ミミズの戯言95、81歳の心意気。 ![]() 私が16年前に退職した直後に偶然会った先輩は、体は引き締まり、肌は黒く焼け、 すこぶる元気に日々の暮らしを楽しげに語っていた。元気の秘訣は「キョウヨウ」と 「キョウイク」だという。教養と教育かと思いきや、さにあらず。「今日、用がある」 と 「今日、行くところがある」の二つであった。 そういえば退職直後しばらくは、何も用がない。行く当てもない。やることがないか ら張り合いのないことおびただしく、空白の時間の大きさに心身の失調をきたしそう になった記憶がある。 聞くところによると、この言葉は「頭の体操」で知られた多湖輝(あきら)氏の著書に あるらしい。なるほどと感心して、その後はたとえ年寄りの冷や水と茶化されようとも、 できるだけこの二つを実践しようと心がけ今日に至っている。 私流に言い換えれば、死ぬまで好奇心を失わない、ということであろうか。 趣味の釣りが高じて、料理教室に7年も通ったし、料理を華やかにする盛り付けの 皿を作るために陶芸教室に2年も通った。池波正太郎の通った蕎麦屋や天ぷら屋、 寿司屋にもよく通った。すべて好奇心がなせる行動力だった。 自分で釣った魚を自分が料理し、自分が焼いた器に盛り付け、おいしく食べて味 わう。まさに魯山人の心境だった気がする。好奇心から多彩な趣味を求めたが、そ うは言っても満81歳を迎えると、心も体も壮年の時のようにはいかない。 歩けばよろけるし、つまずいて転びそうにもなる。遠出をするのも散歩すらも億劫 になる。人と会って会話をするのが面倒くさい。引っ込み思案になり、家でテレビと パソコンの前に座っていることが多くなる。 就寝前の読書の習慣もめっきり根気が続かなくなってきた。たまに好きな釣りや ゴルフや囲碁で出かけるが、「ヘボ」の頭文字がつくほどの実力になってしまった。 それでも結構満足している。これが我が81歳ということなのだろう。 永六輔が言っていた。「生きているということは誰かに借りを作ること、生きていく ということはその借りを返していくこと。」 現在の私は、誰かに借りを作っているのか、それとも借りを返しているのか、どち らかは判らないが多分そのどちらも当てはまるだろう。つまり借りを作りつつ借りを 返しているのだろう。 先日、4月に亡くなった逗子の伯父(家内の叔母の連れ合い)の遺品だから受け 取ってほしいといわれ、翁愛用の碁盤と碁石を頂いてきた。 見事な一品で碁盤の前に座ると在りし日の穏やかで気品のある翁との激闘が昨日 のように思い出される。 数年前には幼馴染のご尊父の遺品の碁盤と碁石が届けられて居間においてある。 結婚祝いに同期入社の一同から贈られた碁盤と碁石、亡き義父が愛用した碁盤 と碁石もあるから、合わせて4組の碁盤が集まっていてそれぞれ懐かしい思い出が 詰まっている。 私の亡きあとどう始末するのか判らないが、私の思い出と一緒にいずれは胡散 霧消するのだろう。 とはいえ私の命のろうそくはまだ少しは残っている。 「日残りて 暮るるに 未だ遠し」 藤沢周平の短編「三屋清左衛門 残日録」にあ る清左衛門の述懐である。 中国の古書、孔子の孝経に「身体髪膚、これを父母に受く、あえて毀傷せざるは 孝の始め也」 というのがある。幸いその意味では父母に孝行を尽くした自負があ る。ただしその後段には「身を立て道を行い、名を後世に挙げ、以て父母を顕すは 孝の終り也」と続く。 後段については孝の終りを全うすることはできなかったが、もともと「名を後世に 挙げ」ることは毛頭自分の本意ではなかったし、時代が違うから現在では親孝行 の道などには異論が多かろう。いずれにせよやむを得ないことだと割り切っている。 余生を迎えて最も大事だと思うのは、やはり人生の師と尊敬した今は亡きH・I氏 が残してくれた2つの箴言 ”ちょっと学んでうんと遊ぶ” と、“会して微笑あり、座 して哄笑あり、別れて心永く楽しむ。 ”に尽きると思う。 爽やかに人生の終末を迎えよう。1歳年上の落語の歌丸師匠のように。 81歳は男の一つの節目なのだろうか、同い年の仲間たちが次々に他界していく。 今日で満81歳となった老人の、寂しくも健気な心意気である。 |