歳々年々。                   10,06,04

    1956年(昭和31年3月)に高校を卒業した55年度卒業生ということで、55会と命名された
   高校の同期会が6月1日に岩手県の厳美渓「いつくし園」で行われた。「いつくし園」はその
   昔天皇行幸のみぎり宿所とされた由緒ある温泉。

    初夏の厳美渓の新緑と清冽なせせらぎを眼下に見て第一級の料理を味わおうという趣向
   である。卒業後ちょうど55年経ったキリのいい年なので、と幹事が言っていたが、つまりは
   何とか集まって旧交を温めようとの無理やりのこじつけである。同期生300名中参加者70名。
   幹事報告によれば物故者は20%に当たる60名で、4月には立て続けに3名、女生徒は少な
   いので希少価値があるが、高校前のW外科の垂涎のマドンナK・W嬢も他界されたとの事だ
   った。運良く生きながらえた残り240名の30%が参加したことになる。

    当日の昼は同好の士が集まって懇親ゴルフ、夜が大宴会という趣向なので両方に参加した。
   一関地方は謡曲喜多流が盛んで、男子は「謡曲」を、女子は「仕舞い」を習得することが良家
   の子女の必須の習い事であった風習が残っている。我が同期会の宴会の出し物は極めて
   高尚で、観世流の謡曲”邯鄲”あり、喜多流の謡曲と仕舞い「秀衡」の演舞ありの見事な演出
   が出揃った。55年前の紅顔の美少年の面影は消え失せても重ねた年輪は伊達ではない。

    皆味のある風貌になり趣味も豊富で、自作の詩歌の処女出版のご披露や叙勲のご披露、
   などもありで話に花が咲いた。「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず。」というが
   見事に年輪を重ねてそれぞれのポジションを確かなものにしている同級生と語らう喜びと頼
   もしさを感じた夜だった。

    宴会の最後は恒例の校歌と応援歌に蛮声を張り上げて中締めとなり2次会場に向かった。
   歌詞は5〜7番まであるがその一端を披露しよう。

   校歌(1番のみ)    岩手磐井の一関 名も高崎の城の跡 新たに結構荘厳の 一宇の
                 校舎成るを告げ 中学校と生まれしは 明治三十有一年。

   野球部歌(1番のみ) 混迷辿る人の世の 因習の衣脱ぎ捨てて 狭霧に咽ぶ川の岸 薔薇
                (そうび)の色に映えわたる 新生命の曙に 目覚めて立てる六百の 
                健児の意気は結ばれて 我が野球部は生まれにき。 
 
   剣道部歌(1番のみ) 栄華の夢は破れ易く 治安の時は過ぎ易し 思えば五十その昔 
                下田の海の石火矢は 治安の栄耀元禄の 鎖国の明けの鐘鳴りき。

    翌朝6月2日解散となり、多くは一昨年6月14日朝8時43分に襲った”岩手・宮城内陸地震”
   で大被害を受けた須川温泉周辺へバスで出かけたが私は別行動をとった。時に午前10時
   ごろ、突然鳩山首相退陣の報がテレビに流れ激震が走った。あの熱狂的な国民の期待から
   わずか8ヶ月。普天間問題と政治と金が命取りになった。

    理想主義が現実の厳しさに敗北。形容詞あって動詞なし。拙劣で幼稚な政治手法と外交
   交渉。権力の2重構造。すべてが新政権のアキレス腱には違いないが、マスコミの過剰反応
   が人心の反鳩山を煽ったことも否定できまい。激動の第2幕がこれから始まる。


   同級生2名による謡曲と仕舞い”秀衡”
  喜多流の能楽は16世紀、堺に生まれ、
  わが国の代表的な能楽の1つとして日本
  各地に広まり、伊達藩主によって中尊寺
  に伝えられ、この東北の地に育まれ華咲
  いた文化の一つとなっている。

  この日舞った「秀衡」は喜多流宗家・人間
  国宝・喜多実師と土岐善麿氏の構想作詞
  により1951年に発表された新作能で、
  中尊寺の能舞台で毎年奉納舞が行われ
  ているようです。
  場面の舞は、義経と西城戸の館の侍女の
  回想の場面。