時代、法政二高を1年で退学し、次の 高校では1年生を3度留年したこと、それでも親は何一つ文句を言わずのびのびと個性 を伸ばさせてくれたこと。 石原軍団に入り神田正樹が入ってくるまで下っ端としてこき使われたこと、逗子葉山 には裕次郎との関係でよく遊びに来たこと、などなど面白い話が続いて私には歌より もこちらの方が面白かった。 後日、デイケアのリハビリに行った時、若い介護士の女性達に「寺尾聡」を知ってい るかと聞いたら、半分の人は知らないと答え、知っていると答えた人たちに、では父親 の「宇野重吉」を知っているかと聞いたら全員が知らないと答えたのには吃驚した。勿 論宇野重吉が劇団民芸の創始者であることも、稀代の舞台俳優であることも知らない。 寺尾聡は当年75歳だそうだから、寺尾も宇野も知らなくて当然かもしれない。我々夫 婦ももう化石の人か、隔世の感があると感じ入った次第である。 |