天狗党の乱。          19,03,22

   もう水戸の偕楽園の梅の花は散りはじめただろうか。

  3年前に偕楽園に観梅に出かけた時、水戸藩の藩校の弘道館にも立ち寄った。偕楽園と
  弘道館は共に梅の名所として、第9代藩主徳川斉昭(烈公)が作った勉学と憩いの場である。

   弘道館の正面玄関には、「尊攘」と墨痕豊かに大書された見事な衝立が飾られていた。

   水戸藩は徳川光圀以来、水戸学が盛んで、その「尊王攘夷」の思想は斉彬、慶喜に受け
  継がれ、薩長はじめ全国の若い攘夷論者に影響を及ぼしてきた。

   偕楽園から遠く望める筑波山の梅も満開を過ぎたに違いない。筑波山は幕末に「尊攘」
  を掲げて旗揚げした天狗党ゆかりの地でもある。

   万延元年(1860年)の桜田門外の変から4年、守旧派に藩政の実権を握られた水戸尊攘
  派は農民ら千余名を組織し、筑波山に「天狗勢」を挙兵する。しかし幕府軍の追討を受けて
、 行き場を失った彼らは敬慕する徳川慶喜を頼って京都に上ることを決意。攘夷断行を掲
  げ、信濃、美濃を粛然と進む天狗勢だったが、慶喜に見放された彼らは越前で投降し、敦
  賀の来迎寺で非業の最期を迎える。

   首謀者の武田耕雲斎、藤田小四郎等760名余がことごとく打ち首や切腹を命じられ、首
  は江戸から水戸に送られ、さらし首にされた後、野捨てにされた。家族もほとんどが死罪
  にされている。これが「天狗党の乱」である。

   水戸藩内の尊王攘夷派には、筑波山で挙兵した実力行動派の「激派」と、挙兵を過激
  行動とみて否定的行動をとる「鎮派」に分かれていて、両派が対立していた。

   鎮派の市川三左衛門は幕府の命により天狗党の残党を逮捕処刑し、水戸藩の全権を
  掌握した。しかし朝廷による徳川慶喜追討の命が出ると、次第に幕府軍は新政府軍に
  押されて劣勢になり、今度は鎮派(諸生党)の市川一派は、生き残った撃派に追撃され
  て無残な最期を迎えている。攻守所を変えた戦いだった。

   弘道館の正門に残る生々しい弾痕は当時の水戸藩の内部抗争の傷跡である。

   同じ尊王攘夷でありながら、薩長は次第に「尊王討幕」となり、水戸藩は御三家なるが
  ゆえに「尊王敬幕」を貫き、両者には決定的な主義の違いが現れる。倒幕に成功して勝
  利した側(薩長)と、「敬幕」を基としながらもその幕府によって破滅させられた側(水戸天
  狗党)に明暗が分かれたのは歴史の皮肉である。

   概ね、天狗党の旗揚げを愚挙と断定する史家が多く、「勝者の歴史」と「敗者の歴史」が
  混在することになる。しかし滅ぼされた天狗党も滅ぼした幕府軍も、いずれも結局は敗者
  の道を辿ることになる。冷酷な史実である。

   天狗党についての著作は多く、私はその一端を読んだにすぎないが、著者によって評
  価の立ち位置が少しずつ違うのに興味を覚える。

   吉村昭;「天狗争乱」、島崎藤村;「夜明け前」、大佛次郎;「天皇の世紀」、鈴木茂乃夫
   ;「天狗党の跡を行く」がその代表例である。

   茨城の郷土史研究家、鈴木茂乃夫の言を借りれば、天狗党の名前の由来は、「一般の
  人々を軽蔑し、人の批判に対し謙虚でなく狭量で、鼻を高くして偉ぶっている」から、天狗
  党と呼ばれるようになったという説と、江戸では高慢な者を「天狗」と言うが、水戸では義
  気があり、国家に忠誠心のある有志を「天狗」と言うのだという説があるという。勿論郷土
  史研究家の鈴木氏は天狗党の蜂起を、義挙と称える後者の立場である。

   天狗党の評価の立ち位置によって命名の由来の理解すら違ってくるのは面白い。

   我が家の庭の梅は最盛期を過ぎ、今はアンズの花と木蓮が咲き誇っている。
  梅を見ると偕楽園を思い出し、今も水戸市内に残る悲惨な天狗党の末路を偲ぶ事がある。

   私が最近せっせと通っている新横浜の囲碁クラブの仲間たちの集いの名前は「天狗会」
  だが、そのいわれはまだ聞いてはいない。おそらく囲碁については「狭量」と「独りよがり」
  「腕自慢」の老人の集まり故の命名だろう。 ほほえましい命名だと思うが如何であろうか。

   「梅」と「天狗党」と「天狗会」、ウグイスの鳴く穏やかな陽だまりの居間で、寛ぎながら
  ひねもす追想に耽った春のひと時でした。