ミミズの戯言89、俳諧の巨星          18,02,22

  俳壇の長老で、戦後俳句を代表する金子兜太さんが亡くなった。98歳だった。
 1987年に朝日俳壇の選者に就任し、長く日本の俳壇をリードしてきた。2015年、安保関連法案に反対し、
 「アベ政治を許さない」と揮毫したプラカードを作り、デモで掲げられた。 

  金子さんは、戦地で遺骨となった多くの戦友を詠んだ俳句、「水脈(みお)の果て 炎天の墓碑を 置き
 て去る」 が代表句の一つとされるが、後年季語とか五七五にとらわれず、「俳句にも社会性が必要」と
 して同時代の思想や時代背景を積極的に詠み、俳句の革新を試みた。

  一方で、悲惨な戦争の体験者として不戦を訴え続け、晩年まで政治や国際情勢に関心を抱き、きな臭
 くなる社会の行く末を案じていた。……また一人健全な良識を持つ巨星がこの世を去った。

  私は金子兜太さんとは面識もないし、俳句を作ったり鑑賞する趣味もないが、氏にまつわるいくつかの
 逸話を知っていて、いまその思い出に浸っている。

  2007年、今から11年前のことだが、朝日新聞社の論説主幹をなさったH・I氏と一緒に秩父の三峰神社
 登拝のバス旅行をした。三峰神社から宝登山神社に至るバスの中での氏との語らいが今も鮮やかに
 思い出される。

  氏は朝日俳壇の選者としての金子兜太氏の逸話を話し、私は秩父一揆の話題を出して、偶然二つの
 話題に共通点が見つかり、話が盛り上がったものである。バスから見る道路の左右はハナミズキの花
 が整然と並びきれいだった。

  その昔、秩父音頭は卑猥な歌詞が多く含まれていて一般的ではなかったが、昭和初期に秩父音頭と
 秩父踊りを民衆の歌と踊りとして復活させた功労者が皆野町の病院長の金子元春氏(号:伊昔紅)で、
 その子息がかの金子兜太氏であり、兜太氏の弟さんの千侍氏が病院を継ぎ、やはり俳句で有名だとい
 う話があった。千侍氏の秀作に、「風光る 峠一揆も 絹も越ゆ」 という俳句があるともお聞きした。

  秩父は絹織物の産地として栄え、また秩父事件でも知られている。私はこの句にちなんで拙い知識を
 披露して秩父一揆の話をした。

  「風光る 峠一揆も 絹も越ゆ」の句は、「絹」と「一揆」という秩父の歴史的なふたつの出来事を読み
 込んだ印象深い秀作である。特に「風光る」という発句に非凡な千侍氏の才能を垣間見たものである。
 
  また、「峠」とは、おそらく一揆の農民が軽井沢に向かった時の長野と群馬の県境、十石峠だろうか、
 それとも秩父と群馬を結ぶ志賀坂峠だろうか。どちらかの峠を一揆の農民も絹織物の商人も越えたで
 あろう情景が、あれこれと追憶できる見事な句である。

  秩父一揆は1884(明治17)年10月31日から11月9日にかけて、埼玉・群馬・長野などの民衆数千人が
 世直しと負債の延納、雑税の減少などとともに、立憲政体をもとめて蜂起した事件である。

  当時、秩父の生業は、田畑の他に現金収入が見込める養蚕が盛んであった。絹織物は上州桐生と
 並び秩父絹として隆盛を極めていた。

  松方内閣は当時、日露戦争の戦費調達で大量の不換紙幣を乱発した後遺症で、極端なインフレに
 苦慮していた。その為に松方緊縮財政と呼ばれる極端なデフレ政策を断行したが、、秩父の生活を支
 えていた生糸の価格は大暴落し、さらに地方税の増加が追い打ちをかけ、繭やコメなどの農産物価格
 の下落で、農村はさらなる窮乏に追いこまれた。

  これらの人々の中から田代栄助をはじめとした農民が秩父困民党を結成し武力で訴えたのが秩父一
 揆である。一部の農民は、経済的困窮から、蜂起活動に走り、各地で自由党による激化事件が起こり、
 反政府的な暴動を引き起こすことになる。秩父一揆には諸説があるが省略する。

  H・I氏の語る金子千侍氏の秀作と、私の語る秩父一揆が期せずして合致し、大いに盛り上がった時、
 バスは宝登山神社に到着した。

  宝登山神社の茶店の一角に石碑があり、地元の俳人の句が数句刻まれていた。なんとそこに千侍氏
 の件の俳句「風光る・・・」が刻み込まれているではないか。あまりの奇遇に2人は瞬時顔を見合わせて
 石碑をしばし凝視したものである。

  あれから11年の年月が経った。H・I氏はもうこの世にいない。あの可憐なハナミズキも句の思い出も、
 2人で語りあうことはできない。懐かしい思い出が私の胸に残っているだけである。俳人金子兜太さんの
 逝去の記事は、図らずも私とH・I氏の濃密な語らいの過去を思い出させた。

  思い出話のついでに、三峰神社にはその前後三度訪れているが、2度目の登拝の時、神社の一角に
 秩父宮が宿泊された宿坊があり、宮司に案内されて特別に内部を見学した。記念に記帳を依頼されて
 パラパラとページをめくったら、なんと高校の同級生の作家、内海隆一郎君の記帳が目に留まった。

  その奇遇に驚いたが、彼は心温まる平易な文章で市井の出来事を描いた作品が多く、朝日新聞の
 日曜版にしばらくの間エッセイを連載していたので、ご存知の方もおられよう。彼は惜しくも3年前に77
 歳で亡くなった。あの時も、宿坊を取り囲むように椿とハナミズキがきれいに咲いていた記憶がある。

  我が家の庭の白梅もいつの間にか満開になり、沈丁花もいい香りを放って咲き始めた。5月には記念
 に植えた1本のハナミズキも、あの時の秩父の街路樹のように清楚な花を咲かせることだろう。