ミミズの戯言99、80歳の壁。 18,11,28 ミミズの戯言も遂に99回、次回は記念すべき100回目を迎えることになる。 毎年この季節になると年賀欠礼のハガキが届いてくる。”父(母)が100歳で亡くな りましたので”、というのは大往生だからまだいいが、友人本人が亡くなりました、と 奥様から知らせが届くのは思わずドキッとして驚く。 先日伊豆でゴルフをしたとき、キャディさんが、昨日91歳の老人2人が元気にプレ ーされましたと話してくれた。なんでも東京から車でやってきてカートを使わずに完 走したというから驚く。かと思えば先日の新聞の訃報欄に77歳で老衰で亡くなった との記事が出ていた。人は生まれ育ちが様々なように終末の迎え方も様々である。 今年も年賀欠礼のハガキが数枚来ているが、中で驚いたのは仕事や遊びで長く 親交のあった友人O氏が79歳で亡くなったとの奥様からの突然の知らせだった。 同業C社の”顔”としてT社グループの人気者だった彼との思い出は数知れない。 私より2歳若い彼は偉丈夫で、大学では硬式野球部の剛速球投手として鳴らし、 ゴルフではとんでもなく飛ばすシングルプレーヤーだった。 オイルショックで企業業績が軒並み低迷した時代、Tグループで同じ課題に取り 組んでいた仲間の4人で「ダルマ会」を作って談論風発したメンバーの一人だったし、 同じくTグループ8社のOB会の幹事役を私と一緒にやった功労者でもあった。 ※ダルマ会;手も足も出ない、転んでもただでは起きない、の二つの意味を持つ会。 彼は私より長生きするのが当然とばかり、私の葬式では必ず弔辞を読む、と勝手 に決め込んでいたが、約束を果たさず先に往ってしまった。かっての我々を取り巻く 苦難と再生の時代を知る得難い戦友がまた一人いなくなった。 お互いに糖尿病で悩み、A!Cの値で一喜一憂していたが、彼は血糖値が高いば かりではなく下がることもある、いわゆる乱高下に悩んでいた。A!Cが8点台になっ たと思えば6点台になったりしてその不安定さがついに彼の命を奪うことになった。 C社の彼の上司だったYさん、Tさん、そして私の上司だったSさん、Oさん、Hさん は息の合う仲間で、私も彼も早くからその仲間入りをして薫陶を受けていたのだが、 その先輩たちはまるで口裏を合わせたように80歳直前で亡くなっている。 80歳までは生きたいと口癖のように皆さん話していたが、ついに彼も79歳で諸先 輩の仲間入りをしてしまった。我々仲間内では80歳は容易に越えられない壁だっ た。あの世では諸先輩の酒盛りの輪に加わって、歓迎会でもやって貰っているの だろうか。 予想に反して80歳の壁を超えた私の経験から言えば、壁を越えると例外を除い て急速に体力、特に足腰が弱ってくる。寂しいことだが無理に体力を向上させよう としてもできない相談。たとえ一日10分でもいいから欠かさず歩くことがよいようだ。 昨日久し振りに箱根でゴルフをしてきた。2年ほど前までは平気で18ホールを歩 いていたが、昨日は途中で足がつり腰が痛くなり、クラブを杖代わりにしてようやく 完走した。日頃歩かない報いなのだろう。 同伴の仲間からはすっかり老人扱いをされ、”お客さん”になってしまった。昔から の仲間のかまぼこ屋のT氏は6月で満80歳になったが、シングルの彼はなんとグロ ス80で回り何度目かのエージシューターとなった。その彼ですら、1昨年から2年ほ ど体調を崩し80歳まで生きられるかどうか不安だったらしい。壁を超えたから当分 大丈夫だと保証しておいた。私は相変わらず”三途の河”、つまり飛ばず、寄らず、 入らず、だったが、彼には”元気に顔を見せてください”、と妙な慰め方をされた。 もう一人、私が毎月通っている葉山のHクリニックの糖尿病専門医のH院長が今 月77歳で肺炎で急死された。つい前の週まで元気に診療していたそうである。 温厚な先生で、長年親身になって私と家内の診察をしてくれた。家内お気に入りの 先生だった。H先生もまた80歳の壁を超えることができなかったひとりである。 日本の男子の平均寿命が81歳らしいので、平均的だといえばその通りなのだが、 次々に仲間がいなくなるのは何とも寂しい気持である。せめて好きなことをのんび りと楽しみながら、いつかお迎えの来るのを待つしかないのだろう。 私にはさしずめ最後に残るのは、釣りと囲碁と枕頭の書物なのだろう。 |