ミミズの戯言94、保守と革新。 18,06,17 その昔は保守と革新は明確に信条が異なっていて、対立軸が明確だったが、今では その区分や定義が怪しくなっている。一般的には、伝統や旧弊を守り、安定を旨とする のが保守で、保守の殻を打ち破り新しい秩序の形成を目指すのが革新といわれてきた。 しかしその区分が怪しくなった代表的な例が憲法に対する姿勢であろう。 「護憲」が革新、「改憲」が保守、つまり守るのが革新、変えるのが保守という逆の構図 である。保守と革新という対立概念は憲法論議にはふさわしくない。「立憲」と「非立憲」 という対立構図がむしろふさわしい。というべきかもしれない。 美濃部達吉と並び称された憲法学者、佐々木惣一の「立憲非立憲」が発売されたの は、1918年、今からちょうど100年前である。佐々木は著書の冒頭で、立憲主義は「現今 世界文明国の政治上の大則」であると断言している。 権力は憲法によって制限されなければならないという思想は当然のこととして扱われ、 戦前の政党、政友会も民政党も「立憲」の2文字を冠していた。戦後忘れられた「立憲」 の言葉が脚光を浴びたのは、皮肉にも安倍首相が返り咲いたおかげといえる。 集団的自衛権の行使は代々、内閣が憲法違反としてきたが、安倍首相は憲法解釈の 問題として強引に安保関連法を成立させ、心ある識者は、立憲主義を壊す行為だと指 摘した。 憲法が権力を制限するという立憲思想の根本を軽んじる驕りだとの批判に対し、憲法 解釈で疑義があるならば憲法を変えればいい、という論理にすり替え、かなりの国民が その論理に惑わされている。 今は保守か革新かの選択は必ずしも適切ではない。右か左かも曖昧過ぎる。立憲か 非立憲かという対立軸が必要であろう。佐々木の著書から100年、再び鮮明になってき た対抗軸である。 もう一人、憲法学者の重鎮、京大名誉教授の佐藤幸治氏は、憲法改正の必要性を一 概に否定しないと述べたうえで、「憲法の根幹」を安易に揺るがすようなことはしないとい う「賢慮」が必要だと述べている。 憲法9条の下では集団的自衛権の行使は認められず、その憲法解釈を安易に変更す ることもしない、という歴代内閣の立場を安倍政権は打ち捨てた。まさに「根幹」、憲法で 政治権力を縛るという立憲主義そのものが危機に瀕していると氏は述べる。 安倍政権は異論に耳を貸さない。「賢慮」の気配もない。英米独でも憲法の根幹は変え ていないのに、日本はいつまでそんなことをくだくだ言い続けるのか本当に腹立たしいと、 氏は憤る。 立憲主義は長い歴史を通じ人類が学び取った深い叡智である。自由と人権を希求した 人類の格闘が憲法には刻印されている。それを失わないために、今こそ「賢慮」を取り戻 さなければならないと思う。それにふさわしい政権選択が求められる。 、 最近では、立憲的改憲論(9条の神髄守るため変える)、という新しい概念まで登場して きた。何が保守で何が革新か、何が護憲で何が改憲か、何が立憲で何が非立憲か、 国民はそれぞれの立ち位置を改めて見直すべきかもしれない。 この文の草稿を書いたのが6月15日。奇しくも1960年6月15日は、安保反対デモで犠牲 になった樺美智子さんの命日である。あれからもう58年になる。朝日俳壇にかって投稿 された一句。 ‘吾は生き、彼女は逝きし六月の 雨は今年も沛然と降る’ |